京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

良薬は口に苦し・・・?

2009年03月31日 | こんな本も読んでみた
かつては文学を“人生の意味を考える道具”ともしていたものだ。

「この作家、○○の思想は」という話をよくした。教養のためにと見栄を張り、わかりもしない内容に手を広げたこともあった。今、「正しい生き方」などといったものは消えかかり、小説や文学にも求めなくなっている時代なのか、読みたいから読む傾向に移行していると聞く。だから、「私の好きな倉橋由美子作品ベストスリーは」という表現にもなるのだろう。

女性の視点、文章表現には相当な関心を持ち続けた私だが、文庫本で手に入れた嬉しい一冊が、『あたりまえのこと』倉橋由美子著(朝日文庫)だ。ここ数日間のおこもり中に、痛快さとともに毒舌気味の批評を楽しんだ。「小説論ノート」「小説を楽しむために」の二部立てになっている。前半は1977~1979にかけて発表されているもの。

バッサリ切り捨て、あんまりでしょ!、言い過ぎ?とさえ感じるするどさ。
「耳が痛いどころか、中耳炎をおこしかねないほどきつい、しかし、まっとうな意見が地雷のように埋め込まれている、読みようによっては……」と解説者。

「ある児童文学が評判になっている。……私にとって…蕁麻疹(じんましん)が出る鯖と同じ…」
「文章の巧みさということ」の項目では、
哲学者、西田幾太郎の文章を「ほとんど寝言」、吉川幸次郎のそれを「音痴の人の歌を思わせる文章」と評してしまう。

「外から押し付けられた権威づけという曇り眼鏡をむしりとってくれる力があります。」
「倉橋由美子の放つ毒が、実のところ大変な良薬であること」を私なりにも実感。
お暇ならぜひご一読を。
 
残念なことは、筆者ご自身が「小説以外の文章を書くことも発表することも、これをもって最後といたします」と明言されていること。そして2005年没。
若い頃からの大ファンのひとりでもあったのに……。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まずは前に一歩

2009年03月30日 | 日々の暮らしの中で
陽春の日ざしの中で、のんびりと何もしないで寝っころがっていたら、なんて素晴らしい時間になるだろう―。
雪柳がやさしくそのひと枝ひと枝を風に揺らしている京都御苑内のベンチに腰を下ろして、日向ぼっこを決め込んだ。

なぜか原稿用紙に向かう気持ちが後退してしまった。「疲れた!」、それだけの理由で手を抜くこともいいかと小休止。一日延ばしにする理由だった。

やれば今できる(だろう)こと、言えば今言える(だろう)こと……。けれども、今でなくてもと思う気持ちがそれをのびのびにさせてしまって、機会を逃してしまう。ためらう気持ちが前に進む力を鈍らせる。どこかで踏ん切りをつけねばならない。なのに、なんか気持ちが向かわない。このどうどうめぐりを断ち切りたい。

「生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける」と、紀貫之が書いている。
あらゆる命が目を覚まし、この世の春の色づきの中でおもいおもいの声で歌い出す。なんでいつまでもくすぶっておられようか……。
自分の「今」を、せめて自分が満足する状態に近づけたい。

まずはとにかく始めよう。

コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おばちゃんの世間話に潜むもの

2009年03月23日 | 日々の暮らしの中で
暖かくなるにつれてご近所のおば(あ)ちゃんたちの口元も緩み、それぞれ世間話のネタの一つも抱え集まって見える。昼までの1・2時間、井戸端会議に花が咲く。

どれもに「情」・こころの働きがあり、中には偏見に満ちたものや独善的なものもあったりするが、皆の納得・肯定・主張の上塗り…で膨れ上がる。しかし、ここに「情報」があるのだから面白い。
様々な人生や体験をバックにした極めて人間らしい主観的な判断があり、また、一人の人間としての個人的な価値観やものの見方などが潜在しているのに気づかされるのだ。

いずれにしても……、
経験や体験の違いから発せられる感情の向こうに、思いやりのかけらを拾ったりできないだろうか。言葉だけにとらわれず、その向こうにぼんやりでも透けて見える感情を見逃さないようにしようと思う。
一人の人間としての心を感じられるということは、それによって自分の個性も豊かになるというもの。

『生きとし生けるもの いづれか歌をよまざりける』

誰もがめいめいの関心の世界を持って歌いあげている。

   ありさんあつまれ あいうえお
   かにさんかさこそ かきくけこ
   さかだちさかさま さしすせそ
   ……
ただ今、Jessieの関心の世界。
母親のあとについて真似て、誉められ大喜び。クリアーまぢかか?。

 (写真:お行儀悪くてごめんなさい、オベンキョーチューなの)
コメント (9)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

花と面白さと珍しさと

2009年03月21日 | JESSICAの日本滞在記
           

世阿弥の『風姿花伝』の中で、「花と、面白さと、珍しさと、これ三つは、同じ心なり」と言っている。
  「花」:美しさや巧みさ  「面白さ」:心を魅かれるもの  
  「珍しさ」:新しいこと

公園での遊びも、枯れ木を拾って振り回し蛇の皮をつまんで見せることも、日向ぼっこの小石を積み重ね「のどが渇いた~?」と水をやることも、すべてが生活のひとこま、人生だ。何を思ったのか、サンタさんにもらったネックレスでお洒落心を発揮。
小さなピンクの花をつけた草花の先っぽをつまみ切り、水に挿す生活感。

大人たちの退屈なおしゃべりに、しかめつらの競演に、まだ不完全な優しさの表現で新しい笑いを巻き起こす。
どれもこれもが3歳児Jessieの関心の世界、生きることそのものに思える。

私たちは似た者同士。
何の変哲もないものに新しい命を吹き込み活かす名人のようだ。一方は、何ものにもとらわれない創造力で、一方は豊かな知恵で。
馬鹿さ加減も二人は同じくらいで、負けん気でお天気屋で、二つの目にはあふれる好奇心、たまに皮肉を吐き散らし、首をかしげてニコッと笑って収めてしまう。
    新鮮な発想と、まじめでひたむきな姿勢まで。

「Jessie~~、何しているの~?」
「てつがくしているの~」
目は外を向いている。けれども、心は内を向いている。「クレヨンしんちゃん」相手に正座をし、思索にふけるJessie。

ああ、まことに美しき者、面白き者、珍しき者Jessie.。
こうなると “似た者同士の私たち”二人は、何やらの真髄にかなうものなのかしら……。

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

押しやられる市民権

2009年03月19日 | 日々の暮らしの中で


現在は京都府立盲学校と聾学校に分離したが、前身の、日本最初の障害のある子どもたちが学ぶ場として誕生した「京都盲唖院」が今年百三十年を迎えた。
「教育によってこそ、人は等しく貴い存在になれる」と説く初代院長。

電話を発明したベルやヘレンケラーも視察に訪れていて世界的に注目を集めてきたという。
卒業生たちは各地で同種の学校設立に尽力するほか、点字出版にも携わったり、仲間の社会参加を後押しするなどして障害者福祉の基礎を築き、現在へと続いている。
当時の町衆の教育熱は高かったらしい。その中から初代院長を支える人物も出たという。
「自立と社会参加」の理念は変わっていないと。

そんな卒業生の一人が立ち上げた活動が三十年近くに渡って続く。人が変わり、手段を変え、活動内容を見直しながら継続されてきている。

総会があった。

『点字拡大文字メニューについて、実質「利用者が少ないから」という理由で、数の論理で活動が鈍りがちになっている。「点字の市民権」を得ていく初期の目的を遠のかせている。
飲食店側は、視覚障害者が客、一消費者であることをしっかり認識しているのか?
理念の上での理解だけで止まり、正当に受け入れようとしているのかまだまだ疑問がちである。

一つの枠の中にちがった存在があるとき、それを抱合していこうとすると余分なエネルギーが必要となる。一つの異物として片隅に追いやっておくことの方がエネルギーとしては少なくて済む。この違った存在を混ぜ合わせることが真に正当だと思うのであれば、当然一定の時間とエネルギーは必要となる。私は個々人がこの理念と現実のはざまを、どのように向かい合って問いかけてもらえるのかを問いたい』

とは、会の代表の思いの一部。私はここで少なからず学ばせてもらっている。
数の論理で、「点字メニュー」に関しては「点字」の市民権が押しやられようとしている。
あって当たり前、この論理は無理なのか。使われないから無駄なのか?
「点字」は視覚障害者にとって様々な情報をえるための文字でもある。

手段を変えることも視野に入れ模索が続く……。
「音声」という手段だが……

コメント (17)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

試食、それは主婦の鏡?

2009年03月18日 | 日々の暮らしの中で


   試食して 買わされたら それは敗北
   買わないから 試食はおいしい
   買わずに 試食だけした時 真の勝利者となる
                “みさえさんの訓示”

人は共に何かをする(do)事でつながりを実感し意識も高まるようだ。子供達の遠足・修学旅行、スポーツ選手の強化合宿も然り。同じ釜の飯を食い、個々を知り連帯を深めていく。畑仕事に共汗し、やがて実りを前にしては共感、共食。それは嫁姑の関係改善に一役も二役もかうのだろう。

困った時のデパート頼み、食品売り場の試食フルコ~ス。そうなると……。

アイディア満載、何でも自分で試してみたい婆さまは、「おいしい」と口にしながらその作り方を聞き出そうとする。「買ってよ~買ってよ~」、しきりに促す3歳児Jessie。
(バカモ~~ン、ナニヲツマランコト……)「ハヨウ 行くよー」と軽く婆さまを押すのが、外食嫌いで本の谷間に暮らす大黒柱。
人数さえ集まれば多少の恥は掻き捨て、「ちょっとからくな~い?」「買って帰りましょうか~?」とニコッ、傍らから即座に「いらな~い」と3歳児の助け船。惜しそうにその場を去る役回りは私。

とまあ、我が家を想像すればこんなキャラをひっさげて、真の勝利者を目指したフルコースの舞台を回るのだろう、きっと。

3歳児でさえ、最近はしきりと「恥ずかしーじゃない」って顔を覆う。
根はかっこ悪いのがお嫌いの見栄っ張り族、しかし、それぞれの思惑もちぐはぐなこの家族、孤独の奈落に沈むことのないよう、どんな手でつながり合おうか。フルコースさえだめとなると……。

主婦の鏡に映るものは、新聞折り込みのチラシばかり???

コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

妖精に誘われて

2009年03月18日 | 日々の暮らしの中で
        

やわらかくやさしい淨土からの迎えの風とか言われる、春を告げる風「涅槃西風(ねはんにし)」。水面を渡る風の冷たさ、髪を乱されながら、春めく景色にもあまりこころ浮き立つ事もなく当たっていた先日。

17日、彼岸の入り。
此岸、この世に生きる限り自分中心の執着心というものは捨て去ることができないのだろうか。
平凡に、自分のためにそして誰かのためにも尽くせる生き道を工夫したいと願いつつ……。そんなに強がらずにすむよう、淡々と人生を送りたいとは思うのだけれど。すべてが「自分」から始まるようだ。

雲をおこし雨を呼ぶとされる竜。秋分以降の半年間を淵に潜んでいた竜は、この春分の生気に乗って天へ駈け昇るとかだ。想像、壮大な想像。
時節柄か、新聞紙上も連日竜が踊る。天井画として有名な妙心寺の「八方睨みの竜」(堂内どこから見ても天井の竜と目が合う)・相国寺の「鳴き竜」・建仁寺の……、東福寺の……。デジタル技術で制作した建仁寺の複製品が近々公開されるともいう。

私も天まで、あの見事な竜のひげで、思いっきり……宇宙までも……行かなくていいな。ましてや浄土だなんて滅相もないこと、お断りだ。
   
   いま私の願いごとが かなうならば 翼がほしい
   この背中に 鳥のように 白い翼つけて下さい

「ただ少しだけ浮き上がる力を下さい。」
な~~んて、他力ではあきまへんな。
ないものねだりはやめて、自分の足りなさを自覚しなおすしかないのに。「努力」の原動力ってのは自分の心に眠っているはずだから。

ぽかぽか陽気に誘われて3歳児と植物園へ。
彼女のお目当ては、一角にある公園。お世話好きの花が咲き、ズボンがずり落ち、ハンケツ状態などものともせずに仲良く駆けずり回る。声がかわいい。

      
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

どーも・どーもで日が暮れる

2009年03月14日 | 日々の暮らしの中で
「ごえんさん、いつもおおきにー。……お世話になってますー」(来客だ)
「どーも」
「実は、来月の法事のことで……」
「はい」「はい」「わかりました」
「ほな、五日の十時から、お願いします。おおきにー」
「どーも」

全く無駄のない、必要最低限の表現でしか会話がなされていない。我先にとさえずる方々は多いのにだ。

昔、横井正一氏の体験談を聞く機会があった。グァム島のジャングルで二十八年、人との対話や会話のない孤独な時間。それは日本語で物を考えることになり、ともすると陥る自問自答にも日本語で答え、かえって日本語との密着度は高まることになるようだ。
蓄えられたことば、Jessieと同様に、横井氏の思いの全てのことばを受け止めたような記憶がある。

ことばは経済的に使わねば―とはいえ、これほどにそぎ落とした一言で対話が成立してしまうことの潔さ。「なにがどーもなの? ほんとにわかってるの?」内輪の悲劇も数々生じてきた。

単一メッセージが低品質だと言うなら、この「どーも」は、幾筋ものとらえ方を見つけ出させる、高等動物が仕組む技なのか。
駆使する御仁は「どーもどーも」で日が暮れるのだが、周囲のものにはなんだかよくわからない「どーも」、答えの出ない中を巡るばかりだ。

思いの八分は口にして。隙間は埋めるから、満たす楽しみを取って置いて……。

ことばを介在させ、思いを共有してナンボやなあ~~。
とはいえ、Jessieがお泊まりで不在の今日ばかりは、しゃべるのもメンドクサイ。
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

箸が使えない…

2009年03月13日 | JESSICAの日本滞在記

なぜか箸がうまく使えない。
指を所定の位置にセットする「わっか」が3つ付いた練習用の箸を買ってみるという。大勢において左が利き腕なのかと見る中で、右で持たせるべきか母親と思案。
「箸ぐらいどっちでもいいでしょー」「そうやな、私も左やし」ってなことで左きき用に決まった。

哺乳類は知能が発達している。経験つまりは学習に頼って行動する度合いが高い。
本能的なところは少なく練習次第で慣れればできる、と普通は考えられるわけだ。
オーストラリア特産のコアラはユーカリの葉以外は全く食べないといった頑固者だが、それに比べたらJessieにはそんな偏屈さもない。

喜び上手のアクティブ精神は、たちまち食べることへの楽しさを発見させた。
「見て!見て!」「わ~~、じょうずやな~~」
ぽろぽろぽろぽろこぼしながら、完成を目ざしていく。当然つまずく。「マミィー、食べさして―。」つまずきのない青春などあり得ない。
つまずきであって挫折ではないので、次回は起き上がる。お茶漬けでさえも“つまんで”食べるのだから。「じょーずしょ~」

本能むき出し? 味噌汁の残った椀で手をすすぎ、納豆の糸をはらいはらい今日もしたたかに箸を動かす3歳児。

手を休める間に口を動かし、しゃべり疲れたか大きく一息。お疲れね。
まあ、こんなものでしょう、青春は。

   (写真が左利き用の練習箸)
コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

たくましくあれよとの応援歌で・・・?

2009年03月12日 | 日々の暮らしの中で
親の経済的環境によって、平等に与えられているはずの学ぶ機会が子供から奪われてしまう。「奪労働」問題も生存の土台に関わることであるのに、親世代の困窮が子供に波及し圧力がかけられていく。学び直したい機会もままならない日本。

小さな小さな種子にひそんだ命がはじけ、光の中に咲き出るのも自然の摂理なら―
未来のある子供達に不安や恐れを抱かせることがあってはならないだろう。

踏んでも刈っても抜いても抜いても、所かまわず根を延ばし、伸び放題に伸びる一面のどくだみ草。こちらが根負けする生命力の爽快さが広がる光景に、やがてまっ白な花が咲く。薄暗がりの中に映える白の美しさよ。
どんどん伸びて広がって、たくましくあれよと応援歌、我が家の庭は彼らの天国になっちゃって……。

豊かな想像力は、現実に潜む可能性を次々と引き出して広げていく。そこに集まる人間の力にもよって増幅され、あたかも無限大であるかのように。

  どこかに美しい人と人との力はないか
  同じ時代を共に生きる
  したしさとおかしさとそして怒りが
  鋭い力となって たちあらわれる
       (茨木のり子『見えない配達夫』よりの抜粋)

子どもに重点を置いた社会保障制度の充実の必要性がテレビから問いかけられていた。
教育に医療に……。
コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私はカメラマン

2009年03月11日 | JESSICAの日本滞在記
レンズの向こうに何を見ているの。

折り紙をメッタ切り、貼り合わせできあがる作品を飾っては自らカメラに収めていく。
「上手やねー」「う~~ん(にっこり)、Jessieじょうずしょ~」。てまえみそ~。

最近の相棒“しまじろう”や身内に向かって「はいポーズ~」。店で見つけた“買って欲しいお菓子”、“買ってほしいかわいい小物”の前に大人を連れて行き、「見るだけだから」と牽制しカメラを向ける。
時には携帯カメラで。「買ってえ~」とせがまれて、398円のお安さに、「まっ、いいか」で商談は成立。「かってくれてありがと~~」

心の向くままに3歳児の「目」は周囲に向けられ、シャッター音が連続でカシャカシャカシャカシャと響く。極めて鋭く「その時」を切り取り、脳裏に焼き付けているのを大人は目の当たりにする日々だ。他者の評価を気にすることのない今の無垢さで。やがては周囲の評価から逃れられない境遇になるが、自分の物差しと周囲の評価と、どちらにも大きく傾かず自分の位置を知っていってくれればなあ。

このたくましさは、女子○○向きかも!?
周囲に認められる満足感を重視し、雄たけびをあげる。注目されたい!声援がバネになります、なんて言っちゃって、次のガッツポーズを考える?……そんなスタイル、それってなんかやだなあ~、やだな。

来年度から“学校”だ。
海では星の位置を測って位置を知り、その技術が航海を支え命を守ってきたという。大海の中で知る自分の位置。人は海を通して地球を知った、と。広い社会の自分の足元を忘れないでよねー。

どんな生活になるのやら、来月から短期間、集団生活に入れそうな展開に。
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 「PAY IT FORWARD」...世界を変える方法

2009年03月10日 | 映画・観劇
     Think of an idea to change our world
    ― and put it into Action

「君たちと社会」
「今は縛られていることも多いが永久にじゃない。いつか自由の身になった時に、自分の周りの世界が好きになれなかったら?」「失望しかない?」
中学1年生の社会科の授業は続き、先生 は、今後一年間ずっと続く授業のテーマとして課題を示した。
― 変よ・ムリだ・クレージーだという声に、「possibleってことは?」「可能だ」と先生は応じる。

 〔世界を変える方法を考え、それを実行しよう〕

11歳のトレバー少年が考えたアイディアとは、本人ではできないようなことを3人の人にやってあげる。親切を受けた人はそれぞれが別の3人のために何かをしてあげる……ということ。3人が9人、9人から27人にと、恩を返すのではなく親切を“次に渡す”。
映画のタイトルは「PAY IT FORWARD」、“先へ贈る”。

少年はホームレスに金と食事と寝る場所を提供、アルコール依存症の母親と先生の仲を取り持つ、……。善意は次々に贈られて。

「周りの人の状況をよく見なくちゃ、守ってあげるために心の声を聞くんだよ」

人の善意を信ずることで成り立つこと、「可能」であることを信じる優しさ、強さを思う。人と人とが直接か関わりあうことの温かさ。

人は人を呼ぶ。人の心に響くことは、必ず輪が広がることの可能性に明日を信じよう。
結果より考えること、考えてみようとすることが大事……。
う~~ん、私もぼちぼちながら、もう少し深く関わることをテーマに。

さだまさしさんのトーク番組(NHK)を機に知ったこの映画。DVDで。
ぜひぜひ、御覧下さい!
コメント (11)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

十五の春

2009年03月08日 | 日々の暮らしの中で
中学校3年二学期末の親子面談を終え希望校を最終確認したはずだったのに―。数日後、それまで言い出せなかったのか、「どうしてもあと3年はサッカーをやりたい」と思いを告げらる。“国立”が目指せる可能性が大であるところで、という意味であることは理解できた。一方も文武両道で強豪校ではあったのだが。

ランドセルを放り出し「宿題は帰ったらするワー」と言い残し遊びに出ていく小学生だった。息子のそのことばを認めたし、「宿題(勉強)しなさいよ」の一言を言うこともなかった。やがて放課後はサッカーの練習に参加、活力みなぎる子だった。

やはり、とうとう言い出したかとは思ったものの、寄留もせねばならず、はたして思い通りにさせてやるのが良いのか、最初で最後、親としても迷う日々を過ごすことになる。

親の意見はしっかり伝えた。共に汗した仲間の声、顧問や担任の思いも届いていたろう。他人の考え方にも耳をかせる子だったのだ。自分の心で考え、自分の足で歩く道を決めた。

これまでの生活を、これからの3年間の可能性に反映させてみるとき、多少のすり替えや我慢があったろうと思い遣ってはいるが、うまく調和させて新たな自分を描いたのではないだろうか。親の勝手ながらも、充分に彼の気持ちは察してやれていたと……思いたい。

息子十五の春の決断だった。
準々・準決勝で毎年涙をのんで国立への道は遠かった。
あんな時もあった、今はそういうひとコマになっている。十五の節目だったのか、
それも長い人生のほんの通過点。日々大切に、目標に向かってハードな3年間だったことは確かだ。

「ワタクシメ ヒッコシシマスワ」と先日メールが入っている。こんどはどこへ?

京都公立高校の入試が終わって……
季語「胡瓜」から環境問題に発展し、心の豊かさ、季節感のゆがみの見直しの必要性を問いかける長文が出題されている国語。

    (3歳の春・土手が好き、向こう岸まで渡ります)
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

“カールおじさん”

2009年03月07日 | 日々の暮らしの中で
少しばかり首をすくめるひんやりした風が心地よく感じた今日。降り続いた雨で一日家で過ごした昨日が 大も小もいささか疲れ気味だったせいだろう、開放感を味わいながら駅へと歩く。

車道を何かが転がる音で目を向けると、“カールおじさん”が風に舞いながら飛ばされていた。―拾うべき?― 拾うことが私の仕事だろうか、 柄にもなくこ難しくわが身に問題提示。「誰の仕事でもない仕事」という類があって、それができる人は「働くモチベーションの高い人」という、いつかどこかで読んだくだりを思い出していた。なーんと、こんなときに!?さらには養老孟司氏の「仕事とは……社会の穴を埋める……」、うろ覚えの箇所さえ浮かべていたのだった。何という飛躍だろう。

【仕事というのは、社会に空いた穴です。道に穴があいていた。そのまま放っておくとみんなが転んで困るから、そこを埋めてみる。ともかく目の前の穴を埋める。それが仕事というものであって、自分に合った穴があいているはずだなんて、ふざけたことを考えるんじゃない、と言いたくなります。】
【合うとか合わないとかいうよりも大切なのは、いったん引き受けたら半端仕事をしてはいけないということです。一から十までやらなくてはいけない。それをやっていくうちに自分の考えが変わっていく。自分自身が育っていく。そういうふうに仕事をやりなさいよということが結論です。】 『超バカの壁』より

今こうして再確認してみると、なぜか自分のこれまでが重なる。少しばかり思いがこみあげるが、おし隠す自分がいる。

拾ったって……ゴミ箱ないし、車道を追いかけて危ないじゃないの。車のかげにカールおじさんは消えてしまった。別に誰かに認めてほしいわけじゃないし、誉めてもらわなくたってよいこと。自分が自分の心をちゃんと知ってさえいればいい。
自分の基準・ものさしが自分の中にあるのだ。声高に自己を主張しなくとも自分のものさしでバランスを取りながら私は生きていくんだろう。

おじさんは私に拾ってほしかったろうか。
あ~、仏様が見ていたなあ……このご都合主義的な私を。

コメント (9)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

I was born.

2009年03月05日 | 日々の暮らしの中で
I was born.
ふと目にとまった「I was born」、それは吉野弘さんの詩の題であった。
「確か 英語を習い始めて間もないころだ。」と始まる散文詩。

 (父と歩く少年が、身重らしい女性とすれ違う)
「その時 僕は〈生まれる〉ということが まさしく〈受身〉である訳を ふと諒解した。」
 
ずっとどこかでひっかかっていた私の思いに触れた気がした。

「―やっぱり I was born なんだね―」
「―I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね― 」
 
「生まれる・be born」、受身形で表すことを習ったとき、理由はないが何か意識したことだけははっきり記憶しているのだった。
このときの少年には「文法上の単純な発見にすぎなかった」とある。

生まれる・受身形で表す……
まさに「与えられた生・命」だが、今度は自分の命として、自ら懸命に輝かせて生きることが求められてくる。

「誰も頼んだ覚えはない」などと憎まれ口も叩く。頼みもしないのにこの世に放り出され、生き続けなくてはならない。限りあるいのちであればこそ、年齢を重ねることで、生かされている命をふと感じることもあるが、そうした否応なしの現実であっても、人間の力には頼もしいものが潜んでいるんじゃないだろうか。

「I was born」 に、生かされた命を初めて重ねた日となった。
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする