京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

結願日中(けちがんにっちゅう)

2019年11月28日 | 催しごと

今日、28日は親鸞聖人の御祥月命日。10時から報恩講、結願日中(御満座)にお参りさせていただいた。

声明は坂東曲(ばんどうぶし)が用いられ、念仏と和讃の繰り返しで、体を前後左右に力強く動かして勤まります。力強い、ダイナミックな声明です。これまで一度もこの日の法要にお参りしたことがなく、今年こそと予定していたのです。5分、10分と家を出るのが遅れ、15分ほど前に駆け込みましたが、御影堂に上がってみますと…。

親鸞聖人の御真影(聖人の木造)が安置された御影堂ですが、もう座るところが見当たらないほど、いっぱいのお参りでした。
内陣と外陣を合わせると927畳とか。外陣だけで700畳以上あるというのに、いっぱいです。門前には10台は超えると見える大型バスが並び、まだ降りてこられていました。
2時間半の立ちっぱなしは辛い。すき間を探して、南側(御堂の左手)へ移動。そこいけそうじゃない!? 厚かましい?? いえいえ、そこは、とひと声。入らせていただけないものかとお願いしますと、周囲の方々が少しずつずれて一人分あけてくださいまして、ありがたいことでした。

ご恩に報謝し、み教えを聞信し、共に念仏申す身となっていくことを…、改めて心に刻み誓わねば…。
なんせ我が強く、さまざまな欲にもまみれ、自分で道を切り開いてきたと思いがち…。
「わがはからいにあらず」「なるようにしかならない」「しかし、おのずとなるべきようになる」

   この手で
   日々を
   かきわけているようなれど
   気がつけば
   仏の手のままに   

と、は榎本栄一さん。

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散っても美しい

2019年11月26日 | 日々の暮らしの中で

ピンクと空色のランドセルを背負った二人が脇道から飛び出してきた。周囲、私の存在など目に入っていないのだろう、体を寄せ合いじゃれるように笑い転げている。前を歩く二人の楽しいひと時を見ながら歩いていた。
と、♪あ~きのゆうひ~に 照る山モミジ~ こ~いもうすいも数ある中に
まあ、上手だこと。二人、声をそろえて高らかに、のびやかだ。楽しそうに弾んでいた。それでいい~。

銀杏の色づきが鮮やかになるにつれ、報恩講行事の準備のことが頭を離れなくなる。たちまち支度に追われながら、この美しい銀杏黄葉を踏んでみた。嵩もあるが葉は水分を多く含むせいで、しっとり感がある。この句の感じ、なっとく。

     銀杏黄葉かかとに遠き音のあり  田村ひろ

秋の黄金の美の演出は最後まで美しい。さて、私自身は…。
昨日は母の祥月命日だった。


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報恩講に参拝

2019年11月21日 | 催しごと

今日から28日まで東本願寺では報恩講が勤まります。午後からのお勤めである初逮夜集会(しょたいやしゅうえ)に参拝。
門徒感話、報恩講法話に続き、「正信偈句淘」「和讃」「回向」、90人に近い(以上?)と思われる僧侶が内陣にて唱える法要は平素ないことでありがたい時間です。素晴らしい楽です。

〈私たちは時に立ち止まります。こんなはずではなかった…。これでいいのだろうか…。〇〇さんが亡くなってもう。。年か、等々。その機会はそれぞれにあるようです。ただ、これらは時の経過の中で自分を見つめているわけです。そうではなく、自分を厳しく、深く見つめる機会が大切であり、例えば、「わたしは〇〇さんに死なれた」と、主語を「わたしは」として他者の死を自分のものとして考える視点が問われる…。〉 法話はこのあたりまで筋を追ったのですが、以後…さて……なんですよね…。ようわからんままでした。

ただ、ブログを通じて随分前に教えていただいた滋賀県近江八幡市のお寺の掲示板にあったという法語を思い出していました。
   亡くなった人が
   どんな死にざま 生きざまであろうとも
   その人が わたしにとって
   教えの仏として拝み直されるとき
   ほんとうの出遭い「供養」が成り立つのでしょう


「生きるということは」「私を生きるとは」。深く自分を見つめることなくして己の一生は定まらない…。自身を見つめる眼をいただき、思い通りにならない一生を大切に生き抜く力をいただく。他者の死を通して自分と出遭いなおす…。法話の先を、先に、そんなこと考えてみる機会でした。
が、ようわからんままで、聞き直しが要るようです。
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川水も空気もくれないに

2019年11月19日 | 日々の暮らしの中で
 明神川も空気もくれないに染めて


まもなく公開だという映画に誘われて、念頭になかったものだけに思わずタイトルを聞き返してしまった。
「えっ、忠臣蔵!?」 内心の声は言葉にしなかったけど。
「忠臣蔵」はこれまで映画、ドラマ、書籍によらず積極的に見たい、読みたいと思ったことがない。なぜか、どうしても興味がわかない…。では断ったか。いえ、お誘いに乗った。

【大石内蔵助は討ち入りまでの収支を「預置候金銀請払帳(あずかりおきそうろうきんぎんうけはらいちょう)」という帳面に記していた。使われた経費は今の金銭価値では8千数百万円にのぼる。その個別の使途と金額が記録されている】
京都・太秦から生まれた映画、「決算!忠臣蔵」のことが今日の新聞で大きく紹介されていた。
赤穂浪士が討ち入りを果たすまでにかかった“お金”に焦点を当てたコメディ時代劇で、監督・脚本は「殿、利息でござる」の中村義洋氏だと知った。


だからと言って興味がわいたということもないが、これまでにも2度ほどこういうケースがあって、後悔したことはなかった。友の選択眼を信じることになる。自分では選ばないけれど、見終わって心がぽうっと染まればいいのだ。
そんなふうに友人たちによって私の世界もさまざまに広げられてきた。
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金戒光明寺山門で

2019年11月17日 | こんなところ訪ねて

比叡山を下りた法然が草庵を結んだことが始まりとされる黒谷の地にある金戒光明寺。山門の特別拝観が行われているので出かけてみることにした。
36段ほどの階段はチラッと上をみたら「こわっ!」となる急階段で、ロープを握り足元だけを見て一段一段上がっていく。

南に開け、東よりに南禅寺の三門が見え、正面に知恩院の三門、八坂の塔、その横に祇園祭の山鉾に似た形で祇園閣がそびえるのがわかり、ぐっと手前には平安神宮の朱の鳥居が低く見える。少しずつ右手に目を移せば大阪湾に流れ込む淀川の方面まで、となると伏見、そして天下分け目の戦いとなった山崎の合戦場だし、あべのハルカスのビルもうっすらと目に入り、京都御所、左大文字も見えた。素晴らしい眺望が開けていた。
この山門は応仁の乱で消失後、1860年に再建されたものだという。天井には極楽図ではなく浄土宗には珍しい龍の絵が描かれ、外陣の四方を飾る花の木彫りの細工も美しい。

幕末の文久2(1862)年、京都守護職に就任した会津藩主松平容保はここ金戒光明寺に本陣を置いたのだ。広く見渡せる立地の良さ、塔頭が多く、多くの兵士を交代に住まわすことに適していたという。会津藩預りという形で始まった新撰組を配下に、京の治安維持にあたるようになっていく。藩主容保公もここから、更に良い展望で景色を目にされた…。

    童門冬二氏の歴史小説が好きで読み続けていた時期があった。池田屋事件の前…。、
「長い石段上の、それも東山の中腹に溶け込むように建てられたこの寺〈金戒光明寺〉は、深い樹々の重なりの中にあって、静寂そのものである」
「会津藩主容保は、幽鬼のように痩せほそっていた。もともと丈夫ではないのに、入洛以来の精神的緊張が溜り、容保の神経を極度に消耗させた」ほとんど食欲がなく、「夜もほとんど眠れず、どんな小さな音にも敏感に反応した」鳥が啼く、獣も走る。落ち葉のカラカラとした音。動悸を早め、心臓も弱っていた。
「容保は純粋である。潔癖だ。人間の不正や邪心をことごとくきらう」。守護の責任を四六時中考え、ついにからだをそこない、神経まで痛めてしまっていた。…などと描かれる






(極楽橋を渡り、三重塔への石段を上がる途中で左に進むと会津藩墓地へ。途中視界が開ける)

小説だ。しかも私自身がこの時代に詳しいこともない。ずいぶん前に読んで忘れている。だが、それをパラパラとページをめくり返してさらうだけでも、あの時代にここで…、と思いを馳せるには十分だ。極めて自己満足の範疇だけど…。

池田屋騒動、禁門の変を経て、戦死、戦病死した会津藩士に仲間小者など237霊が葬られ、鳥羽・伏見の戦いで戦死した藩士115霊も合祀されていると記されていた。
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「坂本龍馬追悼」

2019年11月15日 | こんなところ訪ねて
江戸中期から明治にかけて、北海道、東北、北陸、西日本を結ぶ北前船の日本海航路は、日本の大動脈だった。「板子(いたご)一枚下は地獄」の荒海を乗り越え、積み荷を売り買いして富を残した。その起点となったのが山形県の酒田港。

【西周り航路を使う“北前船”で大きな利益を上げている海商の一人に銭屋五兵衛がいた。彼は加賀百万石の前田家のために奮闘していた。夏、彼は酒田にいた。酒田港全体を見おろせる日和山に登り、「日本一うまい庄内米を直接大阪や江戸に送ろう」と考えた。……】

      童門冬二著『銭屋五兵衛と冒険者たち』はこんなシーンから始まっていくが、彼亡き後も「海に国境はない」の理念を継いで幕末の激動期に国際化の道を歩んだ冒険者たちが描かれている。ここに、勝麟太郎をつけ狙い?門前をうろつく坂本龍馬が登場してくる。
…物語は「坂本さんが懐の中で握っていたのは、きっと万国公法だ。海の国際法だ」という言葉が最後を締めている。


没後152年。坂本龍馬追悼展が行われている。
海援隊の京都本部を置いた「酢屋」は、この地で260年余り続く材木商だった。。店の前は高瀬川の流れを引き込んだ大きな舟入で、船の荷揚げが行われていた(今はきれいなアスファルトが敷かれ、向かいは大きなホテルが建つ)。船の荷と一緒に伏見、大阪からの情報も入ってくる格好の地でもあった。1階部分は間口いっぱい木材が運び込まれ、積み上げられた写真が残っていた。

6月になって身を寄せた龍馬さん、24日には乙女ねえさんに宛てて長い長い手紙を認めた。それが3年ぶりに公開され初めて拝見した。重要文化財になっている。本文の前に、薩州屋敷に行こうとして、その前にこの手紙記しているということと、三条にある酢屋に宿するということが書きたされてあった。確かに龍馬さんは「ここにいた!」のだとわかる。 

身に危険が迫るのを察し、近江屋に移った晩11月15日に殺された。当日はたまたま隊士が大阪近辺に出払っていて酢屋は手薄になっていたようだ。隊長が襲われたことを知らせる書状を受け取り急ぎ京に戻った隊士たちの名。事件以後の経過が記された海援隊日誌は8代目になって天井裏から発見された。商家でもあり、かくまったことが公になっては商売に響く。密かに隠して守ってきたのだ。後年この日誌は「涙痕帖」と名付けられた。

龍馬さんがいた2階の格子窓(西・左)の奥は8畳ほどで、ギャラリーとなって「涙痕帖」も含め遺品類の公開がされている。龍馬を守れなかったことを6代目は悔いていたとお話が…。

「海に国境はない」の言葉とともに出かけてみた。


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琵琶湖一周大周り

2019年11月12日 | こんなところ訪ねて

京都駅10時45分発の琵琶湖西側を走る湖西線に乗って湖北の近江塩津駅まで。敦賀行きですので下車、近江塩津でJR琵琶湖線に乗り換えて京都駅に戻る、びわ湖一周大周りに出かけました。女3人、二度目の試みです。
車内で食べるお弁当を買い、京都-大津間の往復切符(400円)を購入。乗り換えも5分たらずの接続で、およそ3時間で一周してしまいました。

海もなく、唯一身近なのが琵琶湖。湖面のきらめきなど見ていると不思議と心躍るものがあります。
 「お~おみのみー ゆうなみ(み)ちどりながなけばー こころもしのにいにしえ おもほ ゆ」
柿本人麻呂の歌の懐古、哀愁の響きを、孫のJessieは3歳の夏に高らかに、いえ、雄たけびのように唱え上げたものでした。暗誦、ただ覚え込ませられて。

「楽浪(ささなみ)の比良山風の海吹けば釣りする海人の袖かへるみゆ」
  強風が湖上に荒れ狂う山風、比良八荒が詠われたり、
「何処にかわれ宿らむ高島の勝野の原にこの日暮れなば」
「高島の阿渡の水門(みなと)を漕ぎ過ぎて塩津菅浦今か漕ぐらむ」
地名を含めるなど古く万葉の歌人たちによっても琵琶湖岸の地は詠われ、多くは知らない私にもいくつか好みの歌は挙げられます。

「茜さす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」「紫のにほへる妹をにくくあらば人妻故にわれ恋ひめやも」
この額田王と大海人皇子の歌に誘われて蒲生野を訪れたのは、もうはるかはるかに昔のこと。

        
女3人、3人でも揃うことは難しく、たまりにたまった話を矢継ぎ早の話題交換。その後もお喋りしどうしさんの聞き役となると、私の関心の先などどこへやら。あれこれ思い出を手繰ったり、物思う自由は奪われて…。まあ、そんなものとは思うのですが、他人の関心事に関心などないということは大いにありうることだとつくづく…。電車に揺られ、思うことは少しずつ異なるのでした。遠慮もなく気兼ねもなく、だからか愉しかったですが。

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月が!

2019年11月11日 | 日々の暮らしの中で
午前と午後の2回、地響きのような雷鳴に稲光がして雨が降りました。
外出予定もなく、書き物をしては本を読んだり、うとうと。のんびりひと休みの一日でした。

素晴らしく澄んだお月さんが上がっています。顔を真上に向けた、高い高い空の上で冴えを放つお月さん。きれいです。
明日のお天気は約束されたかな…。
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小春日和に

2019年11月09日 | 展覧会

立冬を迎えたが、快晴の青空が広がっている。連れを得て、実は3度目となる「佐竹本三十六歌仙絵」展へ出かけた。
いつも何かしらちょっと間に合わず、どうして一度で済まないのかと思うことはたびたびだ。
今回、中務、伊勢、斎宮女御の歌仙絵は出品されていない。原本である絵巻2巻を模写した中で斎宮女御の姿は見ていたが、会場に置かれていた冊子をのぞいてみることもなく、展示物をくまなく見ていこうと欲をかき過ぎてきた。
自身の目で観る機会は「次」が無いかもしれないなら、カタログ写真ででも一見しておきたいと思ってのことだった。積もれば大枚だ…。
なんとなんと、中務の像は長野県諏訪市のサンリツ服部美術館で公開されるのだそうな。しかもこの時期かぶさるように…、なんてことよ。

帰りに南向かいの三十三間堂に立ち寄った。
1973年に始まって45年に及んだ千手観音立像1001体すべての修理、保存整理が終わったと報じられて以後、訪れたことがなかった。毎年20体ずつ、埃の除去や表面の金箔の補修を行ってきたという。2013年度からは40体に増やして補修されていたという。みなお揃いで圧巻だ。1.6mの高台が据えられていて、上がって後方までお姿拝見。「厳かな輝き」には少し期待を膨らませ過ぎた。

入口に十月桜だったか。紅葉がきれいでした。                  (写真は鴨川べりの桜の紅葉)
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口だし? 支配?

2019年11月08日 | 日々の暮らしの中で

孫の2歳児と公園に行こうと家を出た。キックバイクにまたがり、彼は左方向へ蹴り出したので木工を趣味にする近所のおじいさんの仕事場近くを通ることになった。

ドアが開いているのがわかると、「おっちゃんのとこ行こっ」と寄り道だ。「今日はまっすぐに行こうよ」なんていう私の言葉など耳に入らないのだろう。道路の真ん中にバイクを横倒しにして駆け込んでいった。「おお~、来たのか!」「一人で来たのか?」 いつもと同じ言葉で迎えてくれている。

この日、「おはようございます、って行くわ」と口にした。おはようございます?? 午後2時を回っている。つい、「こんにちは、って行かなくちゃ」と口をはさんでしまった。

【子供の好奇心を「どう育てるか」という議論には、それを「どう守るか」の視点が大切で、子供の好奇心を尊いと思うことに尽きます】
と、幼稚園の園長先生が言われていた。

2歳児は月に2回、“がっこう”(幼稚園)に通っている。ああ、「挨拶」を覚えてきているんだな、などと面白く嬉しくも瞬時には受け止めたのは間違いなかった。それなのに、だ。時刻がどうのと、大人のジョーシキ、思いで彼を支配してしまったような後味の悪さが湧いてくる…。どう言葉をつなげたらよかったのか。なぜかあれから心に引っかかって仕方がない。
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絵巻切断

2019年11月06日 | 展覧会

歌仙の肖像画を「歌仙絵」といい、社殿でよく見かける絵馬が思い浮かぶ。また、百人一首のよみ札にある人物絵は、身近で広く名歌とともに親しまれているものだろう。

「佐竹本三十六歌仙絵」は13世紀ごろ成立したとみられ、江戸後期に秋田県の藩主・佐竹家に渡ったために「佐竹本」と呼ばれ、現存する最古のものだという。一旦は実業家の手に渡るが、ふたたび売りに出されることになった。だが、あまりに高額で買い手がつかなかった。そこで、海外流出を懸念した経済界の重鎮・益田鈍翁が発起人となり、絵巻を一歌仙ごとに切断し共同購入することを決めた(大正8年)。だれがどの絵かは、くじ引きで決められた。(鈍翁は最も高額で斎宮女御を手に入れたとか)

散りじりになった歌仙絵。中にはその後も転売されたり譲渡、寄贈の流転もあったようだが、鎌倉時代の絵師によって描かれた絵に大正時代の茶人が出会い、新たな美意識で表装され、大切に保管されてきた。
その変遷、科学的な分析によって明るみに出たこと(衣装や顔の表情の描き方、使われている絵の具・・)等々、新聞紙上や10月来3回ほどNHKの番組でもオベンキョーさせてもらった。これは御覧になられた方も多いことでしょう。


今日からは後期の展示が始まり、作品の一部入れ替えで小大君が掛けられた。
歌の情趣を解し、詠んだ人物の心情までを描き出す細やかな絵師の工夫。恋の病に浮かれて頬をポーッと染める藤原仲文の表情をかわいいと言ってよいのかな。後ろ向きの小野小町に添えられた歌が「花の色は…」ではなく、「色みえで移ろふものは世の中の人の心のはなにぞありける」だったことは、奥深くある女の(小町の)心情を歌って、いいなあと思うところだった。
歌と組み合わせた肖像画の描き方、見方。ものにはさまざまな感受の仕方があるということが面白い。小町、斎宮女御、小大君に伊勢、そして中務、この5人の女性の美しさを、できればもう一度見分けておきたいが…。
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『閉鎖病棟』

2019年11月04日 | こんな本も読んでみた
映画「閉鎖病棟」が公開されると知ったとき、ぜひ見たいと意気込んだ。が、…。


『閉鎖病棟』(帚木蓬生 新潮文庫)を読んだのは2013年のことで、細かには物語の展開を忘れてしまっている。
気持ちは常に張り詰めどうし。ほぐれることがなかった、という印象が残されている。作者の人間観だろう、人の本来持つ善性に最終的には救いを感じて胸熱くなった。人間の弱さ、強さ、やさしさ。まさに人間の心の諸相が描かれているのではなかったか。…そんな記憶がある一冊。

6年間も寝かせておいたから、初発の印象はきっとより深く感銘させられることになるか…。また違った読み筋に心も揺さぶられるだろう。
読書百ぺん式は薄れた言葉かもしれないが、映画よりも再読を、と気持ちが変わって読み始めている。

とにかく休養、こんな思いが支配したこの数日。何をするでもなく、のんびり過ごした。
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「また あした」

2019年11月02日 | 日々の暮らしの中で
    

孫のTylerが参加しているサッカーの練習場所が家から少しばかり遠くて、ちょうど木曜日に娘宅の留守を預かることが続き、車で送迎をしていた。6時終了後、自転車で一人帰らせるのは心配だからという理由だが、必ず下の2歳児が同乗しついてくる。

近くのコンビニに車を止めて待っていると、別の習いごとから帰る自転車に乗った友だちと合流し、二人がそろってやって来る。このK君は、後部でチャイルドシートに座ったまま窓を開けて待つ2歳児に声をかけ、ひとしきりちょっかいだしては戯れている。
その合間にも私は「車に気を付けて帰ってね!」とくどいほど念を押す。彼の家はさほど遠くはないらしい。

「Tyler、またあした!」
「バイバイ、またあした」
「バイバイ、あした学校で」
「バイバイ」

最後、別れ際の二人の挨拶は決まってこう繰り返される。
「またあした」と口にするKクン。
「あした 学校で」、もいいなあ。性格の温かさが伝わる。
彼らにすればフツーの会話のようだが、小学校2年生の男の子同士のこの言葉のやり取りに滲む親しさが、なぜか幸福感を誘ってくれた。


今夜はラグビーワールドカップの決勝戦。さて、優勝はどちらに…。
Tylerは明日3日に花園で大阪府下の大きな大会があるようで、やけに気合が入っていた。


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