比叡山延暦寺や日吉大社の門前町・坂本。お花見日和となった土曜日、ようやく念願かない坂本の街を散策しました。浜大津から石坂線で坂本までは初乗車でした。穴太(あのう)衆と呼ばれた地元の石工集団による石積みが施され、もともとは延暦寺僧侶の隠居所だった里坊が並ぶ街並み。建物、町としての風格、風情、その美しさはとても心地よく、何度でも足を運んでひと息つきたい場所になりました。かつて、滋賀県に住む人はみんな琵琶湖を向いて暮らしているんやと思うと言われたのは、草津市在住の師匠でした。
学習塾での教え子に古刹の跡取りクンがいました。早朝の鐘撞きを祖父に代わって役目とし、野球部に属していた中学生は比叡山高校に入学。彼もきっとこの坂を歩いたのではないかと、教室での姿が懐かしく思い出されるのでした。
比叡山延暦寺が三千の僧兵を養っていた頃、坂本の穴太衆が築いたという城塞あとに石積みの洞窟がありました。彼ら穴太(あのう)の石工たちは戦国時代以前から砦造りの専門職人で、彦根城はもちろんのこと、大阪城、金沢城も彼らの手になっているようです。日本のマチュピチュと言われる竹田城跡にも穴太衆による見事な石垣が残されていました。城郭風な面影を持つ多くの寺院が点在し、苔むしてなお美しい石垣が残り、東面には琵琶湖を望める町、護られ培ってきた歴史・文化の重みを感じます。
織田信長が1571年、坂本、比叡山を中心に近江の国の寺院を始め大半を焼き打ちし、ここ西教寺も全山類焼の厄にあったそうです。その後、浜坂本に坂本城を築城、城主として坂本一帯の復興に尽力したのが明智光秀でした。本能寺の変の後、山崎の合戦で敗れ非業の死を遂げた時、一族とともにここに葬られたと言われているようです。辞世の句碑があります。光秀公の深い教養と人生哲学を表していると、その大意を解釈してありました。かれもまた琵琶湖を向いて眠っているのでした。
本堂に上がると、僧侶が内陣の脇で経を唱え、鉦を叩いておられました。「西教寺はもう目の前にあった。しんと静まったあたりの空気に本堂の方から鉦を叩く音が聞こえてくる。…」(『細川ガラシャ』三浦綾子)と、昭和50年ごろの作品に。ここは不断の鉦のなる寺のようです。
日本一長いケーブルカーで坂本からケーブル延暦寺駅までは11分、次回にはぜひ足を延ばしてみたいと思います。
学習塾での教え子に古刹の跡取りクンがいました。早朝の鐘撞きを祖父に代わって役目とし、野球部に属していた中学生は比叡山高校に入学。彼もきっとこの坂を歩いたのではないかと、教室での姿が懐かしく思い出されるのでした。
比叡山延暦寺が三千の僧兵を養っていた頃、坂本の穴太衆が築いたという城塞あとに石積みの洞窟がありました。彼ら穴太(あのう)の石工たちは戦国時代以前から砦造りの専門職人で、彦根城はもちろんのこと、大阪城、金沢城も彼らの手になっているようです。日本のマチュピチュと言われる竹田城跡にも穴太衆による見事な石垣が残されていました。城郭風な面影を持つ多くの寺院が点在し、苔むしてなお美しい石垣が残り、東面には琵琶湖を望める町、護られ培ってきた歴史・文化の重みを感じます。
織田信長が1571年、坂本、比叡山を中心に近江の国の寺院を始め大半を焼き打ちし、ここ西教寺も全山類焼の厄にあったそうです。その後、浜坂本に坂本城を築城、城主として坂本一帯の復興に尽力したのが明智光秀でした。本能寺の変の後、山崎の合戦で敗れ非業の死を遂げた時、一族とともにここに葬られたと言われているようです。辞世の句碑があります。光秀公の深い教養と人生哲学を表していると、その大意を解釈してありました。かれもまた琵琶湖を向いて眠っているのでした。
本堂に上がると、僧侶が内陣の脇で経を唱え、鉦を叩いておられました。「西教寺はもう目の前にあった。しんと静まったあたりの空気に本堂の方から鉦を叩く音が聞こえてくる。…」(『細川ガラシャ』三浦綾子)と、昭和50年ごろの作品に。ここは不断の鉦のなる寺のようです。
日本一長いケーブルカーで坂本からケーブル延暦寺駅までは11分、次回にはぜひ足を延ばしてみたいと思います。