京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

「首飾りにするために」

2020年01月31日 | 日々の暮らしの中で


    一月三十一日
  よく気をつけて、人と人との橋渡しをし、糸をつないでちょうだい。
  一つ、また一つ、笑顔の花びらをつないで、首飾りにするために。
                (「ほのかに白粉の匂い」)

何度か読んでいるのに心に留めて出会えないできた、田辺聖子さんの香りある言葉。氏の歳月が生み出した何気ない、やさしい、滋味あふれる言葉はいつも心をやわらかく満たしてくれる。
ここのところ低い空が毎日のように頭上にあったが、久しぶりに青い空が見えた。時雨れて虹がかかった。
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古木をひとり見つつ

2020年01月29日 | 日々の暮らしの中で
近くの梅林ではちらほら咲き出した花がほのかな香りを漂わせていた。


我が家の白梅の老体もいまだかつてないペースで蕾をふくらませ、春めいた色味を増している。

百花の先駆け、春告げ草。「ひとり見つつ春日暮らさむ」なんて洒落てみたいところだが、光の色も違うし、まだ1月末。

それでも雨上がりの静かな境内で、かすかな命の気配を楽しんでいた。開花前のこの清楚さが好き。ゆっくりゆっくり咲いてほしいわ、古梅さん。


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もやもや…「キャッツ」

2020年01月27日 | 映画・観劇

週末、孫娘と大阪の梅田で待ち合わせて映画版の「キャッツ」を観た。何かの折にこの予告を見ていたので、二人して公開を待っていた。上映開始時間より1時間半ほど早めに落ちあい、昼をすませ、行きたいというところに付き合って、あまり開けたくない財布を何度か取り出すことになる。「買ってぇ、お願い~」なんて迫ってくるからたまらない。

肝心の映画は、なんかよくストーリがつかめなくて、もやもやとしたまま。なんかよくわからなかったなあで、面白かったとも言えない。それぞれに場面があって、なんで今この場面、この展開?という感じで流れが追いにくかった。

ごみ溜めに袋が投げ捨てられるシーンから始まった。一斉に多くの猫が袋の周りに寄ってくる。その中に入っていたのが、かわいい子猫ヴィクトリアだった。そして、昔は劇場のスターだったが身をやつし、どぶネコのようにうす汚れ、猫仲間から疎まれているのが老い猫グリザベラ。華やかな思い出を支えに、生きる力を点すことはできるはずと、子猫は身をやつした老い猫に思いを寄せていくかに思えた。両者の心の通い合いを感じさせるシーンがあって、後半、そこでグリザベラが2度目となる「メモリー」を歌ったとき、なんやらじんと胸打つものを感じた。
孫娘は14歳ながら「過去にとらわれていてはいけない」と口にすることがある。そして、実は自分は過去を引きずってる、なんて言い足す。つい先日も。へえぇ、引きずる過去って…と思い聞いた。

「天上に行く」という言葉があった。年に一度、長老猫によって選ばれた1匹の猫は、天上に行って生まれ変わり、新しい生活を始めることができるのだという。長老は、その1匹に薄汚れたグリザベラを選んだ。ラスト、グリザベラはロンドンの建物の尖塔よりも上へ上へ、気球のようなものに乗って天へと昇って行った。「天井に行く」シーンだった。
少しでも神様に近づきたいという思いで西欧では建築物は高く築かれると読んだことがあるが、人(ネコ)生の再生が天上へと言うのが、わかるようであって、年に一度なぜこの展開になるのか、スッキリしない。やっぱりイマイチようわからんなあとエンディングの画面を見終わって、席を立っても無言でしばし…。

「歌がよかったね」、と孫娘。互いにストーリーのことなど語り合わずに駅へ向かった。どうだったのだろう。今度会ったとき感想を聞いてみよう。
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「家族って…あたたかいもの」

2020年01月24日 | HALL家の話
娘から子守の依頼があるとどうしても前日からの予定を組まねばならず、二泊ほどして帰ることになりました。


8歳の兄に挑発された3歳児。真っ向から挑んでのしかかり、手も出しながら兄退治に激しさを増します。兄は手加減して防戦一方でいますから、こうしてピースピースの余裕もありです。3歳児のムチャクチャな様子がおかしくて、見ていました。

この二人とはすこしばかり年齢が離れて長女は14歳。日本では今はまだ中学2年生ですが、オーストラリアでは日本の中学3年生にあたる年度が始まりました。高校進学を考え、こちらでの年度末が終わり次第、娘家族は新たな形での生活を選択することになるようです。

日本へやってきたことも、ここで今新たな形を探るのも、彼ら家族の相談の結果…。私たちにはその選択を支えてやるしかなく、谷川俊太郎さんの言葉を考えているところです。「もたれ合う、依存し合う家族よりも、ゆるやかな絆でむすばれた個人の集まりとして家族をとらえる」「血がつながっていようと、…自分ではない人間を一個の他者として考えることが必要な時代になっていると思う」。気になる点は多々ありますが、そうしたことも父親に任せて見守ることになります。

     
今少しこの兄弟は日本での生活を続けます。家族が揃って暮らす日まで、どのくらいの期間になるのか。正しい選択なのか否か、わかりませんが、どのような形をとるにしても、いつだったかTylerが言った「家族ってそういうあたたかいものなんだよ」の心を共有した家族であることを思うばかりです。
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うつし世のものとしもなし

2020年01月20日 | 日々の暮らしの中で

立ち寄った神社の社殿の裏に淡く冬桜が咲いていました。
   うつし世のものとしもなし冬桜    鈴木花蓑
   
今冬は底冷えを感じることもないままに、今日は「大寒」。ちらちらのちらとも雪は降らず、
初雪をまだ見ることがありません。
雪を風流の楽しみとするは温暖地の人、とか? でも、やはり冬はどこかで雪を待つ気分があります。
「冬の供物」という言葉をどこかで何かで見かけたなと思うのですが…、忘れてしまいました。
  
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ささやかな、十分幸せな新年会

2020年01月18日 | 催しごと

尼講さんの新年会でした。11人参加(にプラス2名で)、まあ、お喋りが弾むこと! 口がよく動くうちはみな健康なんです。

平常のお講さんは基本的には白飯持ち寄りで、お汁と漬物を当番の組が準備します。お豆さんを炊いて持参してくださる方がいると、あるいはこちらでお豆さんなどたいて、そういう時は一品増えるわけです。ご飯はどうせ我が家で炊きますから、「〇〇さん、ご飯なかったらうちにあるでかまへんよ」と今は亡き義母が言い始めたことで、いつの間にやらおくどさんでのご飯炊きも追加仕事になりました。
ただ今日は新年会。仕出し屋さんにお料理を頼みますのでお汁を作ることもいりません。漬物を持ち寄って下さるので小鉢に盛り合わせます。

この仕出し屋さんは商店も営んでいて、中味が空の財布を持って出た私を、どうってことないという顔つきで「かまへんよ、つけておくさかいにな」とレジ打ちしてくれたお店なのです。まあ、その代わり、と言いますか、暮れには正月用品を「〇〇と▢▢▢と△△△と。。。と頼むでなー」式に店側の注文を受けたもう事になります。これも義母の頃からのお付き合いで続いています。代はどちらの側も変わりました。

高齢集団で行動範囲も狭い尼講さんたちですが、テレビからの情報収集力には長けていて芸能部門から社会問題までこなし話題に事欠きませんのですよ。喋って笑って、よく口を動かすことで脳も活性化、健康の元です。「keiさん、おおきになー」。ささやかながらも楽しんでお帰りです。
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現金払い

2020年01月16日 | 日々の暮らしの中で

近くに買い物に出て。
確か16…67円ぐらいだったか、現金を出しました。
と、レジの女性は「現金でいいですか」と聞いてきました。
いいですか?って、いいから出しているのに、煩わしいなあ…と思ってね。
「はい」

〈いつもニコニコ払う現金〉 
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なんとか仕上げ…

2020年01月14日 | 日々の暮らしの中で

ちょっとした書きものの仕上げに向かっていた午後3時過ぎ。ほら貝の音が聞こえてきました。山伏姿での寒中托鉢です。
3回。3回耳にして、音は聞こえなくなりました。歩くスピードはチョー速いのです。
そしてまた、3、40分たった頃、再び聞こえました。手を休め数えていると、…6回、7・・・回目で音は遠ざかり小さく消えていきました。

筆も進み、…と言うことはないか。進みはしませんが、まあどうにか仕上げました。ほっ!! 明日、プリントアウトして完了です。前夜になってインクがない、プリンターが故障だ!なんてのは懲り懲り。

      
早く横になって読みたい本があります。面白い! 楽しんで読んでいるところです。

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全国女子駅伝

2020年01月12日 | 日々の暮らしの中で

皇后杯第38回全国女子駅伝が開催され、西京極運動公園を12時30分にスタートした。
曇ってはいるが、これまでに何度か経験した沿道での厳しい寒さはない。復路の第8中継所の少し先になる紫明通りで、アンカーにたすきが渡されたあとを応援しよと朝に決めた。通過時刻の目安(14:10から14:40)を意識しながらテレビを観ていて、1時になった。行こうか? それともこのままテレビにかじりつくか? 結局、全体の展開がわかって面白いテレビ観戦が勝った。昨日からでもあった思いは何だったのかと思いながら、一山選手が1位でテープを切るのを見届けた。

「びっくりするタイムで走るような積極的な選手が出てきてほしい」と野口みずきさんが語っていた。また、東京のアンカーの新谷選手は「1位以外で回ってきたら怪物のごとく前を追いかけますよ」と。その言葉通りの走りで楽しませてもらったし、一区の長崎の広中さんの走りも見事だった。中学生にも大学生にも素晴らしい選手はいるし、今日のこの舞台へとつながる個々人の努力の過程を思うと、どの選手に対しても声を大にした声援と拍手を送りたくなる。それなら時間もあったのだから、選手の足音も息遣いも聞こえてくる沿道に立ったらよかったのだ。…なあんて終わってから思い直してみたってね…。
今、祭りのあとの気分。

         
孫娘と往路の3区と復路の8区で応援したのは5年も前になった。御苑の西側にある護王神社の前にいるからと伝えておいたので、帰宅するや母親は「Jessieのピンクの靴が映った!」と言った。かろうじてピンクに目が留まっただけでも良かったとした。
知らない人たちと一緒になって声援を送る。これってもの凄く楽しい…。

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湯湯婆

2020年01月08日 | 日々の暮らしの中で
中国語では「湯婆」と書くところに、もひとつ「湯」を重ねて和製漢語ができている。
「湯湯婆」と書いてゆたんぽ。何故「婆」という感じが当てられるのかしら? 「婆」は俗語で妻のこと。…ああ、それで…。「妻のかわりに抱いて寝る」とちゃんと辞書に書いてあった。身体などを温める容器だからね、なるほどね、とガッテン。けど、古くは男性用だった? 


マイ湯たんぽ。足先が冷たくてなかなか寝付けず、湯たんぽ利用派だ。もっとも今冬は出番待ち。いつこのサイズに買い替えたのか記憶はないが、わずかな湯なので朝までには冷えてしまうが、寝床に入ったときに足元が温まっていればいいので簡単で便利な使い勝手です。

「炭もガスも乏しければ湯婆子(とうばし)を抱き寝床の中に一日をおくりぬ」(「子」は接尾語 『断腸亭日乗』)永井荷風の正月一日の記。言うなら寝正月ってか。 

朝は雨もあって、いつまでも薄暗かった。やがて10時を過ぎる頃から猛烈な風が吹き荒れた。古いガラス障子はガタピシガタピシ、割れんばかりの音を立てる。冬なのに「春の嵐」。今夜も湯たんぽの出番はない。
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道を選ぶ

2020年01月06日 | 日々の暮らしの中で

小寒の今朝。たまたまだったが今年に入って初めて大谷大学のホームページから毎月1日に更新されるページを開いてみた。「きょうの言葉」として次のような言葉が挙げられていた。

「物体は、より多くの仕方で触発される可能性があればあるほど、いっそう多くの力を持つ」
    (ジル・ドゥールズ『ニーチェと哲学』)

ニーチェとか哲学とか、そして「物体」などと、平素なら即座に苦手だと敬遠してしまう言葉が目に入ったのに、なぜだろうか踏みとどまった。2,3回読んだかな。 「物体」は人間、人と置き直った。何か言わんとされることが、わたしなりの読みが、頭の中をぐるぐる…。

私などは狭い了見ですでに「自分」の世界を作ってしまっているところがあるが、これから未来が開ける孫娘のことが念頭に浮かんだ。春には中学3年生になる彼女の前に、今、道は二股に分かれてある。天分が生かされるには…。どちらを選ぶか。すでに気持ちは固まりつつあるようだ。心の内の声に従って取り組む一つ一つは、きっと何か良いことにつながっていくに違いない(と、思いたい)。いつか、ああ、あのときこの道を選んでよかったと感謝して振り返ることができるように、見守ってやらなくてはならないのだろう。

著作からの一節を引いた、以下に続く解説の冒頭部分を少しだけ追ってみた。「物体」と訳された主語は、「身体」の意味も持っていると記されていた。今日はここまでにして、東本願寺さんにちょっと参拝に出た。孫娘を思いながら手を合わせた

まだ1月初めだというのに椿が咲き、多くのつぼみも膨らみを増している。

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新年を言祝ぐ

2020年01月03日 | 日々の暮らしの中で

火の気のない、まだ薄暗い早朝の本堂の冷気。そこに立ちあがるお仏飯のかすかな湯気の揺らぎ。山の端がようやく眩しい陽の光に染まりだし、まだ霧に包まれて潤う森の木々。かすかに聞こえる小鳥の囀り。どれもこれも、新しい年の祝福を告げている。

穏やかな年の始まりでした。いつもと変わらない暮らしの中で、新年を言祝ぐことのできる悦び。
もっともっとこころを動かして、どんなに小さな感動でも、笑いでもいいから何かを体験していきたいものだ。田辺聖子さんは、人間が持っている良きもの二つとして、「期待とはずみごころ」をあげておられた。

歳を重ねると涙もろくなると言うが、一方では心が動かなくもなる。人の温かさに触れて涙し、小さな命の営みに心震わせ、精一杯生きる人の姿に心打たれたり、ああ~、美味しかった、楽しかったねえなどと一日が終えられるのもまたいいし、日常きっとたくさんある感動の経験を見過ごしているのかもしれない。…「うれしかった。」と結んで終わる「歓びノート」の話が五木寛之氏にあったのを思い出した。

    冬枯れの季節に、松の緑は吉祥を招く、と。  (写真は通りがかりのお宅の門口に)
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