京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

ホールドオーバーズ

2024年06月24日 | 映画・観劇

「ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリディ」を観てきた。

1970-71年にかけて、ニューイングランドにある全寮制のバートン校を舞台に、家族とともに迎えるはずの休暇(クリスマス、新年)を、それぞれの事情で居残ることになった3人が心を通わせていく。

生徒から嫌われている古代史の教師ポール。
トラブルメーカーのアンガス。
息子をベトナム戦争で亡くした学校の料理長メアリー。


言ってはいけない、思いやりを欠く指摘を面と向かって言い合う。
なんで。知りたいのはそれが何に起因しているのかということだった。
それぞれに心の奥底に沈黙したままの言葉を持つ。事に触発されては殻が破られ、少しずつこころの内があきらかになってくる。

3人の年齢がいくつであろうと関係なく、他者の心を汲んで、思いを深めていく。
これからの三様の人生に、わずかな希望を感じさせられ、ポール先生ではないが私もアンガスに“You can do it.”と言葉をかけたくなった。

人と人が心でつながる。これって人間が克ち得た知恵だろうか。
〈人の心はつかめないが、心を汲むことはできる〉って、どなたかの言葉だったか。あたたかいものに満たされた。
もう一度観てもいい。Jessieといけたらいいけどなあ…。



いまだ音沙汰なしの孫娘。彼女不在の残留組〈The Holdovers〉は今日、
家族4人“小さな遊園地”で遊んできたという。

 
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銀河鉄道の父

2024年03月07日 | 映画・観劇
国際交流基金・京都支部による映画上映会で「銀河鉄道の父(FATHER OF THE MILKY WAY RAILROAD)」を見てきた。
この上映会は、外国人のための…とあって、しかしいつも大半は日本人だが、英語字幕が付く。128分の上映時間に座り疲れを感じていたが、(無料だよ、ムリョーだよ)と脳裏をかすめれば有難いばかりで文句など恐れ多いことよ。
ひと月も前から誘われた、約束の日だった。


直木賞受賞作『銀河鉄道の父』(門井慶喜)の映画化。宮沢賢治を支えた家族の姿が描かれている。
【質屋を営む裕福な父・政治郎の長男に生まれた賢治は、跡取りとして大事に育てられるが、家業を“弱い者いじめ”だと拒絶。宗教に身を捧げる、と東京へ出てしまう。そんなとき、一番の理解者だった妹のトシが結核に倒れる。
妹を励ますため、賢治は一心不乱に物語を書き続ける】

「お父さん、ありがとう」と何度も賢治は口にしていた。映画では、賢治今わの際に父が暗唱していたが、「雨ニモマケズ」の詩に涙が誘われた。

つい最近、『風に立つ』(柚木裕子)では岩手県盛岡市にある南部鉄器工房を舞台にした職人父子の葛藤を垣間見た。物語の中で賢治の『グスコーブドリの伝記』が挙げられ、人生をも狂わす自然災害の過酷さが父の背景に描かれた。
「幸せな人生ってなんだろう」とあった問いかけは、賢治の世界に通じるようでもある。

 

またその少し前に、『六の宮の姫君』(北村薫)で落語「六尺棒」に描かれた父子の姿を読んだ。
夜遊びが過ぎる息子を父が締め出してしまう。「それなら火をつける」と声を上げるので、父は六尺棒をもって息子を追いかけるのだが、その最中に立場が逆転。家に入り込んだ息子が父を締め出す。
怒りながらも息子を心配し、それをあしらう息子にも父の心は十分わかっている。(明日から親孝行しよう) 父親が好きだ、という息子の気持ちを外してはいけないと描かれていた。

三者三様も、どこかでつながり合えたいい人たち。あらぁ、我が家の父と子は…といつも考えるわ。
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カムイのうた

2024年02月08日 | 映画・観劇
「『アイヌ神謡集』の著者、知里幸恵をモデルにした映画「カムイのうた」の製作が7月から始まった」



ここにある7月とは2022年の7月のこと。 - 北海道東川町が企画し、ふるさと納税で支援を募り、翌年秋には完成予定、などとある切り抜きを、まあご丁寧に保存していたというわけ。
ようやくこの2日から映画の公開が始まった。



【アイヌの昔話やアイヌの神様たちの話「カムイ・ユカㇻ」を祖母からいっぱい聞かせてもらった。自分の民族の誇りをこれだけ持つことができるようになったのも祖母のおかげだ】と菅野茂さん(『アイヌの碑』)。

【ユーカラ、昔から伝わる数多くの話は、主人公が人か英雄か女か、また、語る内容、目的、形式などで分けると何種類にもなり、それぞれが地域ごとに特色を持っている】とあった(『アイヌの世界に生きる』茅辺かのう)。

菅野氏の著書には、シャモの多い学校に通って苛められ、罪人にされ、差別的な言葉を浴びせられ、強制労働に従事させられ、アイヌ語の言葉を禁じられ、同化政策を押しつけられ…。アイヌ民族が歩んできた悲しい歴史も詰まっている。


「大正6年、学業優秀な北里テルはアイヌとして初めて女子職業学校に入学するが、理不尽な差別といじめに遭う。ある日、アイヌ語研究の第一人者である東京の兼田教授が、テルの叔母イヌイェマツのもとへアイヌの叙事詩ユーカラを聞きに来る。テルは教授の強い勧めでユーカラを文字にして残すことに着手し、その日本語訳の素晴らしさから、東京で本格的に活動することに。」
アイヌ民族が口承で伝えてきた叙事詩ユーカラを「神謡集」としてまとめ、工夫を凝らした日本語訳をしたテル。
1903年に生まれたテル(幸恵)は19歳の若さで亡くなった。

こうした類の本をちょろっと読んではみるが、アイヌ語の一つも覚えられない。それでも、こうして生きた人たちがいたのだ…と感慨をいだく。人間として非道な姿を見せつけられれば、不快極まりない思いがわく。決して今現在と隔絶した話ではないのであって、自分にもきっとそうした排他的な部分はあるだろうと顧みるし、反省につながりもする。

「この150年、あるいはそれ以上前からの、アイヌの辛かったことや楽しかったことが、すべて凝縮されてこの映画が出来ると思っています」
と何かに書かれていた。
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素敵なことは夢から始まる

2023年12月09日 | 映画・観劇
映画「ウォンカとチョコレート工場のはじまり」を見に出かけた。昨日のこと。

原作の児童文学『チョコレート工場の秘密』(ロアルド・ダール)を読んでいないし、ジョニー・デップ主演での「チャーリーとチョコレート工場」もみなかったし、…なのだけれど、原作に登場するチョコレート工場の主の若き日の冒険が描かれたファンタジーミュージカルとのことで、ミュージカル好きの私は孫娘Jessieを誘った。


〈すべては夢見ることから始まる〉
【幼いころから、いつか母と一緒に美味しいチョコレートの店を作ろうと夢見ていたウォンカは、夢を叶えるため、一流のチョコレート職人が集まるチョコレートの町へと向かう。
しかし、そこはチョコレート組合に警察すらも支配されてしまった、夢見ることを禁じられた街だった。
 世界一おいしくて、一口食べると幸せな気分になり、空だって飛べる、誰も味わったこともないウォンカの“魔法のチョコレート”は、またたく間にみんなを虜にし、ウォンカは一躍人気者となるが、彼の才能を妬んだ“チョコレート組合3人組”に目をつけられてしまう。さらに、とある因縁からウォンカを付け狙うウンパルンパというオレンジ色の小さな人も現れたからさあ、大変! 果たしてウォンカは無事にこの町にチョコレート工場をつくることができるのか?】 (ネットより拝借) 

どうして工場があれよあれよという間にできてしまうの!? 
Jessieは腑に落ちない。ごもっとも! ウォンカの背景は何も語られないままに、物語は繰り返しのパターンで展開していくので、つい先をよんでしまう。けれどそれは物語にどっぷりつかるということを妨げる。これがいけない? 途中ウトウトッとしかけつつ、…やはり悪がいつまでものさばることはなかった。

軽快な歌と踊り、ファンタジーなのだと思えば落ち着く、か。
出口に向かいながらウンパルンパの歌の出だしを口ずさみ、二人は顔を見合わせ笑った。

「夢で人生が変わっていくんですから」
三浦雄一郎さんが75歳で世界最高峰に立たれた時、インタビュー記事を読んだことがあって、そのさいだったかの言葉を残しておいた。
夢が必要なのは児童文学の世界だけではないわね。


これまで日本にやってきた折には、聴講生という資格で地元の小学校で受け入れていただいてきた。親しくなった友達(家族)とはその後も交流が続いていて、その一人、Aちゃんと今日は午前中から一緒に出かけて行った。夜は彼女のお母さんに連れられ夕食を共にすると…。
気が抜けたような静かな夕飯をどきを迎えた。
朝から掃除や片づけに追われ、のんびりする暇もない。師走ではあるけれど。
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無縁坂あたりで

2023年11月09日 | 映画・観劇
京都市国際交流会館で英語字幕付き日本映画の上映会(「国際交流基金京都支部日本映画上映会」)があって、「雁」を見てきた。
かれこれひと月ほど前から誘いをいただいていた。

映画製作は1953年というから俳優陣には懐かしい名前が並ぶ。
高峰秀子、田中栄三、東野栄治郎、芥川比呂志、宇野重吉、それに飯田蝶子とか三宅邦子の名もあった。
森鴎外の原作『雁』をもとに、明治13年の東京下町の人情や風俗が描かれている。


下谷練塀町の裏長屋に住む善吉、お玉の親娘は飴細工を売ってわびしく暮らしていた。
以前妻子ある男と知らずに一緒になって失敗しているお玉だったが、今度は呉服商だという末蔵の世話を受けることになった。
けれどそれは嘘(お玉にしつこく話を持ちかけたこの女↑の調子のよいウソだった。この人、飯田蝶子かな)で、妻子持ちの高利貸しだった。
大学裏の無縁坂のあたりの妾宅に囲われたが、やがて末蔵の真の姿を知り始める。

こんな暮らしをしていてよいのかと悩み、去ろうとするも、平穏に暮らし始めた父親はもうかつての貧しい暮らしにはもう戻れないという。父親によってお玉の決心は思いとどまらされていた。
娘の境遇より自分の安穏を求める父親。個人の幸せと親への忠義、孝行のはざまで思いきれないお玉の心情がもどかしく映る。

医学生の岡田は無縁坂を散歩する途中でお玉と知り合う。次第に岡田に魅かれていくお玉だったが、岡田はドイツへ留学することになる。
「あの人にはあの人の世界がある」という岡田。二人を結び合わせることはなかった。
彼の送別会の夜。
夜空に雁の列が遠くかすかになっていく。

「私の母もあんな(お玉の父のよう)だった」と友人は笑って言った。

個人主義と儒教的な親に尽くすという忠義、孝行の間で、どう調和?を図るのか…。
お玉には自分の運命を自らの意思で選びとってほしいと思うが、明治のまだ初期、末蔵のほうに変化があるのだろうか。

古い映画だなあ、と思ったわりには案外退屈することなく見終えた。
よい気分転換になった一日。

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「寄り道してくれない?」

2023年07月20日 | 映画・観劇
パリのタクシー運転手シャルルは、92歳の女性マドレーヌをパリとは反対側にある施設まで乗せることになった。
マドレーヌの持ち物は、小さなスーツケース一個だった。
先方との約束の時間には間に合わない。
シャルルを相手に思い出が語られ、彼女の願いに添って寄り道をして回り、最後は二人でディナーを愉しんだから…。


パリで過ごした多くの時間。思い出の風景、場所に別れを告げる胸の内を思うと切ないが、
それにしてもの壮絶な人生の回想に、しばしば息を呑んだ。
「そういう時代だったのよ」と言うだけで身の上嘆きはしないが、厳しい人生であったことは確かだ。でも同時に甘美な思い出を持ち合わす。

どの場面であったか。いとしい者たちの写真をみていれば、良い想い出をよみがえらせることができる、とマドレーヌ。
 ひとつ怒れば一つ歳をとる。
 笑うとひとつ若返るのよ。

タクシー料金は未払いのまま、再会を約束した。
シャルルは妻を彼女に合わせたいとも思い、娘と3人で訪問する。が、…思わぬことが待っていた。

「袖振り合って縁をも活かす」というようだけれど、血のつながりがなくても、また、時間の多少にかかわらず、心が触れ合うなら何かが起こるかもしれない。偶然ながらも訪れる、人の世の縁の大切さをやはり覚えておこう。

― 意識しないような短い時間が絶え間なく経過して、たちまち最期は来る
とは清川妙さんだった。
知らずしらず背負い込んだ積年のお荷物は棚卸しに努め、身辺こざっぱりと暮らす。そしたら最後の持ち物はスーツケース一つの量にまとめられるものかしら…?
人生、「寄り道」だけは多い方がいいのかもな。

さてと、映画のテーマはどう考えればいいのかな…。 
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連鎖を止める力

2023年06月24日 | 映画・観劇
プロテスタントとカトリックの対立が長く続いた北アイルランドのベルファストには「平和の壁」と呼ばれる分離壁が存在し、大まかには平和が維持されているが武装化した組織が今なお存在して若者の勧誘に余念がないのだという。

宗教的、政治的対立の記憶と分断が残る街の男子小学校では、哲学の授業が行われている。
かつて暴力で解決を図ってきた後悔と挫折から、新たな憎しみの連鎖を生みださないためにケヴィン校長が導き出した一つの答えが哲学の授業だったのだ。


哲学的な思考と対話で問題の解決を探ろうとする挑戦のドキュメンタリーが上映される。
上映開始日(23日)を待っていたところ、その前日に「行かへん?」と友人から打診があった。75歳になる彼女は、不登校の子供たちのカウンセラーとして現役でいる。関心の向かう先がどこか似ているようだ。どちらからであっても、誘い水には即反応が常。

「どんな意見にも価値がある」.
校長先生の教えのもとで、子供たちは異なる意見に耳を傾け、自分の思考を整理し、言葉にしていく。どんな小さなことでも言葉にすることが大切だと励ます。
喧嘩やもめごとは日々絶えない。そのたびに先生たちは共感を示し、対話へといざなう。
そして、自らの内にある不安や怒りをコントロールする方法を教える。それが生徒たちの身を護る何よりの武器になるとケヴィン校長は知っていた。


「暴力は暴力の連鎖しか生まない。それを止める力が君たちにはあるのだ」
根気強く、真剣に子供たちの心を耕し続ける。

「たった一粒の花の種が地中で朽ちず、ついに千本の梢に満開の花を咲かせることもある」
「人の心は種である。果てしない未来を拓く種である。」
こんな言葉に触れたばかりだ。(『穀田屋十三郎』磯田道史)

紛争、対立を越えて共に生きる社会の実現は、気が遠くなる道のりかもしれない。けれどそんな中にも生きる意味がひそみ、余韻が生まれた。子供たちは未来を託す希望なのだ。


 
   プレスリー大好きなケビン校長の車のフロントにあったのは、これかもしれない?




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花よりもなほ・HANA

2023年06月08日 | 映画・観劇
外国人のための日本名作映画上映会が国際交流会館で催されていて、友人と「花よりもなほ」を見た。会場はほとんどが日本人。無料でもあるし、とってもお得なんだけど…。


是枝裕和監督作品の『怪物』が、先ごろ行われた第76回カンヌ国際映画祭で最優秀脚本賞(坂元裕二)を受賞した。「花よりもなほ」は同監督による2006年の作品だった。タイトルに覚えはあったが、内容を知らないでいた。
数えてみれば17年も前の作品で、出演者には故人となられた方々がいる。主演は岡田准一。

元禄15年。父の仇討のために江戸にやってきた若い侍・宗左衛門が、人との触れ合いを通して人生の意味を見つめ直す姿を映し出した人間ドラマ。
様々な背景を持って長屋で暮らす人たちと、貧しいけれど笑いが絶えない暮らしを共にするうちに宗左衛門の気持ちは変化し始める。
父の仇は、近くに居た。けれど、仇討ちをせずに名誉を守ることを考えた。

なんともたくさんの登場人物で、彼らが笑って怒って泣いて。次々と事が起こり、出入りの多さに追い付けず、不確かな部分を友人に確かめる帰り道だった。

英語版タイトルは「HANA」となっていた。
“ようやく花が咲いたと思ったら、変な実が生った”と、誰かが言っていたのだが…。

「恨みは恨みで静まらない。自分が恨みを捨ててこそ静まる」(法句経)といった言葉があるようだが、憎しみや不平の嵐には、人本来がもつ美しい花も散ってしまう。

元禄15年。この作品には赤穂義士の仇討、切腹の話が挿入されていた。当時、仇討は 慣例、当たり前で、仇を報いることは時代の「花」だった。
が、時代の殻を破って、自己を開いた宗左衛門。
Sozaemon realizes the existence of life without revenge.
縁あるままに長屋の人々と親しみ、これからを生きていくことだろうと思わせる。
物質的には貧しい生活でも、生きる喜びを見いだしたようなラストの笑顔から、ほのぼのとした幸せが心に沁み込んでくるのだった。

エンディングになるとそこかしこで一斉におしゃべりが始まった。珍しい状況だと思った。感想なり言い合っているのだ。


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一人の君に開放する

2023年05月24日 | 映画・観劇

イタリアの美しい村の、丘の上にある古書店の老店主・リベロが、移民の少年エシエンに本を読むことを託した深慮を思った。


ある日、店の前に立つ少年に気づいて声をかけると、「本は買えない」という言葉が返ってきた。リベロは少年が手にしていたコミックを貸すことにした。「大事に扱って、明日返してくれればいい」
何度目にか、もうコミックは卒業だと言うと、それからは『ピノッキオの冒険』『イソップ物語』『星の王子様』と次々に貸し与え、返しに来たら感想を尋ねたり作品の読みかたなど伝えていた。

「本は2度読むんだよ。1度目は理解するため、2度目は考えるために」
学校から帰れば一心に読みふけったエシエン。だが『白鯨』は大作、一日では読めないという彼に「ゆっくり読んだらいい。身体に沁み込むからな」と話す。


小説は世界を知る楽しい教科書だと何かで読んだが、エシエンはリベロの道案内を得て世界を広げ、豊かで幸せな時間を重ねていたことだろう。
二人の交流が重なっていったある日、「これは小説ではない。貸すのではなく私から君への贈り物だ」と一冊の本を手渡した。

「喪中につき閉店」。
リベロは、エシエンが読みたい本があればいくらでも譲り渡すことを遺言していた。
少年に贈ったのは、世界人権宣言について書かれたものだった。

ふと、やはり多くの人に本が読まれることを託した水上勉が思い出された。
氏は福井県の
 「生まれた村に小さな図書館を建てて、
  ぼくと同じように本をよみたくても買えない少年に、
  開放することをきめた。」
それは若州一滴文庫と名付けられた。「たった一人の少年に」と題した氏の言葉の結びにはこうある。

「どうか、君も、この中の一冊から、なにかを拾って、
君の人生を切りひらいてくれたまえ。
たった一人の君に開放する。」
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ワニのロックは最強だ

2023年03月30日 | 映画・観劇

八重桜日輪すこしあつきかな  山口誓子


大きなスーツケースを引いて歩く方々でごった返す京都駅。
「京の桜どき」に、いずこも花見の人出でにぎわっている。いきなり通路の真ん中で立ち止まる彼らにぶつからぬよう、足早に八条側にある映画館に向かった。友人と待ち合わせていた。上映時間の都合から、二条の東宝シネマズにしましょうと約束していたのにだ。
自分の勘違い、途中ですり替わった思い込みだった。駆けつける時間の余裕はなく、それぞれに観ることにした。失敗失敗、大失敗。


アメリカの児童文学作家バーナード・ウェ―バーの名作『ワニのライル』シリーズを実写映画化したという「シング・フォー・ミー、ライル」。ライルの声を大泉洋さんが担当だと知って楽しみにしていた。

“ワニのロックは最強だ~”
ショーマンのヘクターがペットショップで歌うワニと出会う。2本足で立って歌う、小さなワニのかわいいこと。でもたちまち3mに。
ステージに立たせ歌って、ひと儲けをもくろむがうまくいかない。観客の前では歌えなかった。ヘクターは屋根裏部屋にワニのライルを残したまま姿を消した。階下の部屋に越してきた家族の少年とライルの交流が始まる。
ドタバタあって大きなワニが走り回る。ステージで少年と歌って踊るラウル。大泉洋さんの歌声。動物園に連れもどされることなく、一件落着。

「とても楽しくて、頭が明るくなりました」と友人も楽しんでくれて、ほッ。


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カムイ外伝

2023年03月17日 | 映画・観劇

「国際交流会館で『カムイ外伝』の映画があるんやけど、行かへん?」と声をかけていただいた。「雨でも行かはりますか」って。(そりゃあもちろんでしょ)
国際交流基金京都支部 外国人のための日本名作映画上映会(英語字幕付き)だが、一見したところ日本人ばかり。それでも後席から英語での会話が耳に入ってきた。

白戸三平原作のコミック『カムイ外伝』。カムイに松山ケンイチ。小雪、伊藤英明、小林薫といった共演者の名。案内の解説文によるとー
監督・共同脚本の崔洋一、脚本・宮藤官九郎で実写化された2009年の映画で、長大な原作の中から「スガルの島」編に焦点を当て、自由を求めて忍者の世界を抜けた青年・カムイの壮絶な逃亡劇が描かれる、とある。
17世紀、社会の最下層に生まれたカムイは生きるために忍びの道へ。掟に縛られる世界から抜けようとすれば、掟によって抜忍(ヌケニン)として仲間からどこまでも追われる身となる。
心安らぐ日がくるのか…。

武器がスクリーンからこちらに向かってくる錯覚、サメが海上に飛び上がる、伊藤英明の両腕が切られ飛ぶ、隣席の女性が「うわあっ!」「うわあっ!」と声を出す。
通常ではありえない激しい人間の動きはCGあり、またワイヤー&ソードアクションとかいうのも見ものだそうだが、そうした場面に疲れを感じるのは年齢のせいに違いない。

〈軽蔑されようと差別されようと、自分の生き方を他人にとやかく言われる筋合いはない。弱音を吐かず、強がりもせず、淡々と自然体で生きる〉 とてもそんなふうには生きられなかった徳川の時代。
カムイの物語はどう展開しているのだろう。


陽光の明るさ、土の温みも増して、目覚めを促されたか。かたい地面を割って芍薬の芽が顔を出してきた。
芽の先端の紅いとんがりを見つけたときから、命のたくましさに触れたようで毎年なんともいえない大きな喜びを味わう。
まさに「一寸のたましいを持つ」の感だ。

「雪をのけたしかめてみる褐色の芽は一寸のたましいを持つ」と山崎万代方代が詠っている。
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奇跡と呼ばれた映画

2023年02月25日 | 映画・観劇
「SNSで話題になり異例のヒットを続けたが、共産党大会を目前にした昨秋から突然上映されなくなった、と欧州メディアが伝えている。真相は不明だが、貧しくとも正直に働いて人を思いやる者が搾取され、不平等が拡大する「近代化」の現実への批判だと睨まれたのか。」


中国映画「小さき麦の花」を見た。館内の掲示物に、このようなことを伝える記事があった。
中国の若年層にヒットした映画のようだ。

家族から厄介者扱いされていた二人が結婚させられた。妻の方には手と足に障害があった。
いいように利用され、こき使われて、それでも抵抗することなく寡黙で、すべてを受け入れて生きている。しかし彼は勤勉で正直者だった。
言葉少なだが心を通わせ、いたわりあい慈しみあう。彼らに表情が生まれてきた。たくましさもあった。
貧しくとも慎ましい喜びのある二人の暮らしに、誰かがやってくる。車が近づく…。
もう、疫病神でしかない。

「農民は土を離れて生きていけない」と妻に話す。土地を耕し、小麦の種を蒔き、トウモロコシやジャガイモを育て、収穫に励む。命をつなぐために働くしかない日々の忍耐の強さ。
選択肢などはなく、そうやって生きるしかないとわかっているだけに、見ている側には重くもあった。

町のアパートに入居希望の申請をするのも言われるがまま。そんなある日、妻は川に落ちておぼれ死んでしまった。
国の政策で、空き家を解体するとお金が入る。収穫物も一切を売り払い、二人で造った家を壊す。町での入居が決まっていた。

農民が土を離れ、災厄を一人で抱え込まなければならない日々に、つかめる希望があるだろうか。





古木の白梅はようやく蕾。空洞になってしまっている幹だが、全ては根から得る滋養のおかげ。
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国を滅ぼしますよ

2022年12月19日 | 映画・観劇
京都府舞鶴市にある舞鶴引揚記念館は全国のシベリア抑留体験者らの寄付を受けて1988年に開館され、抑留や引き揚げの歴史を紹介している。2015年、その関係資料570点がユネスコの世界記憶遺産に登録された。

手作りのマージャンパイ。白樺の皮に、端正な文字で書き綴られている短歌や随想、移動記録。

 

「身につけた教養や文化が精神を支えた」、「楽しみを見いだす心は、過酷な状況を耐え抜く生きる力になったのだろう」と分析、語られる学芸員・長嶺さんの言葉を読んだことがあった(‘21.1月の記事)。
ちょうど今朝の新聞コラムは、記念館で展示中の「残っていることが奇跡的な資料」だと言われる新収蔵品に見入る若者がいることに触れて始まっていた。
そして、記事の中で映画「ラーゲリより愛をこめて」が公開中であるのを思いださせてもらい、見に行こう!となったわけだ。

 

どんな環境にあっても希望を捨てずに生きることを仲間に家族に記憶させた一人の人間、二宮クン演じる山本幡男氏の半生。死期迫る病床にあって、真っ黒な爪の汚れが目についた。
敗戦から12年。日ソ国交が回復してようやく帰国の道が開けるまで、過酷な日々を共に耐えた仲間が、遺書を彼の家族のもとに届ける。
文字を書き残すことはスパイ行為とされた環境で。「白樺日誌」などはどのようにして残されたのだろう。

帰りに原作の『収容所から来た遺書』(辺見ジュン)を購入。映画の余韻が落ち着いたあと、読んでみようと思って。

半藤一利氏がこんなことを書いていた。
〈(日本国を)小人国と書いたことを怒る人がいるかもしれない。われら日本人はそんな弱虫にあらず、誇りをとり戻せ、断固戦争できる「ふつうの大国」にして、国民一つになって内憂外患を吹っ飛ばせっと。
でも、わが日本国は地政学から厳密にみると、とても戦争なんてできない国と思うんですがね。大国主義は国を滅ぼしますよ。
歴史は所詮人間のつくるもの、人間の質が変わらなければ同んなじことが…。芭蕉のいう「不易」がここにあるようである。〉(「小人国の内憂外患」『歴史のくずかご』収 )
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台所は畑に相談して

2022年11月15日 | 映画・観劇

浄土真宗の「妙好人」の関連で水上勉の全集を読んだとき、収められていた『土を喰(くら)う日々』をついでにという程度で目を通したことがあった。
ずいぶん前のことで、残るメモ書きもわずか。映画の原案となって、このカバーがかかった文庫本が出ているのを知っていたので、映画を見たあと書店に立ち寄った。写真も多く、文字も大きく明るくスッキリ、別物みたいで親しく読める。


九つから禅寺寺院の庫裡で暮らして、精進料理を覚えた水上勉さん。
京の相国寺の瑞春院で、五月がくると和尚さんと筍掘りをした。和尚は「喰いごろ」を教え、「肥やしになるでな」を口癖に、皮はその場でむくように言った。そんなシーンの回想もあった。

料理といっても材料が豊富にあるわけではない。何もない台所から絞り出すには、畑と相談してからだった。「精進料理とは、土を喰うものだと思った」のは、そのせいだと書いている。
「旬を喰うことはつまり土を喰うことだろう。土にいま出ている菜だということで精進は生々してくる。台所が、典座職(禅寺での賄役の呼称)なる人によって土と結びついていなければならぬ」。こういうことが老師の教えだったとも綴られる。

千年のベストセラ―、道元禅師の『典座(てんぞ)教典』は折に触れ引かれる。

 

読んでいると映画のシーンが思い出される。
大きな窓から眺める四季の移り変わり。ランプの灯りでの読み書き。食事の支度に畑に向かう。洗って調理して…。ツトムさんの一つ一つの所作に漂う品の良さ。妻亡きあと、親しくなった女性編集者との別れも心に沁みる。エンディングに流れた沢田研二が歌う歌の歌詞とともに…。
豊かな時間の流れ、丁寧に生きる日々、「調理の時間は、心をつくしてつくる時間」など、改めて考えた。

七輪に餅焼き網を置いて、くわいを焼く。皮などむかず、じっくり黒色化してくる頃あいを見てころがす。おせちには含め煮にしているくわいだが、氏のレパートリーの一つをぜひ試してみよう。
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アンデス、ふたりぼっち

2022年09月16日 | 映画・観劇
映画「アンデス、ふたりぼっち」を見た。


ペルー、アンデスの標高5000メートルの高地で、周囲の援助もなく孤立して生きる高齢者二人だけの暮らしがどういうものなのか。
精霊に祈りを捧げ、いたわり合って細々とした自給自足の暮らしが描かれる。老いた二人は息子の帰りを待っていることがわかってきた。
「息子がいれば助けてくれるのに」「もう死んでると思っているさ。都会が息子を変えた」
「わたしたちは見捨てられたの」
老母は息子のものらしいセーターを何度かたたみ直しては布でくるんでいた。

マッチがなくなりかける。村まで買いに行ってほしいという妻の頼みだが、夫はもう自分の足では遠く、戻ってこれないかもしれないと自信がない。案の定、途中で倒れ、それでも引き返してきた。飼っていた愛犬と羊がキツネに襲われる。

火種を絶やさぬよう寝ずの番をしていたが…。住むところも食べるものもない。それでも生きていかなければならない。残ったのはリャマ1頭。
ほどなく夫が静かに息を引き取った。細い泣き声に哀切漂う。


抑揚のない言葉、会話。アイマラ語というのだと知った。監督はペルーの原住民アイマラ族出身とのことだが、期待されながら34歳でこの世を去った。【アイマラの文化、風習の中に、私たちが存在を知りながらも目を背けていた現実を、雄大なアンデスの自然とともに痛烈に描いた】と紹介されている。

胸詰まる思いではあった。高地を下りる、村の中で暮らす選択はできなかったのか。
彼らには、ここで生きるしかなかったのだろう。どこで生きようと、どんな問題を抱えていようと、限界まで天命を尽くした姿なのかとも思いなおしている。
【いのちを日に新たにしている代謝が止まれば、この世を去る。「だから生命は荘厳なのである」】と司馬さんは書いていた(「新」について)。

行く先にあてもなく、布にくるんだわずかな荷を背負い、杖を片手に、一人ぼっちになった妻はどこへ…。

コメント (2)
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