京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

≪故郷スイスの村のぬくもり≫

2008年05月31日 | 展覧会
モンブランの麓の街シャモニー、あるいは、ユングフラウへの麓の鉄道駅付近の、かわいいホテルの景観の記憶。
いずれも観光旅行でのあわただしい思い出ですが、こんなところで1か月ほど過ごしてみたいと思ったことを懐かしく感じます。

スイス中央部のインス村出身で写実主義の画家、アルベール・アンカー展が開催中なので楽しみに足を運びました。
まだ雨が残る時間帯でしたが今日ばかりは気になりません。
サブタイトルに、≪故郷スイスの村のぬくもり≫とあります。

秋から春までパリに暮らし、夏だけ故郷に滞在する生活を30年間送ったそうです。
油彩、水彩、デッサン等、約100点、日本で初めて紹介される回顧展というものです。

≪髪を編む少女≫≪猫をひざに抱く少女≫≪編み物をする少女≫≪鶏に餌をやる少女≫≪スープを飲む少女≫…
描かれている少女は聡明な、理知的な面立ちをしています。少女に限らず子供たちはみなその傾向です。かわいいし、美しいといえば美しいのですが、子どもそのものが発散する、無邪気さを感じ取りにくいのです。なぜでしょう。

おじいさんの腕に抱かれて、気持ち良さそうに寝入っている赤ちゃん。おじいさんの膝に手を載せ、その赤ちゃんの額に唇を寄せている2・3歳の女の子が描かれているのは、≪おじいさんと二人の孫≫です。静かで穏やかな時間です。
部屋の内装、家の外回り、背景の自然、質素な衣装、生活のにおいのする光景…。
新聞を読むおじいさん、ベンチにゴロンと横たわり眠り込んでいる少女。
故郷の村に生きる人々の暮らしぶりを、目の前の確かな現実としてやさしく眼を注いでいるのでしょう。

どれも身近に感じる生活空間です。年代、国こそ違え、人間の営みは大差ないと言えるのでしょう。
スイスの田舎の暮らし、自然をほんのちょっと垣間見る気がしました。

この中から、もし部屋に一枚の絵を飾れるとしたら、どれを選ぶでしょう。
ずっと考えているのですが(会場にいながらでも実は考えたりしていたのですが)、答えが出せません。心が魅かれる子供の表情がないからです。

絵はがきを2枚買いました。
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『売ったらあかん』もの メッセージを心にとめて

2008年05月30日 | 日々の暮らしの中で
    売ったらあかん
    友達を 売ったらあかん
    子どもらを 売ったらあかん
    まごころを 売ったらあかん
    情愛を 売ったらあかん
    信仰を 売ったらあかん
    教育を 売ったらあかん
    学問を 売ったらあかん
    秘密を 売ったらあかん
    こころざしを 売ったらあかん
    大自然を 売ったらあかん
    自分を 売ったらあかん
    自分を 売ったらあかん

…「一九七〇年の夏、生まれて初めて、大阪弁の詩を書きました。」
…服部公一氏作曲で美しい女性合唱の組曲になりラジオの芸術祭の参加作品になったんや。」
…「もう三十五年まえのうたですやけど、いまも同じことばかり言うている気がします。」

「光り輝く方から見たら、銀色に見えることが、こちらから見たら、黒いシルエットに見えることがある。あるいは、あちらは上から眺めなはって、こちらは底から眺めている。角度がちがえば、おなじことがこのように違うのかと、おどろくようなことがありまっせ。」


明日は、4月29日に亡くなられた随筆家岡部伊都子さんのお別れ会の日です。
この日を前にしながらすこしづつ、著書『遺言のつもりで 伊都子一生語り下ろし』を読んでいました。
様々な体験談や、幅の広い分野での活動・交友関係のお話等など、とても一度では受け止めかねる大きな一生のお話です。

こだわりが強すぎる自分。視野が狭くなりますから、そこをうまくコントロールしたいのです。
同時に、2度とない人生ですから、“丸く柔らかく”、それでいて自分を見失うことなく暮らしていきたいと考えます。

でも、「売ったらあかん」ものはたくさんあります。
岡部さんのメッセージを心に…。
きっとまた違う作品で、岡部さんの世界に浸っていることだと思います。


「人生残り時間が少ないから!もう!巻きで行かないと~~~っ!倍速です!」
TVから声が聞こえてきます。(エド・はるみさん)
私はそんなに急ぎはしないけれど(?)。
上品な顔立ち、話し方と、芸人の顔とのギャップの大きさが楽しい。

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「レディ・ムラサキ」

2008年05月27日 | 日々の暮らしの中で
「こんな色調はほかにない」と胸を張るのは右京区の77歳の男性。
バラの品種改良はなかなか成功しないというが、平安朝の優雅さを思わせる上品なピンクがかった紫色のバラの新品種を作り出したという記事。(5/27付け 京都新聞)

名づけて「レディ・ムラサキ」(紫式部の英訳)。
淡い紫色の「マダム・ビオレ」と、ピンクで形や色がよい「テコナ」を掛け合わせたとある。
この掛け合わせの20本のうち1本が、この色で、直径13センチの大輪の花を咲かせたという。
同じ株から秋にはまた花を咲かせるのではと予想されている。

それにしてもバラづくりの世界は研究の域。彼も、園芸研究家だそうな。
娘さんの誕生記念にということから端を発し、とりこになられたそうだ。、

品種改良では、掛け合わせてできた種1万粒のうち1粒しか満足いくものができないとか。
「青いばらは不可能の代名詞」と言われてきたところに <青いバラ>を咲かせたサントリー。

今日は一日、「レディ・ムラサキ」の響きが脳裏を離れなかった。

天国と地獄。
夕刊紙面に目やっていると、なんとも言えない不快感が心を覆った。

大津女性遺棄 聴取の47歳男性自殺
東京女性不明 「刺して殺した」
伏見父殺害 長女が無罪主張
男性殴打重体 同居男を逮捕
後ろから近づき女児の口ふさぐ 北区、バイク男逃走
大阪の民家 女性の遺体
広島の病院敷地 母を突き落とし 殺人容疑で娘逮捕へ

なにこれっ! こんな見出しばかりが一面にあふれている!何ということ!
こういう記事が毎日毎日…。
このような語句を入力している自分も、ヘンだ!オカシクナル!!


美しい「レディ・ムラサキ」の響きで、脳内一掃をしなくてはなるまい。

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万葉のロマンを胸に

2008年05月26日 | 日々の暮らしの中で
京都市から外へ出ると、日常にない光景が目の前に広がり、なんとも言えない開放感にひたれます。

今は名神高速道路で、“京から東国へ下る時も、都に帰る時も”、蝉丸トンネルへかかる手前は、逢坂山が迫り、緑が深い。とっても深い時期です。

百人一首で早くから覚えた蝉丸の歌。蝉丸という名に惹かれ暗唱したのを覚えています。彼は幼少のころから盲目で逢坂山に捨てられたとか...。
諸説ある中、今のように車の騒音がない時代、彼の弾く琵琶の音がどう響いていたのでしょう。

これやこの 行くも帰るも 別れては
  知るも知らぬも 逢坂の関

美しく輝く麦畑を左手に眺めながら、進む場所があります。
小麦色、「黄金色」と言ったほうがいいでしょうか、光っています!
「麦秋」、「麦の秋」は夏の季語。
父や母が眠る方向をずっとずっと前方に見やれば、少し霞んではいるものの、辺りは一面緑ですし、道端は今盛りの花々で彩られています。
なだらかな山並みが続き、囲まれるようにして水田が広がっています。
こうしたコントラストが非常に素敵な光景でした。

所用を済ませ、帰路は別コースを使うことにしました。少し遠回りにはなるのですが、東近江市(旧 八日市市)を抜けて。

高い山の上に、「太郎坊さん」が見えます。中腹まで簡単に車で登れますから、ここで一休み。風が心地よい。
眼下には、蒲生野の水田地帯が広がります。
みごとな広がりです。
昔から変わらない風景なのでしょうか。奈良時代の人たちの生活が営まれていた所。
渡来人のあとを示すものも点在するところです。

  あかねさす紫の行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る  額田王

  紫のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも   大海人皇子

歌碑のある船岡山へとは曲がらず、帰りました。

甲賀市信楽町の紫香楽宮跡から出土した木簡から、万葉集の歌が初めて確認されたという報道で、わくわくして記事を読んだのもつい最近のこと。
こうしたロマンあふれる地が身近にあることがなぜか嬉しく感じます。

歴史もあり、観光地として名高い京都ですが、全く違う感覚なのです。

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誰が風を見たでしょう

2008年05月23日 | 日々の暮らしの中で
✤『俳句はいま』 俳人・小川軽舟  (京都新聞 5/23付より)

友岡子郷の「天真のことば 私の実感的俳句論」(本阿弥書店)を読んだ。  (と始まる。)


誰が風を見たでしょう
僕もあなたも見やしない
けれど木の葉を顫わせて(ふるわせて)
風は通りぬけてゆく
   (クリスチナ・ロセッティ作詞、西条八十訳)

友岡は少年の日に覚えたこの歌を忘れない。そして、「見えないものが見えるとき、その自然の神秘な啓示のひとときに立ち会ってこそ、新にいい作品―詩歌でも俳句でも、絵画でも音楽でもーが生まれるにちがいない」と考える。

「散文のことばが主として事柄を説明し叙述するはたらきであるのに対し、俳句のことばは、物に感合し同化しようとするはたらきである」―
友岡は意味や概念や説明を離れて、物そのものとともにある言葉を「天真のことば」と呼ぶ。
友岡の代表句〈跳箱の突き手一瞬冬が来る〉も天真のことばの希求の結実と言えるだろう。
友岡の引用する「散文は歩行であり、詩は舞踊である」というヴァレリーの言葉(…後略)


一部略での抜粋
上記の詩は知らなかった。

★★今日の出会いの一つ。記憶のために残しておきたいと思う。
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石垣りんさんの「公衆浴場」とわたしのスーパー銭湯

2008年05月22日 | 日々の暮らしの中で
 私がよく行く公衆浴場は、湯の出るカランが十六しかない。そのうちのひとつぐらいはよくこわれているような、小ぶりで貧弱なお風呂だ。
その晩もおそく、流し場の下手で中腰になってからだを洗っていると、見かけたことのない女性がそっと身を寄せてきて「すみませんけど」という。手をとめてそちらを向くと「これで私の衿をそってください」と、持っていた軽便カミソリを祈るように差し出した。剃って上げたいが、カミソリという物を使ったことがないと断ると「いいんです、ただスッとやってくれれば」「大丈夫かしら」「ええ、簡単でいいんです」と言う。ためらっている私にカミソリを握らせたのは次のひとことだった。「明日、私はオヨメに行くんです」私は二度びっくりしてしまった。…… 私は笑って彼女の背にまわると、左手で髪の毛をよけ、慣れない手つきでその衿足にカミソリの刃を当てた。明日嫁入るという日、美容院へも行かずに済ます、ゆたかでない人間の喜びのゆたかさが湯気の中で、むこう向きにうなじをたれている、と思った。
 (後略)
     石垣りん エッセイ集『ユーモアの鎖国』収 「花嫁」より


久しぶりにねねの湯へ。いつもはほとんど一人で行く場所ですが、“お誘いをいただき”、即OK。私は誘われるとなかなか断らない。
断れないのではありません。変更可能な自分の計画は後回しにしてしまうこともあります。
前回は4月、世間がお花見に右往左往している中、ひとりで行きました。
今日もよい天気、比較的すいていました。

スチームサウナが好きな私、寝入ってしまいそう、このまま意識が遠のくのかとまで?リラックス、リラックス。

石垣さんがいかれた公衆浴場とは比べ物にならない、ゆたかに満々とあふれ出るお湯。使いたい放題のシャワー。
ほてった体を冷やすのにいったい何倍の水をかぶっているでしょう。

明日結婚するという花嫁さんの貧しさのなかのゆたかさ・喜びを感じ取っておられる作者。
一方私は、好き勝手?、自らの癒しを求めて、ここでの時間を自分のためにたっぷりと使うのです。


「お風呂に入れないから、体がかゆい」と言っていた少年の映像が記憶に新しい。

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花を飾るより  ずっと明かるい

2008年05月21日 | 日々の暮らしの中で
      「小さな靴」  高田敏子 詩集『むらさきの花』より
    小さな靴が置いてある
    満二歳になる英子の靴だ
    忘れて行ったまま二か月ほどが過ぎていて
    英子の足にはもう合わない
    子供はそうして次々に
    新しい靴にはきかえてゆく

    おとなの 疲れた靴ばかりのならぶ玄関に
    小さな靴は 置いてある
    花を飾るより ずっと明かるい


何度も何度も転びながら一歩一歩確かな足取りになっていく頃に、はいていた靴。
1歳6か月ごろにはいていた靴が我が家に残されているのです。
靴底は洗っても落ちない汚れが付いてしまっていますが、外見はしっかりしたままで。
想像してもいない靴のスタイルでした。
ちょうど“ミニスニーカー”です。

気持ちよく晴れ渡った今日、窓を開け風を入れ...

なぜか、しげしげと眺めていました。
存在を忘れていたわけではありません。
こんな小さな足で立ち上がり、歩くことが嬉しくて仕方ないとばかりに、飛ぶように小さな歩幅を重ねていましたね…。
2歳7か月を過ぎた今、どんなくつをはいているのかしら…。

高田敏子さんの詩を思い出し、ページを繰りました。


     「花を飾るより ずっと明かるい」!!!
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「完売です」のショックに...学ぶ?

2008年05月20日 | 日々の暮らしの中で
「早い時期に完売してしまったんです」。

まだ残ってるかしらと少しは期待していたのですが、遅すぎました。
6月29日京都コンサートホールでの『茂山狂言鑑賞会』のことです。
残念極まりないのですが仕方ありません。
これからは、これっ!というときは即決で予定に入れることにしよう。
知人と二人でのお楽しみがふいになりました…。
ああ、経験から学ぶのです!ショックです。

なんとですね、EXILEのコンサートに行こうとチケットの手配に当たってくれている友人がいます。(演劇通の女性です。)
彼女の高校生の息子さんとその友人と一緒です。行動はもちろん別。(当然!?)
私も彼らの曲が好きで娘にも聞かせようとCDを購入していたのです。(娘は大喜びでした)
久しぶりのミリオンセラーだというアルバム「LOVE」。  
偶然にも話があったところで彼女が計画中だったコンサートの話にのったわけです。
狂言会に同行予定だった友は、なんとグレイのコンサートに何回となく出かけているファン。

いろいろな年齢層、趣味や活動パターンの友を持つと、私自身の世界が広がります。
嬉しくありがたいことです。

ただEXILEのコンサートは12月6日とかで、そのあたりはちょうど弟の一周忌が控えています。
娘が家族で帰国する予定をしていますし、法事の日取りはまだ不明ですからどうなるかですが。
行けるなら娘を楽しませてもやりたいところです。

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もう一度だけ言わせて 点字メニューの事

2008年05月20日 | 日々の暮らしの中で
点字で、書籍類、教科書、広報、使用説明書、レシピ、広告類...、などを点訳されていらっしゃるボランティアの方もたくさんいらっしゃいます。
缶ビールのふたに、エレベーターのボタンになどはよく知られていますが、自動販売機についている場合もあります。

視覚障害者の抱える問題を多くの人に知ってもらう、考えてもらう一つの方法として、点字メニューを飲食店に置いてもらう活動を進めているボランティアグループがあります。むろん、点字メニューを“設置する”ことが目的ではありません。

啓発の意味も含める社会的なかかわりを持った活動ではあります。
バリアフリーという表現がやたら用いられた時期がありました。
正当で、もっともで、よりよい社会を目指して...、なんて表現してしまえばきわめて正論で意義深い?活動と片づけられてしまいそうですが。そこに安住したくありません。

 ★「この1年間に1回も使われたことがない」「だからもう置かない」
 
この言葉が表わすことは???

一例ですが、こういうところからでも、自分の思いの中に、参加を疑問視し気持ちが揺れる“何か”が生じてきてしまうのです。
理念は変わらないのだから、別のアプローチがある?... 
小休止したり、しばらく離れてみたりしながら...、再開しました。

...あまりじょうずにいえません。そして簡単に書いてしまっていますが...
こういう点訳の活動をされていらっしゃる方はどうお考えになるでしょう。


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「点字メニュー」を知っていますか?

2008年05月18日 | 日々の暮らしの中で
「点字メニュー」を設置している飲食店があることをご存知ですか?

視覚障害者の文字である点字で、メニューが作成されています。
≪メニューを見てオーダーする≫というのは普通のことです。
それを必要としている人が、少ないかもしれないがいるという現実。
そこには、点字を読める人が減っている、点字メニューが実際に使われることは少ないという事実もあるわけです。
視覚障害者が情報を得る自由を考えてみると...

「当たり前だ」「権利だ」「差別だ」・・・などと声高に叫ばなくてもいいと思うのです。人が地域で共に暮らしていく時、小さな協力で、お互いサポートできることがあるのではないでしょうか。
そう考えたとき、どうしてこの活動が社会的に熟知されず、認知度も低く、普及しにくいのかと思うのです。
実際、並大抵のことではありません。

根気強く、も、一体何十年になるのでしょう...。









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ここが大阪市役所よ、あそこが......

2008年05月17日 | 日々の暮らしの中で
 「ここが大阪市役所よ」
 「あそこに見えるのがフェスティバルホール」
 「この辺りが中之島公園」
 「ここが中之島公会堂」
 「オムライスがおいしいので有名なお店がここで営業を続けてるんだけど」
 「バラ園がきれいだから行ってみようと思って」

京阪淀屋橋で合流して3人に。地上に上がって、彼女の説明からスタートしました。
「良いとこ取りよ」と言って案内してもらって、おかげで楽しい一日を過ごしました、ありがとう!

心斎橋、道頓堀りも初めて。阪神ファンの川へのダイブの橋。
グリコのマーク、かに道楽のシンボル、くいだおれ人形。
縁無く訪れたたことがない。
ああ、ここが!これが!と思い、「へ~~え、へ~~え」の連発にはわれながらおかしなものでした。
それほどどこも知らないのでした。

梅田に出て、赤い観覧車に乗って四方を眺め、1回転200円。
遠く明石海峡大橋まで見えました。
大阪城公園。ここは私の中学時代の修学旅行でやってきて(関東育ちですの)以来のこと。
汗ばむほどの陽気に冷たいもので一息つき、やけどするといいながらたこ焼きを食べて。大阪城を眺めながらの一休み、二休みでした。

ブラストの演奏を楽しんだ大阪厚生年金会館、観劇のためには梅田芸術劇場・大阪四季劇場。
ああ、USJに子供と行ったことがあったなあ。
ずーっと昔若い頃、家族で大阪万博に出かけたこともあったっけ。
あとは???、たぶんこの他にはなかったろう。
関空には何度も行ってるか…。

くいだおれ人形と、大阪名物の大きな!たこやきが付いた耳かきを買いました。
後者は娘のところへの荷物に入れてあげよう。

今日の収穫
★淀屋橋って、簡単に行けるんだ!!ということを実感したことでした。

 ……でも何のために行くか、です。
 目的がないから行く機会もなかったわけですから……

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『ミュージック・オブ・ハート』

2008年05月16日 | 映画・観劇
原作はロべルタ・ガスパーリ著『ミュージック・オブ・ハート』(角川文庫)、自叙伝です。
ニューヨークのイースト・ハーレムで音楽教室を開きヴァイオリンを教え続けるロべルタ。
10年を超えて、突然にその教室打ち切りの通告を市から受ける。
しかし諦めることなく、存続のために力をかり、救済コンサートを開くことを決意していく。

クライマックスは、会場となったカーネーギーホール。
  「弾く時にハートを忘れないで」
  「ここで弾くのよ」と、胸に手を当て、
  「素晴らしい子たち!」
ロべルタはそう言って子どもたちを舞台に送り出す。
彼女の子供たちも一緒だ(長男はチェロ奏者に、次男は医学の道に進んだとのこと)。

“Please support music & arts”
「オーパス118音楽センタ-」財団ができて、小学校カリキュラムの中心に音楽と芸術を戻すために活動し続けているという。

子どもたちの演技も、目がきらきらと輝いているのも素敵だ。
音楽が人を、心をつなぐ。
1999年の作品『ミュージック・オブ・ハート』、ロべルタ役は、メリル・ストリープ。
制作時点で、ロべルタは養女とそれまでの家に住み続けているという。
夫と別れたからこそ今があると言って、ロべルタの母親は、夫に感謝をと笑う。

一つの人生を見せてもらった。
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“署名する、歩く、座りこむ・・・”

2008年05月14日 | 日々の暮らしの中で
たとえば“えらいこっちゃ!後期高齢者医療制度”への問題視、疑問、怒り…、年金問題、ガソリン代の高騰…しかり。人権に関わるチベット問題。
身近な、生活に深くかかわることだけに誰もが関心を持っていることです。
一般に、怒りに震えていても私たちは、自分も含め、なかなか自分の思いを社会に向けて表明することができにくいように感じます。
世論を起こすに至ることも少ないでしょうか。
我慢する、あきらめる、身を引く、沈黙する???

胡錦濤中国国家主席が来日された際、早稲田大学で学生が警官隊と小競り合いになったことが報道されました。
大学での講演では、多くの一般学生はかやの外だったと耳にしています。
今年の“メーデー”では、府立植物園にものすごい人が集まりました、家族づれで、子どももいました…。こういう力になるには。

本当にこれでいいんだろうかという思いが心の底から湧いてくるとき、どう形にしたらよいのでしょう…。

ある朝、みのもんたさんの番組で、作家の渡辺淳一さんや瀬戸内寂聴さんが、「怒れ」「おとなしすぎる」
「老人もつえを付いて国会の前を歩いたり座り込んだりしたらいいんですよ」と声をそろえて言われていました。

今日は岡部伊都子さんの著書を読んだりして過ごしていたのですが…。
ありました。確かどこかにあったと思っていたのです。

武器なき民衆には何の力もないように思われますけど、決して、そうではない、「署名する、歩く、座り込む、また集まるのも大きな力」とうかがいました。そのほかにも、話す、立つ、歌うこともできるでしょう。力及ばず、思いつくせぬうらみをかこちながらも、ひとりの声を文字に綴ります。     
    『清らに生きる 伊都子のことば』より
と。

自分自身、当事者である意識が形となって現わせないことは本当に多いです。
自分の声を何らかの形で出せるようにしなくてはと思うのでした。

そんな中、今夜、500人のお年寄りが後期高齢者医療制度廃止を訴え抗議デモをしたことを知りました。
国内各地から集まったそうだ!!

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自分にこだわってみたい

2008年05月12日 | 日々の暮らしの中で
しばらく活動から遠ざかり、他に関心を持ってかかわれそうなものを探ってきた日々が続いてきました。

点訳ボランティアの講習会に1年間参加し、終了後、活動の場を求めていた時に出会った会でした。
離れている間にも教科書や図書点訳を経験したりしてきました。それでもどこかで、できるならあの点字メニューづくりの活動にかかわってみたいという思いが捨てきれず…、実際のところすっきりしない日々でした。

会の代表の考え方・姿勢・運営の仕方…に納得できないもどかしさ。
初心者に、あまりに活動の意義や“当たり前”を押し出されることへの抵抗感。
代表とは少し角度の違う考え方・方法をどうして受け入れてもらえないのか、いらだち?不信?。
いっぱいわいてくる疑問…。
活動的だった友が一人減り、また一人と、去っていきました。

知らないことが多く「初心者」であったことからくる視野の狭さはありました。
その反面では、まあ、俗に言う、熱心さもあったわけでしょう。
だからこそ徐々にこだわりが出てきて、悩むし、疑問も生じてきます。
そこが解決できずには一歩前へ踏み出せなくなっていってしまったかなと振り返ります…。

抱えてきた疑問が解消できたわけではありません。
しかし参加しながら改めて問い直してもいいかもしれない、何もしないで考えていても始まらないとも思うのです
自分の好きなこと、関心を持ってかかわれる分野であること、これを根底に、今一度会を訪問しようとようやく気持ちがかたまりつつあります。

あの頃より、少しは客観的に考えられる自分になっているかと信じたい。
自分とペースの違う仲間とも協力できるだけの度量も身につけたろうか?
これまでのご無沙汰の日々が充電期間だったといえる日があればいいなあと、
一抹の不安も抱えますが、動き出すことにします。
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バードウォッチングも楽し・・・いか

2008年05月10日 | 日々の暮らしの中で
ああ、今日は雨降りだ・・・と思ってると、この雨の中、しきりと鶯が鳴いています。「ホ ホケキョ」「ホケキョ」「ホケキョ」と。 “ホー”があまり聞こえないんだけど…。
予報通り気温も低く肌寒い日となりました。

本当は雨がふさわしいのでしょうが、上賀茂神社の少し東に位置する太田神社のカキツバタが見ごろを迎えているようです。
雨にぬれて群生するさまはきっと見事でしょう。情緒に欠ける私は、雨だということで、寒いし、断念。
たくさんの人が決して広くはない道路にあふれます。もっとゆっくり静かに眺めていたいと感じますが、自分も押しかける一人でして。
藤原俊成の歌で有名です。
   神山や太田の沢のカキツバタ  ふかきたのみは色に見ゆらむ
15日は葵祭、お天気にな~~れ。

先日、京都御苑で鳴く野鳥が新聞で紹介されていたのですが、その鳴き方の表現が楽しい。
  ❉尾がリボンのように長いサンコウチョウ・・・
     「月日星(つきひほし)ホイホイホイ」
  
  ❉背がオリーブグリーンのセンダイムシクイ・・・ 
     「焼酎一杯グイーッ」

こんな鳴き方、聞いてみたいものです。4月29日の段階で観察できたというから、バードウオッチングもいいかな。
池など水場の周辺、虫の多いトイレの近く。鳥の好む木の実があるところ、細い通りにある池垣の近くなどで観測しやすいらしい。

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