京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

モンキーパーク 檻の中には

2024年07月11日 | こんなところ訪ねて
「嵐山のところにあるモンキーパーク、知ってる?」
昨年11月末にやって来た時からこう口にしていた孫娘でした。
あのときは「この寒いのに」とかわしたものの今回まで「この暑いのに」とばかり言ってもおられず、昨日彼女の希望をかなえようと嵐山モンキーパークに行ってみたのです。



渡月橋、さらに小橋を南に渡って右折、この道歩くの初めてです。


階段を上って入園料を払い、ミストで涼んでから、ぐるぐる回りこむように続くかなりの急坂を登って登って、途中「まだぁ!?」と幾度も思いながらマイペースを心がけて登り切りました。
(この程度ならまだ十分自分にも歩けるわ)なんて、根拠があるのかないのか自信も取り戻しましたがね。




標高160mとありました、いわたやま。
下りてくるのは外国のひとばっかり。登りで前後するのも、下り道で上がって来る人たちも、外国人ばかりです。小学生ぐらいの子供たちもいます。
入り口近くで浴衣姿の女性二人とすれ違いましたが、あんな格好ではさぞや大汗かいて厳しい山登りになったことだろうと思うのです。
登っては下りる、この循環が絶えることなく続くいわた山。
嵐山駅周辺の混雑はこの日も相当なものでしたが、モンキーパークがこんなに人気の観光地だとは初めて知ることになりました。
帰りの嵐電も、乗っている日本人は私一人かと思うほど。

園内、それほどお猿さんの姿を見かけませんでしたが、餌をやるのは休憩所の中からだけでという指定です。


人間が囲い・檻に入って外のお猿さんにエサやりする。おかしな構図だね、と写真を添付してLINEで娘家族と笑うのでした。


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竹生島 “マダムアイランド”と言って

2024年07月06日 | こんなところ訪ねて
冬休み中の孫娘はこの1日に京都へとやってきました。同行の友人は名古屋のお身内のところへ。一緒に帰国する二人は、その前日14日に大阪で合流です。


梅雨の晴れ間となった3日。前夜から予定して竹生島へと向かった。
かつて、竹生島には弁財天が祀られていることを話したことがあって(’17.1)、そのとき彼女は竹生島を“マダムアイランド”などと名付けたりしていた。ところが今ではそんなことこれっぽっちも記憶にもないのだそうな。



わずか35分ほどの乗船だが、島へと向かう前方、もやった周囲の山並みの上空に渡岸寺の、赤後寺の観音さまの姿が現れたら!?…などと想像しながら風景を眺めていた。
どうしたって、あの満月の夜のシーンが思い浮かぶのだった。

一番水深が深いとされる竹生島付近でのボート転覆事故で、娘を喪った父親(架山)と、息子を喪った父親(大三浦)が湖岸の十一面観音を巡礼することで、その悲しみを昇華させていく話が井上靖の『星と祭り』で描かれている。
子供たちが眠っている場所に二人が貸しボートを出したのは、事件から8年を経た満月の夜。

【 湖北の中でも、一番北の善龍寺の十一面観音さまが、その左手に海津の宗正寺の観音さま、
右手には医王寺の観音さま。
そして鶏足寺の観音さま、渡岸寺の観音さま、充満寺の観音さま、赤後寺の観音さま、知善寺の観音さまが、さらに長命寺、福林寺、蓮長寺、円満寺、盛安寺、園城寺、衆生来迎寺と、
寺々の十一面観音像が次々に姿を現し、すくっと立ち並ぶ 】

「もがり」の本質を見たようでもあり、物語のこのラストは印象深く忘れられない。今では実際に拝観した観音像も多くあって、二人連れながら一人物思いに馳せる、そんな時間も生まれた。

現実はー。


行基による開創で、弁財天が祀られる宝厳寺本堂 

Jessieはしきりにスマホのカメラを向け、時には父親に中継。
「ダディは絶対あの階段上れへんと思う」と言っている。

宝厳寺渡廊

秀吉の御座船の部材で建てられたという伝承があって、〈舟廊下〉と呼ばれている

急斜面に舞台づくりで建つ



湖北路をめぐるウォーキングツアーに参加して、葛籠尾崎の山中から眼下に望んだ竹生島(2013.7.16)


車窓から湖東平野の緑の青田に目を奪われ、安土風土記の丘、彦根城など遠望し、居眠りする間もなく二人旅を楽しんだ良い一日でした。
今日は大阪に住まいしていたときの親友と過ごすために泊りがけで出かけていきました。



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蛸に八手

2024年06月29日 | こんなところ訪ねて
新京極の通りに面して蛸薬師(浄瑠璃山永福寺)があります。


何度かは線香のくすぶりの向こうでお参りしたことがありましたが、注意深くあたりをキョロキョロ…。と、本堂はこの奥、といった張り紙に気づき、初めて脇から奥まで進んでみました。

「蛸薬師」の名の由来は、
「親孝行な僧善光が病気の母の願いに応え、戒律に背き蛸を買って帰るとき、人に見とがめられ進退に窮した。薬師如来に念ずると蛸が経巻に変わり、母の病気も全治した霊験から」で、
坂井輝久氏は、ここに「京童」の駄洒落のような句〈たむけなば八手(やつで)の花や蛸薬師〉を添えている(「京近江 名所句巡り」)。


京都で出版された仮名草子で、最初の名所記となったのが中川喜雲の「京童(きょうわらべ)」。
随所に古歌が引用され、喜雲自身も歌や俳句を読んだそうだ。
蛸と八手。…そうか、駄洒落か、と読んでいたので、覗いてみようという気になった。
果たして果たして、奥へ進む途中に鉢植えの小さなヤツデが植わっていた。

本格的な観光旅行が始まった江戸時代には、「名所」-などころ・歌枕名所ーから次第に歌枕に関係のない旧跡や霊地まで、さまざまに和歌や俳句を拝借し、漢詩や挿絵にと名所を楽しむ工夫が凝らされたという。
蛸に八手、より印象深く風趣も増す?


澤田ふじ子さんの『闇の絵巻』がとてもよかったので、もう一冊と思い『花暦 花にかかわる十二の短編』を手に入れてきた。
八手の花は載っていないけれど。
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求めれば

2024年06月20日 | こんなところ訪ねて
南禅寺塔頭・金地院を訪ねた。


地元紙で長く連載されてきた「京滋(新・京滋)文学の舞台を行く」のファイルを読み返していて、『黒衣の宰相』(火坂雅志)が目に留まったのだった。
金地院は大業和尚が足利義持の帰依を得て北山に開創した寺を、慶長の初めに以心崇伝が移して自らの住む寺として再興したそうだ。
この以心崇伝なる人物は、徳川家康に近侍して幕議に参画、江戸幕府創立の基礎を確立した「黒衣の宰相」と呼ばれた人。その威勢はすこぶる盛大だった。と聞かされても知らない…。

方広寺の鐘の銘文にあった「国家安康」「君臣豊楽」に、「家康」を切り裂き、豊臣家が栄えるのを願う意味が隠されていると抗議し、豊臣側を追い詰める事件があった。と言われれば(ああ、そう言うことは聞いたことある)と思うくらいが私の知識なのだけれど、目的のためにはあらゆる手段を使う人物だったようだ。


ただ今日の目的は以心崇伝への関心ではなく、金地院にあると知った等伯の「猿猴捉月図」と「老松」を拝見することにあった。
30分ほどの説明を得られるというので、その時間に合わせて伺うことにした。
今まで何度も前を通っているのに、門をくぐったことがない。

半夏生が咲き睡蓮が埋め尽くした池のぐるりを歩きながら東照宮へとたどる。
天井には狩野探幽による鳴龍が描かれ、36歌仙の額は土佐光起の筆だそうな。


境内を一巡りして、方丈の縁で時間待ちをした。

外側から堂内の説明があって、柵が開けられ小書院へと導かれて説明が続く…。
「こちらカイホ―ユーショーの。。。。です』「えっ?!」
「海北友松ですね。なんという題のものですって?」思わず聞き直すと、「むれがらす図屏風です」と足元にあった名入りの木札を指して見せる。
「群鴉図屏風」。樹上の1羽の梟を、群れたカラスが鋭いくちばし、目つきで威圧するかのように取り囲んでいる。かつてカラスは位の高い鳥だった。
みなみな真っ黒、カラスの威厳と言おうか威圧感が迫って来る。
海北友松の絵と出会えるとは思っていなかった。ちょうど葉室麟氏の『墨龍賦』を読みだして数日、何という巡り合わせ。


こちらは水面に映った月を取ろうと手を伸ばすお猿さん。これを拝見したかったのよ。
硬い筆を使って1本1本毛を描き込んで、全体としてはやわらかな、腕も指先まで流れるような線で、顔も愛嬌ある仕上がりだ。澤田ふじ子さんが『闇の絵巻』の中で金地院とこの絵のことに触れていた。仏教説話が下地にある絵。

「黒衣の宰相」の先に等伯、海北友松へと導かれ、小堀遠州作庭の庭、茶室の趣向を楽しんだ。
求めれば、出会いの芽はそこかしこにあるものだわ。いそいそと出てきた甲斐もあったというもの。

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二兎を追うもの?

2024年05月04日 | こんなところ訪ねて
【飛鳥から現代へ-時代を超えて技を伝えた匠たちの千四百年を描く技能時代小説】 
『金剛の塔』(木下昌輝)を読んだのは一昨年の秋だった。


聖徳太子の命で百済から3人の工匠が招かれ、日本仏法最初の官寺である四天王寺の建立(593)に携わった。そのうちの一人が金剛組の初代の金剛重光で、金剛一族は「魂剛」と名を変え、1400年余にわたって匠の技を今に受け継いでいるという。

心柱は倒れないように塔とつながってはいるが、塔の何かを支えているわけではない。1本目2本目3本目と「貝の口の継ぎ手」の工法で心柱を継いでいく。5層目から突き出た心柱の上に相輪を…。
最後まで馴染めない語り口と物語の構成だったが、〈五重塔の「心柱構造」の誕生と継承の物語〉は気になりながら読み進んだ。

現在の塔は鉄筋コンクリ―ト造り( 昭和34年8度目の再建)だと知って、内心では(なあんだ…)と思いながら、以来頭のどこかでは一度拝観したいとも思ってはきた。
四天王寺の境内で古本祭が開催中だとテレビが報じていた。これで気持ちが動いたみたいだ。
阪急梅田駅に出て、御堂筋線で天王寺下車。歩いて10分。このルートで行こうと予習して、きのう四天王寺に向かった。

谷町筋に沿って真っ直ぐ進むと、右手になんと石の鳥居が目に入った。ここか!?って思いだった。



もともと木造だったのを1294年に忍性上人が勅を奉じて石造に改めたのだそうで、扁額には「釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心」とあり、裏に「嘉暦元年(1326)」の銘があるという。

京都のように会場にマイクでさまざまな案内が繰り返されることがなく、古本まつりは静かで落ち着いていた。古書の蒐集癖はないし、乱読でありながら結構間口が狭い本読みなのだな。ま、いいか。買い求めたものはなかった。





屋根は本瓦葺で、飛鳥時代創建当時の姿を再現しているという。
塔内部は壁画が描かれているが、目が薄暗がりにいつまでも慣れなくて、よくわからずじまい。
上に行くほど狭くなる螺旋階段で5層まで上がってみた。当の高さは39.2m、相輪の長さは12.3mだそうな。十分高く、境内を眼下にし、右も左もわからない市内が広がっていた。
中心の伽藍には回廊が巡らされ、地図を見ると境内地はさらに周辺広範囲に及ぶ。こんなに広いとは思ってもおらず、ただ一つ五重塔拝観ばかりが念頭にあった。

二兎を追うもの…、だったかな。それでも再読してみようという思いになっている。




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古書市

2024年05月01日 | こんなところ訪ねて

今日から5/5まで、みやこめっせで「春の古書大即売会」が始まった。

行ってみようか? 思ったら、この勢いに乗ることが肝要なのだ。ちょっとのためらいが、(まあいいか)と機会を失わせがちなのを知っている。この頃とみに…。だから、ささっと支度をして出かけた。


意気込んだわりには収穫なし。
くたびれて、腹も減るころ藤の花。
通りがかった店先に6、70センチほどになる藤の鉢植えが置かれていて、うすむらさきの一房が垂れていた。
なぜかふと子規の藤を見る目線が思い浮かんだ。

   瓶に挿す藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり

母が活けてくれた藤の花を、横になったまま鑑賞している。
わずか6尺と3尺の病床の世界に縛り付けられ、痛みには声の限りを上げて叫び、日々衰弱していった子規。そして、

  くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる

あざやかにも清らかに澄んだこの一首。
敷蒲団の長さ6尺、幅3尺。体はこの病床にあって動けないけれど、寝たままガラス窓越しに庭の草花を見、夜空を眺めていた。
この広さの中に自分を見いだした。決して縛られてなどいなかっただろう…。

さあ今日から5月。好きなことを楽しんで生きていきたいものだ。

  五月はバラの月、出逢いと別れの月、
  女が生まれかわる月。
  新緑の月。
         と聖子さん。


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天も花に酔ふべき

2024年04月26日 | こんなところ訪ねて
烏丸駅から阪急電車に乗って、待ち合わせの長岡天満宮駅に向かった。

娘家族が阪急宝塚沿線に住んでいたときはよく利用し行き来もしたが、彼らが2021年にAUSに戻って以降は今日が2度目。’21年11月に、アサヒビール大山崎山荘美術館に行って以来となる。時間に余裕はあったので、烏丸駅に入ってきた準急でのんびり外を眺めながら座っていた。

初めて見る光景が広がっていた長岡天満宮。



【長岡の地は、菅原道真が在原業平らとともに、しばしば管弦の遊びを楽しんだゆかりの深いところで、大宰府へ左遷されたとき立ち寄り「わが魂長くこの地にとどまるべし」と名残を惜しんだ。道真自作の木像を祀ったのが長岡天満宮の創立だ】などと説明されていた。

この八条が池は1638(寛永15)年の築造。



中堤のキリシマツツジは樹齢百数十年とかで、人の背丈をゆうに超えて壁のよう。
北村季吟が、東山のあたりに咲き満ちたツツジを見て「天も花に酔ふべき」と記している(『山乃井』)と読んだので、
もしやもしや… キリシマツツジも色を吹き上げ、天をも酔わす勢いかと今日の誘いに期待は大きかったが、あいにく盛りはとうに過ぎていた。
気温が高いばかりで日差しは今一つだったし。

鯉や亀が泳ぎ、コウボネの黄色い花が咲き、花菖蒲が時季を待っている。ぐるりのツツジはまだまだみごとだったし、ベンチも多く、何度も腰をおろした。

天満宮にもお参りした。目の醒めるるような新緑が爽やかだったなあ。
 



乙訓寺に牡丹の様子を見に行こうかという予定でもあった提案を彼女は言下に却下。
わたしより3つ4つ若かったんだよね…、でも歩くの苦手だよね。遠慮なく笑い合った。




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最後の花見に御衣黄桜

2024年04月19日 | こんなところ訪ねて
娘が親元を離れることになったのを機に携帯電話を持つようになった。以来ずっと機種変更しながら、スマートホンに変えても同社のもの一筋に使い続けて、20年をゆうに超えた。

電車内を見回しても今ほとんどの人がスマホの画面を見つめている。私には短時間の乗車にそうした必要性も対象もないので、いつもぼーっと周囲を見ている。それほどのスマホ利用者に、(なんかたかくない?)と支払い料金の不満が生じて久しい。請求額には相応の履歴があるんだろうに。

インターネットとも合わせて考え昨日、思い切って他社へ乗り換えることにした。
デジタル難民だ。もともと用語に精通しないし、使う機能は知れてる。とにかく使い勝手よく、あれこれある画面をすっきりさせたい。
(いらいらしない、しない!) ちっとも進まず何が何だかのまま放り出して、


千本釈迦堂に御衣黄桜を訪ねることにした。


寺は鎌倉初期の開創で千本釈迦堂は通称で正式には大報恩寺といい、本尊は釈迦如来坐像(秘仏)。
寺の東側がかつて千本通に面していた(寺の呼び名の由来になった)というから広大だ。その寺域に堂塔伽藍が整っていた。それが応仁の乱や重なる災禍で焼失し、本堂のみが残った。京洛最古の建造物で国宝に指定されている。堂内の柱に刀傷が残っていた。


『徒然草』第228段に「千本の釋迦念佛は、文永の比(ころ)、如輪上人、これをはじめられけり」と記されている千本釋迦念佛は、毎年2月に行われた大念仏で、今に続いて今年も3月22日に勤められている。


平安時代の貴族が着ていた衣服(御衣と言った)が萌黄色に近い色で、花の色が似ていることから名づけられたという御衣黄桜。
3月半ばに近くまで出た際に立ち寄ったこともあって、花の時季を待っていた。
境内で作業していた方が「今が満開です。あそこにもありますからゆっくり見ていってください」と。境内に2本、枝もたわわにみごとだった。
昔々、確かねねの道で見かけた記憶があるだけ。こんなにじっくり楽しんだのは初めてになる。

本堂前にはすでに咲き終わった阿亀桜。左手に、普賢象桜がこれもちょうど満開だった。
鼻をかすめる花の香も楽しんで…。

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我は咲くなり

2024年04月07日 | こんなところ訪ねて
明日からの天気を考えると花見には外せないお日和だ。賀茂川べりを歩き、上賀茂神社を覗いてみることにした。

一方通行の道で、平素は車で通ることもあるけれど、満開の桜の下をひっきりなしに徐行運転の車が続く。規制してほしいと思うのは、勝手に過ぎるのかな。
(それでも切れ目はあるわけで、がまんせい!と言われそう)





津村節子さんの『絹扇』を読んでいた。お名前や福井県出身であること、作品にちなんでつけられた「風花随筆文学賞」があることなど、存じ上げているけれど作品を読むのは初めてだった。
裏表紙には、機織りに生きる女の半生を福井の産業史に重ねて描いた作品だと記されている。

【4時を少し回ったころ。家中がまだ寝静まっていた。
蒲団の上に重ねて掛けてある筒袖の着物を寝巻の上から着こみ、つぎはぎの袖なしを着て、もう3日もはいていて汚れ冷え切った足袋をはいて、土間に板を張った機場(はたば)に入った。窓の破れ障子からは雪が吹き込んでくる。
母が織る一日分の糸を繰るために糸繰車を廻すのが、明治21年生まれの数えで9歳になったちよの一日の始まりだった】

「…学校行きたや / 遊びたや」
明治5年に学制が発布されたが、子守りや糸繰り、機織りに幼い女の子供は労働力としてあてにされ続けていた。


福井県はもともと絹織物の有数な産地で、奈良時代に越前、若狭に課せられた調(ちょう)の物産の中に、すでに絹織物が加えられていたいう。
江戸時代、明治維新と、福井羽二重が桐生、足利を凌ぎ、生産量日本一となって発展していく変遷が綴られる。

のぞまれて18歳で大手機(はた)業の次男に嫁いだちよ。独立し機業を創業した夫は、事業の拡張に意欲的だった。
「機を織るのは女の仕事。仕事を発展させるのは男の才覚や」
だが、機業界がバッタン機から力機織導入へと転換期を迎えるとき、夫の無鉄砲な事業欲は時勢を読み違えた。そして急死、借金が残った。
工場も住む家も失った。

「自己犠牲」ではないと思うのだ。献身的でありながら、意思を持つ。
苦難の数々を、すべて受け容れていく器の大きさはどこから来るのだろう。他人の身になるというより自分事として引き受ける中で、言動に現れる人となりには魅力もある。彼女をずっと見ている人がいた。


バッタン機一台を小さな小屋に据えて、子どもたちと一からの暮らしが始まった。


   人知るもよし 人知らざるもよし 我は咲くなり        実篤
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静謐な常照皇寺の桜

2024年04月05日 | こんなところ訪ねて
南北朝争乱の時代。
後醍醐天皇の討幕計画は発覚し、その後北条氏によって擁立されたのが光厳(こうごん)天皇だった。しかしそれも束の間、隠岐を脱出した後醍醐天皇の軍が北条氏を滅ぼし政権を回復したために、光厳天皇は皇位を去った。
政争の渦中に翻弄され、吉野の山中をさまよい歩いたりして周山街道に踏み入って、小さな皇室領を頼ったのか、終焉の地と自ら求めて二度と都に戻ることはなかったという。40歳を過ぎて仏門に入られた。

今は京北町と呼ばれる地にあるここ常照皇寺を終の棲家とされた。



方丈の間に掛けられた肖像画は色白で気品のあるお顔立ち。
〈さよふく窓のともしびつくづくと影もしづけし我もしづけし〉と詠まれている。
きれいなお顔を目の前にして、「墓など作るな。ただ埋めよ。そこに自ずと松柏が育とう」と言い遺し世を去った生涯を、わずかでも想像してみるのだった。



季節を問わず何度も訪れている。人の姿はまばらなときばかり。まだ一度も桜が満開の時期に訪れたことがない。
なんとなく行ってみたくなるのだ。
一つには清滝川に沿って開かれたくねくねと続く周山街道の風景が好きなことがある。
峠を越え、トンネルを抜けて、周山から右折、北國という地を桂川に添うように、さらに20分ほど走った先に寺はある。家から1時間半ほどで着く。

想像通りで、辛抱が足りなかった。



天然記念物の「九重桜」と呼ばれる枝垂桜の巨木が7分、8分咲きのところか。
奥には「左近の桜」があり、方丈前の「お車返しの桜」など、まだまだ蕾もつぼみ。


当然のように人は少ない。そこが好きな理由にもなるのだが、それでもやはり満開は見たい。
考え事したり、鳥の鳴き声を耳に、ただただぼうっとしたままでいたり。
遠方へ旅行をしなくても、少し時間をかけて日常との境目を作る。そしてそこで、静かにひとときを過ごせば、それなりの満足が得られる今。

帰路、すでにミツバツツジが山の斜面を染めているのに気づいた。
西明寺のご住職が、きれいだから見においでなさいと勧めてくれたことがあったのを思いだしたが、あっという間に通り過ぎる。
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春の錦の六角堂

2024年04月04日 | こんなところ訪ねて
    見渡せば柳桜をこきまぜて 都ぞ春の錦なりける   素性  (「古今和歌集」)



ここ六角堂境内も春の錦に染められている。



「西国三十三所一八番札所」にあたる頂法寺六角堂。
ということなのだが、

ここに親しみを持って参拝し出したのは、地元紙に連載された五木寛之氏の『親鸞』がきっかけだった。
あの頃、何年前になるのか、同じく連載された新聞を読んでおられた方々と、ブログでお話させていただくことがあった。
読後は新聞を切り抜いて保存して、一年しっかり楽しんだ。けれどあれから読み返すことがなく、記憶はあいまいに。


折も折、六角堂の桜を思い出すきっかけがあって、昨日一日降り続いた雨も上がったのを幸いに、訪れてみた。
かなりのお参り?でにぎわい、街中のせいか桜の開花も進んでいた。
柳の2本の枝をおみくじで結ぶと良縁に恵まれるとか。柳にとっていいのかどうか…。

親鸞聖人は29歳のとき比叡山を下り、ここ六角堂に100日参篭を志した。そして95日?の暁に聖徳太子の夢告を得たと伝わる。
そして法然上人を訪ねる。
 ― ひたすら念仏もうすのみだ。念仏のさまたげになるものはすべて捨てよ。妻を娶って念仏が深まるのなら妻帯も結構だ

人間が人間らしく生きることが救われれること…。
だがその後も思い悩むことは続き、七日七夜の参篭に入った。と、何日目かに六角堂の本尊、救世観音が現れる。
のだったかな。


〈御本尊の宝冠には 阿弥陀如来が配され極楽へと導く来迎印を結ばれている観音様と阿弥陀様の法力が合わされたお姿である
建仁元年(1201)には浄土真宗の宗祖親鸞聖人の夢枕に観音様が立たれ
「いつも傍に寄り添い助け極楽へと導く」と告げられた〉

と記されている。



下は、2009年4月3日に訪れたとき。 15年を経て…。

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京に燃えたおんな

2024年03月22日 | こんなところ訪ねて
昼から河原町通りにある書店MARUZENに出向いた。用を済ませて店内を見歩いていて、澤田瞳子さんの『のち更に咲く』という単行本が出ているのに気づいた。最新作のようだ。
古代、中古が時代背景の作品が好きなものだから大ファンなのだけれど、この頃は澤田作品が遠のいていた。

帯には【時代に抗う 和泉式部  すべて見通す 紫式部】とかあった。
今の時流に乗らんとするかのような?『のち更に…』、などと言っては失礼だけど、それでもなにかかるそう~って感じ。

今年はNHK大河ドラマの影響か、2008(平成20)年の「源氏物語千年紀」の賑わい再来かと思える催しが各所で見られる。
源氏物語成立千年となるのを記念した行事ごとだった。「古典の日」が制定されたのもその延長。寂聴さんが演壇にあがられていたのを思い出す。


昨日は和泉式部忌だったのを思いだし、和泉式部の寺とも親しまれる誠心院に行ってみることにした。書店からは近い新京極の通りに面して、門を構えている。

 

藤原彰子(道長の娘・一条天皇の中宮)に仕えた式部のために、道長が小御堂(こごどう)を与え、晩年、式部はそこに住んだとされる。そのお堂を、この地に移建した。

 

   春はただわが宿にのみ梅咲かば
       かれにし人も見にときなまし

ゆかりの梅の木は本堂前に。そして、墓とされる宝筐塔がある、

 

〈愛の遍歴を知った深い悲しみ〉
〈大胆に愛うたう情熱歌人〉
〈燃えた恋はただ二人〉
〈恋人との逢瀬描く〉 
『京に燃えたおんな』の和泉式部にはこんな表現が散見する。

【式部に噂の男は多かった。子供を産んだとなれば、うるさい詮索。面と向かってぶしつけに「どなたを親に決めましたの」と問う。プライバシーの侵害に憤然とした彼女は、「そんなに知りたければ、あなたがお死にになってから閻魔さまにでもお聞きなさい」と歌を詠んで手厳しく反撃した】
「現代女性のさきがけのような心意気を示した女性」と紹介している。

でもね、物語風の『和泉式部日記』を読むと、また違う彼女の姿が透けてくる。心には表裏があるもの。

式部が貴船神社に参詣した折に詠んだ歌が残されている。
     
     もの思へば沢の蛍もわが身より
          あくがれ出づる魂かとぞ見る



昨年11月末に孫娘と見た蛍岩。貴船は見事な紅葉だった。
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18歳の永徳が

2024年01月30日 | こんなところ訪ねて
立春を数日後にした京の空は、青く晴れ渡った。
日差しも温かさを増してきた午前11時ごろ。地下鉄の今出川駅で降り、烏丸今出川の交差点から西へ、室町通を越えて新町通まで歩いていた。

2筋目だから大した距離ではない。途中振り返ってみても、青い道路標識の先の右手、京都御苑の北西の角をのぞめる。


新町通から南に下がるや、ほとんど出会う人はいないまま、目指すは元誓願寺通。
今出川通りからどのくらい下がったか、これも知れている。
ここ、赤い塀のところから西に入ればよさそうだ。


西は元誓願寺通り。

ああ。ここね! このあたり「狩野元信邸址」


「道幅の狭い上京の辻」
「永徳の屋敷は、上京の誓願寺のそばにある。
あたりが狩野の図子(ずし)と呼ばれているのは、狩野家の名がそれだけ京で知れわたっているのと、本家を中心にして一族や弟子たちの家がたくさん集まっているためである。図子は、辻子(ずし)とも書き、細い通りや町の一角のことだ。
通りの両側に板葺き屋根に石を乗せた家が立ち並んでいる」
いかめしい侍の一行、坊主の乗った輿、大きな荷をかついだ物売り、辻には人が多い。上京のなかでもいちばん繁華な界隈だ、と描写される。
白梅が咲き出した永禄3年(1560)の初春。18歳になった永徳が登場した。(『花鳥の夢』)

「いつまで読後の余韻のなかにいるのよ!?」って、友の声がしてきそうだわ。

ここから今出川通りまで出て、小川通りを北へ。すると本法寺はまもなくのこと。禁裏も近い。
戦乱、争乱。再興しては焼失を繰り返し、京の街は絶えず変化し続けてきた。
将軍足利義輝から洛中洛外図を依頼されて、洛中の邸宅や寺社を巡り歩いた永徳。足跡をいっぱいつけて。
そうか!このあたりだったのか。初めて訪れた“狩野の図子”に、ちょっぴり感動。

「小説を読む、それは存在がはっきりしない何かを信じるという行為。例えば太宰を読むことは太宰を信じること。千年前に死んで会ったこともなく、しかも外国語で書いた作者をすごいと思って読んだりもするわけで」。文学的空間において自然に成立する「信頼関係」だ。

先日読んだばかりの高橋源一郎さんの言葉を友に伝えよう。ふらふら出歩く言い訳になる?
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ひとつひとつ深く心にとどめながら

2024年01月28日 | こんなところ訪ねて

本法寺に長谷川等伯による「佛涅槃図」を拝見しようと出かけたところ、ちょうど春季特別寺宝展が開催されていた。



           
平素は原寸大(縦約10m・横約6m)の複製が展示されているがて、毎年3月14日~4月15日の期間に真筆が拝観できるとのこと。
首を真上に向けて見上げる。でっかい~って感じ。
「一番左の沙羅双樹の根元に座り込み、緑色の僧衣をきて、ほお杖をついている男」を探した。下から見上げ、二階から、半分上を近くに見ることができる。洋犬も探し当てた。
多くの縁者と別れがあった。60歳を過ぎた老境の身での作。

帰り際、誰もいない気楽さから少しお話をさせてもらった。
「そこに白い壁が見えますやろ。等伯さんはそこに住んで本法寺にかよわはったといいます」
拝観受付の窓口で座って指さす先を振り返った。

〈安土桃山文化の芸術担い手となったのは、法華檀信徒だった。狩野元信・永徳、等伯、本阿弥光悦(王林派の祖)。日蓮の革新的性格が伝統様式から解放したのでは〉などと何かで目にしたことがある。光悦と等伯のかかわりも深い本法寺。

カラーでしたつもりなのにごめんなさい、といってくださった。
 

「生き残ったものにできるのは、死んだ者を背負って生きることだけだ」「ひとはそれぞれ重荷を背負いながら、一日一日を懸命に生きている。大切なのはその生き様であって、地位や名誉を手にすることではない」(『等伯』)
『等伯』を読み、五木寛之氏の『百寺巡礼』第9巻の本法寺、能登半島の付け根、羽咋にある妙成寺について第2巻で読むなどして、そして、狩野永徳を主人公にした『花鳥の夢』とも出会い、
「長谷川等伯とは、いったいどんな人生を送った人だったのだろう」と私も関心を寄せた。
自分で史実を調べるということまでには至らないのだけれど…。


2015年に高野山夏季大学でお会いした当時82歳の女性の、「『等伯』を読んでごらんなさい」のひと言が心にとどまり、巡り巡って今に至る、この巡り合わせの不思議を思うばかりだ。

「東福寺の涅槃図には猫が描かれているそうですね」
私は観たことがないと言ってから、こんなふうに添えた。
「猫は明兆さんのお手伝いをよくしたそうですよ。それで、お前も描いておいてやろうって描き足したそうです。エライ先生がおっしゃっていました。ほんとうでしょうかね」
「真如堂の涅槃図にはやはり猫が描かれていました。ガンジス川が流れているのですが、タコやクジラまで描いてありました」

帰りのバスの車内で、こんな会話もしたのだった。面白そうに小さく笑ったのを覚えている。このとき、それまでずっとしていたマスクを外されたから。
彼女は本法寺のこの大きな佛涅槃図は御覧になっていたのだろうか。



妙覚寺で狩野家累代の墓に参った。塀沿いに山梔子の実が生るのが見えた。

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“wow, really!?“

2023年12月18日 | こんなところ訪ねて


定朝が持てる限りの技を以て制作した本堂の棟の鳳凰像、堂内の四方の壁の52体の雲中供養菩薩。中でも目を引く螺鈿の須弥壇に安置された阿弥陀如来像。

開眼供養を半月後に控えて- 
白々とした朝日が、磨き上げられた本堂の板間に、淡い影を落としている。
 臈長けた鶯の鳴き声に眠りを破られ、定朝は背を預けていた板戸からはっと起き直った」

『満つる月の如し 仏師・定朝』(澤田瞳子)の物語はこう始まる。
定朝がもたれて眠っていた板戸とは、このあたりか?などと、作品読後の思いに酔いながら平等院鳳凰堂を参拝したのは’20.2.18だった。

この日は孫娘と一緒に。
墨を流したような空のもと、境内地内を巡っていたところ、この世に花を絶やすまいと?たんぽぽ一輪、返り花が咲いていた。

10円玉に刻まれた鳳凰堂、1万円札にみる鳳凰の姿。父親にちょっと自慢気な写真を添えて・・・
“wow, really!?“ うーん、反応は…ちいさい、いや…フツー、か。
知らなかったとだけは言える。


参道脇に並ぶ店先で、おいしそうな抹茶のパフェに引き寄せられて入ったのは、三星園上林本店さん。
「16代目で日本で一番古い茶どころ」 「利休がのんだお茶はここの」
「最古だから! わかるでしょ?」
「どこへも下ろしていないから、ここでしかのめない」
愛想のよいスポークスマンのようなお方が店頭で説明してくださる。
「地図記号の茶畑は、うちのマークよ」

ちょっとお高めのパフェだったけど、
「ここに来なければたべられないんだから、まあいいか」とJessie。
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