京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

 熊野本宮大社へ、ゴール!

2012年05月21日 | 熊野古道(紀伊路・中辺路)を歩く
さわやかな初夏の陽気に恵まれた18・19の両日、念願だった熊野古道(紀伊路・中辺路)を語り部と歩くウオーキングツアーは無事に熊野本宮大社へと達し、終了した。同時に、那智大社と青岸渡寺、那智の滝、熊野速玉大社と合わせて参拝、「熊野三山」への参拝がかなうことになった。

 
  
【上・左はわらじ峠への上り。右は女坂の一部だが、実際は段差の大きい、急な石段をひたすら下った。全行程通して初めて膝に痛みが生じた。まだ早い時間帯だったにもかかわらず、左足を着地させる際、この先が不安になるほどの辛い痛みだった。下・岩上王子への男坂は通行止めのままで別ルートに。明るく豊かな緑を目にしながら先の見えない上りが続いたが、膝の痛みもなく、とにかく一歩を刻み続けるだけだった】

和歌山県ははるかに遠い。交通の便も良いとは言えないし時間もかかる。行ってみたいと思いながらも、はるかに南、その先は海という地の果てまでは面倒だった。絶好の機会と意を決したが、初回は土砂降りの雨の中、2回目には藤白・拝ノ峠という難所が待ちうけていた。おっ、雨で懲りたかと思ったけれど? この険しい山道にはギブアップするではないのか? そこかしこに宿る神は私を試したのか。な~んの、「挑戦」というよりも、1回ごとを楽しんで積み重ねることができた。行き交うたくさんの出会いに心を寄せて、語り部さんの案内を得て知り得たことは多い。

   
    
【上・左から、再びの下り坂を経て 中・湯川王子。 右・この先はこの日三つ目の急な上り坂となり、最もきつく感じた。言葉もなく黙々と三越峠の関所跡まで。ミンミン蝉が鳴いていた。きれいな杉の人工林は、根を張らずに地盤をもろくさせていると語り部さん。樹齢40年の“中途半端”な杉1本は300円にしかならないそうだ。間伐しても、腐るのを待つだけと。崩落現場の間を通ったが、恐ろしさを実感した。山中、かつての熊野銀座街だったか、人家の礎石が多く残っていたし、一升瓶が縁に置かれたまま朽ちつつある廃屋もあった。古い石の流し場、甕、浴槽、覗けば二層式の洗濯機もあると。きれいな田んぼがあった所もすべて杉が植樹されている。右・音無川沿いに下って猪鼻王子へ】
【発心門王子の鳥居をくぐって、いよいよ聖域に入った。勝浦温泉までバスで移動、夜は4人の相部屋を楽しんだ。早くから横になりおしゃべりしているうちに眠ってしまったみたい…。ひどい筋肉痛!】      

静かに、ただ照り返る海の輝きに目を見張った紀伊路は、陶酔の感ありだった。「緑の海」新緑の美しさ、5月の熊野を2度も味わった。濃くて深い緑が幾重にも連なる山並みは、情にさえ訴えかけてくる。息を切らし上りつめていく自分との戦いだったが、座り込んでいつまでも見ていたい眺望が待ち受けていた。黙々と声もなく歩く時、木の葉擦れの音はやさしい風を運んでくれた。


  
  
【19日、朝から温泉に入ろうと、かけておいた目ざましの時刻を上回る早起きになった。最後の一日に限りなく力を与えてくれるかのような日の出を、部屋のベランダから見つめていた。 上、左・朝一番に大門坂はこたえた。どこまで行っても段々道、石段続きだ。中・那智大社へ。右・鳥居をくぐってすぐ隣の西国第一番札所の青岸渡寺。下、左・そこから三重塔とお滝を遠望。その後、那智の滝、熊野速玉大社と参拝して、発心門に戻った。神仏習合の熊野の世界】

古来、多くの人が極楽往生を願い、蘇りを期してひと足づつ踏みしめた熊野詣での道。その上を自分もなぞりながら、常に試され続けていたのかもしれない。かつてない体験は、その1回ごとが非日常で新鮮だった。

  
  
【お昼は、高菜の漬物でくるんだ目を見張るほど大きな「めはり寿司」などのおにぎり弁当。毎回“前田のおばちゃん”の手作りで工夫され、味噌汁付き。おいしく頂いて、上、左・発心門王子を出発。中・水呑王子跡。右・緑に癒されながら伏拝王子を目指す。下、左・果無山脈の眺め。説明板によると、和田ノ森1049m・安堵山1083m・黒尾山1235m・石地力山1140mの連山を呼び、東西に18km、稜線は奈良県境となっているとある。中・右とも伏拝王子からの眺めだが中央は振り返った方向になる。右・中央より少し右寄りの白っぽく見えるところに、本宮大社を望む】
  
【左・三軒茶屋で合流している小辺路。この先は高野山へと続く 中・最後の上り 右・最後の道標は祓戸王子のところ。滝尻王子を1として、500mごとに建つ。山中で事故があった時など、現在地を知らせるのに役立つと】

 
一歩、一歩と、心を凝らして踏みしめながら歩かせてもらった。熊野古道は「触る道」と。素晴らしい体験をさせてもらった語り部さんに感謝。ここまで足を運べたことに感謝。感謝と共にゴールした熊野本宮大社だった。これにて終了…。
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 「じぶんの耳目 じぶんの二本足」で

2012年05月16日 | 熊野古道(紀伊路・中辺路)を歩く
初日18日は那智勝浦町まで移動して一泊する。本宮大社までの7kmの行程は翌日になる。


「熊野三山」は、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の三社に青岸渡寺、補陀洛山寺(ふだらくさんじ)の二寺を加えた総称のこと。神仏習合の聖地熊野を目指す中辺路・大辺路・伊勢路の三つの道が「熊野古道」と言われる。

紀伊山地には熊野古道のほかに、高野山への参詣道・高野山町石道(こうやさんちょういしみち)と、吉野から熊野へ続く「大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)」の二つの信仰の道がある。この三つの霊場とそれらを結ぶ参詣道、そして、その周囲を取り巻く文化的景観が、「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録されている。

この文化的遺産には、「古くから神々が宿るとされてきた山々や川をはじめ、森林景観や棚田、集落など」が含まれているが、1200年以上にわたって遺されてきた信仰の山の伝統を反映しているからだ、と案内のパンフレットにはあった。

「道は一歩一歩あるくものである / 心を凝らして泥を踏みしめて・・・」 旅は生きることなのだから、あらゆる機会をとらえて旅に出ようではないか、そんな立松和平氏の言葉を励みにしてきた。ご自身も目にされた熊野古道を包み込む「緑の海」は、美しく映えていることだろう。最後の行程を楽しみたい。   

かつての御幸にならえば「熊野本宮―速玉大社―熊野那智大社」という参詣の順序はあるようだ。熊野本宮を残したままに、19日は、那智から「大門坂」を歩いて「那智大社・青岸渡寺」への参拝から始まる。そして、バスで「那智の滝」「熊野速玉大社」へ移動。参拝後、改めて発心門王子まで戻る。
さあ、ここで昼食を済ませたら、熊野本宮大社に向かって7km!! 
      発心門王子―「水呑王子」―「伏拝(ふしおがみ)王子」―「三軒茶屋」―「祓戸王子」へ。上皇たちはここで旅装を解き、旅の汚れを清めるために潔斎した。「熊野本宮大社」はもう目と鼻の先、あと3分! 大鳥居も間近に…。

はやる気持ちを抑えてゴールするのだろうか。足掛け3年!熊野古道ウォーキングツアーはここで終わる。・・・はず。自分の中で何をどう落ち着かせようとするだろう。

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 時機を待つ 

2012年05月14日 | 熊野古道(紀伊路・中辺路)を歩く

柔らかな雨を受けて、どのような花を咲かせてくれるのか。咲き急がないでほしい。さりげないたたずまいで時機を待つ、この蕾のままの姿でしばらくは眺めていたいと思える。愛おしいではないの!? 何気ないものは心地よく、気持ちの安らぎが生まれてくる。

2010年10月に第1回目が始まった。途中、台風やTyler誕生という出来事で中断もあって、結局二年半余という時間がかってしまった熊野古道ウォーキングツアー。最終回を目前にしてプレッシャーもあるが、それとは別に、漠然と自分の姿や心の内を思い描くし、心の奥深い所ではわくわくして仕方ないものさえ感じている。

前回の到着地「小広王子」から出発する18日の行程を、神坂次郎氏の著書『藤原定家の熊野御幸』などを参考にたどってみた。

出発後、「小半時がかりで草鞋(わらじ)峠をのぼりつめ」る。「かと思うと、次は谷底に転げこむような曲折の多い女(め)坂をまた小半時かけてくだり」仲人茶屋跡に出る。栃の河を渡ると、「その向こうには熊野街道最大の難所と言われる男(お)坂の険、岩神峠が待ちうけている」「小広峠と同じく、頭上から蛭が落ちてくるので蛭降峠八十丁と恐れられた」道で、のぼりつめると「岩上王子」だ。

そして、つづら折れの坂を谷川に沿って下っていくと「湯川王子」にでる。が、下って終わりではない。この日3つ目の急な登り坂を20分ほどかけて三越(みこし)峠へ向かう。ここは口熊野と奥熊野の境になるのだとか。登ってしまったから、下らなくてなはらない。左右を山に挟まれた深い谷あいの急な坂道を下って下って小一時間かけて、「猪鼻王子」に。
ここを過ぎれば、15分ほどで五躰王子の一つ・「発心門王子社」で、この日のゴール地となる。

土地の古老が「ホシンボ」と呼ぶ発心門は「聖域へ入る入口の門」。なんとしてもこの鳥居をくぐりたい~。どんな気持ちになるだろう。

ここから熊野本宮大社までは、なだらかな下り坂が中心で歩きやすく整備されていると説明されているが、翌19日の行程になる。
ギブアップ、…寸前、ということはなかった。が、重くなった足でバスに乗り込み、どっかと腰を下ろした回はあった。帰途、爆睡しない回はなかった。がに股歩きを余儀なくさせられたことがあった。でも、もう行きたくないと思ったことはなかった。
がんばろ~っと!!楽しみだ。これまでと変わることなく過ごそう。
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 しっとりとやわらかな春

2012年04月22日 | 熊野古道(紀伊路・中辺路)を歩く
目覚めも上々、すっくり起き上がって窓を開けた。黒い雲がかかっていたが、雨は上がっていた。家を出る頃には明るさも感じられ、雨は免れそうな予感でいっぱいになる。
21日、牛馬童子口から牛馬童子像を経て近露王子ー比曾原王子ー継桜王子ーとがの木茶屋ー野中の清水―中川王子ー小広王子へと、8.5kmの古道を辿った。


京都の城南宮で5日~10日のお籠りで潔斎したあと、先達がホラ貝を吹きながら熊野へと出発した。かつての御幸では、800人ほどの一行が2mの間隔で歩いたそうだから、1600mから2000mに及ぶ白装束の行列の想像は今なら相当に異形なものとして映る。先達としての定家の苦労は読み知れるが、徒歩で詣でる女官達の悲鳴も聞こえてきそうだ。

 

定家が、西行も一遍も芭蕉も歩いた道の上を、自分も歩いているのだ。雨でないに越したことはないが、もうどちらでもいいような…、残り僅かになった行程だから大切に歩こうと思っていた。一歩一歩踏みしめて歩こうと思った。長かったが、ようやくここまで来て念願の一つだった牛馬童子の姿との対面がかなった。訪れる人の足元に小さく…。悲劇の若者がこんな人気の少ない山中に佇んだままというのも、なにやら物悲しさが上乗せされそうだ。

 
 
「秀衡桜」が咲いているのか、すでに葉桜か、楽しみだった。むろん「伝説」上の秀衡桜だが、ヒノキに桜を継いだものだという。
見事な幹は折れ曲がっていた。台風でやられたという。が、その脇から4代目の細い幹が枝葉を広げていた。


山桜の淡さ、八重の濃いピンク、カエデの新緑、スイセンがみられレンギョウに、山つつじも鮮やかだ。昨年の4月には、きらめく海の美しさに酔うほどだったし、桜も満開で青空のもと見事な春を満喫した。今回は霧雨も午後から加わってか、柔らかな春の色合いを楽しめる、ひっそりと清かな空気に包まれていた。吹き抜ける風がどこまでも心地よい。異性を求めているというウグイスの鳴き声に耳を傾け、雨に煙る幾重もの山並に感動しながら、何度もシャッターを押していた。

14473歩、素敵な風景に出会えた一日となった。
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 山道の趣

2012年03月25日 | 熊野古道(紀伊路・中辺路)を歩く
目覚まし時計は5時にセットしたが、朝4時に目が覚めた。「降ってない!」布団に潜ったまましばらくじっと外の気配を窺っていたが静かだった。雨は上がっているらしかった。起き出してみるとなんとも温かだ。やったね~って感じだったなあ。


参加者26名。前回のゴール地点・高原霧の里休憩所で早目のおにぎり弁当をいただき11時45分出発。

 
 
大門王子への道。この辺り、高原集落は宿場町として栄えたという。宿の跡もあったが、一里塚の横に残る廃屋は語り部さんの友人が建てたものだそうだ。民家にあったらしい庭木が巨木に成長していた。片側斜面にはかつて田畑が広がっていたというが、その面影はなく人工林ばかりだ。間引かれた木々は苔蒸している。朱の社殿が見えてきた。定家はこの付近の山中で1泊したそうな。


 
木洩れ日の美しさをしばし感じながら、片側が崖になっている道をただひたすら、一歩一歩登って行くばかりの道が続く。このあたりでも以前には民家があったという。行き倒れになった人を供養したものだというお地蔵さんは、口に小判をくわえているように見える。
山並みを眺める時間もなく通り過ぎる。慌てて撮った写真はピンボケだが、実際目にした山は幾重にも重なる美しさであった。帽子が吹き飛ばされそうな強風は、うっすら汗をかいた身体の芯まで沁みる冷たさだった。

                    
             
上多和茶屋跡付近に立つ道標に従って、左手から段差の大きな下り道が続く。一気に大坂本王子まで下る。どんどん下る。が、ここからは河原から集めた石で後世に作ったという石畳が敷かれていた。大きな段差をゆっくりと足を下ろすのだが、トレッキングシューズを履いていてもキュッと一瞬滑る。慎重に足の着地場所を求めていかなくてはならない。湧き出る水が石を濡らしている。小さな悲鳴が何度となく響いたが、人の事に関わってもいられず、自分の事だけで精いっぱいの感だ。脇は崖の道、やがて大きな川音を耳にしながら川沿いを下って行く。どんどん下る。写真などとる余裕もなく、大方下を向いて適度な間隔を取りながら前の人に付いて行った。

牛馬童子口、道の駅に出た。ゴールだ。13116歩。疲れた…。「どーもない」と言う人との違いはなんなんだろう…。

 
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 雨の予報に

2012年03月22日 | 熊野古道(紀伊路・中辺路)を歩く

熊野古道を歩いてみたいと思い続け、その夢をかなえようと一歩を踏み出したのが2010年10月3日だった。

この第1回目は、現地到着後語り部さんを囲んで皆でストレッチなどしているうちから雨がポツポツし始めた。「あー、降ってきちゃったな…」と思ったものの、終日いっこうに苦にはならなかった。徐々に雨脚は強まり、やがては雷を伴って激しさを増した雨中の行進というふうだったのに。雨は覚悟のおよそ16㎞のコースだった。
こうして少し振り返ってみても、まあまあなんと楽しい思い出になっていることか。ちょっと胸熱くなりかけてあの日が蘇る。以後まったく雨とは縁が切れ、順調に回を重ねてきた。

が、再びここにきて、どうやら今週末は危ない。明日午後遅くからは紀伊半島でも激しく降りそうな予報が出ていた。たっぷり浸み込んだ上に翌朝も雨だろう。

24日土曜日、12回目の熊野行きはこちらでも雨降りの朝を迎えそうだ。
今回、牛馬童子口まで約8kmの道は、このルートの最高地点・上多和(うわだわ)茶屋跡まで5・3kmほどの長い登り坂が続く。ここを過ぎると大坂本(おおさかもと)王子に向けての40分は一気に下っていく。その後15分も歩けば牛馬童子口に到着だ、雨は止んでいるだろうか。

登るも下るも滑る石畳には要注意、足元が悪い。雨には雨のよさがある、だが、山の向こうに山山山、果てしない果無山脈の眺望が煙ってしまうとしたら、やはりちょっぴり惜しまれよう…。

リュックにかぶせるザックカバーを買ってきた。
杖も雨合羽も用意した。靴や靴下の替え、場合によってはズボンの替えもと考えている。

手抜きをせずに周到に準備して、楽しい熊野ウオークにしないといけない。遠い将来振り返ったときに絶対に楽しい思い出として残るはずなのだから!!
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 「御山に入る」

2012年02月19日 | 熊野古道(紀伊路・中辺路)を歩く
稲葉根王子から清姫の墓に至る第10回目のコースを終えたのは昨年7月2日だった。11回目を目前にした9月、台風12号の“やまない雨”が紀伊半島に大災害をもたらした。田辺から先、熊野本宮大社への国道311号線にも土砂災害が起き、数か所で通行止めになった。あれから5か月を経たが、その時の爪痕はいまだに残されたままだった。

2月18日は雪の朝だった。
参加者は21名。京都駅八条口を7時50分出発、予定通りほぼ3時間で清姫の墓に到着した。

そばを流れる富田川は、水垢離をして現世の不浄を清める神聖な川とされていた。大きな石が流域に転がり、荒れた様子が感じられる。氾濫したという。そして、ここ清姫の墓から滝尻王子まで約2.3kmは、バスでの通過に変更された。途中、道路わきに大崩落の跡が残っているからだった。高さもある斜面には巨岩がごろごろ姿を見せており、今にも落ちてきそうな恐ろしさだった。


まずは昼食。その後滝尻王子を出発した。熊野の聖域の入り口「中辺路(なかへち)」、「へち」とは縁-へり(辺)・端 といった意味で、山のへちを通っていく道といった意味になる。
 
 
熊野九十九王子の中で別格とされた格式ある五体王子の一つだった滝尻王子。社殿は難を逃れたが、ここにも傍を流れる富田川の水は押し寄せた。社殿の裏手からいよいよスタート…。



1km以上続く石段や木の根の道を杖をつき、息を喘ぎあえぎ登っていく。語り部さんの「六根清浄」に続き「懺悔(さんげ)さんげ~」を唱えながら進む。ときどき竹で作った手製の“ホラ貝”の音が山に響く。これは、獣たちに人間が近づいていることを教えてもいるのだそうな。

とにかく登った。乳岩・不寝(ねず)王子を超え、剣ノ山、飯盛(めしもり)山の展望台へ。
最後にもう一度、厳しい上り道が…。
高原(たかはら)の集落を遠望し、朝6時頃から降り出したという雪が社殿の屋根に残るゴールの高原熊野神社を目指す。時折白いものが舞うのは、この地にしては珍しいと言える一日だったようだ。


「文化は山の上から来た」と。都人が行き来する熊野古道も、土地の人々にとっては最短で一番便利な生活道路でもあったという。山の上にあった雅な文化の香りは、地元の生活にも運び込まれていたのだろう。
今後今日以上のきつい上りはない、そう言い切る語り部さんだった。でも次回は距離が長いから…。
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 「わが躰の足腰…」

2012年02月14日 | 熊野古道(紀伊路・中辺路)を歩く

朝からの雨降りで薄暗い中を起き出したが、股関節が痛かった。これは困ったことになった。

昨日今日と二日続きの雨が予想されていたので、昨日は早めに歩きに出た。
今週末は熊野古道ウォーキング11回目の当日だ。今ここにきて無理に頑張るのはやめようと、頭のどこかでチラッと思って歩き始めたことは記憶している。ところが、最近は比較的快調だったことが禍した。少しやり過ぎてしまったようだ。朝からそれを悔いる羽目になった。

今回は「清姫の墓」からがスタートとなり、まずは熊野聖域の入り口とされる「滝尻王子」までの約2.3kmを40分ほどかけて歩き始める。そして、滝尻王子から「高原熊野神社」「高原霧の里」へと至る。

雨で足慣らしも出来ず、『藤原定家の熊野御幸』のページを繰っていた。
記録によると、定家は、鼻先をすすり上げるような急峻な山坂を、匍(は)うようにして滝尻王子に辿りついている。宿所には転げ込み、歩く力も気力も萎え果て、泣く余力さえなかったという。眠気にとらわれいびきをかきならしていると、後鳥羽院の気まぐれで夜中に歌会が催されることになったりと、大変な思いをしての熊野御幸の供奉だったことを教えられる。
供を命じられ「面目過分」と言いながら、わが躰の足腰の脆弱さを案じ困惑したというから、気の毒な…。定家40歳、後鳥羽院21歳。

行く手の苦しみが大きければ大きいほど末世の苦しみが少なくなるという熊野への道。熊野への道は迂回を知らない。目的に向かって一筋に突き進んでいく。そこに山があり川があろうとも頓着しない。
のだそうだ。進めー!

幸いにも今日は休養日となった。もう無理するのはやめだ。
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 「ろーっこんしょーじょ・さ~~んげ さんげ~」

2011年07月03日 | 熊野古道(紀伊路・中辺路)を歩く
   「ろ―っこん しょ―じょう  ろ―っこん しょ―じょ」
   「さ~~~んげ さんげ~ぇ」
   「ろ―っこん しょ―じょう  ろっ―こん しょ―じょ」
   「さ~~~んげ さんげ~ぇ」

    いよいよ山中へ
         「さ~んげさんげ」
              一歩!一歩!
急な山道がコース最後に待っていた。細い道を一列になって、語り部さんの「ろっこんしょうじょう」につづき「さんげさんげ」と唱えながら登る体験をした。お腹の底からしっかり声を出すことが、険しい山道を進むときのリズムになることを身を持って知った。一歩一歩の歩みと確かに重なる。力になる。
語り部さんのキーの高い声が山内に響く。なにやら楽しく嬉しく、おしゃべりしながらの余裕などはないが、応じて声を出すことが全くつらくはない。
道はそれなりに登りであった。汗が流れ落ちる。
石仏の前で時どき休憩。
のどを潤し、笑いが出るほどの説明を聞きながら不思議と気持ちのゆとりも生じてくるのだった。

仏教で説くところの眼耳鼻舌身意の六感覚がある。
「ろっこん しょーじょー」(お釈迦様の教えに従って六根を清浄してますか?)
「さ~~んげ さんげ~」(どれひとつとっても懺悔 懺悔です) 特に食べることが…です…? と唱え歩いているのだ。(仏教は「さんげ」キリスト教では「ざんげ」)

語り部さん曰く「こんなのは平坦な道です。坂とは言いません」 そして、「登るとは…」と手首から先を90度近くに曲げてみせる。
山伏の修行を積んでおられるという今日の語り部さん。初対面のときから、なんせ声がでかい!なんて大きな声で喋るのかと圧倒されたが、力強く良く通る声でもあった。それもそのはずだった。

             ゴール間近のつり橋
しっかり山道を踏みしめて、あっという間の10、3キロ・16987歩の一日は、熊野本宮大社参拝に気持ちをグッと前に向かせた。
これも得がたい出会いをいただいたおかげだろう。
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 心を凝らして一歩一歩

2011年06月06日 | 熊野古道(紀伊路・中辺路)を歩く
海沿いを南下してきた一行が潮に身をひたす最後の潮垢離を済ませたのが前回に寄った「出立の浜」だった。ここから中辺路・大辺路が分岐する。熊野本宮を目指し、山道を行く中辺路の入り口に当たる田辺は「口熊野」と呼ばれる。

熊楠の墓がある高山寺を出発し、秋津王子-須佐神社-万呂王子-三栖廃寺塔跡-三栖王子-八上王子-田中神社-稲葉根王子 と辿る9回目のコースも無事完歩することができた。

                 
   「あの(奥)右手の山に突き進めば本宮大社があります」       
   背中に牛馬童子の語り部さんの言葉に、そうか、いよいよか…と、ちょっぴり感動。

【日本人は縄文人と弥生人に分けて考えると理解しやすい。地域的にも縄文地域と弥生地域に分かれるのではないか。そして、熊野は近畿の中でももっとも縄文文化の面影をとどめる地域であり、中世の熊野崇拝も、人々のひそかな「縄文文化への復帰を願う日本人の潜在意識」ではないかと言われる。】
田辺聖子さんは、“熊野学”の第一人者として梅原猛氏(『日本の原郷 熊野』)をあげられ、その著書を通してこう語られている。

― のだけれど、だ。
神の子を祀った「九十九王子」が見守る地・熊野。クマノは神の坐すところ…。
9回歩き通して…どこまでそうしたことを体感しえただろうか。これから何か得られるものがあるのだろうか。何もなく終わるのか。何を求めて歩いているのだろうか…、様々なことが頭をよぎるようになってきている。「常世の国に迷い込んだような気分」か、さて、…。 


 
   須佐神社               三栖廃寺塔跡             三栖王子 
  
   八上神社              西行の歌碑              稲葉根王子
  
濃緑の山が待ちうけ、川も水田も輝き心地よい風が吹き渡る。鬱蒼とした山道に咲く小さく美しいつくりの白い花の群生…、急坂もべたつく汗も含めてすべてが私を喜ばせ気分よくさせてくれた一日だった。
神も仏がいるのだろう、か…。と、またまた…。

  
 
この先は写真どころではなくて
「心を凝らして泥を踏みしめていけば、路傍の花や虫の小さな世界も見える。
行き交う人と感情を共有することもできる。道は一歩一歩あるくものである」
この立松和平氏の言葉はあらゆる面での支えになっている。

車道脇に視野に入った水門には驚いた。今も閉められると言う。
富田川に架かった潜水橋(沈下橋)というものも始めて見た。一見簡素に見えた、欄干がなく水面からの高さも低い黒っぽい橋だった。

               
口熊野の終着地・稲葉根王子のそばを流れる富田川沿いにある水垢離場跡。熊野へ!の前に、ここで現世の不浄を清める神聖な川に身を浸したのだ。変化の多いコースに満足して、17371歩だった。

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 紀伊路最後に、「預かり物」を目に

2011年05月08日 | 熊野古道(紀伊路・中辺路)を歩く
黄緑色のブロッコリーのごとき若葉の盛り上がり、一方には常緑樹の深さと、行く手前方に広がる山並みはまこと豊かな緑色を示していた。順調にバスは進む。その両側に、みかんの花が咲いているだろうかと期待したが、当ては外れた。
七日、これで海とはお別れ、そんな声も漏れ聞こえた最後の紀伊路を歩いてきた。19006歩だった。

 
ソテツを遠目にしたり 鈴なりの梅の傍を通り過ぎる。          芳養王子
    
芳養(はや)王子にあったムクロジの木の下で、ムクロジの実を。
振るとカラカラと音立てるが、丸い黒い塊が入っていて羽子板の羽子に使われるのだと教えられた。周りは石鹸になるのだと。
牛の鼻、目良漁港を過ぎ天神崎へと向かう。

                 
   
      
日本のナショナルトラスト発祥の地。ナショナルトラスト運動とは、(和歌山県の観光情報によると…)美しい自然や歴史的建造物を市民の寄付金で買い取り保存して行く運動だとある。日本語訳をするなら「みんなの大事な預かり者」だという。13haもの広い平らな岩礁が広がる。
これほど潮がひいたのを見たのは初めてだと語り部さん。白く見えるのは貝だ。

 
潮垢離浜の記念碑。熊野に詣でる人々はここで潮に身を浸し穢れを祓ったとされる。いよいよ山また山の中辺路へと向かう前の最後の潮垢離で、出立の浜であった。出立王子に。

 
高山寺山門をくぐり、長い階段を上りつめたところに眠る南方熊楠に、そっと手を合わせてきた。 
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 山また山…の、その前に

2011年05月06日 | 熊野古道(紀伊路・中辺路)を歩く
                 
   「熊野へ参るには   紀路と伊勢路のどれ近し どれ遠し
  広大慈悲の道なれば  紀路も伊勢路も遠からず」

『梁塵秘抄』にある、熊野をうたう今様。紀路は京から舟で淀川を難波まで、そして泉・紀の国の海岸伝いに南下して、中辺路(今の田辺市)から本宮へと参る道。伊勢路は京から伊勢へ出て、新宮に至るものである。

熊野までははるばる山川八十里と。
   「熊野へ参らむと思へども   徒歩(かち)より参れば道遠し   すぐれて 山さびし
   馬にて参れば苦行ならず   空より参らむ 羽賜(た)べ 若(じゃく)王子」

歩いて行くのはしんどいし、馬で詣るのでは苦行になるまい。羽を下さい… 。

一度歩いてみたい、そう思い続けてついにそのチャンスを得た蟻の熊野詣。明日は紀伊路最後となる8回目だ。田辺市にある南方熊楠が眠る高山寺までの11.5kmを、ずっと海沿いに歩く。
「広大慈悲の道なれば」… 一遍上人や西行、芭蕉も寂聴さんも歩いた中辺路の道へ、一歩近づきたいものだ。
楽しんで歩けたら言うことないのだけれど。
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 シャンとして~

2011年04月07日 | 熊野古道(紀伊路・中辺路)を歩く
この桜の季節に「つわぶき」の話もないものですが、先日2日に熊野古道のウォークキング途上で小さなひと株を頂戴いたしました。

              
昨年2回目の11月、丁石地蔵に癒されながら長い長い上りが続く藤白坂を越えました。
晩秋の峠道、枯れてベージュ色になった道沿いの斜面には艶のある葉が小さな塊でいたるところで目に付いたものです。「艶葉蕗」つわぶきは、短い花茎を伸ばして花を咲かせていたりいなかったりでしたが、ここを歩いた記念に欲しい!と思ったのでした。

以来、何度も我慢に我慢を重ね、まずいよな~、今回もあきらめよう…という心境を繰り返してきました。ですがこの度、とうとう念願をかなえました。ホンのささやかに手に入れたのは、海からは少し内地へと入った南部(みなべ)峠の緩やかな下り坂ででした。

美しく咲く桜の枝を折ってはいけないこと、ちゃ~んと知っております。
二度と歩かないかもしれない道々の思いでに大事にしますでね、許してたもれ~~。
 地に植えましたがまだシャンとしてくれませんようです…。



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 竜宮浄土

2011年04月05日 | 熊野古道(紀伊路・中辺路)を歩く
           
 ♪ 助けた亀に連れられて…
この度の熊野行きでは、三鍋町の千里の浜が海がめの産卵地だと知った。

親孝行な浦島は魚を取って両親を養っていた。ある日、亀を一つ釣りに出ると、はるか海上に「美しき女房只ひとり波にゆられて」いる小舟が見える。そば近くにやって来たので尋ねると、「暴風に遭い、多くは海にはねられ、自分は心ある人がこの舟に乗せて放してくれた。波のままにここまで来たが、本国へ送って欲しい」と言って頼む。
親切な浦島は憐れんで、同じ舟で漕いで行くと女の故郷に着いた。そこは立派な建物で、言われるままに夫婦となって何不足なく住み始めるといった筋書きだ。

              
中世のお伽草紙の『浦島太郎』は、玉手箱を開ける民間の「浦島太郎」とは異なって、結末は海のかなた竜宮城で成仏得道の縁を受け、仏の位になって鶴になり「七千年と申す天にあがり給ふ」 ~となる。

白銀の築地に黄金の甍をならべ、四方に四季の草木を配してあるという竜宮城、まさにこの世のものとも思えぬ御殿だ。無常観漂う中世の人々は、老いることもなく、満ち足りて暮らす竜宮浄土を夢にも憧れたということになるのだろう。

穏やかな海に、たくさんの幸せがあることを思いたい。

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 大小さまざまな

2011年04月04日 | 熊野古道(紀伊路・中辺路)を歩く

「さざれ石」とは「細石」と書いて「小さい石・小石」の意。  (写真は両面から見て。約13cm・500g)

♪さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで …と、「君が代」の歌詞を思い起こす。
 「大小さまざまな石が集まって頑強な巌となっている様子は、国民が心ひとつに力を合わせ、末永く栄え行く国の姿を現している」
そんな大きな「さざれ石」なら護王神社や下鴨神社でも見ることができる。

              
先日2日、和歌山県の千里の浜で語り部さんに教えられた「さざれ石」。
いくつもの小石がひとつに固まったものだと言って、手のひらに乗るサイズの見本を見せられた。探してみてくださいと言われるが、ありそうでなかなか見つからない。「カニさんでもいないの?」「ワカメはないの?」って誰かの声もする。

What’s this?  これってホンマにさざれ石? 。
手のひらサイズが、さらに年月をかけてこれほどまで成長したということだろうか。では、いったいどうやって小石がくっついているのだろう。

思えば、今はまさに国のあり様が一人ひとりに問われている。小さな力を束ねていくものは…。
でもやはり気になるのはリュックに入れて持ち帰った石だ。これは「さざれ石」と言って正解ですか?
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