京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

ぎょうさんの齢いただく

2025年02月02日 | こんなところ訪ねて
【「鬼の目にも涙や流す節分の 窓の柊に行きあたりつつ」
浅井了意の「出来斎京土産(できさいきょうみやげ)」が狂歌に詠んだ五条天神社の節分祭。
平安遷都に際し大和から勧請した古社。五条大路にあり、五条天神宮とも称した。

祭神少彦名命(すくなひこなのみこと)は医薬の祖神。近世、節分に朮(おけら)を受け家でくすべ悪鬼を払う習いがあった。日本最古という宝船図の授与は今も有名で、神朮(しんじゅつ)の風習を訪ね求める参詣者もある。】


と記された坂井輝久氏の『京近江 名所句巡り』に導かれ、初めて五条天神社を訪ねてみた。
烏丸四条から西へ、西洞院通を南に松原通まで下がると右手に鳥居が目に入る。




近隣の氏子さん?か、顔見知りらしい人が多かった。


宝船と聞いてうかぶ七福神のイメージとは大きく異なって、船には一束の稲穂が乗っているだけ。
日本最古という宝船図には関心もあったが、こうして見本が貼り出されていて、それをこともあろうか?写真に収めてすます。
そんな人間でも、この一年の息災の祈りは医薬の祖神にとどくものかしら…。


※「出来斎京土産」というのはネットで検索してみたところ、出来斎という主人公が洛中洛外の名所を遍歴して狂歌を詠む趣向の名所案内記と説明されたものがあった。作者の浅井了意は、江戸前期の仮名草紙作者で、浄土真宗の僧となったという。


  
  ぎょうさんの齢いただく年の豆  桂信子

ああ、豆ばらに…。

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初まいりは

2025年01月09日 | こんなところ訪ねて
  折々に伊吹を見てや冬籠り   (元禄4年)

滋賀県彦根市高宮にある高宮神社の境内に、この芭蕉の句碑があるという。
芭蕉が宿泊したと言われる小林家は今も残っており、表札も小林のままだと嵐山光三郎氏が『芭蕉紀行』で書いていた。


昨日、琵琶湖の湖上にたたずむ堅田の浮御堂から冠雪した伊吹山を目にした。
強い風に波が立ち、ユリカモメが乱舞し、耳がちぎれそうな冷たさだった。よりによってなぜこんな日に水辺に来たのかって問われても、気まぐれにすぎない。



浮御堂は海門山満月寺と称する禅寺で、京都の大徳寺に属している。
一条天皇の時代、比叡山横川恵心院に住した源信(恵心)僧都によって湖中に堂宇が建立され、自ら千体の阿弥陀仏を刻んだ。湖上通船の安全と衆生済度を発願したのに始まると伝わる。
スリッパに履き替えてお堂を一巡する。琵琶湖大橋の向こう、東に伊吹山、長命山、近江富士、ぐるっと巡れば一部まだらに冠雪した比良の連峰に比叡山も。

初詣りであった。
扉が開けられているので、小さな千体の阿弥陀仏は目の前に。芭蕉の「鎖(じょう)あけて月さし入れよ浮御堂」の句碑がある。
元禄4年の中秋の名月の翌日、十六夜の月見の宴で詠まれた句。湖上の堂の隙間に月あかりが差し込んで、千体仏の輝きがもれ光るさまを想像してみたい。


室井其角寓居の址

堅田は一番弟子の其角の父が生まれた地で、其角は何度も訪れている。「帆かけ舟あれや堅田の冬けしき」と詠んでいる。
其角は地元の曲水(膳所藩の重臣)や彦根の許六(芭蕉晩年の弟子で彦根藩士)との親交があった。
大津は膳所藩6万石の城下町で、東海道の要衝にあって隆盛をきわめていた。近江商人の旦那衆が多くいて、其角の実家もある。土地の生活と旅するものとの交流があり、ゆったりとした自然に恵まれている。そして、どこか深川の芭蕉庵の景観とも似る。
芭蕉さんには、大津は心おきなく落ち着ける、心から安らげる地ではなかったか。と嵐山さんは思いを深める。

ここに来れたということを感謝し、つつましくも健やかにこれからの日々も過ごせることを念じた。
お初は縁起良いもの。命をいただき限りない知恵を授けていただく。
雄琴でお風呂に入って温まって帰りたいなあと思ったのに、直行での帰宅となった。愛想ないこと、一人が楽だなあ…なんてちょっぴり思う初詣に。
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雨上がりも一興

2024年10月28日 | こんなところ訪ねて
比叡山の西麓にある詩仙堂、曼殊院、修学院離宮を過ぎて赤山禅院のあたりを南から北(あるいは北から南)へ歩くのが、私が好む散策コースの一つになる。

時には勘を頼りに、初めての道を選んでみる。不安を覚える頃に、前方に見覚えのある建物や店舗が見えてほっとする一幕もあるが、まあ、歩いてさえいれば道はどこかに通じている。


昨夜来の雨が上がって、薄日が差し始めた。秋晴ればかりが良いのではないだろう。
曼殊院の白壁に土塁と、雨上がりの微妙な光を受けてしっとりと生きづく苔との調和もまた一興という感じだった。楓の青さは、はっきりしない天候を少し晴らしてくれるものだった。


何度も訪れて拝観もしているので今日はソ~リ~、ソ~リ~と心の中で手を合わせ、『駆け入りの寺』(澤田瞳子)の舞台、林丘寺が見える道へと抜けた。何やら草が茫々としている。


そして赤山さんを目指して。


赤山大明神とある石の鳥居をくぐって



「赤山明神 是より不一」とした先に見えてくる門には、「天台宗修験道本山管領所」と看板が掛かっている。
「叡山で行をするひとびとの本締めでもあるのだろう」

「赤山(せきざん)という変な漢音の名称の赤山明神(禅院)」。寺なのか神社なのか。
本来「明神」なのを「禅院」にしたのは、明治初期政府の神仏分離策をごまかすためであったろう。「明神」なら神社にされてしまうが、「禅院」なら寺として残されるから、と司馬さんは『街道をゆく 叡山の諸道』で書いておられる。


緩やかなのぼり道を進むとなにやら大声が響いてきた。マイクを通しているような声だから、威嚇されてるような怖さを覚えるものだった。
ドスの効いた早口で怒鳴り声のよう。「あーのくたーらーさんみゃくさんぼーだい」? と聞き取るものの…。

お参りがあったのか、10人ほどの人たちが出てきたのに合わせて、年配の上品な女性がテント張りの小屋から姿を現し、出くわした私に「お参りありがとうございます」と言葉をかけて下さる。きれいな方だった。



拝殿の屋根の上には猿。「危難ヲ去ル」で、京の東北の鬼門を守るお猿さんだと以前ここで聞いたことがあったような。

少し疲れたのを感じながら、下校時間となった小学生たちと白川通りへと下りた。
開放された子供たちの声に元気づけられて。
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あかあかや明恵

2024年10月21日 | こんなところ訪ねて
「 序
  栂尾高山寺を囲む山の稜線から朝日が少しずつ覗いてくる」
の一文で始まる『あかあかや明恵』(梓澤要)。



冒頭の一文には、高山寺の寺号の由来となる「日出先照高山」 - 日出でて先ず高山を照らす、が下敷きあるのだろう。
一途に華厳思想復興を志した明恵上人。8歳で両親と死別した明恵は、亡き父母の面影を釈迦に重ね合わせるかのように深く信仰したという。

明恵上人時代の唯一の遺構、石水院

富岡鉄斎による「石水院」の木額   財善童子(華厳経に出てくる求道の菩薩)

34歳の時、後鳥羽院から神護寺の別所・栂尾の地を賜り、ここが明恵上人の後半生の活動拠点となっていく。その徳業は多くの人々の信仰を集め、そして「鳥獣人物絵巻」に代表される多くの文化財も集積されていった。

梓澤氏の『荒仏師運慶』にも明恵は登場した。
〈人気のない薄暗い木立の中でひとり、座禅している…年若い色白で華奢な美僧の姿は、神々しいまでの静寂に包まれていて驚嘆したが、よく見ると衣の裾のあたりや腰のあたりに、リスが何匹もちょろちょろ動き回り、肩には小鳥が止まっているのだった。〉(運慶の弁)

樹上座禅象

世俗を嫌い、隠遁を繰り返した孤高の生涯。印象深い言葉がある。
※「人は阿留辺幾夜宇和(あるべきよう)と云う七文字を持つべきなり」- 人はそれぞれの立場や状況における理想の姿(あるべきよう)とは何かを、常に自分自身に問いかけながら生きてゆくべきである。日々、日常の中で。
※「愛心なきはすなわち法器にあらざる人なり」 - 愛する心がなければ、仏法を十分に理解できる人とはいえない。

24歳の時、右耳を切ったこと。そしてこの御詠草
「あかあかやあかあかあかやあかあかや あかあかあかやあかあかや月」

などは読み知るが、何度か高山寺を訪れてはいても明恵上人についてこれといった書を読んだことがない。
ちょっと敷居が高くて…。それなのに、これまではずっと書店で背表紙を眺めるだけだった『あかあかや明恵』を読んでみよう、とまさに一念発起の感で思いついた。なぜかわからないけれど。
その前に、今日は高山寺を訪ねてみたのだった。


史実と虚構や脚色。どのような世界が描かれているのか。少し気持ちに力を入れて一歩踏み込まなくてはならないものがあるようだ。
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歳月に耐え、新たな時間を重ねて

2024年10月14日 | こんなところ訪ねて

きのう日曜日、13日の奈良の空はすばらしい青空だった。
西ノ京駅の改札を出ると目の前に薬師寺方向を示す矢印があって、なんの思慮もなく歩きだしていた。
杉山二郎氏が「近鉄駅を西に渡り迂回して六条大路を東して、薬師寺八幡宮を拝した後、正面から訪問することを勧める」と書いていたのを読んでいたのに。
  東院堂

初めて訪れた大阪の四天王寺では、西の鳥居をくぐって境内地をうろうろキョロキョロ。整えられた伽藍配置を正面から拝すことに気も回らなかった失敗の経験をした。幸いにもなぜかそれが思い出され、「白鳳伽藍」の姿を見なくちゃと東院堂に寄り、回廊など眺めつつ南門へと歩き、中門をくぐることにした。



  左手に西塔

西塔には風鐸があった。けれど、東塔にはないことに気づいた。
風鐸と言えば、たくさんの風鐸が揺れる高野山の根本大塔が思い出される。寂聴さんがその音を「天来の妙音」と讃え、私も聞いてみたくて塔を仰ぎ時を過ごしたことがあった。
この西塔は1528年に焼失してのち、東塔への綿密な調査に基づいて設計され、伝統的な木造建築の工法で1981年に再建されている。この令和の世に至って、どのような音を奏でるのだろう。
  こちらは東塔

古色の趣のためか東塔の姿は美しく感じる。三重塔でありながら、裳階による装飾があるせいで、その軒の出が全体を六重塔のような姿で見せてくれている。
東塔は創建当時から残る建物だが、2009年から12年かけて全面解体修理が行われた。母を誘い二人で奈良を巡った20代前半、以前の姿の東塔前で写真におさまる母と私が残されたが、ここに来たのもそれ以来となる。


金堂には薬師三尊像(中央に薬師如来、右に日光菩薩、左に月光菩薩)が安置されている。風に幕が揺れて・・・、失礼ながらカメラを向けてしまった。
薬師如来像造立の意図には、病気の治癒祈願が主であって、温和で雅潤な顔貌を造形するものだが、ここ金堂の薬師如来像のお姿は「隙のない王者の風格、畏厳に満ちている」と杉田氏は指摘される。
当時の国際情勢の投影を見いだし、また、不祥事が続いた薬師寺の歴史への記述にも興味深いものがある。


今度は、眼前に塔!ではない姿を望みたい。屋並み越しにとか木立の向こうに…塔の姿を眺めてみたいものだ。
歩いて10分ほどのところに唐招提寺があるが、いずれまた訪れようと帰路に着いた。
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上賀茂の社

2024年10月09日 | こんなところ訪ねて
年に何度も訪れる上賀茂神社。


秋はこの萩の花を見るため“だけ”に、と言っても過言ではない。


「花を愛おしむわれわれの心はいつでも、花を愛おしむわが心を愛おしんでいるのであり、
また、そういう心を宿して生き続けているわが身をさらに愛おしんでいるのにちがいない」


上賀茂の社を流れる御手洗川の紅萩。
花にも花どき。伸びてたわんだ枝が、微かに風に揺れる風情など、たおやかで美しい。
草カンムリに「秋」と書く、まことに愛すべき花。
どうやら良いタイミングで今年の命を共にした、と言っておきたいな。

などとのあれこれも、なるほど杉本秀太郎氏が書かれていた通りかもしれないと思うのでした。

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ささやかな今日のひと日

2024年10月05日 | こんなところ訪ねて
思いのほか良い天気になった。2日ほど雨にこめられていたので行こうと誘って、京北町山国の常照皇寺に向かった。

龍安寺、仁和寺の門前を過ぎ、周山街道を三尾の神護寺・西明寺・高山寺に至るころには、道路わきの気温表示も28℃あったのが次第に26℃、23℃、21度とさがっていく。
高山寺の脇に市営駐車場があるが、そこから道なりにもう30分余。トンネルを3つ4つ抜けたあと、美山へと北進せずに右折する。
桂川沿いに山懐へと入っていく風景は、いつ来ても心落ち着く穏やかなたたずまいだ。

清流の向こうに茅葺の屋根が見え、常緑樹に囲まれるようにひっそりと家々が建ち、そこかしこに彼岸花やコスモスが咲き、ススキの穂が群れそよぐのを眺め、山国神社、山国護国神社と過ぎて、そのまましばらく、まだかなと思ううちにお寺への道が現れる。

駐車場から

更に石段を上がって本堂へ

もう何度も訪れているので目新しさってのはないけれど、かなりヒンヤリした風が何とも心地よかった。聞こえるのはカラスとコオロギの声。
縁も板戸も,ずいぶんと傷みが進んでいる。本堂の屋根も修理が必要らしい。北側の縁は日当たりも悪く、雨ざらし吹き曝し、足が汚れそうな気分にさせられる。

天皇陵は寺の北側、更に階段を上った高所に南面している。

南北朝争乱の時代。北朝の光厳天皇は吉野の山中をさまよい歩くなど難渋の日々を過ごされてのち皇位を去って、ついにこの地にたどり着き、終の棲家と定めて落ち着かれた。 
「こんな寂しいところにおかわいそう」と言われる人に、そのようなことはなく、ようやくのこと「安心(あんじん)を得てお幸せだったのだ」と住職は言われたとか。


朱印帳を持つことをやめて何年にもなるし、数珠だけ持ってお参りした。
静寂の安堵感の中で、何を考えるでもない。
このただただぼんやりの時間にも、目には見えないけれどなにかとの出会いが生じている。
仏との縁はあとになって気づかされることもあり、仏縁はひそかに結ばれる。
こんなひとときがほしい。
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ここはどこよ

2024年08月08日 | こんなところ訪ねて
ここはどこよと船頭衆に問へば  ここは枚方鍵屋裏
鍵屋浦には碇が要らぬ  三味や太鼓で船とめる  
                  「三十石船唄」


京阪「枚方市」駅(東見附)から隣の「枚方公園」駅(西見附)の区間を歩いて、江戸時代に「三十石船」の乗降地としてにぎわった鍵屋(資料館)を訪ねてみた。

本来は30石相当の積載量を持つ船のこと、江戸時代に淀川の伏見-大阪間を定期的に上下する客船を「三十石船」と呼ぶようになった。
屋形はなく苫掛けで、船員4人、乗客乗員28人。伏見から大阪への下りは半日か半夜、しかし上りは竿をさしたり綱を引いて船を引き上げるために倍の一日か一夜を要し、費用も下りの倍額だった - と資料館での記述を拝見。



船が枚方にさしかかると小さな船がそっと近づき、船客相手に大声で、汚い言葉で「酒くらわんか 餅くらわんか」と飲食物を商う。
煮売茶船は「くらわんか船」と呼ばれ、淀川の名物だった。
「三十石船」の乗客相手に煮売りの商いをした「くらわんか船」で使われたことから「食らわんか茶碗」という呼び名が生まれたのだろうという。

「食らわんか茶碗」を知るきっかけは向田邦子のエッセイ「食らわんか」だった。
気に入った季節のものを盛るとき、なくてはならない5枚の「くらわんか」の天塩皿があると書いていた(『夜の薔薇』収)。
「食らわんか」「よし、もらおう」となれば、大きい船から投げ下ろしたザルなどに厚手の皿小鉢を入れた。落としても割れないような丈夫な焼き物は(長崎県波佐見産のものが多かったそうだが)、汚れたような白地に、藍のさっぱりした絵付けだとも書いている。

 


この道は秀吉による文禄堤の上にできた道だ、と立寄った塩屋(屋号)さんで教えて下さった。店の向いが本陣の跡地になる。

 

庄屋と問屋役人を兼ね、幕末には農業経営を発展させ、金融業を営んでいたという大南善衛門家(屋号 田葉粉屋)が碑の後方に。



広大な敷地に蔵4棟を持つ泥町の大商家。泥町っていうには、水害も多かったのだろうか。

鍵屋資料館を訪ねた。

左手が主屋。

淀川沿いに、天正年間(1573-92)創業と伝わる鍵屋は「三十石船」の乗降地として賑わった。堤防で隔てられるまで、建物の裏手は川に面していたようだが、2Fから川が望める風景だった。大広間で、舟待ちの人々を想像してみた。


暑い中、案内するからと言ってくれた隣市に住む友人と汗をふきふきの半日だった。彼女も少し前に歩いたばかりだったのだ。
エッセイを読んで以来の心残りも晴れた。今一度もっと広範囲に川のほうまでも、秋風の吹くころならゆっくり歩けそうな気がする。
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遊び心も七変化

2024年07月24日 | こんなところ訪ねて

ただ一心にうたがいなく、弥陀をたのむ心の一念で名号をとなえることを、
ただ阿弥陀さまにおまかせして「南無阿弥陀仏」と唱えることを、
浄土真宗中興の祖・蓮如上人は言われた。

阿弥陀仏を帰依された親鸞聖人の教えを信じ、おまかせし念仏するのみ。形にとらわれず、〈教え〉こそが尊い…。
名号をとなえることを第一に、仏像など〈形〉にこだわらないとなるとバリエーションは豊富になる。

新聞紙上でも紹介されたが、このあたりをしっかり拝見してみようと西本願寺の向かいにある龍谷ミュージアムに行ってみることにした。
「衣装に!?」      名号の中に、地獄や極楽が描き込まれた「六字名号曼荼羅」
  

大工道具や仏具・楽器を組み合わせて描いた「番匠器名号」「仏具楽器名号」名号もあった。
「番匠器名号」は四天王寺の番匠堂に立つ幟に見られるという。

誰が考え付いたのか、遊び心ともいえるユニークさ。各人の好みによる自由な信仰の姿をうかがわせてもらった。

向かいの西本願寺にお参りして帰ろうと寄ったまではよかったが、何が炸裂したのかというほどの雷鳴とともにすさまじい勢いで雨が降り出した。


西本願寺は埋め木だらけということを思い出し、
  



ハートに魚が泳ぎ、ひょうたん? 堂内のケヤキの柱に、縁側の床に、富士山、軍配、扇など
縁起物が多くあるという。

接着剤を使わないでいて緩むことがない工夫がなされる。― 表側の面より少し広くした奥側をたたいて縮ませてからはめ込むと、元の形に膨らんで抜けなくなるという。修復に、木の性質を熟知した大工さんの遊び心と腕の見せ所、だそうな。

雨も上がって帰りを急いだ。もうあと5分もあれば家というところで折りたたみの雨傘を
取り出したが、再びの雷雨に襲われどぼどぼに。
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モンキーパーク 檻の中には

2024年07月11日 | こんなところ訪ねて
「嵐山のところにあるモンキーパーク、知ってる?」
昨年11月末にやって来た時からこう口にしていた孫娘でした。
あのときは「この寒いのに」とかわしたものの今回まで「この暑いのに」とばかり言ってもおられず、昨日彼女の希望をかなえようと嵐山モンキーパークに行ってみたのです。



渡月橋、さらに小橋を南に渡って右折、この道歩くの初めてです。


階段を上って入園料を払い、ミストで涼んでから、ぐるぐる回りこむように続くかなりの急坂を登って登って、途中「まだぁ!?」と幾度も思いながらマイペースを心がけて登り切りました。
(この程度ならまだ十分自分にも歩けるわ)なんて、根拠があるのかないのか自信も取り戻しましたがね。




標高160mとありました、いわたやま。
下りてくるのは外国のひとばっかり。登りで前後するのも、下り道で上がって来る人たちも、外国人ばかりです。小学生ぐらいの子供たちもいます。
入り口近くで浴衣姿の女性二人とすれ違いましたが、あんな格好ではさぞや大汗かいて厳しい山登りになったことだろうと思うのです。
登っては下りる、この循環が絶えることなく続くいわた山。
嵐山駅周辺の混雑はこの日も相当なものでしたが、モンキーパークがこんなに人気の観光地だとは初めて知ることになりました。
帰りの嵐電も、乗っている日本人は私一人かと思うほど。

園内、それほどお猿さんの姿を見かけませんでしたが、餌をやるのは休憩所の中からだけでという指定です。


人間が囲い・檻に入って外のお猿さんにエサやりする。おかしな構図だね、と写真を添付してLINEで娘家族と笑うのでした。


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竹生島 “マダムアイランド”と言って

2024年07月06日 | こんなところ訪ねて
冬休み中の孫娘はこの1日に京都へとやってきました。同行の友人は名古屋のお身内のところへ。一緒に帰国する二人は、その前日14日に大阪で合流です。


梅雨の晴れ間となった3日。前夜から予定して竹生島へと向かった。
かつて、竹生島には弁財天が祀られていることを話したことがあって(’17.1)、そのとき彼女は竹生島を“マダムアイランド”などと名付けたりしていた。ところが今ではそんなことこれっぽっちも記憶にもないのだそうな。



わずか35分ほどの乗船だが、島へと向かう前方、もやった周囲の山並みの上空に渡岸寺の、赤後寺の観音さまの姿が現れたら!?…などと想像しながら風景を眺めていた。
どうしたって、あの満月の夜のシーンが思い浮かぶのだった。

一番水深が深いとされる竹生島付近でのボート転覆事故で、娘を喪った父親(架山)と、息子を喪った父親(大三浦)が湖岸の十一面観音を巡礼することで、その悲しみを昇華させていく話が井上靖の『星と祭り』で描かれている。
子供たちが眠っている場所に二人が貸しボートを出したのは、事件から8年を経た満月の夜。

【 湖北の中でも、一番北の善龍寺の十一面観音さまが、その左手に海津の宗正寺の観音さま、
右手には医王寺の観音さま。
そして鶏足寺の観音さま、渡岸寺の観音さま、充満寺の観音さま、赤後寺の観音さま、知善寺の観音さまが、さらに長命寺、福林寺、蓮長寺、円満寺、盛安寺、園城寺、衆生来迎寺と、
寺々の十一面観音像が次々に姿を現し、すくっと立ち並ぶ 】

「もがり」の本質を見たようでもあり、物語のこのラストは印象深く忘れられない。今では実際に拝観した観音像も多くあって、二人連れながら一人物思いに馳せる、そんな時間も生まれた。

現実はー。


行基による開創で、弁財天が祀られる宝厳寺本堂 

Jessieはしきりにスマホのカメラを向け、時には父親に中継。
「ダディは絶対あの階段上れへんと思う」と言っている。

宝厳寺渡廊

秀吉の御座船の部材で建てられたという伝承があって、〈舟廊下〉と呼ばれている

急斜面に舞台づくりで建つ



湖北路をめぐるウォーキングツアーに参加して、葛籠尾崎の山中から眼下に望んだ竹生島(2013.7.16)


車窓から湖東平野の緑の青田に目を奪われ、安土風土記の丘、彦根城など遠望し、居眠りする間もなく二人旅を楽しんだ良い一日でした。
今日は大阪に住まいしていたときの親友と過ごすために泊りがけで出かけていきました。



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蛸に八手

2024年06月29日 | こんなところ訪ねて
新京極の通りに面して蛸薬師(浄瑠璃山永福寺)があります。


何度かは線香のくすぶりの向こうでお参りしたことがありましたが、注意深くあたりをキョロキョロ…。と、本堂はこの奥、といった張り紙に気づき、初めて脇から奥まで進んでみました。

「蛸薬師」の名の由来は、
「親孝行な僧善光が病気の母の願いに応え、戒律に背き蛸を買って帰るとき、人に見とがめられ進退に窮した。薬師如来に念ずると蛸が経巻に変わり、母の病気も全治した霊験から」で、
坂井輝久氏は、ここに「京童」の駄洒落のような句〈たむけなば八手(やつで)の花や蛸薬師〉を添えている(「京近江 名所句巡り」)。


京都で出版された仮名草子で、最初の名所記となったのが中川喜雲の「京童(きょうわらべ)」。
随所に古歌が引用され、喜雲自身も歌や俳句を読んだそうだ。
蛸と八手。…そうか、駄洒落か、と読んでいたので、覗いてみようという気になった。
果たして果たして、奥へ進む途中に鉢植えの小さなヤツデが植わっていた。

本格的な観光旅行が始まった江戸時代には、「名所」-などころ・歌枕名所ーから次第に歌枕に関係のない旧跡や霊地まで、さまざまに和歌や俳句を拝借し、漢詩や挿絵にと名所を楽しむ工夫が凝らされたという。
蛸に八手、より印象深く風趣も増す?


澤田ふじ子さんの『闇の絵巻』がとてもよかったので、もう一冊と思い『花暦 花にかかわる十二の短編』を手に入れてきた。
八手の花は載っていないけれど。
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求めれば

2024年06月20日 | こんなところ訪ねて
南禅寺塔頭・金地院を訪ねた。


地元紙で長く連載されてきた「京滋(新・京滋)文学の舞台を行く」のファイルを読み返していて、『黒衣の宰相』(火坂雅志)が目に留まったのだった。
金地院は大業和尚が足利義持の帰依を得て北山に開創した寺を、慶長の初めに以心崇伝が移して自らの住む寺として再興したそうだ。
この以心崇伝なる人物は、徳川家康に近侍して幕議に参画、江戸幕府創立の基礎を確立した「黒衣の宰相」と呼ばれた人。その威勢はすこぶる盛大だった。と聞かされても知らない…。

方広寺の鐘の銘文にあった「国家安康」「君臣豊楽」に、「家康」を切り裂き、豊臣家が栄えるのを願う意味が隠されていると抗議し、豊臣側を追い詰める事件があった。と言われれば(ああ、そう言うことは聞いたことある)と思うくらいが私の知識なのだけれど、目的のためにはあらゆる手段を使う人物だったようだ。


ただ今日の目的は以心崇伝への関心ではなく、金地院にあると知った等伯の「猿猴捉月図」と「老松」を拝見することにあった。
30分ほどの説明を得られるというので、その時間に合わせて伺うことにした。
今まで何度も前を通っているのに、門をくぐったことがない。

半夏生が咲き睡蓮が埋め尽くした池のぐるりを歩きながら東照宮へとたどる。
天井には狩野探幽による鳴龍が描かれ、36歌仙の額は土佐光起の筆だそうな。


境内を一巡りして、方丈の縁で時間待ちをした。

外側から堂内の説明があって、柵が開けられ小書院へと導かれて説明が続く…。
「こちらカイホ―ユーショーの。。。。です』「えっ?!」
「海北友松ですね。なんという題のものですって?」思わず聞き直すと、「むれがらす図屏風です」と足元にあった名入りの木札を指して見せる。
「群鴉図屏風」。樹上の1羽の梟を、群れたカラスが鋭いくちばし、目つきで威圧するかのように取り囲んでいる。かつてカラスは位の高い鳥だった。
みなみな真っ黒、カラスの威厳と言おうか威圧感が迫って来る。
海北友松の絵と出会えるとは思っていなかった。ちょうど葉室麟氏の『墨龍賦』を読みだして数日、何という巡り合わせ。


こちらは水面に映った月を取ろうと手を伸ばすお猿さん。これを拝見したかったのよ。
硬い筆を使って1本1本毛を描き込んで、全体としてはやわらかな、腕も指先まで流れるような線で、顔も愛嬌ある仕上がりだ。澤田ふじ子さんが『闇の絵巻』の中で金地院とこの絵のことに触れていた。仏教説話が下地にある絵。

「黒衣の宰相」の先に等伯、海北友松へと導かれ、小堀遠州作庭の庭、茶室の趣向を楽しんだ。
求めれば、出会いの芽はそこかしこにあるものだわ。いそいそと出てきた甲斐もあったというもの。

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二兎を追うもの?

2024年05月04日 | こんなところ訪ねて
【飛鳥から現代へ-時代を超えて技を伝えた匠たちの千四百年を描く技能時代小説】 
『金剛の塔』(木下昌輝)を読んだのは一昨年の秋だった。


聖徳太子の命で百済から3人の工匠が招かれ、日本仏法最初の官寺である四天王寺の建立(593)に携わった。そのうちの一人が金剛組の初代の金剛重光で、金剛一族は「魂剛」と名を変え、1400年余にわたって匠の技を今に受け継いでいるという。

心柱は倒れないように塔とつながってはいるが、塔の何かを支えているわけではない。1本目2本目3本目と「貝の口の継ぎ手」の工法で心柱を継いでいく。5層目から突き出た心柱の上に相輪を…。
最後まで馴染めない語り口と物語の構成だったが、〈五重塔の「心柱構造」の誕生と継承の物語〉は気になりながら読み進んだ。

現在の塔は鉄筋コンクリ―ト造り( 昭和34年8度目の再建)だと知って、内心では(なあんだ…)と思いながら、以来頭のどこかでは一度拝観したいとも思ってはきた。
四天王寺の境内で古本祭が開催中だとテレビが報じていた。これで気持ちが動いたみたいだ。
阪急梅田駅に出て、御堂筋線で天王寺下車。歩いて10分。このルートで行こうと予習して、きのう四天王寺に向かった。

谷町筋に沿って真っ直ぐ進むと、右手になんと石の鳥居が目に入った。ここか!?って思いだった。



もともと木造だったのを1294年に忍性上人が勅を奉じて石造に改めたのだそうで、扁額には「釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心」とあり、裏に「嘉暦元年(1326)」の銘があるという。

京都のように会場にマイクでさまざまな案内が繰り返されることがなく、古本まつりは静かで落ち着いていた。古書の蒐集癖はないし、乱読でありながら結構間口が狭い本読みなのだな。ま、いいか。買い求めたものはなかった。





屋根は本瓦葺で、飛鳥時代創建当時の姿を再現しているという。
塔内部は壁画が描かれているが、目が薄暗がりにいつまでも慣れなくて、よくわからずじまい。
上に行くほど狭くなる螺旋階段で5層まで上がってみた。当の高さは39.2m、相輪の長さは12.3mだそうな。十分高く、境内を眼下にし、右も左もわからない市内が広がっていた。
中心の伽藍には回廊が巡らされ、地図を見ると境内地はさらに周辺広範囲に及ぶ。こんなに広いとは思ってもおらず、ただ一つ五重塔拝観ばかりが念頭にあった。

二兎を追うもの…、だったかな。それでも再読してみようという思いになっている。




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古書市

2024年05月01日 | こんなところ訪ねて

今日から5/5まで、みやこめっせで「春の古書大即売会」が始まった。

行ってみようか? 思ったら、この勢いに乗ることが肝要なのだ。ちょっとのためらいが、(まあいいか)と機会を失わせがちなのを知っている。この頃とみに…。だから、ささっと支度をして出かけた。


意気込んだわりには収穫なし。
くたびれて、腹も減るころ藤の花。
通りがかった店先に6、70センチほどになる藤の鉢植えが置かれていて、うすむらさきの一房が垂れていた。
なぜかふと子規の藤を見る目線が思い浮かんだ。

   瓶に挿す藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり

母が活けてくれた藤の花を、横になったまま鑑賞している。
わずか6尺と3尺の病床の世界に縛り付けられ、痛みには声の限りを上げて叫び、日々衰弱していった子規。そして、

  くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる

あざやかにも清らかに澄んだこの一首。
敷蒲団の長さ6尺、幅3尺。体はこの病床にあって動けないけれど、寝たままガラス窓越しに庭の草花を見、夜空を眺めていた。
この広さの中に自分を見いだした。決して縛られてなどいなかっただろう…。

さあ今日から5月。好きなことを楽しんで生きていきたいものだ。

  五月はバラの月、出逢いと別れの月、
  女が生まれかわる月。
  新緑の月。
         と聖子さん。


コメント (4)
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