京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

 石積みの門前町・坂本

2013年03月31日 | こんなところ訪ねて
比叡山延暦寺や日吉大社の門前町・坂本。お花見日和となった土曜日、ようやく念願かない坂本の街を散策しました。浜大津から石坂線で坂本までは初乗車でした。穴太(あのう)衆と呼ばれた地元の石工集団による石積みが施され、もともとは延暦寺僧侶の隠居所だった里坊が並ぶ街並み。建物、町としての風格、風情、その美しさはとても心地よく、何度でも足を運んでひと息つきたい場所になりました。かつて、滋賀県に住む人はみんな琵琶湖を向いて暮らしているんやと思うと言われたのは、草津市在住の師匠でした。

 
 
学習塾での教え子に古刹の跡取りクンがいました。早朝の鐘撞きを祖父に代わって役目とし、野球部に属していた中学生は比叡山高校に入学。彼もきっとこの坂を歩いたのではないかと、教室での姿が懐かしく思い出されるのでした。

 

       
比叡山延暦寺が三千の僧兵を養っていた頃、坂本の穴太衆が築いたという城塞あとに石積みの洞窟がありました。彼ら穴太(あのう)の石工たちは戦国時代以前から砦造りの専門職人で、彦根城はもちろんのこと、大阪城、金沢城も彼らの手になっているようです。日本のマチュピチュと言われる竹田城跡にも穴太衆による見事な石垣が残されていました。城郭風な面影を持つ多くの寺院が点在し、苔むしてなお美しい石垣が残り、東面には琵琶湖を望める町、護られ培ってきた歴史・文化の重みを感じます。

 
織田信長が1571年、坂本、比叡山を中心に近江の国の寺院を始め大半を焼き打ちし、ここ西教寺も全山類焼の厄にあったそうです。その後、浜坂本に坂本城を築城、城主として坂本一帯の復興に尽力したのが明智光秀でした。本能寺の変の後、山崎の合戦で敗れ非業の死を遂げた時、一族とともにここに葬られたと言われているようです。辞世の句碑があります。光秀公の深い教養と人生哲学を表していると、その大意を解釈してありました。かれもまた琵琶湖を向いて眠っているのでした。

本堂に上がると、僧侶が内陣の脇で経を唱え、鉦を叩いておられました。「西教寺はもう目の前にあった。しんと静まったあたりの空気に本堂の方から鉦を叩く音が聞こえてくる。…」(『細川ガラシャ』三浦綾子)と、昭和50年ごろの作品に。ここは不断の鉦のなる寺のようです。

日本一長いケーブルカーで坂本からケーブル延暦寺駅までは11分、次回にはぜひ足を延ばしてみたいと思います。
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 季節に寄せる思い

2013年03月29日 | 日々の暮らしの中で

昨日、朝から草餅の写真にくぎ付けでした。これはなんとしてもどこかで…と思っていて時間に追われ、コロッと忘れてしまいました。「絵本で英会話」を終えて急いで帰宅、車で滋賀県大津市までこれまた大急ぎで向かったりしていたためです。

ベッキー先生は毎年のことで来月早々には松山へ行かれるのだとか。四国はこちらよりも桜の開花が進んでいそうです。Cross my fingers for good weather! full bloom! 左右それぞれ、人差し指と中指を交差させてのポーズにも力が入っていました。満開ではなくとも、お楽しみが奪われないことを、花過ぎではないようにと一緒にそっと願いました。

友人とシネマ歌舞伎を鑑賞した午後、不覚にもうとうとっと…。お隣でもそんな気配です。別れ際に手渡された小さな包み。包装紙を外すと「桜ひらり」(俵屋吉富)、季節感あふれるリキュールボンボンでした。花時のイメージが上手に表現されています。かわいい、見るからに軽やかで清涼なひとひらをいただきました。季節に寄せる様々な意匠、店ごとにその趣向は楽しめて、和菓子屋さんの店頭には四季を問わず日本人の繊細な感性が花盛りです。懇意にさせていただく店ばかりではなく、もっと積極的に余所さんを訪ねる楽しみを思いました。
 
パッションフルーツの実が生りだしたと、娘から写真が届いています。表面に顔の絵は誰のいたずらなのか。母親らしくもあります。草餅の緑の深さには及びませんが、幼い子供たちの興味を引いている一つだったら楽しいなと想像するばかりです。

 
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 花を待つ

2013年03月25日 | 日々の暮らしの中で

「あっちもこっちもこぶしのはなざかり」…は宮沢賢治の世界のようですが、
今、近所を歩いていても白木蓮が随分と目につきます。純白で少し肉厚、間近に見ていて心の内を透かされるようですが離れがたい美しさです。静かで何とも言えないしみじみと落ち着いた気分になれます。紫赤色のものがあるだけ、白木蓮が欲しくなってしまいました。

モクレン、コブシ、ホウノキ、タイサンボク、みなみな英語では「マグノリア」。アメリカにある「モクレン」はもう少し緑色がかっていて香りが強いと話されたベッキー先生。ひょっとするとそれは…、タイサンボク? それともホウノキでしょうか。様々な呼び名で異なった花を咲かせる木なのに「マグノリア」とひとくくりにされてしまって、疎い私にはよくわかりません。

賢治の童話「マグノリアの木」には、
「一面の山谷の刻みにいちめんまっ白にマグノリアの木の花が咲いているのでした。」「すぐ向こうに一本の大きなほおの木がありました。」「マグノリアの木は寂静です。… あのかおりは覚者たちの尊い偈を人に送ります。」などと描かれています。悟りの境地を現わす涅槃寂静、随分と仏教的世界の話を頭の片隅では懸命に思い出しながら、ベッキー先生が言われるマグノリアを聞いていました。何かが言いたくてたまらない感覚、でもなんだかようわからんのでした。帰って「マグノリアの木」を読み返したわけです。
         
 
    “ほとけの座”   今日は寒かった。明日はもひとつ寒いとか、お花見は来週になりそうです。


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 芽ぐむ

2013年03月21日 | 日々の暮らしの中で

冷たい風にもかかわらず、どこからともなく沈丁花の香が運ばれてきます。四条まで出た帰り、御池で用事を済ませた後はわざわざ通ったこともない筋を選んで1時間ぶん歩き、それを本日のウォーキングと当てました。手先が冷たくなるほどで、途中からバスを利用しました。

ちょっと寄り道してみた六角堂。地面をこすりそうなまでに葉が垂れ下がっている「地ずり柳」には、まっ白な花が咲いています。嵯峨天皇がこの柳の下で妃に出会ったという言い伝えから縁結びの柳とされて、枝々に良縁を願っておみくじが結ばれるようです。爽やかな浅緑色に、はっとさせられるものがありました。どうかすると花見の時期を例年より少し繰り上げないとならない勢いですが、やはりまだ蕾は固い。「真如堂へぜひ行って御覧なさい」とT子さんに勧められています。

  「 □ のなかには、□ がいる(ある)。」 
「じぇしかのなかには、しかがいる。」と見つけたJessieは、「きょうかしょのなかには、かがいる」と、もう一文。

一昨日、娘から送られてきた写真の中に混じっていたこの1枚、Jessieが通う日本語学校での課題でしょう。これを見て、何かに似ている…と思い出しました。『91歳の人生塾』(清川妙)に収められている『聞こえない葦』と題した、妙さん36歳の時の手記でした。耳の聞こえない息子さんをどう育てたか、婦人雑誌に綴られた経験の中に、よく似た「ことば遊び」が挙げられていたのです。習ってきたことばの範囲を広め充実させようと、家族ぐるみで試みた遊びだったそうです。

「へびはうなぎに」「のれんはカーテンに」「テレビはラジオと映画に」-「似ている」といった「似てます遊び」。「葉ははっぱとも言います」式の「とも遊び」。「パパは鬼よりかわいいね」と逆襲したという比較の「より遊び」。さらには、「同音異義」「反対語集め」など。息子さん8歳の時だったと。

よく似たJessieの課題はさしずめ「なか遊び」とでもいえるのでしょうか。極端に授業時数の少ない日本語学校です。親の希望がどこまで反映されるか、学校のカリキュラム、子供の意欲、様々な温度差もありそうです。「どんなに微細な水の一滴でも、たゆまず、あきらめず、楽しみながら溜めていけば、いつかは器に溜まっていく」」と妙さん。
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 彼岸のころ

2013年03月18日 | 日々の暮らしの中で

             毎年よ彼岸の入りに寒いのは   正岡子規

母の言葉が自ずと俳句になったのだと坪内稔典さんが記されています。

「暑さ寒さも彼岸まで」などというものの、昨日は20度、今日は23度まで上がって汗ばむほどの陽気になりました。冬物のダウンを着込む女の子と半袖シャツ1枚の少年が二人、賑やかな下校風景に出くわしました。子供だけではなく大人も、この時期、服装はまちまちです。

オーストラリアの地で土曜日だけ日本語学校に通うJessieですが、先週土曜日で年度末を迎え小学校1年生の過程を無事修了した便りが届きました。四月半ば、2年生に進級です。もっとも、現地校は通常授業ですから、Jessieにとって土曜日はホリデーという特典デーです。とは言え、土曜日は元来お休みですから、別にどうということもなさそうですが解放感はあることでしょう。

明日は春分の日。彼岸の中日です。
「極楽浄土はどこにあるのか」と尋ねられた一休宗純(臨済宗大徳寺派の僧)が応えたそうです。
「極楽は西にあらず東にも、北(来た)道さがせ、南(みな身)にぞある」
我が身の内にあると…
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 1200年の歴史を重ね

2013年03月15日 | こんなところ訪ねて

城南宮神苑内、枝垂れ梅のこの美しさをご覧ください。開花状況と天気と相談しながら待った今日、本当によい日に恵まれて友人と堪能して帰りました。これほどまでとは思ってもいませんでした。今なら、お薦めです!!


伏見区中書島鳥羽離宮町にある城南宮(鳥羽離宮)。鳥羽の地は、平安京の正門である羅城門まで一路、大道が作られ、西国とを結ぶターミナルとして、また、賀茂川・桂川などが合流する水郷として、あるいは、河港として毎日瀬戸内から都へ運びいれられる鮮魚類の取引市場としてなど、人馬の往来で賑わったところだと記されています。


都の南を守護するために創建された社(ちなみに、北に上賀茂神社、東は八坂神社、西に松尾大社)で、平安時代末、白川上皇がこの地に壮大な離宮を造営して院政を始めたことから、一段と崇められていったようです。方違えの宿所として城南宮が使われ、旅の安全を祈願。熊野詣での際も、先ずここで一週間ほど身を潔斎してからの出立であったこと、語り部さんが話されていたのが思い出されます。

 
1868年正月、鳥羽・伏見の戦いで、このあたり一帯戦場と化します。薩摩藩の軍勢が城南宮の参道に大砲を配置、京を目指す旧幕府軍と対峙し、民家が次々と焼き払われてしまったそうです。先日の高野街道起点となった石清水八幡宮でも、極楽寺、高良神社始め多くが焼失するという歴史の跡地に立ったばかり…。

 
江戸時代、この地に「せき女」という娘がいて行き交う旅人のために茶屋を設け、編み笠の形をした餅を作り、笠の裏に並べて出しては彼らを癒したそうです。その名をとどめる「おせき餅」、いただきました。やはり災禍にあって時を経て、今の地に移転でした。
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 春うらら

2013年03月12日 | 日々の暮らしの中で
風もなく、うららかな春の太陽の恵みに喜ばずにはいられないほどの一日だった。昼までは机に向かったが、十分な休養をとって先日の疲れも癒えているので、午後から気分良く外へ飛び出した。


賀茂川の傍へと出て、さて、あの山の麓近くはどんな所だろうか、というだけの興味で北へと遡ってみることにした。どんどん歩いた。待てよ待てよ、ぶらぶら歩く練習をしなくちゃいけない、と自制するのもほんのしばらくの間で、やはりマイペースから抜けられない。まっ、ひとりで歩く時ぐらいは自由に楽しんであるこうと思う。が、となると練習ができないか…。


どんどんどんどん歩いて、奥まってきたと感じる頃、轟音を耳にした先に広がったのが、この風景だった。看板に砂防ダムとある。この、水の壁に記憶がある。いつだったのか、見たことがあった。下鴨に住んでいた伯母の家で夏休みを過ごしていた学生時代、叔父と3人でここまで歩いてきたことがあったのだった。こんなところまで歩いて来ていたのか! 驚きと懐かしさを伝える二人はすでにいない。

求めるばかり、ないものねだりで不満をつのらせていても、おそらく一度きりとなる「高野街道ウォーク」の体験に前を向くことができない。思いっきりぼやいて嘆いて、改めて気付き直すことになった。気持ちを弾ませて歩くため、自ら多少の知識を仕込む努力だっているだろう。決して難しいことではない。どこまでできるか。「人生は可能性を信じる道」だと納得するためにも、この新たな挑戦を放棄してはいけない。歩く通してみるしかないな…。  ― ちょっと疲れてしまったが、よい散歩になりました。
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 高野街道ウォーク ①

2013年03月10日 | 高野街道ウォーク
真夏を避けて全8回、11月終了を目指す「高野街道ウォーク」の第1回目は、9日、京都駅八条口を19名で午前7時30分出発した。
  
8時には石清水八幡宮のある京阪八幡市駅に近い場所にバスは到着、ケーブル乗り場へと向う。ケーブルからの眺めはなんとなくもやっとしているが一の鳥居が見えだした。
 
仁和寺の法師が勘違いした高良神社や極楽寺も当時は立派で、特に極楽寺は豪壮な構えであったらしいが、鳥羽伏見の戦いで長州軍の猛攻を受け消失したとある。高良神社はこの鳥居をくぐって西側に再建されている。お山は神仏習合時代だったこともあって多くの寺があったと伝わる。今回はケーブルであっという間に「男山山上駅」到着。


             南総門 
     
八幡市が整備に力を入れたことで道標もあちこちに設けられ、街道としての雰囲気を感じながら歩ける区域だという話だ。風情ある道から街道への一歩を記した。摂津の国に生まれた松花堂昭乗は10代半ばで石清水八幡の社僧となり、やがて真言密教を極め阿闍梨になったそうな。「松花堂などお弁当ぐらいしか知らん」という声を耳にしながら、【松花堂庭園・美術館】の前を通過 → 【枚方企業団地】 → 【山田池付近】→【枚方市から交野市へ】車の排気ガスを吸いながら南下していく。

「ここにも碑があります」と言われても何の碑なのかはさっぱりだ。通過してしまうし、立ち止まれば案内板を各自で確認する。説明がないので、とりあえずは写真だけでもと撮っておくことにした。昼食はバスで移動、靴を脱いで2階に上がり、デザート・飲み物付きでたっぷりと休憩した。【郡津(こうづ)駅】 → 【交野市・星田】 でようやくのゴール。
 古くから人が行き交う道で休憩所としての茶店も多かったと案内板にあった。描かれていた江戸時代の文献に記された茶店の図。
出だしから終始遅いペースで、一日中ぶ~らぶら、ぶ~らぶらとした歩きだった。このカメのような歩みでさえも列は分断されるのだ。そのたんびに待たされて…。次回の申し込みには迷いが生じている。
約13キロ弱のコース、25164歩だった。
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 「高野街道」に一歩を

2013年03月08日 | 高野街道ウォーク

「伊勢へ七たび熊野へ三たび、愛宕さんへは月詣り」
京ではこんな俗謡が歌われていたという。ここに空海が開いた一大聖地・高野山への高野詣では含まれていない。

空海は45歳の時に高野山に禅院を開き、50歳では京に密教の根本道場として東寺を開いている。およそ1200年前のこと、標高850mの山上に拓いた修禅の道場・高野山と東寺との間を、空海自身が何度か往復していた道があることだろうに、これまで私は無関心だったと気付いた。

京からは石清水八幡宮を起点にして生駒山系の西を南北に貫き河内長野に続く「東高野街道」がある。―このあとはネットで拝見― 京や大阪からのルートはいくつかあって、4つの「高野街道」が合流後は1本化されて紀見峠へ向かい、橋本から、清水、学文路(かむろ)を通り女人堂に至る「不動坂口道」が賑わったと説明されている。このコースを8回に分けて、真言宗総本山の「金剛峯寺」を目指すウォークに参加してみることにした。

夏に向けて少々の思惑のある今年、仏教に関した本に触れ出してもいた時で、突然目の前に示されたこの案内には正直小躍りしそうな勢いだった。チャンスが舞い込んだ!と心底思った。が、なんと数日で一気に熱が冷めたのもまた事実だった。10日ほど考えたが参加を決め、すでに明日の準備もし終えている。

「仁和寺にある法師、年寄るまで石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立(ち)て、たゞひとり、徒歩(かち)よりまうでけり。」(『徒然草』52段)
ところが、この法師は麓にあった付属の極楽寺や、そこに隣り合った付属の社に参拝しただけで、これだけと思って帰ってしまう。山上までは登らなかったのだ。兼好さんは言います。「すこしのことにも、先達はあらまほしき事なり」と。熊野古道ウォークの時と違って語り部さんの案内が得られない物足りなさは解消されるのだろうか…。

明日、石清水八幡宮からスタートです。元気に?目覚めたら、集合場所に向かいます。

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 子供だった頃

2013年03月07日 | 日々の暮らしの中で

『Before I Was Your Mother』あなたのお母さんになる前・・・
私はね、いつもあなたのお母さんだったのではないのよ。かつては、あなたと同じように子供だったわ。Ruby(ルービー)という名前のとても仲のよい友達がいて、Eileen(アイリーン)という名の犬と一緒に、私たちは馬鹿げた大騒ぎをすることが大好きな女の子だったのよ。
犬のEileenにギャザーの入ったスカートを着せて、ライオンの?Eileenに曲芸をさせる調教師になってみせたことがあったわ。フラダンスのスカートはいてRubyとローラースケート、ありったけの大声を出して歌ってみたり、夜には、ゴミ箱のふたの上で二人でタップダンスを踊ったりね…。お母さんはわたしに思い出を語り始めます…。

 
先週から「絵本で英会話」ではこんな内容の絵本を読み始めたばかりでした。その二日後の土曜日、娘から電話がありました。彼女が言うには、来週の木曜日(ちょうど今日のこと)のShow and Tellの授業で、祖父母が子供だった時の暮らしぶりをインタビューして発表することになったというのです。
Jessieが聞いてきます。あのねえ、えっとねえ、そんでね、そんでね…と矢継ぎ早に、声は大きく聞きとりにくいのですが楽しそう。
何を着ていたの? 洗濯はどうしてた? どんなトーブ(暖房器具)を使っていたの? 電化製品って何があった? どんなおもちゃで遊んだの? …

昨夜、ここに、ミルクはどうやって買ったの? と新たな質問が加わりました。
考えれば半世紀も前、いやもっと? 随分と時代は遡りますが、Jessieと同じ小学校低学年の頃の記憶を手繰り寄せ、写真も添付してEメールで回答しておきました。祖母が着物の洗い張りをしていたのを思い出しました。長い板がありましたっけ。弟二人と、ブリキのバケツをひっくり返した上でベーゴマをして遊んだものでした…。
絵本の世界と少しばかりオーバーラップした今回の偶然に驚いています。うまく話せたかな??

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 春の女神

2013年03月06日 | 日々の暮らしの中で

先日の稔典先生のお話の中でも登場した佐保姫。姫の衣の裾が濡れていた…という句、あらまあ~!と眉をしかめてはなりませぬ。
題詠で情趣の世界、美の世界を作った百人一首とは異なり、和歌には出てこない「道具」を大事に、歌われることのない世界を作るのが俳句だというお話でした…。「本来なら俳人はこうした句を詠まなければダメなんですよ」などと、会場にいる多くの“女性俳句作家”に向けても笑顔で言い添えられたことでした。

佐保姫は春の女神です。「天地の色をおりなす」「春の造化の神也」。平城京の東にある佐保山を神格化したと言われるようです。
春日の奥山から流れ出る佐保川…、佐保・佐紀路、斑鳩の里、山野辺の道、秋篠の里…。奈良のこうしたゆかしい名前や地名の響きに、憧れをもって花の大和路を歩いてみたくなります。


ようやくのこと姿を見せ始めた芍薬の芽は力強い勢いを感じさせてくれます。あー、この勢いに乗っかりたいものです。グン!グン!グン!!ファイトが湧きました!?? 調子よ過ぎですか…。女神も微笑んできました。春風に氷のとけるように日待月待、我が身の上にも希望という文字を掲げて先ず一歩、といこうかしら。さて、何のこと? もう数日だけ「ひ・み・つ」。
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 「三月の甘納豆の…」 

2013年03月04日 | 展覧会

嵐山の渡月橋北詰め付近に、時雨殿という文化観光施設があります。「小倉百人一首の殿堂」です。100人の歌仙人形を一体一体まじまじと…もなかなか楽しいです。歌合わせの舞台も、人形の向き・配置、衣装、調度等々4分の1サイズでの再現だそうですから興味深いものでした。
展示室のぐるりには100首の歌がチタンパネルに刻まれていたりと、百人一首の世界に浸れるようです。リニューアルオープン1年になります。

Girl's Festivalだった3日、ここで坪内稔典さんの記念講演がありましたので、友人と参加してきました。講演のテーマは「俳句から見た百人一首」です。『「詩歌連俳」(「漢詩・和歌・連歌・俳句」)はともに風雅なり。』(「三冊子」)
  
では俳句と和歌とはどう違うか、この観点からのお話でした。「俳句は、上3つのものが、和歌が歌わないもの・ことすべてを見つけて題材とする。見ること、聞くこと、作者の感じることすべてが俳句になる」と…。


娘さんが学校で俳句を習いだしたある日、「お父さんが作るような俳句は全然教科書に載っていない」と言ったのだそうです。そして「あなたのお父さんの俳句はダメだから、私たちが直してあげる」と友達から言われたと。
稔典さんの句「三月の甘納豆のうふふふふ」を → 「三月のひな人形のうふふふふ」と添削したそうです。
しかし、稔典さん曰く、「ひな人形では、わかりすぎてちっとも面白くないのです。」 「取り合わせの違いが、違った日常を生み出して面白いのですよ」とおっしゃる意味を興味深く感じたところです。

   水中の河馬が燃えます牡丹雪
   多分だが磯巾着は義理堅い
   老人は甘いか蟻が五、六匹
 
  「桜散るあなたも河馬になりなさい」 もありますね。稔典先生、とても素敵なお人柄を感じさせていただけます。

今日はウオーキングにちょっとだけ気持ちを入れて?午後の時間を過ごした。夜は絵本点訳に、それこそ気合を入れて出席。寒くておさぼり続きだったから…。明日も歩こう~、かな。
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 春の歳時記

2013年03月02日 | 講座・講演
【京観深々(きょうかんしんしん)シリーズ】の一環で、一日、「京の春の歳時記セレクション」と題したお話がありました。三月、四月、五月の京の歳時記を取り上げ、細かな解説、見どころなどを案内していただけました。そして、各月の中でお薦めとして挙げられたもののご紹介です。

 
■3月15日:「嵯峨のお松明」(清涼寺) ― 清涼寺の涅槃会のクライマックスです。巨大な3本の松明は、「早稲」「中稲」「晩稲」を意味して、吉凶を占うものでもあるようです。お釈迦様の遺徳を忍ぶ涅槃会ですから、巨大な炎は荼毘に付される様子を表すというお話でした。嵯峨大念仏狂言の奉納もあります。

 
■4月(第2日曜日)14日:「やすらい花(祭)」(今宮神社・玄武神社・川上神社) ― 「紫野御霊会」と呼ばれた平安時代から続く厄除けの行列です。京都の三大奇祭の一つで、重要無形民俗文化財です。
赤熊(しゃぐま)や羯鼓(かっこ)が髪を振り乱して練り、躍って病菌を滅するのだそうです。赤熊の髪の色が赤いのは炎の精霊を現わし、それがやがて消えて炭になる様を黒い髪が現わしているとのこと。行列の「花傘」の中に入ると無病息災のご利益有り~、だそうです。

■5月18日:「御霊祭」(上御霊神社) ― 400年以上前の御所車(牛車)が行列に加わり、神輿の御所参内が復活しているのが見どころのようです。

3月14日から16日にかけては「涅槃会」が営まれます。東福寺の涅槃図は14mという大きなサイズで有名ですが、普通は描かれることの少ない猫が登場します。明兆さんが描いている傍で、猫が筆を彼の手元に運んだり下げたりとお手伝いした?とか。明兆が「おまえも描いてやろか?」と言ったのかどうか…。日本一大きなサイズが16mもある泉涌寺のものです。
涅槃図はそれぞれに少しづつ描き方に違いがあります。赤いペアの仁王さん、腕が6本の阿修羅がいたり、釈迦の母親が天界からやってくる構図、「沙羅」の木が東西南北に、「双樹」ですから4×2で8本、葉の色の変化…。チャンスがあれば大きな涅槃図を拝観したいなというのが私の思いです。

私も一度北枕で寝てみようか?と思いました。体内の様々な巡りが良くなると聞いてはいますが…。
                                             (写真はネットより拝借)

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