京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

人と和して 百福を

2020年02月28日 | 日々の暮らしの中で

新型肺炎対策として小中高の臨時休校が要請された昨日。またしてもですが、ちょうど娘宅の留守を預かり、滞在中でした。
「もうあしたがMと一緒に学校へ行く最後になる?」と、孫娘は学年末テストの最中でしたのに、それどころ?ではない大騒ぎ。

住まいのある市では、小中高とも春休みまで休校と決まりました。
この3学期で日本の中学校生活を終え、オーストラリアの中学校3年生に編入を決めている孫娘です。
「あと学校に行くのは〇日しかない」と数え、最後の最後を楽しみにしていたようですが、それも突然に打ち切りとなりました。

朝、学校へ送り出してから帰宅しましたので、今日の様子は知りません。
試験は今日で終わり。今夜は母親とうるさいほどのお喋りを交わしている? 友人と連絡を取り合うことに追われてるかもしれません。

明日どんなことが待ち受けているかわからないものです。久しぶりにそんなことを身近に感じています。
せめて友人たちと最後を楽しく過ごさせてやりたいと願うのですが…。

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明日ありと思ふ心のあだ桜

2020年02月23日 | 日々の暮らしの中で

天皇陛下が誕生日を前にして、「もう還暦ではなく、まだ還暦」とお気持ちを示されていた。先場所初優勝した徳勝龍関も「もう33歳ではなく、まだ33歳」の気持ちでこれからも精進したいと言われた。

マイナスの言葉を用いると気持ちも下がってしまう(下がることはまあ時々?よく?あることだけれど)。
今、花のいのちはけっこう長くて、老いをいかに楽しく生きていくかということは本当に切実な問題。ああ~あ、な~んもすることない、の日々だったらどうだろう。一日が長くて長くて閉口するかもしれない。やはり楽しい毎日は自分で作りたい。

親鸞聖人は教えてくださっている。〈明日ありと思ふ心のあだ桜夜半に嵐の吹かぬものかは〉、と。桜だけではない。何にしてもチャンスは逃さないようになさい、と。ためらいの習慣は幸運を逃し、一歩踏み出す力を鈍らせる…。


「若いときから元気がなくてくたびれていたから、老人暮らしになっても落差があまりない」
こう言われたのは、今は亡き数学者・森毅さん。
「元気で長生きしてって言われるけど、これだけ長生きしたんだから元気がないくらいガマンしてよ」
「正しさはなかなか拡がらないけれど、楽しさは伝染するものだ。老人の楽しさを伝染させて、死に向かってくたびれながら楽しさを宣伝しよう。
残る平均寿命を考えると、一事に集中しては目的が達成できない。だから、関心を分散させて、さまざまの状況を楽しもうとするのがいい」

そして、森さんは、過去にこだわらずにゆったり生きるおばあさんに感心されて、「もう自分が男であることにこだわる必要はあまりないのだから、おばあさんのように生きよう」と言われた。思い出すといつもクスリとさせられる。(でしょ!?)

       (木に目が!?)

できるだけ人と交わり、人の目、視線を受けることも案外刺激になると思うのだけれど…。
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口なしの実

2020年02月22日 | 日々の暮らしの中で
もうすでに香りを放って沈丁花が咲いていた。

初夏にはクチナシが、やはり独特な香気を漂わす。その花(一重咲き)のあとに結ぶ実は、熟しても殻は硬いままで自身では割れないことから「口なし」の名が生まれたと言われている。
霜にあたる前に実は収穫した方がよいらしいが、先日、仏師・定朝の墓を訪ねた蓮台寺さんでは、本堂南側の通路脇に木が並んで植えられており、い~っぱいの実がなったまま残されていた。もともと採取する対象ではないのかしら。



この鮮やかな色合い。一つ二つ、みっつ…、やはり無断でいただくわけにはいかないし帰宅したが、あとになって惜しいことしたなどと思っている欲深さ。今頃の実では時すでに遅し? 

これだけの実。たくさんの花が咲いたことがわかるので、花の盛りには訪れてみよう。

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わが庭の春のいそぎ

2020年02月20日 | 日々の暮らしの中で
丸山薫の書斎も、詩集『春のいそぎ』を書いた詩人・伊東静雄の書斎も、薄暗く、よく冷え込んだそうだ。 
その伊東静雄の教え子、庄野潤三が、師からこう助言されたことを小説『前途』の中で書いている、と。(「春のいそぎ」佐伯一麦)

「小説というのは、(略)空想の所産でもなく、また理念をあらわしたものでもなく、手のひらで自分からふれさすった人生の断片をずうっと書き綴って行くものなのですね」
何でもないようなことの中に喜びの種を見つけて、それを書いてゆくのを仕事とした庄野潤三の小説。平穏な日常、家族の幸福こそ注目していた。



ほんのり色づいた馬酔木の花が咲いていた。家族の楽しいお喋り、賑やかな笑い声が聞こえるかしら。

「わが庭の眺め」と題した作品を読み返すと、氏が仕事机で顔を上げると、二月下旬の今なら目の前に侘助がいくつも花を付けているのが見えるとあった。庭のムラサキシキブの枝に牛肉の脂身を詰めたとかごを括り付けておくと、野鳥の中では特に四十雀がこの脂身を好んでやって来るそうで、来ては食べする様子が楽しそうに書いてある。

私の部屋は庫裏の東側にあるが、庫裏全体が軒が深く、さらに東西とも南北に廊下が設けてあるので、東からの陽が部屋の奥まで届くことがない。やっぱり私の部屋も冷え込んでいる。
廊下と部屋の仕切りには障子戸がはまり、庭を眺めるには障子をあければならないが、目の前にはフツーの椿が咲く。その奥に月桂樹があり、今、山茱萸が蕾を膨らませている。いずれも高木だ。通路の向こう奥、おいしい富有柿の木がある。ライラックなんかもあるのだ。

あとなんだろう…、木々が多い中で、丈の低いわずかな草花も咲く。フキノトウが顔をのぞかせていた。球根の芽が出て、茎をのばし始めた。東南の隅では、少し前まで蠟梅がにおっていた。
「春のいそぎ」。広いだけでほんと大したことのない庭にも、春のいそぎは見てとれるわね。

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極楽浄土、鳳凰堂

2020年02月18日 | こんなところ訪ねて
「日が高く昇るにつれて、中堂の前に掘られた池はうららかな陽射しを受け、水面を明るく輝かせていた。大小の魚影が、玉石を敷いた底をちらちらと過(よ)ぎり、澄明な水に繊細な揺らぎを起こす。」


でも今日は残念なことに水がほとんど抜かれており、そこに職人さんたちがしゃがみこんで作業していた。玉石の一つひとつ裏返したり置き直してみたり、石組みを考えているようだった。根気のいる作業だと眺めた池には、カモが数羽泳ぎ、岸辺にコサギが1羽のみ。
定朝作だと断定できる唯一の仏像が宇治の平等院鳳凰堂の阿弥陀如来座像。思いが熱いうちに?、この際ひと目参拝しておこうと足を運んだ。


宇治川の西側(写真の右手)にお堂があり、東を向いて阿弥陀様が配置されている。こちらから見て川向こうを極楽浄土と見立てるのはうなずける。
関白・頼道個人の極楽往生を祈願した私寺の本尊を、と依頼された定朝。「死んだ中務の面影を夢想の中で浮かべ、木材に隠されていた安らかな顔を露わにしていく」


【ぽってりと厚い瞼、それとは裏腹な細い目。おだやかな丸みを描く頬と少し下がった唇。…しなやかな弧を描く眉…】【衣文の隆起を可能な限り整理し、無駄な表情を尽くそぎ落とした。…頭部はやや小さめに作り、像全体に優雅さと軽快さを与える】
【夢見るかのように薄く唇を開き、白い歯をのぞかせていた中務の死に顔。まどろむようなあの風情を出すために、唇の端を少し引き上げ、同時に瞼をわずかに腫れぼったく作る。されど頬は丸く、穏やかに、そう、例えれば満月の如く…】
定朝は、中務が示した真の御仏、【円満具足なこと満つる月の如き、御仏の姿】を映し出す事に専念した。

本尊の前で、板戸に背をあずけて寝ていた定朝が描かれていた。ここら、皆が立って説明を聞きながら見上げている、このあたりでもたれかかって眠っていたのか?…。
宮城を抜け出した中務の死は衝撃だった。目線が合うかなと如来像を見上げていて、仏さまの目は半眼だと思い出した。見開くとすべてが見えてしまう。ありのままに指摘してしまうから半分の目で見よう。半分は見過ごそう、などと聞いたことがあった。人を見るアングルを変えてみる、ってどうだろう。新しい見方が生まれるかもしれない。なんて思ってみたり…。

     極楽いぶかしくば宇治の御寺をうやまへ  (「扶桑略記」)

電車はがらすきだった。それでもマスクを忘れずに…。

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『満つる月の如し』

2020年02月17日 | こんな本も読んでみた
       『満つる月の如し 仏師・定朝』
天皇の外戚としてゆるぎない地位を確立していく藤原道長の栄華の時代。
内供部である僧侶隆範はわずか16歳だった定朝の非凡な才を見出し、後見人となる。二人の絆を軸に定朝を主人公にして物語は進む。

定朝がいくら美しい仏の像をこの世に作り出しても、貧しく生まれついたものは、死ぬまで都大路の塵にまみれ、やがては虫けらの如く死んでいく。「御仏とはどこにおはすのですか」、と定朝は煩悶し続けた。
「真実の御仏の姿とは、人の裡にこそあるのですね」「おそらく人はみな我が身の中に、他人を救おうとする深い慈悲を抱いているのです。ただ愚かな僕たちは、日々の暮らしに汲々とし、それを忘れ去っているだけのこと。この世の地獄にありながらも、御仏は実は人間一人ひとりの裡で、我々を案じて下さっているのでしょう」

完成させた宇治の平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像は、「尊容 満月の如し、美麗なること古今無双」と絶賛。定朝は隆範にひと目この像を見てほしいと願ったが…。道長に排斥された側の物語も絡む中、隆範も定朝も巻き込まれ、東国に左遷された僧侶隆範は実は26年も前に亡くなっていた。
充足感はなかったが、長年ため込んでいたものを出し切った深い空虚感に身をひたす定朝。定朝の「遺骸は火葬され、骨は紫野の上品(じょうぼん)蓮台寺に納められた」。
「まだ真新しい卒塔婆は一叢の薄にも似た軽さで、雪を山頂にいただく叡山を見上げようとするかのように、いつ止むともない北風に揺れ続けていた」、と終わる。


隆範は叡山に眠る。それを思うとこのラストに涙がにじんでならなかった。終章から再度序章に戻って読み返した。奈良仏教に通じる作者、よくこれだけの人物を配し、構想を膨らませるものだと感じ入った。道長の栄華の陰で排斥された者たちのドラマがしみじみと心に残った。

そんなわけで、今日は定朝の墓に参ってみようと思い立った。墓は、東向きの本堂の裏手に回ったところすぐにあって、南面している。叡山は東方向に…。墓碑銘には「日本仏師開山常朝法印」と刻まれている。常朝とあるのは朝廷からのおくり名によったもの。仏師の社会的地位や名誉が公認されるという革新的役割を果たしたという。


2014年4月1日、枝垂れ桜の美しい蓮台寺に参拝したことがあった。


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希望、工夫、感動の3K

2020年02月15日 | 日々の暮らしの中で
孫たちの通う中学校でも小学校でも、インフルエンザによる学級閉鎖が出ているようです。
先週末に孫娘がやってきましたが鼻声でした。案の定、弟にうつったか熱を出したようで、最後に3歳児がもらって発熱です。
11日は祝日、12日になっても熱は下がらずで受診。風邪という診断で、熱は早めに治まりましたが、そういう家に留守番役を頼まれて…。
父親がオーストラリアに戻っているため、母親の外出に動きが取れない。みてほしいと言われれば、うーん…と唸ってみせても、じゃあ行こうかと結局は受けることになってしまいます。
一番の高齢者がまあよう動かせてもらって、くったくた。

      昼間30分ほど近所の公園で遊んで。

夕飯の支度をしていると聞こえてきました。
「何かいい方法がないかなあ」。
母親の帰りを待ちながらレゴやミニカーで一人遊びしていたルーカスです。

孫のこの言葉で思い当たることがあった私。しかし、そこには「何かいい方法」などはないのでした。
初心忘るべからず。【希望、工夫、感動】、逆境を生き抜くには、希望を捨てず、希望実現に工夫を凝らす。励ましや教えのメッセージによくこころを動かす。これが一番大事~かと。
「一生が初心だ」と言い切ったのは世阿弥でしたか。

  
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「雪散華」

2020年02月05日 | 日々の暮らしの中で
日差しがあれば温かな窓辺も、廊下一つ隔てた部屋には陽も届かず、足元や背中で今日の冷え込みをもろに感じていた。
肌を刺すような厳しい冷たさを感じながら小一時間、身体をほぐそうと歩きに出た。
明日はどうだろう、雪は降るだろうか、と期待も少し。
できれば、美しく荘厳するほどに…。


   「雪散華」  99歳で亡くなられた杉本健吉さんの作品。
雪散華、美しい言葉だなと思って。
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「明日春立たむ日」

2020年02月03日 | 日々の暮らしの中で

      真直ぐに行けと冬芽の挙(こぞ)りけり   金箱戈止夫

「明日春立たむとしける日」。
隣の家のも少し西のご近所さんからいただいたキンカンをジャムに煮詰めた匂いが部屋に広がりました。
1キロほどありました。週末に孫娘がオベンキョーにやって来る予定なので、半分持たせて帰らそうか、と。
そして明日は、黒糖を煮詰めて黒蜜づくりです。これも半分は同様に。

3篇のエッセイを今一度手を入れる余地がないかあれこれ読み直しつつ、新たなに1篇を書きたいものの構想が浮かばず、キーワードだけが頼りで、行き詰まったような、ひらめき待ちのような日を過ごしていましたのですが、「おにはー そと」「おにはー そと」の声を聞いていると、悩んでいたエッセイの姿が見えてきたような思いとなりました。
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