「『等伯』を読んでごらんなさい」
この言葉は、2015年度の高野山夏季大学に参加した折の、帰りのバスで隣り合わせた方から頂いたものだった。
娘家族との同居をやめて介護施設に入居し、82歳になったと言われていた。
「毎年お山にお別れに来るのだけれど、帰るときは来年も来れそうな気になるんですよ」
「帰ったら次は出光美術館に行くことが今一番の楽しみ」、とされていた。そして、ここに来る前に『等伯』を読み終えてきたということだった。
東京駅に娘さんが出迎えてくれるとかで、新大阪駅で別れた。
思い出とともに、冒頭の言葉を心のどこかにとどめ置いたまま8年も経って、ようやく実現した。感想など言葉を交わすことができたらどんなに嬉しいことか。読み終えて、静かに充ちたものを感じている。
〈思わず夢中になりました〉
これまでの読書週間の標語のなかに、こんな一文があったのではなかったかな。
信春(等伯)は33歳で上洛した。能登七尾ではすでに絵仏師として一家をなしていたが、狩野永徳と肩を並べるような絵師になりたい思いをたぎらせていた。
11歳の時に染物屋の長谷川家に養子に出されたが、生まれた実家は畠山家に仕える筋だったので鍛えられ、腕もたった。
最大の美質は「愚直なまでの粘り強さ」で、「本質を見極めようとする生真面目さがあった」と描かれた。生来の負けん気と、絵師の性に駆り立てられ、そのために手痛い失敗もする。
「絵師は求道者や、この世の名利に目がくらんだらあかん」五摂家のトップ、近衛前久はこう諭していた。
有力な多くの理解者を得て結びつき、人が人を、縁が縁を呼んでいく。それがゆえに政争にも巻き込まれるのだが、長い流浪の日々に、本能寺の変が運命を変えた。
大徳寺三門に描いた壁画は称賛を浴びる。狩野派、永徳とのとの確執は深まるばかりで、26歳の息子・久蔵もそうした中で命を落とすことになった。
秀吉との勝負から生まれた「松林図」。ラストに向けて、特に下巻からはペースよく読み終えた。
時に注釈的な説明を加えながら、文章はわかりやすい、読みやすい。読み始めるうちに〈思わず夢中になりました〉。そして〈ちょっと夜ふかし〉も。
ただ、例えば澤田瞳子さんの『与楽の飯』で感じたような、大仏造立の労役にあたる役夫たちと一緒に怒り悲しみながら、彼らの息遣いまで聞くように心熱くして読むような感覚には至らなかった。
だが〈思わず夢中になりまし〉て、ストーリーを追ったのだった、
本法寺に参った等伯の墓には、二人の妻の名と息子の名が刻まれていた。