京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

 高野街道ウォーク③

2013年05月12日 | 高野街道ウォーク

5月11日、午前7時30分に京都八条口を出発しました。前回のゴール地となった石切神社山門の上、なぜか剣のモニュメントがありませんでした。今回はここから13km先の近鉄大阪線安堂駅(柏原市)付近までまっすぐ南下、…の予定でした。

体操で身体をほぐして8時30分、瓢箪山稲荷神社を目指して出発です。傘が必要でした。
枚岡神社一の鳥居を東(左手)に見過ぎ、狭いところに路上駐車も目立つ歩きにくい道を進んで近鉄の瓢箪山駅前に出ました。道はそのまま駅前の大きな商店街へと続きます。車・バイクも通行禁止のアーケードを設けた国道170号となっていて、そこを抜けていくのですから驚きです。


30分ほどで瓢箪山稲荷神社でした。以下【】内は案内板によります。
【創建は豊臣秀吉が大阪築城にあたり巽の方鎮護神として伏見桃山城から「ふくべ稲荷」を勧請したるを由緒とする】【社をまつる小丘はこの地一帯にある山畑古墳群の中でも最古最大に属する6世紀末古墳時代後期の双円墳であり、瓢箪山と称する由来である】
【江戸時代より門前の東高野街道沿いにおいて、「辻占い」の風習があり明治初年宮司山畑阿良美が「辻占」を創始する】ここ日本三大稲荷の一つは、辻占(つじうら)の総本山でもありました。


【幕末から大正時代にかけて、神社から東高野街道までの参道両側には、たくさんの旅館、茶店がならんで大いに繁盛し、大阪堂島の米相場の上り下りも、この辻占によって占われ】、【古くは往来者の言動・持ち物などで事を占ってい】たのだとか。雨のせいか寂しい参道です。享和元年(1801年)刊行の『河内名所図会』には、「如卜(じょぼく)」ということばで記されているようです。
やがて、「淡路島通ふ千鳥の河内瓢箪山 恋の辻占いらんかへ」という売り口上で「辻占おみくじ」売りの少女が活躍したそうです。

雨は上がり、蒸し暑さを感じて歩いていました。一直線の街道を南下の途中で東にそれて、平成17年に復元された国史跡心合寺(しおんじ)山古墳へ。

    写真右手から上がってみました。


全長160mの前方後円墳からは副葬品として馬具類が多く発見されているのだそうです。朝鮮半島から馬と飼育技術が伝わっていたとみられ、この辺りは騎馬を飼育する馬飼部を率いた渡来氏一族の勢力地で、そうした一族の墳墓と見られることが記されています。

東側の道を進んで再び街道と交わる付近に垣内一里塚がありました。生駒の山並みももやっています。

朝が早いのでお腹がすきだします。みな、昼食が気になりだしました。あと30分ほどで着くとわかってもうひと踏ん張り、行進は再開です。靴を脱いで上がった座敷はテーブル席。もうこれで終わりかと錯覚するほどくつろぎ、ゆっくりとウォーキングツアーには不似合いな?食事中に雨が降り出しました。あと4kmを残して、雨中さらに歩く気持ちなど失せてしまっても不思議ではない、…ほどに腰を据えてしまいました。「もう歩きとうないわ」「全員撤退しよう」という声がで始めて、…あれこれ思うことはありましたが、異を唱えることもなく、したがって私も同意ということです。13kmの行程は予定であって、ここにて終了!!

後味の悪さを感じています。
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 高野街道ウォーク②

2013年04月14日 | 高野街道ウォーク

13日、高野街道ウォーク参加のため4時半起床。身支度を整え朝食も済ませ、家を出る6時半までには1時間ほどの余裕を残して身体のリズムを整える。熊野古道を歩いていた時も同様で、どんなに回を重ねても自分にとって起床後の時間はかなり重要な意味を持つ。
テレビをつけて新聞を開くや、テレビ画面では5時33分ごろ生じた地震の大きな揺れに注意するよう呼び掛けが始まった。ガタガタと音がして揺れ出す。更には、携帯電話が緊急地震速報を受信して初めて耳にする音を立てていた。

幸い大きな揺れはなかったが、京都駅八条口出発予定時刻になっても参加者が揃わない。JRの運休や不通といったハプニングにもめげず、ルートを探して1人、2人、また2人と姿を見せ、1時間遅れの8時半になってようやく出発!

   
12kmの行程で交野市、寝屋川市、四条畷市、大東市、東大阪市と南下した。
お伽草紙の”鉢かづき姫”がかわいい寝屋川市の案内板。ここの四つ辻は南北の東高野街道と東西の奈良伊勢街道とが交わるところだと教えてくれる。「東 なら いせミち」「南 かうや のさき 大阪みち」「北 京 八はた 柳谷 星田妙見道」と刻まれ、安政4年、酒屋の勘平衛さんが父母のために建てたとされる道標だが、以来、伊勢大社や高野山、柳谷観音などに参拝する人々を案内したことだろう、などとある。
「この道は京都の東寺より高野山に至る街道であり 平安の昔より今日まで多くの歴史を秘めている」こんな石の道標にも時々出会える。なかなかイメージできない「街道」歩きだが、そうなんだ、とかすかに救われる思いだ。


  
  野崎参りは 屋形船でまいろ / どこを向いても 菜の花ざかり / 粋な日傘にゃ 蝶々もとまる /  呼んで見ようか 土手の人
  野崎参りは 屋形船でまいろ / お染久松 切ない恋に / 残る紅梅 久作屋敷 /  今も降らすか はるのあめ (「野崎小唄」)

 
200段に近い石段を上がって慈眼寺(野崎観音)へ。かつては、西側一帯は大阪からつながる大きな池(平野池)があったのだそうな。大阪から野崎参りの屋形船が行き来していたという。「お染久松の物語」、二人の塚も境内の一隅にあった。




ゴールは石切剱箭(いしきりつるぎや)神社。大勢の参拝者で賑わっていた本社と絵馬殿の造りは見事だったが、あまり興味もわかない。50分もあった自由行動の時間も、細く長く続く石切参道商店街を途中まで見歩いただけで終えて、バスに戻ることにした。
人生いろいろ、歩行のペースにはひとまずこだわりを捨てて、もう少しだけ踏ん張ってみようかと2回目の参加を決めた。20691歩。
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 高野街道ウォーク ①

2013年03月10日 | 高野街道ウォーク
真夏を避けて全8回、11月終了を目指す「高野街道ウォーク」の第1回目は、9日、京都駅八条口を19名で午前7時30分出発した。
  
8時には石清水八幡宮のある京阪八幡市駅に近い場所にバスは到着、ケーブル乗り場へと向う。ケーブルからの眺めはなんとなくもやっとしているが一の鳥居が見えだした。
 
仁和寺の法師が勘違いした高良神社や極楽寺も当時は立派で、特に極楽寺は豪壮な構えであったらしいが、鳥羽伏見の戦いで長州軍の猛攻を受け消失したとある。高良神社はこの鳥居をくぐって西側に再建されている。お山は神仏習合時代だったこともあって多くの寺があったと伝わる。今回はケーブルであっという間に「男山山上駅」到着。


             南総門 
     
八幡市が整備に力を入れたことで道標もあちこちに設けられ、街道としての雰囲気を感じながら歩ける区域だという話だ。風情ある道から街道への一歩を記した。摂津の国に生まれた松花堂昭乗は10代半ばで石清水八幡の社僧となり、やがて真言密教を極め阿闍梨になったそうな。「松花堂などお弁当ぐらいしか知らん」という声を耳にしながら、【松花堂庭園・美術館】の前を通過 → 【枚方企業団地】 → 【山田池付近】→【枚方市から交野市へ】車の排気ガスを吸いながら南下していく。

「ここにも碑があります」と言われても何の碑なのかはさっぱりだ。通過してしまうし、立ち止まれば案内板を各自で確認する。説明がないので、とりあえずは写真だけでもと撮っておくことにした。昼食はバスで移動、靴を脱いで2階に上がり、デザート・飲み物付きでたっぷりと休憩した。【郡津(こうづ)駅】 → 【交野市・星田】 でようやくのゴール。
 古くから人が行き交う道で休憩所としての茶店も多かったと案内板にあった。描かれていた江戸時代の文献に記された茶店の図。
出だしから終始遅いペースで、一日中ぶ~らぶら、ぶ~らぶらとした歩きだった。このカメのような歩みでさえも列は分断されるのだ。そのたんびに待たされて…。次回の申し込みには迷いが生じている。
約13キロ弱のコース、25164歩だった。
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 「高野街道」に一歩を

2013年03月08日 | 高野街道ウォーク

「伊勢へ七たび熊野へ三たび、愛宕さんへは月詣り」
京ではこんな俗謡が歌われていたという。ここに空海が開いた一大聖地・高野山への高野詣では含まれていない。

空海は45歳の時に高野山に禅院を開き、50歳では京に密教の根本道場として東寺を開いている。およそ1200年前のこと、標高850mの山上に拓いた修禅の道場・高野山と東寺との間を、空海自身が何度か往復していた道があることだろうに、これまで私は無関心だったと気付いた。

京からは石清水八幡宮を起点にして生駒山系の西を南北に貫き河内長野に続く「東高野街道」がある。―このあとはネットで拝見― 京や大阪からのルートはいくつかあって、4つの「高野街道」が合流後は1本化されて紀見峠へ向かい、橋本から、清水、学文路(かむろ)を通り女人堂に至る「不動坂口道」が賑わったと説明されている。このコースを8回に分けて、真言宗総本山の「金剛峯寺」を目指すウォークに参加してみることにした。

夏に向けて少々の思惑のある今年、仏教に関した本に触れ出してもいた時で、突然目の前に示されたこの案内には正直小躍りしそうな勢いだった。チャンスが舞い込んだ!と心底思った。が、なんと数日で一気に熱が冷めたのもまた事実だった。10日ほど考えたが参加を決め、すでに明日の準備もし終えている。

「仁和寺にある法師、年寄るまで石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立(ち)て、たゞひとり、徒歩(かち)よりまうでけり。」(『徒然草』52段)
ところが、この法師は麓にあった付属の極楽寺や、そこに隣り合った付属の社に参拝しただけで、これだけと思って帰ってしまう。山上までは登らなかったのだ。兼好さんは言います。「すこしのことにも、先達はあらまほしき事なり」と。熊野古道ウォークの時と違って語り部さんの案内が得られない物足りなさは解消されるのだろうか…。

明日、石清水八幡宮からスタートです。元気に?目覚めたら、集合場所に向かいます。

コメント (8)
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