京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

ぶらっと古本まつり

2020年10月30日 | 催しごと
11月9日まで読書週間に当たっているが、「ラストページまで駆け抜けて」が今年の標語らしい。
速読術などには無縁できた私で、早読みへの関心もない。好きなように自分のペースで読めばいいと思っているからか、「駆け抜けて」という表現には少々引っ掛かるが、それも「読み通すこと」「通読」と捉えるなら読書の基本として納得する。


そこでというわけではないが、秋の古本まつり(10/30~11/3 知恩寺境内で)に出向くことにした。
今日は朝から風が冷たくて11月中旬の体感気温だったらしいが、コロナ禍にあって春・夏ともに中止となってしまったから今回の開催を楽しみに待つ人も多かったに違いなく、かなりの人出だった。17店舗の出店があり、20万冊以上が並んでいるという。
特別目的があっていくわけではないのに、一冊の本が目に留まる。手を伸ばす。そこに一つの出会いが生まれる。そうそう、と、『モンテレッジオ 小さな村の旅する本屋の物語』にあった、あの言葉が思い出される。「本を選ぶのは、旅への切符を手にするようなものだ」

       

『莫山夢幻』(榊莫山 2001年3月初版)。この本の前の持ち主のものだろうか、「あとがきの」余白に平成十八年一月三日了と鉛筆書きで添えられていた。正月に静かに心を傾けていた人…。「年」の文字が3画で、崩すというより簡略化されて記されている。書をたしなむ方? ご高齢か? 日付けはのびのびと縦長に、男性のような書きっぷりで。

   莫山“書人観”
 禅僧・費隠=目が洗われる、というものでは物足らず、目がつぶれそうになった。
 沢庵=柔のなかに烈火の意思をつつみこむ。
 良寛=一幅の書の前からはなれられない時を手にしていた。
 熊谷守一=この画家の心は、生涯、無一物であった、と思う。

 帯にあった書家・莫山さんの〈書人観〉の一部。書下ろし含め45編のエッセイが収められている。
手放せない一冊になりそうな予感…。
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半べそも結果オーライ

2020年10月28日 | HALL家の話
運動会を終えた土曜(24日)の午後。「阪急電車で行くわ」と電話口での孫のLukasの声は弾んでいたんだけれど…。

大阪の梅田駅から「豪華な列車で、特別料金がいるのかと思った」という京とれいん雅洛に乗って、母親とやってきました。「ワクワクしてきた」と言っていたらしいルーカス。駅の改札口で母親と別れ、手をつないで地下鉄のホームへ。運動会でもらったメダルを首から下げて、ずっとお喋りのし通しで、玄関に勢いよく走りこんでいきました。
なのに! ほどなく「かえりたい・・・」と半べそをかきだしました。「かえる~ぅ」って。「かえりたいよ―」が続いて止まりません。あーあ、ですが仕方なく、今度は車で戻ることになりました。1時間20分ほど、車に弱いので一人後ろに乗せるのは心配でしたが、すぐに寝息を立てて眠ってしまいました。

 

月曜日は運動会の代休日。映画「クレヨンしんちゃん 激突!ラクガキングダムとほぼ四人の勇者」を観ようという約束は結局、京都ではなく大阪で。109シネマズ大阪エキスポシティ映画館で見ることになりました。「109を目指して」とか「ガンダムを目印に」と母親や兄Tylerの教えを受けて、モノレールで万博記念公園へ。一度来たことあるのに映画館は全く記憶になく、いやでもわかった目印めざし、10分ほど外で開館待ちです。
この前日、午前中に兄のTylerがここで友人と二人で「鬼滅の刃」を見て、午後からそろってラグビーの練習に参加していたのでした。


 

平日のために混雑もなく程よい賑わいです。昼食後、万博記念公園内の自然文化園の東寄りエリアで遊んで帰りました。家から近いし車に乗らずに行ける映画館はルーカスにもってこいです。おまけに思う存分体を動かせるとあって、良い場所でした。二人乗り自転車は種類も多く、私も一緒に楽しみました。「だるまさんがころんだ」。広場を思い切り逃げ回る3歳児を捕まえるのは並大抵なことではありません…。家族や子供同士ならもっともっと彼の運動量も増えるでしょう。
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二上山への道をジェンカのステップで

2020年10月22日 | 日々の暮らしの中で

今夜、京都テレビで三重放送の「ええじゃないか」という番組を観た。
〈奈良県葛城市でふれあい旅  中将姫伝説が生きる当麻寺〉などと新聞の番組欄で見かけたためだ。
学生時代、言うも恥ずかしい気はするが、私は源氏物語研究会に属していて毎年12月も中旬になると源氏万葉旅行と称し、教授や院生、会の卒業生など含めた二十数名で3、4日の旅をした。

当麻寺の宿坊に泊まり、翌日は二上山に大津皇子の跡を訪ねたことがあった。山登りに慣れない私は音を上げそうだったと思うのだが、それとともに、宿を出て麓までのアスファルト道を皆で縦列し、ジェンカのステップで行進したことを鮮明に記憶している。あれも結構息が上がってきつかったのだ。
当時はカメラを持ち歩かなかったので、残る写真は少ない。映像を見ても記憶は蘇らないし、二度ほどその後参拝しているが、やはりあいまいだ。
二上山の向こうに夕日が沈む光景に憧れるが、琵琶湖岸から見ても見事な夕景が見られる!と知人は自慢しておられた。確かに! 極楽浄土はそれぞれの心にあるものだ。

(古典)文学ゆかりの地を訪ねる中で社寺への関心が強まり、その足跡を朱印で残すようになった。後年、瀬戸内寂聴さんの紀行文集を読んでいて、趣味で御朱印を集める人たちを「ワッペン巡礼」と呼ぶことがあると知った。集印が目的ではなかったが、「信仰なき巡礼者」と言われれば、そうだったろう。それでも数々の聖地に立った体験は、私の人生の根元に埋め込まれている。
そんなことを懐かしさとともに思い出した。

信仰までいかない坊守、そんな思いが心の隅にあることに気付いている。信仰とか信仰心という言葉は口をついて出ないし、また使えない私。仏縁はひそかに忍び込んでいると思えるのだけれど…。三途の川で溺れないようにしないと、なんて。
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高い天の下で

2020年10月20日 | 日々の暮らしの中で

昨日は16度、今日日中は24度にも上がって日差したっぷり。秋晴れだった。
美容院でカットし、軽くパーマを当てたいと予定していたが、またもやうっかり、店は連休だった。あら残念!という感じ。

「映画に行き始めました。韓国映画『82年生まれ、キム・ジョン』、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』を見ましたが、韓国映画はおすすめです。何か見ましたか?」 長いことご無沙汰だった大阪に住む友人からメールで訊ねられた。
映画は1月に孫娘と見た「キャッツ」を最後に、何を上映しているかさえ関心はなくなったまま今に至っている。ただ、来週初め、孫のルーカスと「クレヨンしんちゃん」を見ようと、それとなくの口約束を交わしていた。土曜日が運動会で、その代休になる日。今頃まで上映しているのかと調べてみたら上映中だった。京都で、という予定なのだが、どうなるかな。

「鬼滅の刃」の主題歌を歌うTylerの叫びがリフレインする。
   どうしたって
   消せない夢も止まれない今も
なぜかこの部分。音程がとれなくて、すさまじい叫び声になる。おかしいけど笑わない。
映画を見たいのだろうが彼には休みがない。

とまあ、先のことを考えて目鼻を付けておきたい。
書き上げたもの寝かせておいたのでプリントアウトして、何度目かの推敲のために持って外に出た。
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みみっちいなあ、と

2020年10月16日 | 日々の暮らしの中で

『熱源』(第162回直木賞受賞作品)を読んでみたいなと思っていたので、外出ついでに書店に立ち寄った。昨日のこと。

【明治から昭和初期にかけて帝国日本とロシア・ソ連のはざまで「文明開化」という荒波にのみ込まれた樺太が舞台。困難な時代、差別にさらされながらもたくましく生きたアイヌの人々、祖国を奪われた人たちへの賛歌だ。「生きてると楽しいぞ。そんな『ウソ』を読者に届けたい】
【いろんな文化圏や人々の集団のあわい、そこで起きる葛藤やドラマを書きたい】と川越さん。
この作品は、個人的には先月に読んだ『まほろばの疾風』(熊谷達也)からの関心の流れになった。

             
買おうと思って足を運んだのに、手にとっては書架に戻し、ぐるっと店内一巡してからまた思案、結局やめてしまった。ちょっとみみっちい思いが心の隅にあったのだ。もしかすると、あるかもなあ。見てからにしようか…と。しかし足を伸ばした中古本書店には、あいにく見当たらなかった。
で、今日は近隣の同系列店舗をのぞいた。あった、あった。すぐ確保。

だけどちょっと申し訳ないなあという気もしている。今年初めの受賞作品、出版からまだ1年少しのものだ。
「こういう店があるから新刊本が売れない」って、息子は渋い顔をするのを思い出している。

今とても楽しみに読み進めている作品がある。読み終わって頭の中が静まったころ、読みだすとしよう。

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うつろい

2020年10月14日 | 日々の暮らしの中で

知人から電話がかかってきた。今朝母親が亡くなったという知らせだった。
白い萩の花がこぼれ、芒の穂が秋風になびく。うつろう風情の美しさにひたっているときだった。

はるかに昔。道で出会って立ち話をしているとき、「あがってスイカを食べていきなさい」と誘ってくれたことがった。「家で食べているか?」と聞かれたことを覚えている。嫁いだ翌年ぐらいだったろうか。義母が畑で作ったスイカを遠慮なく食べていたことをタミさんは知らなかったのだ。

うつろいは、まさに人生の真髄。また一人消えていった。人は死んだらどこへ行くのだろうか。
良い日だなあと思っていたのに、なにか寂しさを感じる日になった。

  芒澄む人を遠しとおもへる日    岸秋渓子
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タヌキダニのお不動さん

2020年10月12日 | こんなところ訪ねて
朝、とてもきれいな青い空が広がったから、今日はどこか外に出かけようと思案した。曼殊院から詩仙堂のほうへ歩こうか…。


白川通から東に入って曼殊院へと進みかけたが、すぐに気が変わり詩仙堂へ向かうことにした。
この道を初めて歩いたのは24歳のときだった。当然住宅も増えているのだろうが、この辺りからの、この眺めは、いつ来ても当時のままのような懐かしさを覚える。


詩仙堂に入ろうかどうしようか迷いながら前の道を少し上っていくと、狸谷山不動尊内陣公開の看板が目に入った。
行こう! 15分とあったが相当な坂道だ、15分では行くまい。足は動くが息が切れる。人とすれ違うことはまれなのでマスクは外しているが、気温が上がって暑いこと。立ち止まって呼吸を整えるなんて、最近にないことだった。




↑この階段を登りきって本堂までの250段分の208段。




懸崖造りの上に本堂で、タヌキダニのお不動さんは岩窟の中の内陣に安置されているのだという。不動尊の前まで近づくと背面は確かに岩肌が見て取れる。


何も考えず、気ままに楽しんできた。気持ちは解放され、ちょっと心には刺激になった気がする。疲れたけれど力もわいたかな。
      
   秋晴れの日記も簡を極めけり  (相生垣瓜人)    ということで今日は写真ばかり…。
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「表現行為の無視」?

2020年10月08日 | 日々の暮らしの中で

昨日は青い空をうろこ雲が飾って、秋らしい空気に満ちた朝でした。が、予報通り、午後から雨に。
雨はきょう一日、しとしとしとしと降り続きました。どこへ行く予定もなく、完全休養と言えもしますが、じっと家にいるのは案外疲れます。
机に向かったり、横になったり…。

朝刊の読者投稿欄に「ら抜き言葉 訂正に違和感」と題された、60代半ばの男性による一考が掲載されていました。ちょっと引っ掛かりをもって読み終えました。

【テレビ番組でインタビューされた人の言葉が、画面下に字幕で流れるが、本人が「ら抜き言葉」で喋っていても、字幕では「訂正」されて表記される。例えば、〈ご飯が食べれなくなった〉と喋っているのに、画面では〈ご飯が食べられなくなった〉とされている。
これに、しばしば違和感を覚える。日本人の多数が前者(ら抜き言葉)をネイティブの日本語として使っているにもかかわらずだ。文法として適格かどうかという議論は置くとして、少なくとも本人が正しいと思っていったことを了解もなく勝手に「訂正」するのは、その人の表現行為を無視することではなかろうか】
おおむねこうした展開の内容です。

私も字幕では「訂正」があることに気づいていました。
個人の表現行為を無視することだ、といった視点では考えが及ばなかったですが、私などはむしろ良識的だと感じているくらいです。
聞いていて、「ら抜き」は不思議と敏感に耳に引っ掛かります。それこそ違和感がある。言葉が時代の中で変遷することは理解していますが、「ら抜き」はヘンです。「ネイティブな日本語として」? そうなんでしょうか。

自分でできることとは、嫌いな言葉は使わないということです。
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自転車乗り始め記念日

2020年10月05日 | 日々の暮らしの中で

先週末の土曜日。孫のルーカスが楽しみにしている自転車を、ちょっとでも早くと思いながら車に積んで娘宅へ。
照れたような笑顔で母親がおろすのを見守っていたが、降ろして、ものの10分そこそこで…。
こぎだしの力不足からか、ふらつきはするもののバランスをとって前進。一人で乗り出しました。さっそく3人で公園へ。

日曜日。いつもなら兄のラグビー練習に同行しますが、自転車の練習をして待っていることになりました。朝7時から起きて、早く行こう行こうと催促してくる子に「もうちょっと待って」と我慢させていても10時までは持ちません。9時から公園行きです。


壁の上の植え込みにセミの抜け殻が残っているのを発見し、取ってくれと言う。周囲に目をやる余裕もあるということ? 車が来るので気が気ではありません。次第に集まってくる顔見知り。本人の友達はもちろん、学区が違う兄の年代も多くいるし、初めての顔でも、誰かとどこかでつながっているという、なんとも素晴らしいコミュニティーです。
多くはLukasを知っていてくれて、「おっ、るーちい、いつから自転車乗ってるの?}と聞いてくれます。

Lukasの自転車乗り始めの記念日。
一生の記念になるかもしれない瞬間を封じ込めようと、私は幼子の姿を追う。この先いつか、なにかの折に、1枚の写真が記憶を引き出すきっかけになることもあるでしょうし。

        
おっほん! 彼は大きな咳払いをしてみせます。
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いい月夜

2020年10月01日 | 日々の暮らしの中で

明るい青空が広がった10月 月初め。
秋に貴重な色合いの実をつけるムラサキシキブ。
昼過ぎには小文を取りまとめ、明日への準備完了。魂を結びました。とは、ちとオーバーですが精一杯のことは尽くして、あくせくしていた思いは緩み寛げる余裕が嬉しい。

午後6時半過ぎ、東の山の端を離れて上った月が見事な輝きでした。今日は中秋の名月。すでにひんやりとした風が流れます。
時間とともに肌寒ささえ感じて、お月見に何とも言えない良い晩です。
月には大気がないので、輪郭がにじむということがないと読んだことがある。ぼんやりにじむのはこの視力のせい。眼鏡をかけてよりくっきりとしたお月さんを眺めた。


「眺む」。ぼんやり物思いにふけりつつ、ほんといい月夜。
あの人この人、見上げる月はただ一つ。
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