京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

 心が行ったり来たり・・・

2009年08月31日 | 日々の暮らしの中で
遠く離れた茨城県に住む友人からはがきが届いた。七くなって二十年以上が過ぎ去った共通の友人のお墓参りをしてきたことを報告してくれている。息子の結婚が近いのではないの?と尋ねてくれて、遊びにお出かけをと誘ってくれる……。

数日前、御無沙汰だった市内の、“姉さん”と慕う友人にメールをしてみた。Jessieを連れていく予定で機会を見ていたが実現できず、御無沙汰が続いてしまっている。六月に突然の激痛に襲われ一カ月の入院、未だに続く接骨院通い、左足にしびれとだるさが残るという。もう後ひと月もしたら良くなるだろうと…、戻ってきた言葉に驚かされた今日。

「来る時でいいから持ってきて」という物とは別に、「いつでもいいから送って」と置きっぱなしにした品々、ダンボールで二箱、娘に発送。帰国日は35度、時期的に異常な暑さだというそんなお国で、今、冬物はいらない。3ヶ月後には彼女らの手元に届くだろう。忘れた頃に、見覚えのあるものばかりがどっさりと。船便で、ちょっとしたプレゼントに。

荷造り後、「これは捨ててもいいんか?」と婆様。雑誌や、カタログ類に交じって、袋の底から新品の黒のカーディガンと、箱入りの時計が出てきた。婆様がひそかに孫(娘)のために購入していたもの。あー、すっかり忘れてしまっていた婆様。

郵便局で、キティちゃんの切手を購入。八百円。これで何度Jessieにはがきを出せるだろうか。

一人の人のために心をこめて、思いを文章にする。ポストに投函した瞬間から、あるいは送信返信をクリックした瞬間に、綴った文字はこころを乗せて相手の手元に送られていく…。

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 なにかへんだけれどな・・・

2009年08月30日 | 日々の暮らしの中で
【点字版公約行き届かず】
  マニフェスト選挙なのに比較できぬ
    府内障害者ら「周知十分でない」「絶対数足りない」

27日付け夕刊の見出しになっている。

自民党は党の機関誌の点字版1万部にマニフェストの概要を掲載。
民主党は点字の概要版を1500部、共産党も1万部、社民党は概要版の音声CDを300枚作った。地方組織や選挙事務所などで配布、希望者には郵送。共産党は視覚障害者の支援団体を通じ配布。また複数の党が音声でホームページで公開している。

とはいえ、配布数は充分ではい。
民主党は有権者の【35人に1人】の割合での印刷。
全国約31万人の視覚障害者に対し、点字の概要版は【3人に1人】しか行き渡らない計算となる。 (新聞記事から抜粋してみた。)

視覚障害者に対する各党の考え方がちらついて見えるようだ。絶対数が不足しているのだ。点字版の存在や入手先がわからない。十分に行き届いていない。
政権公約を読み比べることもできない、そんな現状のままに選挙日を迎える。

知りたいと思う時に情報が得られない。「情報弱者」としての一面がある。
どう考えても、ふつーにこの現状は不平等だ。おかしい。国民不在の一端か。

こうした一面をおざなりににしたまま、なにを叫んでいたのか…。
小さな日常こそが私たちにとっては生きる基盤になっているはず。その様々な姿を、現状を、わが身のこととして思い描く想像力などはお持ちなのだろうか。
もしあなたの家族に、情報をほしがっているのに届かないで悩む人がいたら…

「福祉国家」という言葉も大きな声で響いてもいたようだ。なーんかへんだなあ~。

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 母虎の知恵

2009年08月28日 | 日々の暮らしの中で
『セブンミール  栄養バランスを考えたおいしいメニュー、セブンイレブンのお食事配達サービス』というカタログがあります。コンビニエンスストアーに無料で置かれています。希望者はこれを見て、希望する品目を申し込み、サービスを受ければよいわけです。

視覚に障害のある方々がこのサービスを利用しやすいように、内容をすべて点字化するための作業の、最初の工程に協力してきてちょうど今月末で一年。

活動の本部は北海道です。当初は北海道のO氏と、スカイプとメッセンジャーをつなげ、二人で一冊をエクセルで入力。作業者が増えたことで今は項目別の分担となり負担は軽減しました。毎月末の日曜の仕事としてやってきたわけです。

カタログ内の品目をエクセルでの入力後は、それをテキストファイルにおこし、点字プリンターで打ち出す。そして校正。利用者への配布となります。
で、今月末は選挙の投票日。今夕、急げないかという打診の電話。明日します。

点字の識字率や点字物の利用率などの低さを考えた時、もっと多くの人が利用できる道を探れば内容の「音声化」となるようです。
このカタログもそれへの移行準備を進めています。点字が身近にあふれること、市民権を得ていくことには今もって遠い状況です。

窮地に陥ると一見八方ふさがりのように思えるものです。
ただ、いずれも智恵を働かせれば何かしら光は、方法は見えてくるはずです…。

◆こんな時にはどんな智恵を働かせればよいのでしょう~?
出産した3頭の子虎のうち一頭が凶暴で、他の2頭を襲おうとするため、川を渡るときに、その子虎と他の子虎だけを岸に残しておくことができません。母虎は3頭の子虎を対岸に渡すために、どのような知恵を使ったのでしょう。

          (写真は下鴨神社。神頼み…では開けません??)
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 なにがホントで どれがウソやら 

2009年08月26日 | 日々の暮らしの中で
  
   今年の夏 ついこのあいだ
   宮崎の海で 以下のことに出逢いました
   浜辺で
   若者が二人空びんに海の水を詰めているのです
   何をしているのかと問うたらば
   二人が云うに
   ぼくら生まれて始めて海を見た
   海は昼も夜も揺れているのは驚くべきことだ
   だからこの海の水を
   びんに入れて持ち帰り
   盥(たらい)にあけて
   水が終日揺れるさまを眺めようと思う
   と云うのです
   やがて いい土産ができた と
   二人は口笛をふきながら
   暮れかかる浜から立ち去りました
   夕食の折
   ぼくは変に感激してその話を
   宿の人に話したら
   【       】
   【            】
   といわれたのです

◆上の【 】にはどんな表現が入るでしょうか。(作者・詩の題はふせます)

「ウソ」という詩があります(同作者です)。抜粋しますと…
   ―― 前略
   ウソをつかない人はいない
   というのはホントであり
   ホントだ
   というのはえてしてウソであり

   冗談のようなホントがあり
   涙ながらのウソがあって
   なにがホントで
   どれがウソやら
   ―― 後略

電話の向こうから「近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ」
が聞こえてきました。
Jessieがすっかり和歌を暗唱したというのはホントです。
正確には一部ウソです。
単に唱えきっただけ、なんらの意味も解さないからです

でもすごいすごいとほめほめシャワーを浴びせておきました
ほめることで子供はどれほど有頂天になって輝くことでしょう!

実際三歳の子が和歌に親しむなどと考えられません。理屈抜きです。五七五七七のリズムにだけのって~。意外なほどの速さで覚えてしまいました。
暗唱させようと思いついた私も私ですが、三歳児もほめられ、周りの驚く反応に気を良くして楽しんだようです。もっと早くから遊んでみればよかったと悔やまれることです。
黒髪で生まれ、今は父親と同じブラウンになってしまいましたが、DNAは嘘をつきません?日本人の体にしみ込んでいる五七五…のりズムです。

というのはすべてホントです。

(芙蓉の花。酔うような…この柔らかさがJessieのようで好き ホントです)
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 夢のたわごと

2009年08月25日 | 日々の暮らしの中で
Jessieが私の夢を見たと聞いた。以前も一度起きぬけに自らそう言ってきたことがあった。三歳児の見る夢って?寝言は聞いたことがある。では寝言の最中は夢を見ているってことだろうか。

「アメリカの学者クレイトンによれば、睡眠中の人間は、一時間半から二時間の周期で夢を見、一晩に夢を見る時間は平均八十二分だそうだ」と、雑学の本に説明されていた。夢を見ないという人も、それは単に見た夢を忘れているだけらしい。

「眠っている間に見る心理現象」、「抑圧されていた願望を充足させる働き」が辞書的な意味の「夢」。Jessieは私に会いたがっているのか。日本を懐かしがっているのか。私の思いが強くて現れたのか。まさか鬼の面をつけてJessieを追いかけていたってことでもないだろう。

夢に人が現れるのは、その人が自分を慕っているからだと歌っている。
    うたたねに 恋しき人を 見てしより
         夢てふものは 頼みそめてき

また、自分が恋しいから夢に見るとも歌う。
    思いつつ 寝(ぬ)ればや 人の見えつらむ
         夢と知りせば さめざらましを

どちらも小野小町の作である。なかなか現代的な小町さん。そして、思い思われ恋多き女性でありましたようで。

しかし、本当に思いつつ寝ればお会いできるのでしょうか……

思いの烈しさすさまじさで、心が遊行だけはせぬように…。などと、
たわけた寝言を言っている場合ではないかもしれません。そんなたわごとは五臓の疲れゆえとお叱りが飛び出しそう。足腰治して出直さねばなりませんようで。

       (写真:水引の花 赤い小花を点々と付けて。
4歳の誕生祝いまでは持ちそうになく…)
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 「色」にいでにけり… 

2009年08月23日 | 日々の暮らしの中で
      

虫が鳴き、夜空に月が浮かぶと、それは恋の始まりの予感。
秋の七草が咲き乱れ、虫が集き、夜空に月が輝けば―、登場するのは光源氏と決まっていたとか。そして彼を待つ女君の設定。
今年も赤い実をつけたこの梶の木の葉にも、平安人は和歌を書いて笹の枝に吊るしたりしたという。彼らが好んだ初秋の風景のようだ。

ゆく夏を惜しむよりも秋への移り変わりを心待ちにする今。折しも今日は処処。暑さが止まる(「処」)の意。残暑はぶり返すだろうけれど。
風がやむと凪。夕凪、無風で蒸し暑いようだ。「色」なら何色なのだろう。西日を浴びたオレンジ色からやがて日が落ちていき…。

季節にも「色」がある。中国の五行説でいくと、秋は白。秋風は「色なき風」となるようだ。
吹きくれば身にもしみける秋風を
        色なき物と思ひけるかな      紀 友則

秋風によって人情味や生活感まで脱色されてしまっては、まさに色も艶もない。

また、言葉には「色」があると読んだことがある。ならばせめて言葉をカラフルに紡げればいいのだが、それすら高のぞみ。
そういえば昔、私は名前を入れて「♪○○の高嶺に降る雪も~」なんて歌われたことがあった。高慢ちきだったかな?
白い雪…。白は「すべての光線を反射することによって見える色」とある。なににも混じらず、受けつけず高嶺の花か。まあ、所詮色にも艶にも縁遠いのかもしれないが。寂しい秋となりそうだ。

今夜の肌寒ささえ感じるこの涼しさは、さしずめ製氷菓子のソーダの色。

何だかわからぬ思考回路は、腰痛の後遺症としておこう。涼しいことがわかる。虫の音も聞こえる。マヒしているのは思考力だけかもしれない。

                  (写真:梶の木)
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 涼味満点

2009年08月21日 | 日々の暮らしの中で
             

珍しく今日は朝から曇り空が広がっていた。
カーテンを翻すほどの涼しい風が入る午前中に、夏休みの追い込みをかける子供ではないがオベンキョーを。

「ペンとってえー」「紙ちょうだい」「ハサミとって」「テープとって」
傍でいつも‘お邪魔虫’だったJessie。娘が彼女を外へと連れ出していたことがあったのを思い出した。暑いさ中に娘も気の毒だったことだと申し訳なさがちらり。
 3歳児は暑かろうが寒かろうが、外遊びに不平はなかったが。

この後に異変! 笑うことなかれ。腰が痛い。歩き出そうにも腰が痛みで伸びない。一歩を踏み出すのに体重移動ができない。情けないこと。痛みをこらえじわじわと腰を伸ばすはめに。
座れば、椅子でも座布団でもソファーでも車のシートでも、腰を伸ばすのに一苦労。人目にはどう映っていたことやら。

てなことで、エアコンの力を借りずとも涼味満点の午後となっってしまった。
腰はかなめ、を実感する激痛。サーっと血の気が引く涼しさは笑いごとではない。

わかりません、わかりません!なんでこうなるの!突発性のぎっくり腰とでも言うのでしょうか。病院へは行きません、maybe…たぶん明日は治る…はずですから。
しかし、身をかがめることもつらい感じです。齢ではあるけど、それだけじゃないわね、これは。

イタタタタタタターッ!! 思考回路もマヒ状態につき今夜はこのへんで。
虫の音もしげき夜になってきましたね、最近は。今夜は少し雨が降りましたが…。


         (写真は、帰国を前に参拝した東本願寺で)
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 そののちの…

2009年08月20日 | 日々の暮らしの中で
                

      その後の身にこたへたる残暑かな    清崎敏郎

ここへきて厳しい残暑が続いている。もう秋なのにと思うと、真夏の暑さよりもつらく感じるものもある。京都市立の小中学校では二学期制が導入されている。来週初めのスタートが多い中、府内最初の夏休み明けを迎えた小学校があった。

いくつもの穴を地面に残して羽化した数知れない蝉も、仰向けに転がっている。アブラゼミに一筋の黒い線が続く。蟻が精力的に清掃活動、食料の確保に余念がないようだ。

新型インフルエンザによるマスク騒動があった頃のこと。ホームセンターで農薬を買って帰宅したその方は、隣家まで5センチ幅で延々と続く蟻の列を発見。薬をまいたらみんなマスクしているようだった、と話してくれた。
この話を思い出し、暇な私は小麦粉を振りかけてみた。多すぎたのかしばらく隊列は崩れるが、マスクをしながら何事もなかったようにうまずたゆまず努力。蟻が「左足から歩く」かどうかなど、画家・熊谷守一氏には申し訳ないがわからずじまいだった。

Jessie に見せてやりたい、とふと思ってしまう。「マミィちゃーん!おいでー、ありがいっぱい」とか言って大騒ぎすることだろう。が、思ったとて詮無いこと。腹八分目で満足せよということ。満ち足りた心、これがJessieの私への置き土産。
   蟻を相手にじっと見つめているだけではともすると口周りの筋肉が固まる。というか、たるむというべきか。オシャベリマシーンJessieの声は消えてしまった。身に応える残暑…、なんてほどではないが、暑いな。
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 先延ばしで

2009年08月19日 | JESSICAの日本滞在記
                

3歳の孫娘Jessieにとって、八ヶ月間という半端ではない長期の日本滞在は、貴重な体験として心にしっかりと刻まれるものとなったはずだ。身内のこと、人目もはばからずで恐縮ながら、見事な成長ぶりを見せてくれた。見ること聞くこと、良きも悪しきも吸収して。

日に日に会話力がつく。昨日、朝から何度も入る父親からの電話。「Jessie、ダディは何だって?」と聞くと「ラビュー(love you)」という返事だけ。「ダディに会ったら何て言うの?」「ハロ~~って」と笑う。英語力は空っぽ…だ。
二日間ほど、何度も何度も自分のキャリーバッグの荷物を詰め直していた。そうすることで気持ちも父親のいるオーストラリアに向かっていくかのように。

「今日Jessieのおうちに来て」と手が伸びてくる。「でもねー、チケットがないわ」「買えばいいじゃん」「じゃあ、ひとつ寝たら来てや」「一月になったら行くわ」と、繰り返しながら関西空港へ。ぐずりだした際に一度だけ「はようおうちかえろ-よおー!」と。尋ねたところ、おうちは「オーストラリア!」にあった!複雑…。
 手荷物検査が終わるのを外から見ていた私に、よく通る声で「おかあさ~~ん」。 Jessieは仁王立ち、笑ってじっと見ているのがかすかにわかる。娘の声と重なって、これが最後の声に。思いっきり手を振り合って、後ろ姿を見送った。やっぱり涙は出るもんだ…。

 散在した物を片付け残していった衣類を洗濯したりの一日。あまり性急にすべてを復元するのは惜しいので、先延ばしで行く。

今日も孫話!?となりがちな八か月余でした。長いこと楽しませてもらったJessieと娘に感謝。
そして何よりもお付き合いいただけましたことに深く感謝致しております。

   (写真:がらがらの関空と、泥を落とした公園用グッズ)

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 夜空を赤く染めながら

2009年08月16日 | 日々の暮らしの中で
「五山の送り火」
午後八時、東山如意ヶ嶽の「大文字」が燃え上がるのを待つ。合掌……

少し場所を変え、夜空を赤く染める松ヶ崎西山の「妙」、離れたところに西賀茂船山の「船形」、かすかに「左大文字」と送り火を望んだ。

やがて、山は白い煙に包まれながら火床は静かに消えていった。
祖霊は、西から船に乗って西方浄土へと帰って行かれるという。送り火はそもそも魂送り。今年もそれぞれに、それぞれのお盆が終わりを告げる。心の中で手を合わせ…、我が家の夏の終わりも実感していた。虫の音が響く夜道に、無邪気にはしゃぐ声がかわいい。

帰国準備の荷造りが進められている。ホンマにホンマ、とうとう夏も終わりだ。

ちなみに大文字山の「大」は第一画が80m、 第二画が160m、第三画が120m。火床数は75。松の割木を井桁に組み上げてその間に松葉を入れて点火するという。

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 深泥池(みぞろがいけ)

2009年08月13日 | 日々の暮らしの中で
    

十日ほど前、娘とブラッと立ち寄ってみた深泥池(みぞろがいけ)で、虫取り網を手にトンボやチョウを捕っている男性と出会った。男性は巣から落ちたつばめのヒナのための餌捕りの最中だった。

北区に広がる周囲1・5キロほどの深泥池は、氷河期の層が確認でき、その頃の生き残りとされる生物も生息する学術的にも貴重な池だとされている。
一方巷では、底のない泥池ゆえか、この近辺、お盆にふさわしくゾクッとくるお話も豊富だそうな。

男性によると―
水面を覆うように広がるジュンサイが腐ることで起きる池の富栄養化や、外来種生物の繁殖等々、生態系の乱れにつながる危惧される問題が生じているという。
そこで、道路を挟んで池の南側に隣接する公園内の一角に、池の生態系を学べる小さな水族館づくりを提唱しているらしい。
地元の小さな子供から学習できる環境づくりで、世代を継いで池の保全への関心を育てるには大きな意義もありそうだ。

京都市に降ってわいたような水族館建設計画、その地元説明会が始まった。
古きを温ね、文化や伝統に学びつつも進取性に富むのが京都人だとか。だが、採算性を超えて、大きなハコモノにどのような未来像が描けるのか。様々な展望や価値観を聞きあう堅実さが必要だと思うのだけど。

大きなトンボが飛び交う。日本に分布する200種のとんぼのうち50種がみられるという「京都最古の自然」の地。そこに小さな‘水族館’づくりの提案、…地元密着型だが後押しは……。

ここにもデッカイ‘あたまじゃくし’がウジョウジョいる!

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 お盆に思う…

2009年08月11日 | 日々の暮らしの中で
祖母(父の母)の新盆のとき、私は二十一歳だったが、御世話になった坊守から「kei さんだけもうここに残らはったら」と言われた。父と坊守とは互いをチャンづけで呼び合う幼馴染だった。懐かしい話に笑いが絶えず、くつろいだ父を見る賑やかな晩だったのを記憶している。

やがて、坊守の言葉は色合いを変え、重みを増して改めて私のもとに届けられた。
口数控え目な息子をよそに、坊守の巧みな話術に乗せられて……。彼女は私の姑として立場を変え、君臨することとなった。

生き字引きと持ち上げられ、昔話から近隣の情報まで話題に事欠くことはない。家族縁者おそろいほど、機を得たとばかりに姑の口は冴えよく働く。「まあまあ○○さん!ようお参りやして…」、よく通る大きな声でお出迎え。お愛想の一つも二つも上乗せし、姑の言いたい放題なのに、出会いを感謝しながら気分よく帰っていかれる。

見真似、口真似の盗み取りを続けても、未だに足並みがそろうどころではない。立て板に流れる水の量はかなり減ったのだから追いついてもよさそうなのに。根っから陽気な姑とは、そもそも水温からして違っていそうだ。

「お客さん大好きやわ」、その昔、私たち家族を歓迎してくれた若き日の坊守が見える。彼女の人生そのものの言葉として受け止めている。賑やかに祖霊を迎え楽しんでお帰りいただく。口角の準備運動に余念もなさそうな姑だが、縁の糸だけはあたたかく紡いでいきたい。

姫の最期のお披露目に・・・
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 懐かしい光と影の世界に

2009年08月09日 | 展覧会
          

雨で一切の予定を変更することとなって…。 
昼から、「どこ行くの~?」と3歳児が催促する声が聞こえるのだが、別にどこといってねえ…この3歳児を連れて雨の中…、どこ行こうか~。

で、日本を代表する影絵作家、藤城清治氏の「光と影の世界展」へ行こう~ということになった。過日、京都文化博物館主任学芸員の方の解説を読み、いつかは行こうと思っていた展覧会。

『銀河鉄道の夜』でその昔、子どもたちとファンタジーの世界へ誘われた日が懐かしい。 NHKの「みんなの歌」でも馴染んできただろうか。雑誌で見慣れた作品もある。初期の白黒の影絵から、色がついて、光の絵、「光と影の絵」の世界へ。

新作の題材に、紅葉の清水寺があった。高い本堂の屋根瓦中央に千手観音がいまし、その御威光が広がる構図の中、左右に風神雷神、舞台には小さく牛若丸と弁慶が配置されている。素敵だ。ポストカードでほしいなと思い探したが見つからなかった。ほしい…なあ。
            
毎年この時期は必ず戦争と平和について考える機会を与えられる。言葉はいらなかった。
『悲しくも美しい平和への遺産』と題した作品のそばに「…雨と涙に濡れながら七日間連続してスケッチした」と作者の言葉があった。千羽鶴が舞いハスが群生する。‘平和への’遺産。強烈な印象を与えられるものだった。

肝心の3歳児は、触りたくなるようでつい手を伸ばす。ダメダメシャワーで少しご機嫌斜め。脳裏に残ったのはどーやら「赤鬼さん」、鬼だった。私の顔が鬼に見えたのだろうか…。
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 Fireworks Display ・ 花火

2009年08月08日 | JESSICAの日本滞在記
花のように、美しさを鑑賞するものとして発達してきたという日本の花火。夏の暑い夜、夕涼みでのんびりと楽しみ、線香花火のようなはかなく繊細な美しさを好むのが日本人の情緒であり日本の文化でもある。
だが、海外ではイギリスを初めオーストラリアなどでも、花火は冬の寒さを吹き飛ばすエネルギッシュなものとして好まれ、美しさとスリルを求めると聞く。花火文化は異なっているようだ。

七日、二十六回目となる「琵琶湖大花火大会」。琵琶湖という大きな大きな闇を前にして夜空に広がるFireworks Display(花火)。鑑賞席から見上げるこの華やかな一夜をJessieと母親へのプレゼントとした。

「琵琶湖自然散策」をテーマに一時間、約一万発。水面から三十度~四十度の角度に筒が固定された「斜め打ち」は、湖上を斜めに横切って開くここでしか見られない魅力だそうだ。大会のすべてがコンピューターによってプログラム化され、約六千本の筒を設置して発射。最大の高さは320メートルにも達すると。

桜並木やハス、紅葉が舞い散る湖東三山に飛び交うとんぼ。四季折々の花や風物が頭上を覆い尽くさんばかりに描かれ、湖面を染めながら散っていく。
2830発が打ち上げられたフィナーレ。柔らかに、かわいく、激しく力強く、やさしく優しく音楽に「乗って」花火が夜空に舞う。お見事!!
歓声を上げ、手をたたくJessie。後方からは「ありがとう、ありがとう」と繰り返す声も。

「ダディに見せてあげたいね」二人の思いはオーストラリアへ……。

                    (8/8 京都新聞より)

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 母親の弱気を救うもの

2009年08月06日 | 日々の暮らしの中で
五日、東本願寺で得度式があった。授与された黒袈裟を黒衣の上に身につけて、記念撮影のために並ぶクリクリ坊主頭の少年たち。浮かべるなごやかでほぐれた表情の写真が可愛い。宗祖親鸞にちなみ、大谷派では満九歳から授式できる。

生まれた時でさえ目にしない坊主頭に形を変えた息子は、父親と祖母に付き添われての当日であった。小学校四年生の夏、あれから十九年もが経った。
身の引き締まる日ではあったが、仏法聴聞を生活の中心に…といった環境にはなく、本人はわが道を歩んでいる。

彼の将来の選択肢を狭い枠の中に押し込めたくないと考えてしまった母親。広い世間を知ってほしいと、小さいときから目を外へ外へと向けさせる案内人を務めた母親。
新聞記事を目にし、そんな母親だった者としては、心がなんとなくもやもやとするのを感じる日となるのだった。「あたりまえ」、「あたりまえ」の中で育てるべきだったのか。

  春は花 / 夏ほととぎす / 秋は月 / 冬雪冴えて / すずしかりけり      
道元の有名な歌だ。

孫に手をひっぱられ、しなくてはならないことにも目をつぶって過ごしてみたいあと十日余り。明日のよりよい活動のための睡眠時間を削ってまでして遅い時間にDVDなど観てしまう。『禅 ZEN』 新作につき一泊、迷ったが観ることにした。

「汝の中に仏がいる」と道元さんだが、悟りなどには縁遠い。唯一、「母さんには感謝してます」、年一度の息子の言葉が‘迷える愚かな母親の弱気’への力付けにはなっている。
    
                 (写真は8/5付け京都新聞より)

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