京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

意のままに心のぜいたく

2022年04月30日 | こんなところ訪ねて
 

雨上がりにしては爽やかに、抜けるような青空が広がった。
随心院(山科区)の本尊如意輪観世音菩薩坐像が修理を終えて特別公開が始まっている(~5/15)。
10年以上前に2度目となる機会があって友人3人とで訪れたが、覚えていない。小野小町ゆかりの寺、間違いなく学生時代にもやってきている。なのに、この広い寺域、佇まい、記憶にない。脳内の経年劣化のせい? はて、さて、最近こうした感覚が多いが。


ま、意のままに。ちいさなことでもふっくらと関心をもって、やっぱりこれからも自らを満たしていくんだろう。
こののびやかな手、足。如意輪観音の姿形は好きだ。もっとよく拝顔できるかと期待したが、暗くて残念だった。
やわらかな緑の美しさに気持ちがやすまった。



「辻仁成氏は現存のもっともすぐれた作家の一人。『白仏』は文学史に残る傑作。簡素だが濃密、魂の物語たり得ている」と評した小川榮太郎氏だが、『代筆屋』については、「読むだけで心が洗われる」「辻がそれぞれの手紙で見せる機転やエチケットはまるで魔法のよう」と。

さまざまな人生模様を見せてもらった。一つ一つが短編として読める作品集。「第8章 八十八歳のわたしより」は私自分を重ねて最も心打つ手紙だった。
知らずに終わるところを、よい作品に出会えた。読み手によって本の価値観は変わることだろう。時に案内を得、自分の心を通してじっくり、ゆっくり意のままに、やっぱりこの先も楽しむのだろう。
明日から5月。
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白仏

2022年04月28日 | こんな本も読んでみた
筑紫平野の端、筑後川に浮かぶ大野島に生まれた稔。家族や初恋の女性、幼馴染みの死を見つめ、徴兵でシベリアに出兵した折の、瀕死のロシア兵にとどめを刺すという体験の罪悪感を時によみがえらせて生きている。
人が生きる意味を考え続けた稔は、島の無縁仏や散乱した骨も合わせ、過去に生きた人も未来に生きる人もみんな一つになる一体の骨仏を作ろうと思い立った。
人それぞれの思惑、立場、誇り一切を飲み込んで、島民すべての骨で。墓を掘り起こし、骨を集め、それを粉々にして仏を作る。

着想に理解を示した寺の和尚は「俱会一処(ぐえいっしょ)」の言葉を引いて、志を遂げたらよいと励ます。
― 人間は貧しか者も富む者も本来みんな一緒。世の中のくだらない決まりや価値感を越えて人間の存在は一つっちゅうことを意味するたい。

昨日まで無縁だった人が同じ屋根の下に眠り、百人近くが一堂に会して一つ釜の飯をいただき、縁を結ぶ。高野山夏季大学に参加するたびに思い浮かんだことは、大きな乗り物にみんなで乗ってともに彼岸まで渡ろう…、仏教でいう〈大乗〉という言葉だった。稔が〈魂の船〉とも言い換えたのは骨仏だと思う。

夏の3日間の体験と一緒にするなというところだろうが、繰り返し稔の夢に出る白い仏、輪廻、神秘な体験など、仏教的な語りの要素を多分に含んだ作品、『白仏』(辻仁成)だった。
途中で気づいたのは、『死の島』『沖で待つ』『白仏』と続けて読んできた3作のいずれにも船・ボートが描かれている偶然だった。(左端は『死の島』に登場するスイス人画家アルノルト・ベックリーンの絵とあった)
・・・〈仏の願いの船に乗る〉

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動くコアラ

2022年04月26日 | 日々の暮らしの中で
「月曜はアンザックデーだったので、また3連休でした」と娘から。イースター休暇が明けて、ようやく火曜日(19日)から学校が始まったなと思っていたところですのに。
ところで、アンザックデーって…? 聞いたことはあるという記憶だけはあるものの結局、なんだった?とネットで調べてみました。

Australian and New Zealand Army Corps という意味で、戦争に参加したオーストラリア・ニュージーランドの軍団をアンザック(頭文字をとってANZAC)軍と呼びました。
そして、アンザックデーに定められている日は、1915年4月25日の第一次世界大戦中に、 アンザック軍が当時オスマン帝国と呼ばれていたトルコのガリポリ半島へ上陸した日 です。
この日から8カ月も続いたこの戦いで、1万人以上のアンザック軍が命を落としました。

戦後にこの日が戦没者を追悼する日として定められ、現在はガリポリ半島上陸作戦で命を落としたアンザック軍だけではなく、他の戦争やその時に活躍した看護師など、 戦争に関わった全ての人たちを追悼する日 になっています。



動いているコアラの動画も送られてきました。動くのを見たのは初めてでした。動画から切り取ってみたところ。







移動開始、よじ登るも、ひょいとジャンプでもするかのように素早く枝に移り、上は混み合って3頭が団子状態、それでも落ちずにお尻を見せながら方向転換し、…。

気候変動や森林火災、伝染病などがコアラの命を危険にさらしていて、オーストラリアの野生で暮らすコアラは絶滅しつつあるとか。政府は保護のレベルを引き上げた、という記事がジュニア版に載ったことがありました。昼間は眠っていることが多いと聞くコアラ。
動くということは、死んでいないということ。
つまり、生きているということです。

戦没者を追悼する日なんて増えないことを祈るばかりです。
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ハルジオンの咲く頃

2022年04月23日 | 日々の暮らしの中で

紅葉の名所は新緑が美しい、とテレビから聞こえてきた。
若葉の色合いもさまざまな今を楽しんでおかないと、新緑の時季はあっという間に過ぎて青葉となってしまう。陽を透かす若楓の色目はやはり美しく、ちょっぴり感嘆。見上げては、しばし足を止める。

路傍にハルジオン(春紫苑)が咲いていた。野生化して、はびこりすぎ。愛でるということはなさそうだけれど、ピンクに染まる花はかわいくもある。
春を待って咲くハルジオン。この花を見つけて、思い出した人がいる。さんたろうさん。何度もブログにアップされて、お好きだったみたいだ。
(ただ、ヒメジオンだったら私の勘違いで申し訳ないのだけれど)


4月3日に95年の人生を終えられたと知るも、いまだに実感がわかないままブログを通して長く交流をいただいた日々を思い返している。
私は77年前の昭和20年18歳の時学徒動員で北海道十勝の農村の家に住み込みで援農の仕事していました。皆さんいい方ばかりでしたけど、ただひとつ近くの山地の「アイヌ集落」については口を極めて罵っていました。十勝の原野に入植して農地を拓いた時狩猟採取の「アイヌ」の人達とのトラブルがあったからだと思っていますけど、私はすごく不満で「アイヌ」の人達の本当のことを知りたいと強く思っていました.。今でもです。ですから愉しみいっぱいなんです。 
と、2月19日の記事にコメントを入れて下さったのが最後になった。

ご自身のブログでは力の入りすぎない書きように、様々な体験談を語ってくださっていたのがとても貴重に思えた。地べたに腹ばいになって花を写したり、撮るときは周囲をハサミできれいするとも言われた。山中、自撮りで後ろ姿をアップされたこともあった。いちいちそのときの出会いを慈しむ眼差しがあったさんたろう(山太郎)さん。ばばちゃん(奥様)との暮らしぶりも温かに。窓から眺める早春の日々…。
あれこれ思い出していますよ、さんたろうさん。
 
    姫紫苑しろじろ暮れて道とほき         伊藤月草
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すべてはタイミング

2022年04月21日 | こんなところ訪ねて

点訳作業の確認のために大津(滋賀県)まで出たので、終了後、コンビニでお弁当を買って草津市にある水生植物公園を目ざした(昨日)。


琵琶湖岸を走るのは久しぶり。子供たちの声が賑やかな園内に入る気はなかったので、琵琶湖岸へと回った。あの木の下と決めてシートを広げていっぷくだ。


   〈湖(うみ)にわたすひとすじの橋はるけくて
          繊(ほそ)きしろがねの韻(ひびき)とならん〉 高安国世
霞んではいたが比叡連峰の裾、対岸は大津市が広がり、東岸の守山市とをつなぐ琵琶湖大橋が見える。


近江富士を望めるこのあたりはハスの群生地だったが、2016年に原因不明のまま全滅と報じられた。孫娘とも何度か訪れていて、彼女の口から「あたまじゃくし」の言葉が飛び出したのだった。

ただぼーっとできたらよかった。一人の時はただもういつも気まま。これが一番楽になってきた。丁寧に、とはいいがたくても、そんな時間を過ごせることは老いの恵みの一つといえるのかも。



大地を十分に潤すという慈雨に期待して、分けてもらっていたハゼランの種をまいた。今が遅いのかどうか。思い出したときが時、「すべてはタイミング」と掲げる店があったっけな。
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未だ実結ばず

2022年04月19日 | 日々の暮らしの中で

楓の若葉がまばゆい。
その若楓に花が咲いている。
「卯月ばかりの若楓、すべて万の花・紅葉にもまさりてめでたきものなり」とは兼好さん(『徒然草』)。
そして、あらあらと思う間の勢いで柿の若葉が芽吹いた。やわらかでいて旺盛な生命力がみなぎる。

すっかり新緑の季節を迎えているのに…。
3月14日に孫たちが住むオーストラリアに向けて出した封書が未だに届かないまま。
いつもの2週間どころかひと月以上になる。遠足していれば戻ってくるのに時間もかかるからもう少し待ってくれというのが、あちらの郵便局のお返事。
もうあきらめたけど、ちょっと腹立たしい。


そのせいではないけれど、悪夢を見た。
犯罪?の証拠隠滅に私が3分の1加担する。竹を3等分して、捨てるのにわからないようにと新聞紙で包んでいるのだ。その行為の合間、今は防犯カメラがついているから…などと危惧する自分がいた。その不安に目が覚めたが、ドキドキがおさまらなかった。
あああ、このいい季節になんてこと!?
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目を洗い 耳を洗って

2022年04月17日 | 映画・観劇

法然院で「地球交響曲(ガイアシンフォニー)第九番」の上映会があって、楽しんできた。
監督の龍村仁氏のご両親のお墓が法然院にあることのご縁で、自主上映を続けているとご住職は話された。

第八番を見たのが2015年8月30日だったから、もうずいぶん前のことに。
1992年に第一番が制作されて、以後30年かけて九作目が誕生した。今回は指揮者コバケンこと小林研一郎さんに密着して、年末恒例の「第九演奏会」を仕上げてゆくプロセスが描かれている。「21世紀の今、ベートーヴェンの 『第九』 を振ってコバケン越える指揮者はいない」
監督と小林研一郎氏とは同年で1940年生まれというので、お二人とも82歳におなりだ。

「もう500回ぐらい第九を演奏しているんです。おめでとうというぐらいの演奏を合唱を見せて下さい」というようなことを口にしながら、厳しくも音楽を愛する仲間として切磋琢磨する様子が胸を打つ。感動だった、その風景。ご自分の満足が、納得が得られる時の、何とも言えない柔和な笑顔。「すばらしい!」「ありがとう!」と仲間をたたえる言葉の数々。コバケンさんの情熱のほとばしり。すばらしいよ~。かんどーだー!

氏の第九の理解、気持ちのこもったお話に耳を傾けなきゃ損ソン。いったんは諦めかけていたところに、友人からの誘いが入ったのだった。



新緑に目を洗い、映画に耳を洗った。好い日だった。
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心の田を耕して

2022年04月15日 | こんな本も読んでみた

花見にようやく人心地ついて雨音も快く、人それぞれに本を読んで過ごした昨夜。
9時からはキムタク主演のドラマを観た。

28度にもなろうというこのところの暑さが、今日は一転ヒンヤリ。
寺の世話方さんの寄り合いが明日に予定されていて、準備にも動きやすく有難かった。例年食事をとっていただいてきたが、高齢者の寄り合いでもあり、会食をなくして3年目となる。


短編3作が納められた『沖で待つ』(絲山秋子)。芥川賞受賞作品はほとんど読まないので今になって知った作家さん。
「勤労感謝の日」―筆のほとばしり。なんと成熟したコメディ! 「沖で待つ」―傑作。これほど読むに値する言葉は、現今稀である。

『作家の値打ち』の著者の評に同感! この評価を読んでアマゾンで求めた。
あと1作は「みなみのしまのぶんたろう」で漢字は一字も用いられていない。

短編の面白さにあふれ、違ったテーマでさまざまな人生を見せてもらった。そして、それぞれにつながる世界。「沖で待つ」の意味がわかったときは、あたたかくも、しみじみ。
読書を通して知る人生の多様な姿。揺れながら、自分の考えも深めていく。『死の島』を暗い話だと遠ざけてしまわずによかったと改めて思った。心の土壌は肥えたものにしておきたい。

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死の島

2022年04月13日 | こんな本も読んでみた

「本当は生きたいのだ。最後の最後まで、おれがおれとして生きられること。それだけが望みなのだ」

澤登志夫は56歳の時に腎細胞がんと診断され、治療はしないと自らの意思で決めた。
そして、再発転移を宣告された。
古稀を前にした、何らかの形で支えてくれる家族や身寄りを一人も持たない彼にとって、「想像以上に長くもつ」という医師の言葉は恐怖にも等しい不安となった。

希望を追いかけて生きていく者もいれば、そうやって生きていくことを拒絶する者もいる。
澤は決めていることがあった。計画を練ってある。かつて大手出版社の選集者だった澤は、取材で聞いた外科医の話を役立てようと企む。

有無を言わせない、巧みな描写。澤の死生観、揺れる感情 ―諦め、悲しみ、切なさ、孤独感…に感情移入し、彼の選択を理解してしまうのだった。

「独りで生き、独りで死んでいく、ということ、その生き方を自分で選び、受け入れていくことの中にこそ真の尊厳があるはず」と投げかけてくる。そして、「自らの意思のもとに時を止めるということは、生きているものの最上にして最後の特権ではないか」と。

理解してしまうのだ。けれど…、とも思いは続く。
例えば、「胃ろうで自らを生きる」(芹沢俊介)、あるいは「胃ろうによって生かされる」。あるいは、すべて拒否して尊厳死。
「いのちが生きている」という。どんなにしんどい状態でも心臓は粛々と動いている。で、生かされている。生きることへのひたむきさも思う。人が生きるとは、…。


死に方、最期を迎える場所を選んだ澤だったが、彼が38歳の時に知り合った貴美子は、在宅のまま尊厳死を選んだ。一人で考え自らの死を構築した。澤に渡してほしいと残したのがスイスの画家、アルノルト・ベックリーンの「死の島」という絵だった。霊廟のような島。棺らしきものを運ぶ小舟…。

 ちょうど1年前に購入しながら今になった。どんないきさつで手に入れたのだったかな。娘がタイトルを見て「暗いなあ」といったことは覚えている。
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そろそろ…

2022年04月11日 | 日々の暮らしの中で


「来ましたよ」
思わず声に出しても誰もいない山の中。それが少し不安ではあるけれど、今年もこの桜の木を訪ねて少しずつ歩を重ねた。
ぶらぶら、のんびり歩いていても耳だけは澄ましていないと、カーブの向こうからいきなりダンプが道幅いっぱいを使って猛進してくるからかなわない。
向こうは向こうで、歩いている人間がいるなど思っちゃいないのだろう。
桜は咲いて散る。花筏や路傍に吹き溜まった花びらも有終の美かしらねぇ。


 

初めて見かける雑誌があったのでを手に取ってみたら、高木護と名が記された一節に出会い、手早く書き写して帰宅した。帰宅後、初めてこの詩人について知ることになった。

  一日をゆっくり見つめ
  ゆっくり歩いて
  ゆっくり書いて
  ゆっくり生きて      高木 護

「ゆっくり」なのか、単なる時間の浪費なのか。ゆっくり良い一日にしていこうと心の内で思ったまま、行動できていない日は実に多い。
私の花見もそろそろ終了。自然の流れに任せて浮かれだったけれど、ここらで一息つかなければ。
ゆるゆると、そしてじっくりと、一つ今すべきことを仕上げていきたいと気持ちを向かわせるきっかけになった、ような…。

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じわじわがよろし

2022年04月09日 | 日々の暮らしの中で
固かったオニグルミの冬芽に、ようやく変化が出始めた。


 1/8

いよいよ力みなぎったか。
  
  何ごとも
  じわじわがよろし
  季節の移ろいゆくがごとし      榎本栄一

なににでもそれぞれの機があるもので、これからは日に日にくるくる巻かれた形状で葉が伸びて、それが次々と開き始める。その勢いはお見事と言いたい。
変化をとくと追ったのが昨年だった。そして教えて下さったのが会津マッチャンさんでしたが…。




声をかけたいけれど日曜日とあっては手が空かないだろうと察し、遠慮していた。
もちろん一人で行けないことはないのだが、「まあ、いいか?」が出かけたところに電話が入った。
17日に…と、誘ってくださる。「うん、うん」と聞きながら(知ってる知ってる)抑えて抑えて、「行かへん?」の言葉を待った。
似たような興味や価値観を持つ友人は大切で、ありがたい。

「行かへん?」
勿論あれこれ考えないで、いい波には乗っていかないともったいないですね。


先日見た常照皇寺への道の桜。一気に満開を迎える(た)のではないかと、やはりそわそわ気にもなる。出向いて見ようか…。
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花まつり

2022年04月08日 | 日々の暮らしの中で

「ナムアミダブツはどんな意味でしょう」
ハワイの日曜学校(サンデースクール)で尋ねたそうです。
すると一人の少年が手を挙げて答えました。
「サンキュー ブッダ(仏陀)」

と言う話を知りました。

ほとけさまは一人ひとりを大切に見守って、あなたの花を咲かせたらいいんだよと願ってくださっている。そんな願いの心に少年は感謝し、幸せに思える感性を身の内に養っているのでしょう。
「サンキュー」と発するだけの聞き取りを、日曜学校でのお話から重ねていたのだと想像します。彼の内から素直に、ストレートに出た言葉だったと思うのです。

言葉を聞いて、少年の心の健康がうかがえるようです。
やはり〈言葉は口福でなくっちゃ〉。


「よい話やなあ」
思わず義母の口真似をしたくなります。        (辰巳明子さんの絵)
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長閑さに、やっぱり花見

2022年04月07日 | こんなところ訪ねて

長閑さに、京都市右京区京北にある常照皇寺を目指して出発。その途中、いつもうっかり曲がり損ねて素通りだった山國神社に立ち寄った。
地域を桂川が流れ、かやぶき屋根にトタンをかぶせた家も多く、広いブルーべりー畑が見える。

この神社に、江戸時代初期の「貿易情報文付き世界地図」(縦1.2m、横1.3m)と呼ばれるものと中国を描いた「大明地理之図」(縦3m、横4m)が残されていて、地域の歴史とともに紹介、展示されると知って訪れたのは2019年10月7日のことだった。神社所蔵に至った経緯はわからないとあったが、興味本位で訪れ、ちょっと肩身狭く、恐縮する思いで拝見したのが忘れられない。



どんな立派な社殿があるのかと思っていたが、社務所もないし、だあれもいない、なあんにもない。若木の桜がひっそりと花をつけ、今が盛りのモクレンが青い空に眩しかった。家族連れが境内地でシートを広げくつろいでいた。

平安京遷都の際に山国の郷から大内裏造営の木材を徴せられたことで杣料地となるなど、天皇家と関わりの深い一帯の民家には、中世から近現代までの記録が多数残されているという。地図も補修し大切に扱ってきた土地の人びとの中にある神社が、仰々しくないのがいい感じだった。

 山国地域は、明治維新の戊辰戦争で官軍にはせ参じた農兵組織「山国隊」を輩出したことで知られる。時代祭りでの山国隊軍楽鼓笛行進の姿をご存じの方は多いでしょう。

目的地は、ここから少し先。結局参拝せずに周囲を散策して引き返したが、さて出直せるか。
長年の思いをかなえたことだし、欲張らずに今年は良しとしようかとも思う。どこもかしこも花盛りだし。

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長閑さに、また花見

2022年04月05日 | こんなところ訪ねて

長閑さに無沙汰の毘沙門堂(山科区)を訪れてみた(昨日)。

山科駅から歩いて2キロほどだろうか。山科疎水にかかる安寿橋の上で、偶然下を通る琵琶湖疎水船と遭遇した。滋賀県の大津から乗船し、京都の蹴上へと向かう船だった。


東山をバックに、地域のボランティアが育てたという菜の花、満開の桜、そして青い空。言うことなしの長閑さを、はやもうここで満喫した。
毘沙門堂へは、沿道の桜も満開のゆるい坂をここからまだしばらく上っていく。場所によっては車がすれ違えない道に人はあふれ、行く車帰る車が近づいてくるしで、ぼーっと桜に見とれてばかりもいられない。


極楽橋を渡って、この階段を上がらねば!
上がりきって仁王門をくぐり、本堂で手を合わせ、宸殿前の枝垂桜を愛でた。



いずこの桜もそれぞれの美しさ。長閑なお日和で、まことに結構なお花見になりました。


義母がなくなり9年になる。今日は東本願寺にお参りしたあと、お花見は結構という声にイオンの大垣書店に向かった。

   人それぞれ書を読んでゐる〈良夜かな〉 (山口誓邨)   

ならぬ〈春こよひ〉というところ。
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スペシャルモーニングティーを

2022年04月04日 | HALL家の話

先週4月1日金曜日を最後に、オーストラリアに住む孫たち3人はイースター休暇に入りました。
その数日前の晩のことです。

「おれ、がんばってるねんけどな…。おれ、選ばれてん」
「えっとぉ、スペシャルモーニングティで男と女と あのー なんかー お菓子とか食べんねん」

オーストラリアに住む5歳の孫が、電話口で言葉に詰まりながら一生懸命に報告してくれるのです。母親によるとこういうことになります。
〈1学期に最も頑張った子が男女から一人ずつ選ばれ、4月1日の朝、校長先生と一緒にお菓子を食べながらお話するスペシャルモーニングティの時間がプレゼントされた〉

4歳半まで日本で生まれ育って英語力はないという言葉の不自由さを抱えながら、日々どう意思疎通を図っているのかと想像しますが、まあ、わかるはずありません。そして校長先生とのティータイムだって、どんな具合で過ごすのか、やはり思ってみてもわかりません。へらへら笑って済ませたのでしょうか。タイミングをとらえ、またしても先生方は一人の子供の存在を上手にすくい上げてくれたものです。

以前、幼稚園長であり大学で講師をもなさる山下太郎氏が、昔話の「こぶとりじいさん」「花さかじいさん」を引いてお話された中で、教えられたことがあります。
人として誠実に生き、目の前の道を喜びをもって一歩一歩進めば、きっと「何かよいこと」につながっている。それには、子供時代にどれだけ遊びに没入し、創意工夫を凝らしたかがポイントになると言われ、ここに幼児教育の意義があるというお話でした。
ただ、「何か」が何かは、あとになって振り返ったときに、今の自分につながった「何か」に気づかされるというわけです。

どうだったのかな?
「今日はスイミングの授業もあってお疲れ。もうおやすみになりました。お菓子があまり口に合わなかったらしいわ」
様子を聞きたいと思っていたのですが、あの元気者がはやばやと寝てしまったというので、母親との話に笑いがこぼれました。で、今日を持っていまだわかりません。


カメさんの歩みでもいいのです。
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