京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

失わはったら、あきまへんえ

2024年03月30日 | 日々の暮らしの中で
〈春三月は愛の物語「源氏物語」を読みはじめられるのにふさわしい月です。〉
もはや読み返す意欲も気力もないまま、三月は明日一日を残すのみになった。

田辺聖子さんはこうも言われる。
〈私は、この世の中でどれほどの楽しみを見つけ得るかということが、女のかしこさの度合いだと、この頃つくづく思うようになっている。そしてそれは、自分にどれだけ美味しいご馳走を食べさせてやるか、ということである。〉

〈人生でたのしみをみつける条件というのは、想像力や好奇心を持てるかどうか、にかかっていると思うものだ。…せっかくの、新体験のチャンスを平然と見のがす人間の無気力・無感動がふしぎでならない〉

〈私は、“いそいそする”なんてことがあるのが、生きてるたのしみだ、と思い当たった。なるべく、人生、“いそいそする”ことが多いといいんだけどな〉

気の向くまま足の向くまま、その日の風にまかせて、…じゃなくって。
4月 。
今、こんなことを書きならべ、 自分で自分の背をくいっくいっと押してるって感じ、かな。


     柳の葉垂れて流れのなすままに  岩田幸恵

三条大橋の上から北を眺めてみた。長閑な陽気を楽しむ人でいっぱいだった。橋の上も下も、多くの人が行き交う。
どこからきて、どこへ向かうのだろうか。

〈びっくりする、面白がる精神を、失わはったら、あきまへんえ〉

 うん!
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老い木に花を

2024年03月28日 | こんな本も読んでみた

世阿弥の生涯 ― といっても、足利義教によって佐渡へ遠流となって、赦免(帰洛の赦し)の報せが届くまで、8年余りの暮らしを題材にしている。

八十路に達しようという年齢になった。
佐渡で出会った縁は、思いもよらなかった恵まれた環境だった。6つ7つだった童のたつ丸をはじめとして、世阿弥を慕う人びとがいて、あたたかな心を結んできた。
そして能一筋、一途な人生を生きる佇まいは、老いても美しかった。

己れ(世阿弥)、亡くなった息子の元雅、武士を捨て出家した了隠、3人の視点から物語は語られ、世阿弥像が膨らむ。
72歳の身で「まったく咎なく、勘気を蒙って」遠流となった佐渡での暮らしだが、読み進めるにつれて幸福感をもたらすものだった。


配流先が伊豆でも隠岐でも土佐でも対馬でもなく、日蓮、順徳院、京極為兼、日野資朝といった先人が流された佐渡であったこと。
著者は、この地で亡くなり沈んだ霊の数々に手向ける花になろうとする世阿弥を描いた。とりわけ〈順徳院の悶死するほどの悲しみを謡にして弔い、せめてもの供養としたい〉と能「黒木」を描かせ、寺の法楽とした。

「世阿弥殿はよろずにおいての師、また良き翁であるゆえ、離れがたき想いは重ね重ね強」くなる。けれども、「世阿弥殿の帰洛をかなえてやるのが、我らが佐渡人のつとめ」
一方で世阿弥は、
「何から何までお世話になり申した佐渡のひと人への礼」として、「西行桜」演能を決める。

世阿弥の舞の所作や謡の箇所の描写は、簡潔に美しく、引き込まれた。
読後、著者藤沢氏は謡、仕舞を観世流の師に師事中であることを知る。なるほど!の描写だった。

「花なる美は、十方世界を変えましょう」
「佐渡の四季折々の美しい景色とともにあった童が、言葉を覚え、詞章を覚え、調べを覚えて、より法界の真如を探す時期に来ているのであろう。十方世界の美にもっとも近しいものは、たつ丸かも知れぬ」

能に詳しくなくても、暖かなものがこみ上げる作品だった。
心がぬくとうなった。


よい小説には幸福感があると、辻原登氏が言われていたのを思い出す。
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伝道師

2024年03月25日 | 日々の暮らしの中で
先日、本法寺で等伯の涅槃図を拝見した折、ガイド氏が面白かったと言われた小説があった。
題名が少し違っていたが、正しくは『闇の絵巻』(澤田ふじ子)だろうと判断し、読んでみたいと思って取り寄せた。
上巻は山梨県から、下巻は茨木県からやって来た。ようこそようこそ。ようおいで。


ちょっとのあいだ(ですむならいいけど)、積まれて待っていてほしい。
読んでみたいと思うと買ってしまう。すぐ読めばいいのに読めなくて、積ん読。そうした本がたまってしまってずいぶんな数になった。
今度はこれを読もうと目に付くところに置くけれど、ひょいと新たに手に入れた本が割り込む。と、予定の本は元の場所へと後退せざるを得なくなる。
それでもちゃんと読もうという意識はあって、そばにあることは嬉しく楽しいのだ。


画家として装幀家としてなど幅広い活躍をされてきた司修さん。
司は小学校3年のときに敗戦を迎え、中学を卒業して働かなければならなくなり、荒れていた時代があったそうだ。
絵描きだけでは生活できなかった二十代半ば。彼は桃源社という出版社で、駅売りの新書版小説の表紙絵を描く仕事にありつく。毎月小説の内容にかまわず、数枚の絵を描いて持っていくと、会計係から原稿料の小切手を渡された。
会計係の「おばさん」は小切手とともに桃源社の新刊本を司にくれた。ここでの稿料が生活の支えだったので、とても嬉しかった。
会計係の「おばさん」は、新刊本をくれるときに「ひとこと、本のことに触れて喋った」

 「『ユリイカ』という雑誌、読んだことある?」
 「いいえ」
 「古本屋で見つけて読んでごらんなさい。きっと好きになる人がいますよ」
 「そうですか」
 「稲垣足穂は?」
 「知りません」 
 「きっと好きになりますよ」

司は稲垣足穂を好きになり、後に大江健三郎をはじめ、現代日本文学の最先端の作家の作品を想定していくことになる。

こんな話を岡崎武志氏の『読書の腕前』で読んだ。
氏は言われる。
「本を読む喜びは、いつだってこうして、目立たない場所で、ひそかに伝えられる。読書の薦めは、もともと岩から沁み出した泉のような行為なのだ」

若い絵描きの青年に、「おばさん」が文学を伝道する。
魔術のようなささやき、「きっと好きになりますよ」。

私にも導師は意外なところにいた。 

雨の花が咲いた日。
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京に燃えたおんな

2024年03月22日 | こんなところ訪ねて
昼から河原町通りにある書店MARUZENに出向いた。用を済ませて店内を見歩いていて、澤田瞳子さんの『のち更に咲く』という単行本が出ているのに気づいた。最新作のようだ。
古代、中古が時代背景の作品が好きなものだから大ファンなのだけれど、この頃は澤田作品が遠のいていた。

帯には【時代に抗う 和泉式部  すべて見通す 紫式部】とかあった。
今の時流に乗らんとするかのような?『のち更に…』、などと言っては失礼だけど、それでもなにかかるそう~って感じ。

今年はNHK大河ドラマの影響か、2008(平成20)年の「源氏物語千年紀」の賑わい再来かと思える催しが各所で見られる。
源氏物語成立千年となるのを記念した行事ごとだった。「古典の日」が制定されたのもその延長。寂聴さんが演壇にあがられていたのを思い出す。


昨日は和泉式部忌だったのを思いだし、和泉式部の寺とも親しまれる誠心院に行ってみることにした。書店からは近い新京極の通りに面して、門を構えている。

 

藤原彰子(道長の娘・一条天皇の中宮)に仕えた式部のために、道長が小御堂(こごどう)を与え、晩年、式部はそこに住んだとされる。そのお堂を、この地に移建した。

 

   春はただわが宿にのみ梅咲かば
       かれにし人も見にときなまし

ゆかりの梅の木は本堂前に。そして、墓とされる宝筐塔がある、

 

〈愛の遍歴を知った深い悲しみ〉
〈大胆に愛うたう情熱歌人〉
〈燃えた恋はただ二人〉
〈恋人との逢瀬描く〉 
『京に燃えたおんな』の和泉式部にはこんな表現が散見する。

【式部に噂の男は多かった。子供を産んだとなれば、うるさい詮索。面と向かってぶしつけに「どなたを親に決めましたの」と問う。プライバシーの侵害に憤然とした彼女は、「そんなに知りたければ、あなたがお死にになってから閻魔さまにでもお聞きなさい」と歌を詠んで手厳しく反撃した】
「現代女性のさきがけのような心意気を示した女性」と紹介している。

でもね、物語風の『和泉式部日記』を読むと、また違う彼女の姿が透けてくる。心には表裏があるもの。

式部が貴船神社に参詣した折に詠んだ歌が残されている。
     
     もの思へば沢の蛍もわが身より
          あくがれ出づる魂かとぞ見る



昨年11月末に孫娘と見た蛍岩。貴船は見事な紅葉だった。
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ものすごいエネルギーで

2024年03月20日 | 催しごと

何度目になりますか。等伯さん、またお訪ねいたしました。という感じで、桃山時代を代表する画家・長谷川等伯が描いた「佛涅槃図」の真筆を拝見に本法寺を訪ねた。
1月28日、あのときはレプリカ承知で拝見にうかがったが、年一度の機会には改めてという思いがあった。等伯筆「波龍図」も公開されている。


26歳だった息子の久蔵が急死した。等伯56歳。
秀吉が朝鮮出兵に合わせて築いていた名護屋城で、久蔵は狩野派の絵師たちと大広間の絵を描いているはずだった。にもかかわらず、持ち場ではない天守閣の外壁に絵を描いていて、足場が崩れた。事故死ではない…、と余地を残して『等伯』(安部龍太郎)では描かれた。

才ある息子への大きな期待。この日は公開に合わせて、ボランティアガイド氏の説明を受けることができたが、死の真相に触れる記録は一切ないそうだ。

当時の本法寺住職・日通上人は、絵筆も持たなくなった等伯に命の輪廻転生を説いたという。
五木寛之氏が『百寺巡礼』で書かれている。
【等伯はその寂しさやむなしさを信仰というところに投げかけて、この巨大な絵を描くことに没頭したのだと思う。衆生に対して、なにかを語りかけようとしたのではないか。日蓮宗の信者は、社会に向けて自分のほうからメッセージを送る、という意識を持っていることが多いようだ。賢治にしてもそうで…。】


縦10m、横6m。レプリカと真筆の区別がつくはずはないが、巨大さには目を見張る。
もっとも、更に縦に1m大きいのが室町初期の画僧明兆が描いた東福寺の涅槃像で、釈迦の臨終を嘆く種々の動物の中に猫も描かれている。
等伯はコリー犬を描き込んだ。家族で堺に暮らした時期がありそうで、そこで見かけたのではと想像される。

薄い和紙を何枚も何枚も張り重ねた上に描き、周囲は表装ではなく、牡丹の絵が描かれて仕上げられている。等伯62歳。
絵図の右下には、自分が雪舟より5代目の画家であることを書き込み、また、本法寺に収める前に御所へと持参するなど、自らの名を世にだそうとする戦略もなかなかのもの、とガイド氏。
左の沙羅双樹の根元には、やつれた表情で座り込む等伯の姿がある。釈迦は久蔵ではないか…。

ボランティア氏は、「闇の絵師」が面白かったとお話だった。作者は「さわだ?」「さわだ?」とつぶやく。
帰宅後ネットで検索してみると、澤田ふじ子さんに『闇の絵巻』というのがあった。

 
本阿弥光悦が唯一作庭したという巴の庭。半円を二つ組み合わせた円形石で「日」、切り石による十角形の「蓮」池で、「日蓮」が表現されている。
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言うに言われぬ忍耐が要る

2024年03月17日 | 展覧会
昼前から雨になった彼岸の入り。そんな予報も出ていて、お墓参りの前、後だと言って立ち寄られる方もなかった。

週末には阿弥陀さまのお花を立てかえた。満開の桃の花と、たくさんの蕾がついたコブシの一枝をいただき、一緒に供えることにした。
子規のように、コブシの枝を部屋で花瓶に挿したいなあと思いもしたが、「仏さんに」が I 子さんの思いなのだろう。私欲に走ることを慎んだ。  

頂き物のお返しの品を見繕いに四条河原町にある高島屋へ出向いた日、開催中の展覧会「文化勲章三代の系譜 上村松園・松篁・淳之」展を覗いてみようとなった。


親、子、孫と三代、それぞれに画風を追求し、日本画の美を伝承してきた。
松園(1875~1949)の作品はいくつか見知ってはいたが、絵よりも、男性中心の画壇で“女性芸術家の先駆となった松園”ってどんな人かという関心のほうが大きく、彼女が書いた文章を青空文庫で読んだりしてきた。


【全く女性の画道修業は難しい。随分言うに言われぬ忍耐が要る。私などにしても、これまでに何十度忌ま忌ましい腹の立つことがあったか知れない。それを一々腹を立てて喧嘩をしていたんではモノになりません。凝ッと押し堪えて、今に見ろ、思い知らしてやると涙と一緒に歯を食いしばらされたことが幾度あったか知れません。全く気が小さくても弱くてもやれない仕事だと思います。】(『画道と女性』)

【竹を割ったような性格 私の母は、一口にいうと男勝りな、しっかり者でしたな。(中略)
私は小さい時から絵が好きで帳場のかげで絵ばかり描いていましたが、母はそれを叱るどころか「それほど好きなら、どこまでもやれ」と、励ましてくれました。しかし、はたはそうはいかず、親類知人は、「女子はお針や茶の湯を習わせるものだ。上村では、女子に絵なぞ習わせてどないする気や」と母を非難したものでした。なかにも、一人ゴテの叔父がおり、とやかく申すのでしたが、私が十五歳の時、東京に開かれた内国勧業博覧会に、〈四季美人図〉を初出品しましたら、丁度、来遊されていた英国の皇子コンノート殿下のお目にとまり、お買上げということになり、一時に上村松園の名が、新聞紙上に書き立てられますと、その叔父が一番に飛んで来て、「めでたいこっちゃ。大いにやれ」と大した変りようでした。】(『我が母を語る』)


着物、帯、髪の結い方、髪飾りなどから年齢や社会的立場、日常生活までが伝わる松園の女性たちに、ほとんど感情が感じられないのは「リアルを追求した果ての『感情は表現の邪魔になる』という境地」からなるもの、と言われた展覧会監修者の解説をじっと考え中です。
能面の無表情の表情、を書いた文章もあったなと思い出しながら。
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後をたのしむ

2024年03月15日 | 日々の暮らしの中で
「昨年買ったシクラメンが、机の上で咲き誇っている」という。
天気が良い日はベランダに出して「気持ちいいやろ」と話しかけ、夕方には「寒くなったね」と声をかけて部屋にいれ、机の上に置く。
健康に恵まれ、毎日が楽しいと書かれた女性は、最近一つ歳を重ねて84歳に。もう少しの長生きを神様に祈ったところ、
「シクラメンの花が机の上から私を見ていた」

 と書いて結ばれていた。

今朝はこの投稿文を読んで束の間、胸の奥を温かくしていた。
わずかな言葉でも、人の心を映しだしているものだ。
今後シクラメンを見たとき、「気持ちいいやろ」「寒くなったね」を思いだしそうな気がする。


約束の本を持って京都御苑に向かい、友人と会った。中立売休憩所のうどんは意外とおいしくて、昼はそれで十分な満足だった。そして、アイスクリームがおいしい日だった。

ゆっくり語らってから、梅林、桃林を抜けて歩いた。
梅の花どきは過ぎたが、梢全体でぽおっと、やわらかくあたりを染めている。
この名残りの梅が、今日の出会いの余韻に。
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満月、満天の星

2024年03月12日 | 日々の暮らしの中で
東日本大震災から13年という日を迎えた3月11日。昨夜拝読したブログにあった〈満月〉という言葉に促され、佐伯一麦氏の『月を見あげて』をたどり返していた。
2010年10月から河北新聞の毎週金曜日の夕刊に連載されてきたエッセイが本にまとめられている。


連載を始めて22回目が3月11日だったそうで、夕刊紙面を目にした人は少なかっただろうから、「柊鰯」と題したその日の原稿は半ば幻。それがこの本に再掲されている。

「震災からひと月が過ぎた」4月15日のエッセイでは、「震災からの数日間、街中のあかりが消えた空には、半月から満月に至る月と、満天の星が眺められた」と振り返っている。

仙台の自宅は8人が寝起きする避難所の様相を呈していたこと。80歳の母親を新潟経由で横浜に住む兄に預けに向かう途中、高速バスが休憩で立ち寄った国見峠のサービスエリアで、一緒に満月を望んだことなど記されている。
この集の「あとがき」によれば、「震災から5日間、停電していた中で見た月は本当にきれいだった。……日中は雪が舞っていたが、深夜になって空が晴れ渡り、満天の星が輝き、七夜の月も出た。それから満月になっていくまでをずっと見て暮らしていた」そうだ。

「津波に遭った夜、地上は地獄みたいなのに、見あげると天には星がまたたいていて、星だけは変わらないのかと思った」。氏の友人の言葉が、しみじみと深く心に沈む。

  

当時、宮城県の古川と仙台に叔母や従姉妹の家族が住み、福島県のいわき市には高齢の叔父夫婦が住んでいた。安否の確認ができず気をもんだことはブログにも残しておいた。
PCで情報を探っていると、安否情報を繰り返すラジオ局があった。こちらの名前と住所、電話番号を伝え、連絡を請うことにすがってみた。
14日午後8時前、電話が鳴った。「ラジオで聞いたのですが…」、面識のない人だったが、いわき市の叔父をよく知る小名浜の神社の娘さんだった。先方に多少の勘違いはあったが、急展開で無事の確認が取れたのだった。

叔父や叔母や従姉妹たちは、あの晩の月を見あげたのだろうか。聞くことはなかった。

私自身のあの日からの数日を振り返り、記憶をとり戻しているうちに、いつしか外が明るくなっていた。朝からの雨は上がったみたいだ。
うーん、深呼吸! 浮上しよう。



そうそう、あの年に生まれたTylerが9月には13歳になる。時間はゆるりと流れているのだろうか…。

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「素晴らしき人生を得よ」

2024年03月10日 | 日々の暮らしの中で
中学生も高校生もみなそれぞれに進路を決めて、さっぱりとした軽やかな表情で集えた寺子屋エッセイサロンでした。
晴れやかな顔、顔、顔。若い盛りの美しさです。もちろん「老麗」を刻んだ人生の先輩もたくさん同席しています。


私には年子で弟が二人。その昔、親から言われるままにある女子大の付属高校を受験し合格しました。その先は短大へ、というのが父の思いだったみたいで…。けれど嫌でしたね、女子ばかりってのが。で都立を選択。そこで将来の道を決める恩師との出会いがあって、我が道を得ました。
感謝しつつも十分な恩返しをできぬまま両親を見送りました。
でもいいんですってね。そのぶんを誰かに返していけば。

どんな将来を思い描くのか。「素晴らしき人生を得よ」。
そう祈りたくなる良い一日でした。


我が家には紫木蓮があるのですが、白木蓮が欲しかった。挿し木をしてみないかという人がいて、さあて、私にできるのかどうか(挿しておけばいいん違う?)。お彼岸前後から八十八夜までの間にしたらよいとかで、一つ、楽しみをもってみようかと思い始めているところです。
〈挿し木せしゆゑ日に一度ここに来る〉(山口波津子) きっとこうなりそうです。

ところで、鶴見俊輔さんは俳句を「言葉の挿し木」だと呼んだそうで、
「子供の心に挿した五七五音の短い言葉は、やがて根をおろし言葉にかかわるセンスなどを育てる」といわれていた。
…ということを坪内稔典氏の「季語集」の中で教えられたのでした。

俳句に限らない。
思いを言葉に託して、どう人の心に届けるか。まだまだ若い人と一緒に学ばなければならない。
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銀河鉄道の父

2024年03月07日 | 映画・観劇
国際交流基金・京都支部による映画上映会で「銀河鉄道の父(FATHER OF THE MILKY WAY RAILROAD)」を見てきた。
この上映会は、外国人のための…とあって、しかしいつも大半は日本人だが、英語字幕が付く。128分の上映時間に座り疲れを感じていたが、(無料だよ、ムリョーだよ)と脳裏をかすめれば有難いばかりで文句など恐れ多いことよ。
ひと月も前から誘われた、約束の日だった。


直木賞受賞作『銀河鉄道の父』(門井慶喜)の映画化。宮沢賢治を支えた家族の姿が描かれている。
【質屋を営む裕福な父・政治郎の長男に生まれた賢治は、跡取りとして大事に育てられるが、家業を“弱い者いじめ”だと拒絶。宗教に身を捧げる、と東京へ出てしまう。そんなとき、一番の理解者だった妹のトシが結核に倒れる。
妹を励ますため、賢治は一心不乱に物語を書き続ける】

「お父さん、ありがとう」と何度も賢治は口にしていた。映画では、賢治今わの際に父が暗唱していたが、「雨ニモマケズ」の詩に涙が誘われた。

つい最近、『風に立つ』(柚木裕子)では岩手県盛岡市にある南部鉄器工房を舞台にした職人父子の葛藤を垣間見た。物語の中で賢治の『グスコーブドリの伝記』が挙げられ、人生をも狂わす自然災害の過酷さが父の背景に描かれた。
「幸せな人生ってなんだろう」とあった問いかけは、賢治の世界に通じるようでもある。

 

またその少し前に、『六の宮の姫君』(北村薫)で落語「六尺棒」に描かれた父子の姿を読んだ。
夜遊びが過ぎる息子を父が締め出してしまう。「それなら火をつける」と声を上げるので、父は六尺棒をもって息子を追いかけるのだが、その最中に立場が逆転。家に入り込んだ息子が父を締め出す。
怒りながらも息子を心配し、それをあしらう息子にも父の心は十分わかっている。(明日から親孝行しよう) 父親が好きだ、という息子の気持ちを外してはいけないと描かれていた。

三者三様も、どこかでつながり合えたいい人たち。あらぁ、我が家の父と子は…といつも考えるわ。
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呼吸が合う

2024年03月04日 | 日々の暮らしの中で

肌寒さも感じる中で頬を染め、小さなお口にお喋りの花が咲く。
誰でもがそれぞれに自分だけの興味や関心の世界を持っているのだから、まあ賑やかそうなこと。

口にふたをするのは損とばかりに、一聞いて十話すのは、えっと…この子? 十聞いて一話す賢さを感じさせるのは、そう、この子あたりかな。
なるほどそうかと、人の話にうなづいているのは…。褒める人、くさす人。静かにほほ笑む人あり。
不平の嵐じゃ花が散ってしまう。


人の話を外に流さないことが、安心できる条件だとエライ先生のお話だけど、こんなところで喋ってしまうとしたら、まずまずい。
おちょぼ口のかわいい馬酔木の花が咲いていた。


昨日は女の節句。ハレの日だし?ちょっと贅沢に先日来気になっていた本を買わせてもらった。(このあと何を節約しまひょ)
背表紙を追いながら偶然の出会いが『世阿弥最後の花』(藤沢周)だった。


 光とは、なんと不思議なものでございましょう。
 あんなにもさんざめいて瞬き、銀糸を刺した帯のようにうねるかと思えば、金箔をはった扇のようにも広がる。また縮み、わだかまり、螺鈿が弾けたように、まばゆさを広げてきらめく。
 あれは、調べか。歌であろうか。


と、序章は始まっていた。
句読点のリズムが自分に合って、とっても心地よく入れる。この文章の呼吸が合う、ということがまず嬉しい。
そしてこのあたり、漢字とひらがなの使い分けが視覚的にも気持ちよく、イメージする余白が美しい。
世阿弥についてはポツンポツンとした知識があるだけで知らずにいる。
難しくてもいい。即決した気持ちに素直に、自分の根っこを掘り返せるといいけどなと思うのだ。


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下から上へ

2024年03月02日 | 日々の暮らしの中で
午前中は小雪が舞う寒さだった。
庭の片隅の環境の悪い土中から、赤い小さな芍薬の芽が顔を出し始めているのに気づいた。
6つ、7つ。
ようこそ、ようこそ! なんという生命力!


〈雪をのけたしかめてみる褐色の芍薬の芽は一寸のたましいを持つ〉と詠んだ山崎方代。
「一寸のたましいを持つ」
もぞもぞと蠢く気力、意思のほとばしり。方代の感動に共感する。
懸命な成長の日々を見つめていくとしよう。

―『土』という漢字のタテに下ろす垂線は、逆に下から上に突き上げるようにして書かなければつまらない。
毎年毎年、芍薬の芽と出会うたびに、わたしは榊莫山さん独特な「土」の漢字の書き方を思い起こしている。
その道理は、
地上の一切の草や木、森林のすべては、土の中から芽生え、土の表面を突き破って成長し、枝や葉を茂らせ、花を咲かせるから ーとおっしゃる。

もう17年ほども前になるのか、莫山さんの書展を拝見した帰り道。連れとの会話の中で『土』(長塚節)の中に記された一節「春は空からさうして土から微かに動く」を知り、その後に出会った莫山さんの言葉だった。

平凡にみえる一日だけど、小さな発見と大きな感動が心の刺激となって、いろいろなことを教えてくれるものだ。




大根の先っぽを水につけておいた。冬場で成長は遅いけれど、やっぱり下(中)から上へと葉が出てきたわ。
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スター

2024年03月01日 | 日々の暮らしの中で
「我が家のスターです」

門前に自転車を止めて、「きれいに咲いたなあ」と言いつつ入ってきた文子さんに、こう返した(2月28日)。
蝋梅のあと、さしあたり水仙や椿や山茱萸といった花のほころびを待つくらいの我が家の庭で、花のスターは老梅だった。


おおかた、満開だ。
仏さまに、まっ青な空に、うららかな光を浴びた純白の花を手向けよう。
ひっそりと境内をつつむ静寂さこそが好ましい。

花に花どきがあるように、人生にも花どきがある。
杉本秀太郎氏が書いておられた(『花ごよみ』)。
花どきは一生に一度。あとになって、あれが花どきだったのかと気づいたときにはもう花どきはすぎていた、という形でしかおとずれない。健康なときは健康を気にかけないように、花どきのさなかの人は、いまが花どきとは容易に気づかない、と。


階段の隅に腰をおろして梅の木を見つめていた。我が人生の花どきを振り返ることもなく。ただただ静かに、じんわりとなにやら気持ちは満ちてくる。幸せいっぱい胸いっぱいの喜びにも似るかな。
 そこにお喋り大好きな文子さんがやって来た。


 

小学校2年生になった孫のLukas。
彼らの学校では一週間の終りに、“よいことをした人”を讃えて校長先生からスタフォード・スターが贈られる。
どんな小さなことでもすくい上げて、子供たちを賞賛する機会を数多く設ける教育は素晴らしいことだ。

手話の授業のときにクラスメートのお手伝いをしたから、だそうな。
お世話好きのLukasの一面を見いだしてもらえているのかしら。
彼もこの日は選ばれしスターでした。

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