京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

夏越の祓

2017年06月30日 | 日々の暮らしの中で

六月の晦日。今年も半分が終わろうとしています。
おかげさまで取り立てて言うほど健康を害したこともなく半年間を過ごせたこと、まずこれを喜ばなくては。

ネット上にはたくさんの言葉が飛び交っていますが、自分とは関係がないと判断しては多くの言葉を、きれいにスルーしてしまいます。けれど、そんな私でも、深く心にとどめる言葉、文章との出会いはあります。
「見ることは相手を自分の中に取り入れることだ。同時に相手の中に自分を潜り込ませることだ。」と、どなたでしたか。
ぼんやり視野に入れることを「見る」とは言わない。単に活字を追うことを「読む」とは言わない。書き過ぎれば大切なものを失う…。
何とはなしにそんなことを考えたのでした。

激しい雨の朝でしたが、午後から日が差し始めました。それを機に今日もウォーキングに1時間。
汗を流して、提出作品の仕上げに最後の踏ん張りです。梶の木に青い実。頑張りが小さな実を結ぶといいのですが。

      天花粉に笑むや二つのさきがけ歯     阿波野青畝   

今は点花粉を使わないのですね。昔は、娘にも息子にも、お風呂上りにはパタパタはたいて真っ白な体にして、「あ~、きれいになったね~」の毎日だったのです。
孫の第三子Lukasにも歯が2本生えかけています。けれど、〈天花粉をはたいてもらうのがうれしくて笑っている〉という光景はありません。ヴジュヴジュ ヴジュヴジュと口元で音を立てるのは今も昔も変わらないようです。

どなた様も夏をつつがなくお過ごしになれますように。
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「コトバは口福でなくちゃ…」

2017年06月26日 | 日々の暮らしの中で
 
今朝は午前3時半に目が覚めてしまった。
午前零時を回って寝ていて、いくらなんでももう少し寝ておきたいと思ったが、ダメ。
スタンドをつけて、『よこまち余話』(木内昇)を読み終えた。

「この世の中にある次元というのは、ひとつきりじゃないんだろうね」
という言葉があるが、この世とあの世を往き来する人たちがいる作品世界も違和感ない論理に表現力だ。
能の幽玄的世界を背景に編み上げたものらしい。昭和の初めごろ、東京の下町を舞台に、終わってほしくないような、余韻の残る物語だった。
『漂砂のうたう』『櫛挽道守』『よこまち余話』、木内作品のファンの一人。かみしめたい表現が随所にある。

「コトバはてめえの食いものだもの。」
「コトバは口福でなくちゃいけない。」
こんな一節を長田弘の詩「コトバの揚げ方」の中に見つけた。

ウォーキング途中、各所で盛りのクチナシの花の甘く濃厚な匂いに足を止めて…。今夜はぐっすり眠りたい。
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あとちょっと

2017年06月22日 | 日々の暮らしの中で
先週末のこと。
2人の孫が習っている空手教室で、50人ほどの見学者を前に形を演技したり、護身術の指導もあるとのことでしたので、娘から「みんなで見に行きませんか?」と連絡が入りました。
うまいこと誘われて 金曜日の午後から出向いたわけです。なんのことはありません、当日の土曜日は結局Lukasを預かって、子守ということになりました。少しでも母親が楽になれる時間帯ができるのなら、それも良しなのですから文句などありませんけれど。日曜日はTylerのフットボール練習日。両日とも昼過ぎの帰宅を待って午後から一緒に外出を…。


今月末には生後7か月を迎えるLukas。もう少しで、お座りの体制に持って行けそうです。バウンサーにじっと座らせておくことはできず、広い場所に仰向けに寝せても、即くるんと向きを変え、手足を突っ張り四つん這いに。


しばらく何をか考えて同じポーズが続きますが疲れます。ダウン! しばしの休憩後には息を吹き返して再挑戦?です。


こうしてやがて膝を曲げ、お尻を落としながら、お座りまでにはもうあとちょっと! のところです。
抱っこをせがむ素振りを見せ、抱き上げると頭を私の肩に落として、やがて寝込んでしまいます。このときの感触、やはりいいものです~。

もうあとちょっと! 私もあと少し頑張らなくっちゃ。作品提出の締め切りまで、まだ10日はあります。
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92歳の鞍馬寺貫主さん

2017年06月14日 | 講座・講演


“男社会の”仏教教団の中で、40年以上も前から管長としてトップに就任し、古刹と周囲の山を守ってこられた鞍馬寺貫主(す)の信楽香仁さん。大正13年生まれですので、92歳でいらっしゃる。今日は鞍馬寺で「すべての生命かがやく羅網の世界」というテーマで貫主さんのお話をうかがう機会に恵まれました。
お話は、立たれたままで30分ほどでしたでしょうか。お参りのどなたかがいたわるような言葉をかけますと、「皆さんのように座ってるほうが大変だと思いますよ。平気です」とお答えで、座には笑いが。


水色の幕が張られているのは、20日に行われる「竹伐り会式」のための舞台作りです。
この本殿金堂に参拝。あげてくださった般若心経の始まりと終わりに、それぞれ柏手が2拍ずつ打たれたことでびっくり。
鞍馬寺は平安時代に延暦寺の末寺になっているのですが、鞍馬は古神道、山岳信仰、天台、真言、浄土と、様々な教えが詰まった場所だそうで、その特徴を生かそうと、1949年に天台宗の所属を離れ「鞍馬仏教」という新しい宗派を立てたとのことです。般若心経に柏手は、〈鞍馬らしさ〉の表れの一つなのでしょうか。「月のように美しく、太陽のように暖かく、大地のように力強く」。心の磨きが足りません…。

いただいた散華に記された言葉。
「花束をもって 多くの華鬘(けまん)を作るがごとく 人として生まれなば 多くの善きことをなすべし」
「『われに影響することなからん』とて 善を軽んずるな 水の点滴はよく水瓶をも満たすなり 少しずつ積みても賢者善に満つ」
「この世において 怨は怨によりて静まることなし 怨を捨ててこそ静まるなれ これ不変の真理なり」
「物事は意(こころ)よりおこり 意を主とし 意よりなる 清らかなる意をもって語り行う時は 楽しみ これに随う 影のものにそいて離れざるがご とし」
「深く静かで穏やかなる湖水のごとく 賢者は真理を聞きて静かなり」

今年はとりわけ緑が豊かに茂っているのだそうです。何度も深呼吸しながら、命のみなもととなる「元気」をお山にいただいてきました。集合場所がケーブルカー乗り場だったこともあって、楽して登らせてもらいました。とはいえ、山上に横づけではありません。息が切れるほどの階段のきつさでした。帰りは九十九折りを知り合った方とおしゃべりしながら…。

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風そよぐならの小川

2017年06月12日 | 日々の暮らしの中で

上賀茂神社境内にあって、4月には曲水宴が開催される渉渓園で花菖蒲が公開されていた。写真は園内ではなく、御手洗川(楢の小川)をまたぐように建てられている橋殿のはたに咲く花菖蒲。
   風そよぐならの小川の夕暮れは禊ぎぞ夏のしるしなりける    藤原家隆 

比較的しのぎ易い梅雨の合間を、少しだけ頑張ってウォーキングに精を出してみようかと歩く回数を増やしている。ちょっとそこまでお使いに、は車を使わず遠回りで歩いて2700歩ほど。こんな日も含みながら、意識して歩く努力をし始めた。この先、暑さが問題になるが、歩数を控えて回数を増やす、これでいこう。

  

こんなことを考えてはしょっちゅう挫折の繰り返し。
暑さに負けない丈夫な身体を~、なんてのはもうひと昔も前の目標ですから、実際どうなることやら、なんですが…。






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花の中に仏さんが… 「花戦さ」

2017年06月10日 | 映画・観劇

「五月雨晴るる」、梅雨の合間。今日も真夏日だが、蒸し暑さを感じさせない心地よい風がわたる。朝から窓を開け放し、流しまわりを見直すついでにあっちもこっちも。昼過ぎまで動きっぱなしで疲れたが、気持ちよく整え直した。 


一昨日、映画「花戦さ」を観た。戦国時代末期の京都を舞台に、生け花を大成した花僧・初代池坊専好の生きざまが描かれている。時の権力者・信長や秀吉などと、花を介して向き合う専好だが、実像は資料に乏しく、不明な点が多いという。

終わって、しみじみ心に残る感動は薄かったが、権力者と相対す一方で、河原の名もなき人々を弔って、小石を積み上げ一輪の花を手向ける専好の姿が記憶に残った。「花の中に仏さんがいてはりますなあ」と口にする専好。華道は仏前への供花に始まる。花を「立てる」は神仏に「たてまつる」の意になる。
秀吉と利休の関係、専好と利休の交流も描かれる。利休の庭に咲いていたたくさんの朝顔がすべて取り払われているのを見て、秀吉はこぶしをぎりぎりと握り締めて立ち尽くす。その利休の茶室に、一輪の朝顔が飾られていた。【「一」は「多」よりも多くを語る】という利休の哲学なのだ。「茶の湯は第一仏法を持って、修行修道することなり」。権力を握った秀吉の狂気の沙汰が醜い。「上に立つ者、人の心を大切にせよ」、と信長の言葉が繰り返された。

花も人もモノも、それぞれにそれぞれの美しさがある。梅には梅の、桜には桜の美しさがあり、金の茶室も、黒い茶碗も、それらを好むそれぞれの人間性も同様。「それぞれ」をそのまま受けとめることの大切さ、改めて思い直した。

専好を演じる野村萬斎さんが「僕らは先人が作りあげた方法論から入り、心を充実させていく。型と心は『演じる』ということの両輪。優秀な役者さんは心の部分から迫り、演じる方法を確立する」と語るのを読んだ。これもそれぞれ、「どちらから入るかというだけ」に。
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明日ありと思ふ心の…

2017年06月07日 | こんな本も読んでみた
 

久木綾子の89歳でのデビュー作『見残しの塔』に続いて読んだのが『禊の塔 羽黒山五重塔仄聞』だった。作品は「雪は『もつ、もつ』と降りはじめ、『もっつ、もっつ』と地に積もる」と書き出される。

塔の再建にかける宮大工や葺師たちの情熱。豪雨でも塔の土台が緩まないようにと、氷のように冷たい水に手足を突っ込んで、周囲に溝を巡らせた山伏たちの心意気。「ただ水を流すだけの通路ではない。塔を荘厳する彫り物だ」、と身命をなげうった浄海坊の言葉にしびれる思いがした。
作者が〈大地のエネルギーを吸って生えてきたようだ〉と感動する塔を見てみたい。〈地の霊、山の霊、大木の霊、もろもろの霊が淀んで渦を巻く〉、そんな場所に立ってみたいと思うのだ。
いつか、いつかと思い続け、初めて具体的に今年3月下旬を念頭に検討したが、結局は見合すことになった。それでも、気持ちが続けば7月下旬に他社のツアーを利用する手もある、と密かに道をつけておいた。

          
  
親鸞聖人は言われる。「明日ありと思ふ心のあだ桜夜半に嵐の吹かぬものかは」と。「明日ありと思ふ心のあだ桜」とは美しい喩えだ。桜だけではない。何にしてもチャンスは逃さないようになさいと教えてくれている。
あれこれの不安がないわけではないが、思い切ってみたいと心は動く。何か大きな計らいごとの手が差し伸べられているような…。よいように気持ちを丸めて、ツアー参加を決めて申し込んだ。出羽三山を巡り、「黒川能」能・狂言の鑑賞が付く。

一日中降り続いた雨。今日から梅雨入りだそうな。
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「たのしむ」

2017年06月06日 | 日々の暮らしの中で

歩いていて、危うく蹴飛ばしそうになった。
悠悠人生。追い越されてもよし。この期に及んで慌てることもなし。とは…カメさんのこと。
7月初旬の作品提出に筆が進まない。気持ちが入らなくて、いささか気が急いている。


      「静かな日」   長田弘
    目は見ることをたのしむ。
    耳は聴くことをたのしむ。
    こころは感じることをたのしむ。
    どんな形容詞もなしに。

    どんな比喩もいらないんだ。
    描かれていない色を見るんだ。
    聴こえない音楽を聴くんだ。
    語られない言葉を読むんだ。

    たのしむとは沈黙に聴きいることだ。
    木々のうえの日の光。
    鳥の影。
    花のまわりの正午の静けさ。   

何気なく触れて読んで、考えてみたり、心を内に向かわせる時間が案外大切になっている。
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『穢土荘厳』

2017年06月03日 | こんな本も読んでみた

杉本苑子さんが亡くなられたのを知った。91歳。

『穢土荘厳』上・下巻(1986年)。
蘇我氏の血を受け継いだ持統、光明、元明、元正ら女帝が築いてきた勢力に対して藤原氏が政権奪取に立ち上がり、最大の政敵・長屋王への襲撃から火蓋が切られる。華やかな天平文化の陰に、人間の業の深さ、迷妄の種の限りなさを見る。大仏開眼に至る、歴史のうねりが描き出されている。
訃報を知り、思わず書棚から取り出しページを繰っていた。杉本苑子と言えばこの1冊。詳細な部分は忘れているが、歴史に名を知る多くの人物が登場する。30代に入っても、このあたりの時代を背景にした作品が好きだったことへの懐かしさがこみ上げた。作者の確かな歴史認識で物語性豊かな世界に誘われた。格調高い文章も好みだった。

東大寺境内の西南の隅にある切崖で、大仏開眼法会の様子を見ながら行善と行浄が言葉を交わしている。
【日本全土を仏国土たらしめ、政教一致の理念を基礎にして国家の統一と安泰を図ろうと願望しながら、あべこべに造寺造仏が人々の生活を破綻させ、社会不安を助長させてしまった。「一切衆生」といえば、特権に預かれる皇族や貴族らだけでなく、乞食、浮浪、奴隷、人間とみなされていない者たちすべてを包含している。しかし、聖武上皇は貴賤の垣、浄穢の偏見を打ち破って、「一切衆生」の『心』の中に仏国土を想像することはついにできなかった】

この行善の言葉を聞きながら、行浄には「大仏殿が、きらびやかなだけになお、たまらなく淋しいものに感じられてくる。上皇の孤独、人間すべての苦悩の、無限を具象するものとも映」り、「浄土は空のあなたに在るものではなく、めいめいの心の中に求めるべきものなのだ」と思う。
法会が挙行される平城京に雨が降り、荒天の晴れ間を虹が短く飾る。それを、「穢土を穢土のまま肯い、荘厳しようとしてくれている大自然の意思」とも行浄は受け取っていた。

織田作之助が「繰り返し読むことが楽しいような書物を座右に置きたい」「僕は繰り返し読む百冊の本を持っていることで満足している」と書いている(「僕の読書法」)。『穢土荘厳』を私の100分の1冊とすべく、再読してみようか。
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雨が降っているけれど

2017年06月01日 | 日々の暮らしの中で
5月31日、午後帰宅した。娘家族にちょっとした用事ができていて、その手伝いもあって滞在が長引いてしまった。

夕刻からの雷鳴を伴った雨は一旦あがったが、1日深夜になって、今、再び強い雨が降り出した。
1日、孫娘は広島、倉敷方面へ1泊2日で修学旅行に出る。雨にならないでほしいものだと願いながら…就寝。
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