天保8年(1837)― 福井藩領内でも天然痘が流行していた。
天然痘は治療法がなく、死病として恐れられていた。
そこに幕府が出した治療法は、「牛の糞を黒焼きにし、それを粉末にして服用すべし。その糞は、白、黒、茶の体毛を持った牛のものが適している」と記したもの。
それで治ったという者など一人もいなかった。
江戸に出て漢方を学んだ町医者・笠原良策。
ある日、大竹了玄という金沢の医者と出会い蘭方を知ることになる。
そして京都の東洞院蛸薬師下ルに、蘭方医の大家・日野鼑哉(ていさい)を訪ね入門した。
種痘という予防法が異国から伝わったことを知り、疱瘡にかかった牛(牛痘)の苗を身体に植え付け、出た膿(うみ)をまた次の子に接種するといったリレー式で患者を減らしていこうとする。が、庶民の恐怖心は安全性への理解を妨げ、藩医や漢方医の妨害もあるなど接種はなかなか広まらない。
今の暦で1850年1月。良策は京都から福井へ、滋賀県長浜市と福井県の県境にある栃ノ木峠を越えて天然痘のワクチンを届けようとした。豪雪地である。
吉村昭さんの『雪の花』に詳しい。
原作を基に映画化された「雪の花 ともにありて」を観てきた。
友人は見終わるや、「思っていたのとちごうて感動の映画に仕上がっていた」と口にした。
「名を求めず、利を求めず。万民のために命を運ぶ」
命を賭して天然痘と戦った一町医者の姿に、映画はきれいに収まっていたとはいっても、やはり感動する。
かつて宮本輝氏の『命の器』を読んだとき、「どんな人と出会うかは、その人の命の器次第なのだ」という言葉に出会った。
〈人間という核を成すものを共有している人としか結びついていかない。…「出会い」が、一人の人間の転機となり得ることがそれを示す。偶然ではないのだ〉とあった。
感動はこの言葉を思い起こすものだった。志を抱き、多くの苦難を乗り越える過程、過程に良き師がいて、友がいて、理解者がいた、良策の生涯に感動していたのかも。原作を読み、映画の中ででも…。
天然痘は治療法がなく、死病として恐れられていた。
そこに幕府が出した治療法は、「牛の糞を黒焼きにし、それを粉末にして服用すべし。その糞は、白、黒、茶の体毛を持った牛のものが適している」と記したもの。
それで治ったという者など一人もいなかった。
江戸に出て漢方を学んだ町医者・笠原良策。
ある日、大竹了玄という金沢の医者と出会い蘭方を知ることになる。
そして京都の東洞院蛸薬師下ルに、蘭方医の大家・日野鼑哉(ていさい)を訪ね入門した。
種痘という予防法が異国から伝わったことを知り、疱瘡にかかった牛(牛痘)の苗を身体に植え付け、出た膿(うみ)をまた次の子に接種するといったリレー式で患者を減らしていこうとする。が、庶民の恐怖心は安全性への理解を妨げ、藩医や漢方医の妨害もあるなど接種はなかなか広まらない。
今の暦で1850年1月。良策は京都から福井へ、滋賀県長浜市と福井県の県境にある栃ノ木峠を越えて天然痘のワクチンを届けようとした。豪雪地である。
吉村昭さんの『雪の花』に詳しい。
原作を基に映画化された「雪の花 ともにありて」を観てきた。
友人は見終わるや、「思っていたのとちごうて感動の映画に仕上がっていた」と口にした。
「名を求めず、利を求めず。万民のために命を運ぶ」
命を賭して天然痘と戦った一町医者の姿に、映画はきれいに収まっていたとはいっても、やはり感動する。
かつて宮本輝氏の『命の器』を読んだとき、「どんな人と出会うかは、その人の命の器次第なのだ」という言葉に出会った。
〈人間という核を成すものを共有している人としか結びついていかない。…「出会い」が、一人の人間の転機となり得ることがそれを示す。偶然ではないのだ〉とあった。
感動はこの言葉を思い起こすものだった。志を抱き、多くの苦難を乗り越える過程、過程に良き師がいて、友がいて、理解者がいた、良策の生涯に感動していたのかも。原作を読み、映画の中ででも…。