「日が高く昇るにつれて、中堂の前に掘られた池はうららかな陽射しを受け、水面を明るく輝かせていた。大小の魚影が、玉石を敷いた底をちらちらと過(よ)ぎり、澄明な水に繊細な揺らぎを起こす。」
でも今日は残念なことに水がほとんど抜かれており、そこに職人さんたちがしゃがみこんで作業していた。玉石の一つひとつ裏返したり置き直してみたり、石組みを考えているようだった。根気のいる作業だと眺めた池には、カモが数羽泳ぎ、岸辺にコサギが1羽のみ。
定朝作だと断定できる唯一の仏像が宇治の平等院鳳凰堂の阿弥陀如来座像。思いが熱いうちに?、この際ひと目参拝しておこうと足を運んだ。
宇治川の西側(写真の右手)にお堂があり、東を向いて阿弥陀様が配置されている。こちらから見て川向こうを極楽浄土と見立てるのはうなずける。
関白・頼道個人の極楽往生を祈願した私寺の本尊を、と依頼された定朝。「死んだ中務の面影を夢想の中で浮かべ、木材に隠されていた安らかな顔を露わにしていく」
【ぽってりと厚い瞼、それとは裏腹な細い目。おだやかな丸みを描く頬と少し下がった唇。…しなやかな弧を描く眉…】【衣文の隆起を可能な限り整理し、無駄な表情を尽くそぎ落とした。…頭部はやや小さめに作り、像全体に優雅さと軽快さを与える】
【夢見るかのように薄く唇を開き、白い歯をのぞかせていた中務の死に顔。まどろむようなあの風情を出すために、唇の端を少し引き上げ、同時に瞼をわずかに腫れぼったく作る。されど頬は丸く、穏やかに、そう、例えれば満月の如く…】
定朝は、中務が示した真の御仏、【円満具足なこと満つる月の如き、御仏の姿】を映し出す事に専念した。
本尊の前で、板戸に背をあずけて寝ていた定朝が描かれていた。ここら、皆が立って説明を聞きながら見上げている、このあたりでもたれかかって眠っていたのか?…。
宮城を抜け出した中務の死は衝撃だった。目線が合うかなと如来像を見上げていて、仏さまの目は半眼だと思い出した。見開くとすべてが見えてしまう。ありのままに指摘してしまうから半分の目で見よう。半分は見過ごそう、などと聞いたことがあった。人を見るアングルを変えてみる、ってどうだろう。新しい見方が生まれるかもしれない。なんて思ってみたり…。
極楽いぶかしくば宇治の御寺をうやまへ (「扶桑略記」)
電車はがらすきだった。それでもマスクを忘れずに…。