京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

「阪神ファンばかりだと思うなよ」

2024年09月30日 | 日々の暮らしの中で
「巨人、セ制覇」
9月28日、対広島戦(マツダスタジアム)に勝利し、阿部監督胴上げの様子が翌朝の地元紙一面で報道されていた。
4年ぶり。もう前回のことは忘れたが、自分がジャイアンツ一筋のファンであることは何度か書き記したことがある。テレビ中継が終わったあとはラジオで、父と一緒に試合の成り行きを楽しんだ。「父とラジオ」と題して書いた日があったなと振り返ってみたらそれが4年前で19年9月25日、前回の「巨人、セ制覇」のときだった。

阪神、「2位確定」と今朝。スポーツ欄にではあったが、なに、なに!?この紙面の大きさは。2位ですぞ。


しかも、「日本一へ仕切り直しや」ですって。日本一はセ・パの覇者が争ってこそ決まるのではないかと考える私はCS不要論者だから、この言葉はあまり気分良くない。

かつてみた映画「かば」のなかで、登場する男子高校生が「阪神ファンばかりだと思うなよ」と言うシーンがあった。舞台は大阪西成区。
他の言葉は忘れても、このひと言だけは今もこうしてしっかと記憶している。彼はこっそり、はっきりと、言ってのけたんだった。そりゃあ、周囲は阪神ファンばかりでしょうから。
そうだ、そうだ!と肩をたたいて声を掛けたくなったわ。
巨人ファンと口にするのはなんやら肩身が狭いのですわね。誰に遠慮がいるもんか、と思うのだけど。

あまり声高にものは言いたくない。何熱くなってんのって笑われるのがオチか。


今夜は虫の音が少ないが、夜長の過ごし方を工夫しなくっちゃ。
野球中継は多分あまり見ない…。見なくても巨人ファンは変わらない。
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抱くほどとれど

2024年09月28日 | 日々の暮らしの中で

ゆうに20年は前になるかな。大原の里を会の仲間と歩いていたとき、隣り合わせた友人が路傍に咲く彼岸花を見て〈曼殊沙華抱くほどとれど母恋し〉と、中村汀女の句を口にした。
虚弱だった幼い頃の話を、それからは何度か聞く機会もあって今に至り、曼殊沙華と母の面影はセットで彼女の胸に蘇生するのだろうと思っている。

誰にでも何かそうした句なり歌なりが一つくらいはあるかもしれない。
〈譲ることのみ多き日々奢莪の花〉。義母との日々を想い起こしてはこの句を読むが、いったいどちらが「譲ることのみ多き日々」だったのか。
弱いつもりで強いのが「我」。とすれば、曲げない強情さにたじたじだったのは義母の方かもしれない。けれど今となっては譲り譲られで帳尻はあったのだ、ということにしておこう。


苅り田の畔などに真っ赤な彼岸花。いい光景だ。
なんともエキゾチックなつくりの花が、好きになれずにいたが、なんやその作りにこそ魅かれるようになった。
曼殊沙華という呼び方を好ましく思う私は、赤い花が好きだ。
生方たつゑさんが「地霊が炎える」という表現をしているが、この感覚、特に墓地などで出会うと、まさに!とうなづける。

天上の花の一つとされる曼殊沙華。妖しげで、背筋を伸ばした先端の意志的な華の形が、今やとても好ましい。


秋には曼殊沙華が欠かせない。
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秋分の日の電車にて

2024年09月26日 | 日々の暮らしの中で


   秋分の日の電車にて床にさす光もろともに運ばれて行く

「心が和んだ。ああ、短歌はこんなに静かに細かい情景を丁寧にうたっていいのか。多くを学ぶところがあった」

   苦しみて生きつつをれば枇杷の花終わりて冬の後半となる   『帰潮』
   
「激しい言葉や目立つ表現はないが、読む者の心の奥に届いてくる。これは何なのだろう」
「それまでの私は、自分の心の激しさや思いの丈を三十一文字にぶつけるのが短歌だと思っていた。それは違ったのだ。そのことを私に思い知らさせてくれた」

   貧しさに耐へつつ生きて或る時はこころいたいたし夜の白雲   『帰潮』  
   秋彼岸すぎて今日ふるさむき雨直なる雨は芝生に沈む    『地表』

佐藤佐太郎の歌を取り上げて、道浦母都子さんのさりげない言葉に自身の姿が浮かび上がり、人の折々の生きようを知る。物事の考え方も知れる。なんでなのかと思うが、言葉というものが、言うならその人そのものだから…かも。

 いいなと思った歌人の歌を、道浦さんの言葉とともに読み返し、
やっぱり思うのは道浦さんの生きよう、来し方。その先に、ゲバ棒をペンに持ち替えた弟の
姿、生きように思いがいく。

窓を開け風を通して昼日なか、本を開ける余裕に秋が来たことを実感。
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SONG OF EARTH

2024年09月24日 | 映画・観劇

どんな映画だろうか…という思いから事前にチェックしたが、〈ノルウェーの山岳地帯で大自然の中に生きる老夫婦を、その娘であるドキュメンタリー作家のマルグレート・オリンがとらえたドキュメンタリ―〉という案内を見て、出かけることにした。

「私は84歳になったらしいが…」、それが何だっていうんだ?といった調子で、杖(トレッキング用のポール?)を2本使って、ゆっくりだが確かな足取りで娘を案内して回る。
「ゆっくり歩くんだ。見えないからね」

美しい映像 ー 山頂からの眺め。深い谷を割って流れる川。滝。轟音、砕ける流れの美しさ。清流。フィヨルド。氷河の憤怒か、崩れ落ちる轟音。


氷の上をスケート靴で滑ったり、歩いて進んでいく。自然と一体化してその境目がわからない…。

美しい映像に次々と魅せられる。
その合間、自らの生い立ちや父、祖父のことなどが語られ、妻との時間を大切にし、共有し合うことに幸せを感じている心のうちが伝わる。
「見かけは老いたけれど、私たちは内面は健康だ」と静かに体を寄せ合う穏やかな時間。

荘厳な大自然は時として激しい怒りの姿を見せる。その一方では限りない優しさで包んでもくれる。
そこに、人間のちっぽけさが浮かび上がる。
祖先に見守られ、この大地の魂に深い安らぎを得て、生きるのであろう二人。

生きた自然を表現するのに「造化」という言葉がある。あらゆる生命を生む造物主、山河自然に対して、人間はもっともっと謙虚にならなければならないのだろう。
身辺の微かな自然の気配に耳を傾け、思いを深めながら生きていけたら、ひとは幸せなはず…。そんなことをしみじみ思う機会にもなった。
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月と太陽、かわりばんこに

2024年09月22日 | 日々の暮らしの中で
3泊4日でゴールドコーストから帰って来た家族を迎えた孫娘。さぞやほっとしたのでは。
これだけの日数を一人で過ごしたのは初めてのこと。
「夜、ご飯を作っていたら焦げ焦げになって食べれへんかった」と言ってきた。

誰か忘れてない!?って目をして? 
一人ではなく、ミリーがいたのを今の今まで忘れていたわ。そうだった。


初日の試合で組み分けされて、結果は57チーム中13位。「あかんかったー」は母親の弁。
「シドニーやメルボルンからのチームのレベルがすごいのよ」って。
アンダー8のチームに2人の7歳がまじって(そのうちの一人が孫Lで)彼らのチームは編成されている。
詳しくは知らないし、聞きもしないものだから、7歳8歳でジョートージョートーと思っている私。

それでも家族の、兄の声援に精一杯のプレーをしたことだろう。次への一歩さ。
ちょうど今朝、地元紙の連載コラムにこんな言葉が。
「結果に腐らなければ結局どっちも輝くんだ」


秋分に『立秋』を手に入れた。
皎々たる月の光だろうか? 
「物語を包む美しい装幀は目の保養」と乙川氏がある作品の中で言っていた。

窓を開けて、虫の音を耳にするなどして、訪れる夜長に読める日を待ちたい。
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「大したもん蛇」

2024年09月20日 | 日々の暮らしの中で
9月も初めころだったか、新聞の小さな記事に目が留まった。
第46回サントリー地域文化賞は、水害の記憶を継承する祭り「えちごせきかわ大(たい)したもん蛇(じゃ)まつり」(新潟県関川村)など5団体に決まった。―後略

村の全集落でつくる大蛇が練り歩き、水害の記憶を継承するユニークな祭りだと、ネット上では簡単に紹介されていた。
「越後」「水害の記録」の文字は一足飛びに、読んでまだ日も浅い、乙川優三郎氏の小説『露の玉垣』を思い起こさせた。


越後の新発田は、慶長3年に藩祖の溝口秀勝が入封して以来、長く溝口氏の城下町で、外様大名ながら一度も国替えをされずに、水害を繰り返す水田地帯を治め続けた。
領主も武士も農民も町人も、土地にへばりついて徳川の太平の世を生きた。
洪水と干ばつ、浅間山の噴火は米の不作による飢饉を何度も引き起こした。川の氾濫を無くす自然との戦いと貧困との戦いに、300年にもわたって挑み続けねばならなかった。
溝口半兵衛(1756-1819)は家老という激職の中で、藩士たちの列伝「世臣譜」の編纂を志した。 (解説より)

作者は「たった一人の人間が残した武家社会の実像」をもとに、「小藩の家臣の移ろいやすい運命」「窮乏に喘ぎながらも主家を支えてきた、国史には名をとどめない人たち」の「魂の物語」を書きたいと思われた。
作中、溝口半兵衛はその記録を『露の玉垣』と名付ける。

抗いようのない絶望の底にも、光を見る。わずかな希望を見い出す人間の粘り強さ、忍耐強さ。知恵。人間の生きる力の根源だと言うも思うも易くで、圧倒される思いで読んだ。

新潟県は名にし負う米どころ。米の恩恵を受けて生きてきた人々の祈り。先人への感謝。歴史とともに語り伝えようとする村人の尊い努力が息づいた祭りなのだろう。
継続には担い手の不足がよく話題になるが、俗化されることなく、村人の喜びごととして繰り返されるようであってほしいなと思ったりした。



スーパームーンを見た翌日、娘家族は孫娘一人を残してゴールドコーストへ。
今日から3日間、サッカーのトーナメントがある孫Lの属すチームの応援に繰り出した。



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Look up,

2024年09月18日 | 日々の暮らしの中で


今夜はブリスベンでも美しい月が見られるらしいと言ってきた。

実は昨夜、日本は中秋の名月だけれど、そちらではどんな月が出ているのかと娘にたずねてみた。けれど返信なし、既読にもならずじまいだった。
月は一つ。北半球と南半球の違いがあって、時差は1時間だけれど、どう違うだろうと思ってのこと。

あちらでは今、小中学校が今週と来週と2週間のホリデーに入っていて、いずこも同じか、親には何かと普段にはない用事が増える。
体力消耗か、早々に休んでしまったようで月どころの話ではなかった。

オーストラリアで暮らす娘家族を訪ねて過ごしていた2011年10月、ある晩のことが思い出された。
夕食の片づけを済ませてたまたま外に出たら、ずいぶんと黄味の強い丸いお月さんが上がっていたので、急いで孫娘に声をかけて誘い出したのだった。
「ついてくる~~~」
どこをどう歩きまわっても、走って逃げようが、月は付いてくる。しまいには、月に向かって走り出すなど、反応のテンションは高く、それが愉快だったのを覚えている。

何かが誘い水となって眠っていた記憶が掘り起こされることは多々ある。
普段は月を見あげる余裕を失っていても、思い出を懐かしむようなときは必ずくると思う。
家族みんなで月を見あげる夜があっていい。

こんなこと思いながらその時刻を迎えた。
「くもってみえませぬーーーーー」と6時過ぎ。(向こうは7時過ぎて)
(あっらぁ) しかし2時間後、「フルムーン、きれいにみえました~」
こちらもようやく雲が晴れて、満月のお顔を拝見したのは9時前になっていた。

こんな一日でも、振り返ることはあるかもしれない。
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月今宵

2024年09月17日 | 日々の暮らしの中で
整形外科で足指の治療を受けている、と言ってきたのはひと月ほど前のこと。
あれからどうされているのか、連絡はない。
日中は37度をわずかに下回る猛暑だったが、今宵は中秋の名月。
東の山の上に、丸い大きなお月さんが上がってくるのをしばし眺めていた。満月は明日だという。

友人に足の具合を訪ねながら、声をかけてみた。 
 〈 養生もほどほどにして月今宵 〉  (西野文代) 
「お月さん、見てますか」

いつのことだったか、この友に案内をいただき芭蕉の墓所、義仲寺を訪れたのだった。



芭蕉は元禄4年、6月から9月まで大津に滞在していた。十六夜の月を賞美して堅田に渡ったときの句。  

   鎖(じょう)開けて月さし入れよ浮御堂

御堂の中におはします千体仏に、扉の隙間から差しこんだ月の光が当たる。
千体が光を集める、と想像しよう。光に映える御堂は、湖上に輝いて浮きあがって見えるだろうか…。
イマジン、イマジン。

月の美しさ、妖しさ。琵琶湖と月と文学。いろいろありますねえ。
ところで友は月を眺めただろうか…。
                  (浮御堂の写真は’23.5.16のときのもの)
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ゆっくり歩いて、書いて、生きて、とあらためて

2024年09月15日 | 日々の暮らしの中で
文章仲間との集いがあった土曜日は、散会後、夕刻から馴染みのある料理屋さんでくつろいだ。夫の縁で足を向けるようになって、少し間があいたがご主人との談笑も楽しく、ゆったりとした時間を過ごした。
幸い同じ趣味を持っている。老・老の域にいながらも、気持の上では華やぎを失わずにいたいものだ。

一日をゆっくり見つめ
ゆっくり歩いて
ゆっくり書いて
ゆっくり生きて       (高木護)

これだな、こうありたい…と、思いを新たにすることもあった

 

今日13歳の誕生日を迎えた孫T。「きょうはすばらしい日~」を過ごしたことだろう。
カードは12日に届いた。

今日は疲れ休みの平凡な一日だったが、であっても、いろいろな思いを交錯させて過ごす。
映画「幻の光」が上映されているからと誘われたが、原作を読んでいるからとオコトワリした。
能登半島沖地震で被害を受けた輪島市を支援のため、リバイバル公開だそうな。宮本輝氏の原作「幻の光」の映画化だというが、知らずに来た。
で、実際はうろ覚えの箇所もあって読み直したりもしていた。


「雨上がりの線路の上を、背を丸めて歩いていく後姿が振り払うても振り払うても心の隅から浮かんでくる」
生れて3ヵ月になる息子と妻を遺して死んでしまった夫に向けて、心の中でのひとりごとがやまない。物語は最後まで“ひとりごと”で展開する。
「なんで死んだんやろ、なんであんたは、轢かれる瞬間までひたすら線路の真ん中を歩きつづけてたんやろ、いったいあんたは、そうやってどこへ行きたかったんやろ」と問い続ける。
尼崎から奥能登の曾々木という地に嫁いで、新しい家族を作ってからもそれは続く…。
原作の余韻は大事にしておこう。

『錦繍』にあった「生きていることと、死んでいることとは、もしかしたら同じかもしれない」の一節が重なってきた。


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錦繍の日々

2024年09月12日 | 日々の暮らしの中で
♬ 猛暑は続く~よ
    あしたもあさっても~

孫娘に誕生日のメッセージカードを送ろうと郵便局まで歩いた。空は黒い雲が広がりつつあって、日傘をさして雨傘をバックにいれて。
こういうとき大抵は無駄になるのだけれど、帰宅後しばらくして短い夕立のような雨が降った。


手紙のやりとりの中で互いの過去を見つめ、過去を生き直し、現在の生活を確かめ直すことからそれぞれの未来へと歩み出す、そんな姿がうかがえるドラマだった。
じわじわと感動が生まれつつある。
『錦繍』(きんしゅう)を読み終え、6月に新刊書店で買っておいたエッセイ集『命の器』を取り出した。


梅田の繁華街で道端に茣蓙を敷いて古本を売っていた男から10冊の文庫本を選んで買ったという話があって(「十冊の文庫本」1983)、そのうちの一冊、ドストエフスキーの〈「貧しき人々」はそれから20年後、私に「錦繍」を書かせた〉と書かれていた。

「十冊の文庫本に登場する人々から、何百、いや何千もの人間の苦しみや喜びを知った。何百、何千もの風景から、世界というものを知った。何百、何千ものちょっとした会話から、心の動き方を教わった。たった十冊の文庫本からである」

右鎖骨下に病巣を抱え、上野駅で血を吐きながら友人には内緒にして、一緒に蔵王温泉に行った時のことも「錦繍の日々」(1983)にある。療養生活を経て健康を恢復して、『錦繍』が書かれた。

やがて錦織りなす紅葉の季節を迎えるが、紅葉は「自分の命が、絶えまなく刻々と色変わりしながら噴き上げている錦の炎である」。
生命そのもの。清濁、虚実、憎悪、善悪、[そして限りなく清純なものも隠し持つ、混沌とした私たちの生命」であり、時、場所、境遇も問わず、「人はみな錦繍の日々を生きている」のだと言われている。

宮本輝氏を敬愛する知人がいるのだが、小説ばかりで初めて氏のエッセイを読みつつ、(うんうん、なんかわかるかな)と独り言つ。そんな浅いもんじゃない!とお叱りを受けそうだ。
「流転の海」、シリーズ初発で挫折したが再びのチャンスありやなしや。
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人は心の中に塔をもつ

2024年09月10日 | 日々の暮らしの中で
今週末の寺子屋エッセイサロンでの合評会に間に合うよう、苦心しつつ仕上げに勤しむ。
いつかいつか、詩歌を散文の中に交えたスタイルで、(でも身の程知らずの歌論などではないわ、しかし単なる引用のちりばめでもなく)エッセイを書きたいな、書くのだ、なんて思い続けて、いったいまあ何年の年月が流れ…。
大きな方向だけは見失うことなく気持ちの奥底に据えている。

午後4時頃にはひと雨降りそうな空模様に期待したが、雷鳴が2発に雨少々で終わってしまった。ただ、気温が下がって、エアコンなしでいられる。
心なしか虫の音も繁く高らかだ。



先日、薬師寺東塔の全解体修理の様子をテレビで見て以降、「変わりゆく伽藍と塔の雪」(大岡信)、「薬師寺東塔」(矢内原伊作)、『古寺巡礼 抄」(和辻哲郎)など読み継いでいた。
これらの作品の書かれた年代が古いだけに、読み知るにつれ再建や復興への悲願が身に沁みてくる。
母を案内して訪れたとき、西塔の再建はなっていなかった。それ以後長きの無沙汰…。もっと気候が良くなったら訪れたいものだ。


   ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なるひとひらの雲

「人はそれぞれの心の中に塔をもつ。塔は天上的なものへの、人間の祈りと讃仰の姿である」と。





 
サッカーのクラブでのシーズンが終了した孫L。
イタリア人がオーナーだというアカデミーのアンダー8のチーム(右)にも参加していて、こちらは見事優勝で終わった。
「家族の中で一番のワル」と姉のJessieが言っていたのを思いだすのだけど、顔つきもたくましくなったかな。
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米の飯さえあれば生きていける

2024年09月07日 | 日々の暮らしの中で
その日、家で大人のいざこざに巻き込まれ、登校拒否になってしまったYちゃんと、戦争で右足を無くし松葉杖を突いて登校中、その歩く姿を真似られ、からかわれて泣きだしたKちゃんの二人を元気づけるため、小3から中2の女の子ばかり10人が、誰言うとなく一握りの米を持ち寄り、摘んだヨモギやノゲシの葉を入れて大鍋で雑炊を炊いた。

塩で味付けしたあたたかい雑炊は、「小さな胸の中の悩みや悲しみを、白い湯気で包んで笑顔に変える魔法の力を持っていた」


「もう六十年も前の沖縄での事」として玻名城千代子さんが書いていた。(『人間はすごいな』収 「米の飯さえあれば」)
文中の「60年も前」というのは、現時点では74年ほど前になろうか。
夢を語り、「いつか銀シャリのおにぎりを持って」と言い合った少女たち。

年月は流れ、日本はいまだ飽食の時代を思わせる。テレビ画面にはパクパク、もぐもぐ、ものを食べる姿がうんざりするほど映る。さまざまの食べ物の写真もあふれるし…。
でも、本当の“豊かさ”だろうか。

玻名城さんは、「古希を過ぎ、貧しくなるばかりの老いの日々だが、銀シャリさえあれば生きていける」と結んでいた。

我が家の義母も生前はよく口にしていた。
「ご飯がないのはかなん」
米がなかったわけではなく、仮におかずは漬け物だけであっても、とにかく白米だけは気のすむよう満足に食べたい口だった。
寺という環境で育った義母なりの、白米への思い入れかもしれない。
義母は「もっと食べろ、食べろ」と私に口うるさかったが、私は家にいれば、一日1回夜、一膳の白米をいただく。この基本は若い頃から変わりようがない。


その米が、売り場の棚から姿を消した。品薄と言われてここ久しい。
新米の時期には「仏さんに」と大きな袋であげて下さるご門徒がおいでだ。変わらぬお気持ちへの感謝の念が深まる。
底をつく前にと意識はしていたけれど出会いに恵まれず、少々不安になりかけてきた先日、5キロの新米が手にはいった。

「米の飯さえあれば生きていける」
これを一つの灯りとして、これからはそう信じて生きなければならないのだろうか。
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名作・大笑

2024年09月05日 | こんな本も読んでみた



徳島県南部の霊峰剣山から、みちのくの蔵王へ。
手にした物語の舞台は移った。

養護施設愛光園で育ち、剣山に鎮座する剣神社の、二人とも60歳を超えた宮司夫妻の養女となった珠子の二十歳までの人生が描かれ、ラストは豊かな余韻を残して終わった『天涯の花』。
そして新しく『錦繍』(宮本輝)のページを開くと、そこは(先ずは)蔵王だった。

 

「蔵王のダリア園から、ドッコ沼へ登るゴンドラ・リフトの中で、まさかあなたと再会するなんて、本当に想像すらできないことでした。」
手紙の冒頭はこの一文から始まっている。

この作品を知ったのは、乙川勇三郎氏の『二十五年後の読書』の中でで、
作品中、編集者響子が旅先にもっていった本を読む箇所があり、アメリカ文学の「体の贈り物」から「忍ぶ川」「冬の梅」と読んでゆき、「死の島」の語感と長さにためらって、手にしたのが「錦繍」だった。

響子に託し、- 書簡体小説は苦手だが、これは例外で、今や原始的な通信手段となった手紙だからこそ伝えられるもののあることを再認識できてよかったーと書き添えてある。
未読でもあり、“乙川氏の言われる作品だから!”という理由で昨年3月に購入したのだった。

10年ぶりに再会した元夫との往復書簡。
もうしょっぱなから無理心中の巻き添え、離婚、変貌の激しさ…、となんだか暗い、重っ苦しい言葉ばかりが続く。
「地獄」?
でも、“愛と再生のロマン”らしいのよ。せっかく買ったんだし、宮本作品だし、読みつつあるところ。


こちらは、「父のじごく」
って、何を見た? 何があったの? (受けるなあ)と笑いも漏れたが、この発想はどこから…?? 


「父のじごく」「姉のぼう力」だなんて。書こうとした心というのか頭のうちは如何に? 何が潜んでいるのかしら。笑っていればいいのかな。

            9/7 「『父のじごく』??」 を 「名作・大笑」と改題します

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縁を生かして

2024年09月03日 | 日々の暮らしの中で

   葛の花 踏みしだかれて 色あたらし。
        この山道に行きし人あり
 
釈迢空(折口信夫 1887-1953)の歌集『海やまのあひだ』の巻頭の一首。

深い紫紅色の花房が無惨にねじれて踏みしだかれている。この山道に自分より先に入っていった人がいる。どんな人か。
先んじられたことを口惜しがっているのではなく、私と同じことをたくらみ、それを実行した人がいるということに胸がときめいているのである。
杉本秀太郎氏はこのような意を読んでおられる。歌意は平明ではない、と言われる歌だが。

今日は迢空忌。

 

「折口信夫」の名を知るきっかけとなった『折口学への招待 民俗文学への入門』は、高校を卒業して大学入学までの間に読んでおくよう古典の授業を通しての恩師から紹介された幾冊かのうちの一冊だった。
あとに続きたい。先生のような古典の授業をしたい。日本文学、それも中古文学を専攻したい、と自分の進む道をすでに思い描いていた。

日本文学の根底にある民俗学的方法なるものへの案内として、提示して下されたのだろう。
本がというより、恩師との大切な思い出の一つということで大事に手元に残している。
師とは長くハガキや手紙でやり取りさせていただいて、筆跡を、漢字とひらがなのバランスなど文字の表情とでもいおうか、よく真似をした。

民俗探訪のためにと足を使って分け入ることもなく、研究成果をいただく机上の学問だったけれど、学び、知るにつけ作品を読むうえで深みが増す。それはそれで楽しいものだった。


ここ最近、大昔の学びを振り返る機会に恵まれて、懐かしい自分をそこに見出している。刺激が、自分をつつく。触発されて残っているちょっとの関心が、気持ちを動かすのだ。何年振りかというほどに『身毒丸』を読み返し、「次」を考えている。
これは幸いなことね。
ともし火が消えないうちにと縁をも生かす。生かさないなんてもったいないでしょ。

窓の外、冷ややな空気の中に澄んだ虫の声。

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木組み・心組み

2024年09月01日 | 日々の暮らしの中で
昨夜、NHKの番組「新プロジェクトX」を観た。1300年を経た薬師寺東塔の全解体修理に携わる職人さんたちの〈技と哲学〉、挑戦の姿に見入った。




1300年の荷重で腐食したりゆがんだ心柱をはじめに1300あるという部材を、「創建当時の工人たちの心になって」仕事をされていく職人さんたち。
2012年に開始された修理は2019年に終了、9割の部材を生かすことができたと伝えられた。近しい者の幸せや世の安穏を祈りつつだったろう。


飛鳥時代から受け継がれていた寺院建築の技術を後世に伝える棟梁・西岡常一さんを描いた
映画、「宮大工西岡常一の遺言 鬼に訊け」を見たことがある。
「技法に世襲なし」 は名言として残る。

法隆寺の大工には代々口伝が伝わっているそうで、西岡氏も祖父の常吉棟梁から教えを受けていた。
「木は生育の方位のまま使え、東西南北はその方位のままに」
   山の南に生えていた木は、塔を建てる時に南側に使え。北の木は北、東の木は東、
   西の木は西に、育った木の方位のまま使えと。
   
「堂塔の木組は、寸法で組まず木の癖で組め」
「百工あらば百念あり…」

「木の癖組は工人たちの心組み」

木と同じように人にも癖がある。
木の癖を生かした木組みをし、工人たちの心を汲んで心組みをする。
ありとあらゆる職人たちが心を一つにして仕事に向かえる集団にしていくことは、棟梁の器量なのですな…。
物の見方、人とのつきあい方、教えられるようだ。


「初め器用な人はどんどん前へ進んでいくんですが、本当のものをつかまないうちに進んでしまうこともあるわけです。
だけれども不器用な人は、とことんやらないと得心ができない。こんな人が大器晩成ですな。頭が切れたり、器用な人より、ちょっと鈍感で誠実な人の方がよろしいですな」

1300年、ここに建ち続けているということが、建て方、材の用い方…誤りではなかったことの証しとなること、印象に残った。
創建当時の工人さんたちの技法、哲学、祈りの心、に遠く遠く思いをはせてみる。

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