京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

 大好きなページは?

2010年09月29日 | 日々の暮らしの中で
結局買ったのはこの本でした。

『おおきなかぶ』(いもとようこさんの文と絵)
   あるところに、おじいさんと おばあさんと まごと ぶたと いぬと ねこと 
   ねずみが、なかよくくらしていました。
ロシア民話が題材の名作中の名作、と言われている。
  
   おじいさんがひっぱって… おばあさんがひっぱって… まごがひっぱって…
   ぶたがひっぱって… いぬが… ねこが… ねずみが…
   みんなでちからをあわせて ひっぱったら…… 
   とうとうかぶはぬけました。

ステージ上ではいっせいに子供達がしりもちをついた。
そうだった、そうだったと思い出す事になったのは、娘の幼稚園でのクリスマス会。
この頃はとにかく休みがちで、行事事の練習には参加できないことが多かった。当日、赤っぽいズボンにスモックをはおり壇上に立つ娘の姿が浮かんで見える。
少し照れながらも、それとなく仲良しの子に合わせたりしてはいつもその場を凌いできた。
5歳になるJessieにこの本を贈ることにしよう。

   「よいしょ!こらしょ!どっこいしょ―!」
   すぽ―ん! 「ひゃ~~~!」
   とうとうかぶはぬけました!

大好きな言葉に出会うかな。好きなページはどこだろう。
「すぽーん」と抜けて、「ひゃ~~~!」とひっくり返って…。
わくわくどきどき! Jessieの心も一緒に思いっきり開放されるだろう、きっと。

いつまでも心に残る場面があってほしいと思うのだ。

コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 「やい、やい、やい。太郎冠者!」と… 

2010年09月28日 | 日々の暮らしの中で
「ふあーッ、あはッ あはッ あは あは あは あは あは…」
   と大笑いする。 元気のあるJessieの笑いには、これに近いものがありそうだ。
「ぷふぇー、 へへへふぇー」
   と泣く。

これは大きな声と演技が特徴で、外へ外へと発散していく狂言での笑いと泣きの形。それに対して、内へ内へと凝縮する能での泣く所作は、声もなく落ちる涙を手で受けるだけで表す。ちなみに、数少ない笑いの演目で、晴れ晴れと言う気持ちを表すには、半身になって、扇で胸を何回か撫で上げるようにするという。

中学校の国語の教科書に「柿山伏」が載っていたのを思い出す。
「やい、やい、やい。太郎冠者!」 「お前におりまする」
こんなセリフをJessieの口から飛び出させたいと、常々目論んでいるのだ。

間もなく5歳の誕生日を迎えるJessie。寝耳に水の入院騒動だったが、これまた昨日、退院したという連絡が入った。なにやら思いがけなくて、喜ばしさもどこへやら…。
てなわけで心配が続き、贈るべき物が遅れている。(と言い訳)

今日、子どもの本専門店「メリーゴーランド京都店」を覗いてみた。随分長く捜しているが、思う一冊と出会えない。日本語に楽しく触れさせてみたいというかってな思い。
何がいいのか、わからなくなりそうだ。


おかげさまでJessieは、思っていたより早く退院いたしました。自宅療養で完治までにはいま少しあるのだろうと思いますし、再発などないことを願っております。
ご心配いただきましたこと厚く御礼申し上げます。
   
           (写真:銀杏の街路樹の根元には…。まだ散ってはおりません)
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 観感完歩で歓?  

2010年09月27日 | 熊野古道(紀伊路・中辺路)を歩く
先日の新聞に ― 
季節も爽やかになるこれから、無理は不要だが、自分にあったやり方で「歩く楽しみ」を捜してみてはどうだろうというコラムが載っていた。

脳科学者(京大名誉教授)によれば、江戸時代の庶民や明治から大正にかけてのサラリーマンは一日平均3万歩は歩いたが、現代の会社員は平均5千から7500歩しか歩いていないという。一日一万歩が、脳にもいい刺激となって健康な生活が維持できると読んだことがある。「歩く喜び」、見つけられるだろうか…。

神々の鎮まる信仰の古道。熊野三山へ至るルートには三つあるようだ。
第一の経路は、紀伊半島の西側を通る、いくつもの険しい峠を越えて明るい海が待っている「紀伊路」。この道は、紀伊山系に入り峰々をたどりながら進む「中辺路」と、海岸線に沿って進む「大辺路」とに分かれる。
「紀伊路・中辺路を歩く」、これが今回選んだコースである。

第二の経路は「伊勢路」。伊勢神宮から熊野三山を目指す、巡礼者たちが歩いた庶民の道で最も人気があったという。
第三の経路は「小辺路」と呼ばれる、高野山と熊野三山を結ぶ道。

法王や上皇らの御幸ルートなどではなく、庶民の道にすればよかったのか…。
浄土を夢見た人々の祈りの山に、美しく苔むした古道が続く。石仏に相対しながら陰と陽の繰り返しを歩く蟻の一匹になれたら一生の思い出だろう。

セパレート型のカッパがないので準備した。ついでに帽子も。夏物しかないのだ。
ついでに言うならリュックサックもない。
おいおい大丈夫か?と聞こえてきそうな気配を感じるが、なになに、備えあれば!と言うことにして。いっちょまえに格好だけつけて!と、人には大いなるひやかしの目を向けもするが、この際、笑うなかれ!!

10月3日雨天決行。カッパは買ったけどなあ…。
「観歩・感歩・歓歩」 14回分の第1回目、「完歩」のほどは?


コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 垢落とし

2010年09月24日 | 日々の暮らしの中で
                            色付いたなつめぐの実

清掃とは?などと改めて考えたこともなかったろうか。
「ほこりやゴミなど不要物を室内や機器から取り除き、衛生的な環境として人の健康を守ったり、機器の正常な動作を確保したりすること」とあった。(ウィキペディァ)

毎日、あるいは定期的に、きれいに掃除する…。
子どもたちが登校したあと、神経質すぎるほどに、どこもかしこもの勢いで大掃除を2時間あまり。最後はきっちりふきあげて、終わってみれば10時に近かった日々を思い出す。娘が小児喘息を患っていたので一人気を揉み、少しでもきれいにしたくて古い家屋を恨めしく思ったものだ。
どれ程掃除に時間を費やしても発作は変わらずおきたし、一番の散らかし魔は、そんな私を見て「賽の河原、賽の河原」と笑っていた。案の定、帰宅後は子どもの姿があふれて朝の掃除はなんなのだと言う有様。
多分に性分もあるわけで、まっ、いいか。

「毎日お風呂に入るなら たまには心の垢も落とそう」
「ほんまやなあ!」と声を上げた中学2年の男子の笑顔が浮かぶ。これは寺の掲示板で見かけた言葉だった。
多忙という言葉に包み込んで、見失ってしまっているものもあるだろうか。涼しくなった。いつも以上にゆっくり湯船に浸かれるのにあわせて、垢落としでもしてみようかな。こすりすぎに注意??

本日「清掃の日」 
今日から10月1日までの8日間は、環境衛生週間だそうだから…。






コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 うわべは…

2010年09月22日 | 日々の暮らしの中で
今日は仏滅だった。
思わず今日の運勢を見た。「心気さえず 自然の流れのままで 無理禁」
おみくじを引くと、「小吉」と出た。
今日のおすすめレシピは、「秋刀魚の塩焼き」とある。

柄にもないことをした。お勧めに従うことにした。

心に気がかりなことを抱えている時、いつもと同じリズムで生活していると返って重く押さえ込まれそうになるので、どこかに風穴を開けたくなる。
気を紛らわそうとした読書も、じっと息苦しさが増すばかりの感じだ。
そうかといって走りに出ることもできないし、散歩も暑い。
よっこらしょ!と思い腰を上げてした事は、秋刀魚を買いに行こう~、お使いに出ることだった。

魚好きなのにあまり口にはいらない娘と孫に代わって、おいしく夢中でいただいた。
しかも悪いことに、食事中は二人のことは忘れていたに違いない。

…と、うわべだけでも余裕の素振りで、少し緊張から開放されよう。
  きれいな花を眺めながら・・・

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 アクセサリー

2010年09月21日 | 日々の暮らしの中で
「且つ忘れ且つ読む燈下亦親し」だが、「窓それぞれ人あり燈下親しめり」といった秋の夜長を迎えるのだろう。
孫娘の様態を気にかけながら、一方で気を紛らわすように本を開く日だった。

しおり紐。紐の長さが28cmあるので文庫本・新書本は勿論、単行本でもA5・B5版サイズまでは使える。ただ…、使いやすいとは決して言い切れない。一番手軽に持ち歩く文庫本には紐が長めだし、装飾部分が引っかかって取れやしないかと気になるところだ。
でも、ちょっとした飾り石が両端についているだけで、きれいでしょ、素敵でしょ??
外出時でも、ホンのアクセサリーとして愛用している。

昔は旅先で、紙の栞をお土産に随分と買った。裏には授業の時間割が書けるよう工夫されたのもあった。どこまで読んだのかすぐわかるためにも、そうしたものは何かしら必要になる。メモ用の紙を挟んだり、大きめの付箋を貼り付けておくこともある。

このしおり紐は出版業界の用語では「スピン」というそうだが、今、文庫本でこのスピンがついているのは新潮文庫だけであるということ、ご存知だったでしょうか。

娘が贈ってくれた栞ひもだ。今はJessieの傍で重くつらい気持ちを味わっていることだろう。娘や孫を身近に感じていられるこの小さなプレゼント、今はそれがありがたい。
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 Jessie、大きく笑って! 

2010年09月20日 | HALL家の話
感染元は通っているキンディのようだが、腹痛と吐き気がひどく10日ほど病院との縁が切れなかったと聞いたばかりだ。元気に回復していると言っていたのに…。
昨夜のJayからのメールで、Jessieが先週末に入院したことを知って驚いている。
「 :-0 」 Oh,no!

お腹の痛みから血圧が120に、モルヒネを使用しての痛み止めらしい。
発疹、関節の痛みを訴え手足のむくみ、タンパクがおりている、と娘の説明を得たのが今夕。朝から電話をしても通じず、一日気をもんで過ごしてしまった。

菌は虫に刺されて体内に入るケースもあり、病原菌が特定しにくいのだそうな。
7-10日で自然に治まるはずが運悪く、悪さをして炎症を起こしてしまっている状態のようだ。
オーストラリアの医療の質が高いことを信頼するしかないだろう。

“ Everything is ok, Kenka is over.  :) ”
最近の二人の間の小さないさかいをクリアーしたと話すJayのメールの末尾には、
珍しいことに「 :) 」が付いていた。Happy・幸せ…と。
続く入院の話には、じきに良くなるだろうと綴ってあった。

薬のせいで怒った、怖い表情をするというJessie。     「 >:( 」
口をあけた、Jessieの豪快な笑いが早く戻ることを祈りたい。 「 :D 」

   スマイリーは少し首を傾けて見ることになる。

コメント (9)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 タダであれば…

2010年09月17日 | 日々の暮らしの中で
晩秋の木曽路への日帰りバス旅行に、500名を無料で招待するとある。
妻籠宿探訪とは魅力ではないか。クリーニング店のチラシだから、クリーニング品を預けて応募し、当たれば!の話ではある。

タダであればゴミとなりそうな粗品でさえも欲しがる、そんな欲深さはあるようだ。
物が増える。きっとそこらにしばらくの間は置いたままにしておいて、いずれ捨ててしまうのだ。中身がわかるときは勿論、気安く聞けるときには尋ね、いらないと申し出ることもある。「いらないのですか?」など尋ね返されると悪い事をしたみたいな気がするが、いらんものはいらんのよ。もらわないぜいたく、ってとこよ。

買わないぜいたくもありそうだ。ただ…、庶民の論理からしますなら、棚の上にぼた餅あらば、手を伸ばしてもいい、よなあ~。
「ぜいたく」はいらないけどチャンスは買ってもいい、とするのは身勝手な解釈ということだろうか。

なんのかんのと言いながら、やっぱり多少の欲深さが人間らしくて自然なことだと思うわけだ。500人の枠に入れるとありがたい。だって、同伴者は1名9800円よ。
それがタダであれば…。
コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 手鏡

2010年09月16日 | 日々の暮らしの中で
ふと浮かんだ「鏡は女の命」と言う言葉。
はて、そんな風に思っていたものかどうか?…。
一度も鏡を見ないという日はさすがにないが、見たくない自分を直視せずにやり過ごすことは、どうもありそうなこの頃。あわてて拭きあげてみれば、単に鏡の汚れとわかってほっと安堵のひと息…。

この手鏡を初めて手にしたのは10数年前。大切に使ってきたし、まだまだ曇ってもおらず、心ときめきするものではないが、映し出す姿は変えたことよ。

日本の歴代天皇が継承してきた三種の神器の一つ「鏡」は、太陽信仰の伊勢神宮のご神体とされている。女性は元来太陽であったとか。鏡は女のいのち・「魂」か。 様々なものを日々鏡に映しこみ
泣いたり笑ったりしながら生きてもきたものだ。
「剣・八咫鏡・玉」は、それぞれに「勇・知・仁」の三徳をあらわす解釈もあると説明されている(ウィキィペディァ)。

たとえわずか4-5日ではあっても、旅先の娘の健康を気遣わずにいられなかった私に、修学旅行のお土産として手渡された手鏡だった。
使わずともそっとバッグに忍ばせて持ち歩いたこともある。鏡の面がよいのか、今もきれいに映し出す。あの日の姿は戻らなくとも、せめてその何分の一でも…とチラッと覗き込んでみるが、厚かましい話かもしれない。

それでも懐かしい時代に気持ちは後戻り、高校生の娘がいて私がいる…。そしてなんら上等品ではないが、母娘につながる特上の「いのち」の一品。これからはもっと使い込むことにしよう。
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

  贅沢な時間

2010年09月14日 | 日々の暮らしの中で
辞書を開く時と、夕刻以後に活字を追うときにはメガネが必要になることが多くなった。
私の使用時限定メガネは「花眼」鏡といってよいのだろうか。 
老眼は中国語で「花眼(ホアイエン)」と言うそうで、その説明の中で興膳宏氏は白居易60歳ごろの詩を引用されている。
  『私の眼の「花」だけは、春風も吹き飛ばしてくれない』 老いの嘆息だとあった。

眼がかすみ視力が衰えた(「眼花」・がんか)と言うほどではない。
不自由なく離れたところも見えるし、車の運転も裸眼、映画も勿論他でメガネのお世話になる事はない。人の顔だってよく見える、見えているはずだ。

4月の開講以来、お気に入りの講座に通っている。前から3番目の席を確保すべくチョイト早めに家を出る。20代30代の若いハンサムな講師などではない。同年代だ。きっと身近にいるような方でありながら、滲み出る知性と教養? 培ってきた人脈の多岐さ、話題の豊富さ、日本・京都文化の論じ方…、なにかしらピッタリ来るものがあって、話し聞きたさか力が湧いてくる。

不思議なもので、内容も(当座は)よく頭に入るものだ。メモを取り、面白いことは誰かに教えてあげようなどと欲も出る。独占欲までが働くのか、こっち向いてしゃべって!!って。チラッと目が合うような気がして、だから余計にじっと顔を見ながら聞いているのだ。
もうまったくいい歳をして~!! と笑われそうだが、片思いで心弾ませるといったような、まことに快い贅沢な時間を過ごしている。愉快だなあ~。

メガネをかければもっと顔がしっかり見えるのだろうか。まあ、手元が明るければいいとしよう。薄暗がりがあってこそ際立つものはありそうだ。
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 心やすさ 

2010年09月13日 | こんなところ訪ねて
      

「簾の名残」 日除けに、また目隠しなどにも用いていた簾。まだまだこの残暑に西日の強さ。秋になって侘しさを感じるというよりは、実用が先立っているようだ。

 

今日は初めて西本願寺(浄土真宗本願寺派本山)を訪ねた。東本願寺のすぐ西側。
門前町正面通を西に、突き当たりに建つ総門の向こう側へと、堀川通を未だかつて渡ったことがなかった。御影堂も阿弥陀堂も、和泉から観光バス2台でやってきたらしい人たちであふれかえっており、堂内に座って手を合わせる場所すらない。

 

「今日は畳ふき放題の日でーす」に笑い声が上がった。
真っ白な割烹着に真っ白な雑巾。いっせいに堂内と縁で手が動き出し、その勢いに追い立てられてしまった。
逃げ出した。だからだ。帰り道、すぐ近くに新撰組と海援隊が争った「天満屋騒動」の天満屋跡方向へ曲がるつもりをしていたのに、コロッと忘れてしまった。

東本願寺まで戻って、なぜかほっと一息。こここそ慣れ親しんだ安らげる場所なのかもしれない。
教会で挙式し、先祖代々の墓を守りお経を唱えて葬儀を勤める。暮らしの細部に及んでも神仏は同居し慣習を支配してもいる。日本人のこのあいまいさは、ちょうどいいのだろうか。
寺生まれの甥っ子がミッションスクールに行っていたのだから深く考えなくともよいということか。

神でも仏でもない、何か大きなものを漠然とながら感じて生きる事だってあるわけだ…。


コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 おまわりさん、ありがとう!

2010年09月11日 | 日々の暮らしの中で
「警察相談の日」
警察庁が1999年に制定したとある。10年も経って初めて知ったようだ。知らないことが多いなあ。

あれは…13年前、私から娘の住まいがある東京の警察署に電話をしたことがあったのを思い出した。地域の交番の○○という署員を行かせるからという返事を得、くれぐれも早急によろしくお願いしたい旨を頼んだ。

部屋にいるとピンポ~ンと鳴る。ピンポンラッシュの始まりで、やがて何度も繰り返される。娘と電話で会話中に実際にその音を聞き、玄関先でまだ足音がしていると、声を潜めて言ってくることがあった。
そしてある日、ポストに「つきあって下さい」という手紙が入った。
学生時代のことで、アルバイトで深夜の帰宅、部屋の明かりをつけるとピンポ~ンと鳴るようになる。
どこかに潜んで帰りを待ち、見ているのだろうかか。マンションの付近の物陰から?家の窓から? どこかで見ているからには違いない。

夜は、住宅街は各戸しっかりと戸締りされてあり、助けを求め逃げ込む余地を与えない。娘から聞いていた経過を伝え、相談したのだった。

ありがたいことに、対応は早かった。娘から直接話を聞き、見回ることを約束してくれた。明るいうちは視野に入る付近にパトカーで停まっていてくれることもあったと聞く。夜の帰宅時、パトカーの存在に気づく日があったとも言う。以後いたずらは止んだのだ。

娘の命がかかっているような危機感を覚えた出来事でした。
本当に感謝しています。

おまわりさん、どうもありがとう~。

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 足もとには

2010年09月10日 | 日々の暮らしの中で
9月10日が「下水道の日」とは知らなかった。

降雨時に汚水を含む雨水を一時貯蓄して、河川に流れ込む量を減らそうとする下水道管敷設の工事が市内の一部で進行中だという記事があった。下水道の役割を学ぶ市民の見学会があったとかで、別に見てみたいわけではないが「下水道の日」を知った。

下水道ときたらマンホールの連想だが、庄野潤三氏が『野菜賛歌』に書いている。散歩途中に出会うマンホールのふたは踏まないで、よけて通ると。
頑丈なものだし、よもや… などありえないと思いながらいつも避けるのは、用心深いというより臆病なせい。そして、マンホールに出会う度に氏はチャールズ・ラムの『エリア随筆』に登場する臆病なティップを思い浮かべるのだそうだ。臆病で露台の手すりに寄りかかったことがない、というところが気に入っているからだと言う。
下水道内で、追う者と追われる者の手に汗握るアクション映画のシーンを思い浮かべるのがせいぜいの私とはなんと大きな違いだこと。

      

ひたすらマンホールの絵柄を見ながら歩いた昨日。これは御所車の、車輪の絵柄だ。
葵上の牛車が六条御息所の牛車を押しのけるようにして通ってしまった源氏物語に見られる「車争い」だが、車の部分がちりばめられたマンホールのふたである。
なかなか高貴なものを足下に踏み歩いていたことになるのか、雨や雪の日にうっかり乗って滑りかけたこともあるような…。中央には「京」の文字が図案化されている。

          
                   
何のマークかもわからないままに、実に多くの大小のふたが路面には作られている。
見入っているのが恥ずかしいくらいだ。でも確かめたくもなる。あれらはいったいなんなんだ?
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 さてな~んだ!?

2010年09月09日 | 日々の暮らしの中で
今日は下ばかり向いて歩いていた気がする。
あっ、これは? こっちは? と次々に見歩くのだが、ちっともいいのがない。もっと洒落ているのはないのだろうか。

お~、あるじゃないの!これがそうか! (カメラでパシャッ!)
ここにもある。けれど、知らなければ何てことないものだ。

わざわざ遠回りをしてみるが、結局あまり種類がないようだ。道路の真ん中にも見えているのだが、危険で確かめに出るわけにはいかない。

私が見ていたものは、なんでしょう。


まず思い浮かんだのが、宮部みゆき著『龍は眠る』だった。
読んだのは何年も前のことで詳しい内容は忘れているが、描かれた豪雨の中のあるシーンだけは忘れがたくこびりついている。実際にありうることで、考えれば恐ろしい。
そこに出てくるものを見歩いていたのだった。その町や市のシンボル的デザインがあると言う。

さてな~~んだ!?

おしろいばなは英語で「フォー・オクロック (4 o'clock)」と言うらしい。
午後4時ごろ咲くという意からだそうだが、帰ってきたら4時少し前。
朝から下向いて歩いていたわけではありません。


コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 まっ、いいか。歩いてみよう~ 

2010年09月08日 | 日々の暮らしの中で
           

ありがたいことに今夜はエアコンが要らない。窓を開けて、忘れていたようなヒンヤリとした空気を取り込んでいる。

猛暑続きだったが、30度を下回っていることが実感できる午後から、1時間半ほどをぶらぶらと、6678歩、歩いた。路傍の花や畑の野菜などを(と言っても、頑張っているのは茄子ぐらいなものだ)覗き込みながら、賀茂川へと出て川沿いに歩く。
日傘の中を通り抜ける風に人心地がつく。霧雨のシャワーがこれまた嬉しい。

    

京都、新京極の通りに面した誠心院には和泉式部の墓がある。そして、あの沢の蛍は、あくがれいづる自分の魂か…、と恋の成就を願って詠んだとされる、蛍岩と呼ばれる所が京都貴船口付近にある。さらには、和泉式部の足跡は熊野にも認められる。なんと行動的な女性と思いきや、「紀州熊野参詣の歌」はどうやら偽作だ。だが彼女の塚もあり、参詣記念を伝承していると言う。歌比丘尼による口承文芸、伝承の世界が残した姿・・・かな。

は、いいとして、活動しやすい秋を迎えれば、家の中で暑さを避けていた人たちも、ようやく出番だと動き出すに違いない。思い切りはよかったはずだが、後の疲れを気にしたり、不安が先行したり、億劫になったりと自身の内部も多様性が生じている。自立する活発な人もいれば、依存する人間、怠け者もここに。まあいろいろあるからいいのだとしよう。

「やるっきゃない」と言うほどの意思決定ではないが、好機を見逃す手もない?
ぐずぐずと思案に暮れるばかりの気持ちに、ひとつ風穴を開けていただいたことに感謝しながら、踏み出してみよう。リタイアとなったとしても、「まあいいか」ね。

忘れ気味だったこのある意味いい加減さ、気のゆとり?? 
娘も言う。だからJessieも「まっ、いいか」と口にする。
楽しんでみるとしようか~。 軽く、I just have to do it. ってとこでね。
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする