京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

どこだって、どこもかも

2023年10月30日 | 日々の暮らしの中で
(10月も終わるからね)
行動に移すために、つぶやくともなく言葉にする。
11月にはいれば報恩講に向けて、仏具の磨きものに当番組の女性たちの手をお借りすることになる。

だから掃除をしておこうではないが、「気まぐれ」だろうと言われて、「そうじゃないわ」と答えられるかどうか。気分も天気も良く、やっぱり、今日という日に〈気が向いた〉ということになるかもしれない。
堂内と脇の玄関、奥座敷、そして縁。まさに「一事に専念」。「腰が痛い、背中が痛い」とは口にしないが、「疲れた!」ともれた。


道元禅師が著された『典座教訓』の中から「典座は絆(ばん)を以て道心と為す」という言葉を引いて、青山俊菫尼僧が「我が人生をどう料理するか」という視点で説いておられる(『道元禅師に学ぶ人生 典座教訓を読む』)。
(『典座』というのは、禅門でお台所を勤めるお方、料理を作る配役をいただいたお方をお呼びする)

絆(ばん)というのはタスキのことです。お百姓さんは鍬をもって道心となし、掃除当番だったら箒や雑巾をもって道心となすと言ってもよいのではないでしょうか。

お百姓さんがお百姓さんとしての仕事を十分になし終えた、お母さんがお母さんとしての務めを真剣にはたし得たとき、そこに塔を建てたといえる。政治家が私利私欲に惑わず、大所高所に立って本当の政治をとり得たとき、議事堂内に塔を建てることができたといえる。

「是(こ)の処は即ち是れ道場なり」。
林の中であろうと野原であろうと、山の中であろうと、寺であろうと、在家の家であろうと、どこでもいいわけです。授かったそこで、そこを道場としてつとめ上げてゆけというのです。(『法華経』)
このような姿勢で一つ一つに立ち向かう。

・・・そういうところに『典座は絆(ばん)を以て道心と為す』という言葉があることを今日一つ学んだのでした。

 
掃除当番、専心に勤めました。
何も特別なことだけが修行、仏法ではなく、どれもこれも一つ一つがかけがえのない大切な場となるということ、ね。

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「埋め木」を探して

2023年10月28日 | こんなところ訪ねて
点訳の仲間との待ち合わせに、今日は京津線を利用して大津へと向かった。帰り、三条京阪駅で降りて、三条大橋を渡ろうと考えていた。

この夏、三条大橋の欄干が京北や鞍馬で伐採されたヒノキを用いて新しく作りかえられた。
その橋を見に、ではあるが、そこに〈ハートマーク♡がある〉という新聞での記事を読んだことで、ただただ好奇心、どれどれ?と見てみたくなったのだ。

橋の上では写真を撮ったり、川を覗き込む人たちが立ち止まる。見ずらかったが、菱形らしきものを人の隙間に覗き、実際すべすべした手ざわりでこの亀甲模様を撫でてきた。ハートマークはわからなかった(出直しだ)。


記事によれば、
修復に関わった宮大工棟梁の指示で「埋め木」と呼ばれるハート型や菱形、亀甲模様は埋め込まれた。
節や割れがあればその部分を取り除き、埋め木をする。取り除いたままにしておけば、そこに水がたまり腐食してしまう。埋め木のデザインを決めるには、大工さんの遊び心もあるのだろう。


割れの部分を深さ1.5~2センチ削り、木目の似た同じ形の木材をはめ込む。表側の面より少し広くした奥側をたたいて縮ませてからはめ込むと、元の形に膨らんで抜けなくなる。接着剤を使わなくても緩まない仕上がりは、まさに大工さんの腕の見せどころというわけだ。

西本願寺には縁側の床や堂内の柱にまで、至る所に縁起物をかたどった埋め木が施されているという。東寺の御影堂でも見られると。
三条大橋には十数カ所あるらしい。一人で探すしぐさは…ちょっと恥ずかしいかな。お連れが欲しいな。

ブログを通じて、新潟県魚沼市において石川雲蝶が遺した素晴らしい彫り物など、技巧の数々を拝見させていただき引き込まれた後だったから、ガラッと世界は変わったが、「埋め木」細工へと導かれた不思議な縁を感じている。
しばらく埋め木探しのウオークラリーが楽しめそうだ。

今夜のHk番組「ブラタモリ」でも、山口県岩国市にある錦帯橋の補修にも「埋め木」がなされ、さまざま補修を重ねながら美しい景観を保ってきたことが伝えられていた。
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銀杏も色づき始めて

2023年10月26日 | 日々の暮らしの中で
昨日、朝刊でもんたよしのりさんの隣で興膳宏さんの小さな訃報記事に触れた。
和漢の書籍から一語を紹介する連載コラムを執筆されたとき、一年間ずいぶんと学ばせていただいた。

手元にある氏の著書『漢語日暦(かんごひごよみ)』を開いてみると、亡くなられた10月16日の一語は、「鴨脚(おうきゃく)」だった。
こんなふうに記されている。

銀杏が華やかに色づいてきた。銀杏の葉が家鴨(あひる)の脚に似ているところから、中国では「鴨脚」の通称がある。日本語の「イチョウ」は、中国語の「鴨脚(ヤ―チャオ)」が転化したものらしい。北宋の梅堯臣の詩「鴨脚子(おうきゃくし)」に、「高林、呉の鴨(あひる)に似て、満樹、蹼(みずかき)は鋪鋪(ほほ)たり」。高い銀杏の林は南方の家鴨のようで、木一面に水かき状の葉がびっしりと茂っている。「子(み)を結びて黄李(すもも)より繁く、仁(さね)を炮(あぶ)れば翠(みどり)の珠(たま)のごとく瑩(あざ)やかなり」


京都大学の建物を見ながら東大路通を下がる時、(ああ、銀杏がいろづいてきたなあ)と思ったのはこの頃だったかもしれない。

昔、バケツいっぱいのギンナンの実をもらい、母と二人で処理に奮闘した日があった。
実弟と義兄弟の契りを結んだHさんからのいただきもの。わたしを「おねえさん、おねえさん」と呼んでくれていたが、二人とも、母を入れれば三人ともが、今は亡き人に。

翡「翠」は玉の一つ。その鮮やかな翠緑色の美しさに重なるギンナンの実。
茶碗蒸しかな、かつては、炒って殻をむいた気がするが、今ならレンジでチン。
スパーなどで買うことになるんだけれど。


秋晴れの一日だった。
孫娘がやってくる日をひと月後に控え、先日から何度か寝具に陽を当てて、そこらを片付けながら迎える準備に思いを巡らす。
ちょうど忙しい時期に重なるのだ…。
                         (写真は東本願寺にあったベンチ)

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呼ばれてる 呼ばれてる

2023年10月23日 | 日々の暮らしの中で

「大徳寺山門金毛閣にあった利休の木像は、一昨日引きずりおろさせ、利休屋敷すぐ前の一条戻り橋で磔にして、火で焼かせた」
「ー 許せるものか」「図にのりおってからに」

秀吉の怒りに触れ、死を賜った利休。

「ー 猿めが」
「利休の腹の底で、どうしようもない怒りがたぎっている」


山本兼一が『利休にたずねよ』で描いた物語の始まり部分。

 (写真はネットより拝借)
この事件のあった三門は、これまで一度も一般公開されてこなかったが、このたび絵画や仏像など丹念な調査に入るとテレビで報道され、その楼上内(上層部)の様子がちらっと映し出された。数日前のこと。
ここの天井に、等伯による雲龍図が描かれているのを知った。未公開だったので色彩はよく残っているという。

長谷川等伯の家の宗旨は日蓮宗だった。
宗祖日蓮も様々な法難にあったが、彼の弟子たちのなかでもことに激しい拷問や迫害を受けたのが、等伯の墓がある本法寺を開山した日新だった。

等伯は一流の画家になろうと能登(石川県)から上洛する。
そのとき頼ったのが、本法寺をはじめとする日蓮宗の寺だった。当時、本法寺の住職だった日通は、等伯のよき理解者となり、堺の出身だったことから利休との縁もつないだ。
僧侶や有力檀越から多大な支援を受けながら等伯は実力を発揮していく。
 ― などと、五木寛之氏の案内を得たところだった。

『等伯』をなかなか手に取れないでいたとき。
この作品の〈調子はあまり高くない〉などという評に惑わされず、先ずは自分で読んでみなくっちゃと背を押してもらえた気分。今度こそ。

そして今日は朝刊で、等伯の生涯をつづる舞台「等伯 反骨の画聖」が仲代達矢さんの演出で上演されている記事を読んだ。昨日ある方のブログで、感想を拝見したばかりだった。


  呼ばれてる、呼ばれてる。
これはどうしたってお招きにあずからなくっちゃ。
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細川護熙さん

2023年10月21日 | こんなところ訪ねて
中学か高校の修学旅行でだったか、そのあとでか、一度は訪れた龍安寺。
徳大寺家の別荘だったのを、1450年に管領細川勝元が譲り受けて寺地としたのが始まりという。
ここに元首相の細川護熙さんが昨年32枚、今年8枚、雲龍図の襖絵を奉納された。全40枚の公開は10月31日までというので拝見してきた。




政治活動を退いてからは陶芸や書、水墨画などの創作活動を続け、これまで地蔵院、建仁寺、同寺塔頭の正伝永源院、そして龍安寺に、襖絵を奉納された。現在は「これを最後に」と南禅寺の襖絵を制作中だと、昨年地元紙が伝ええていた。


その後たまたま古書店での出会いがあって『不東庵日常』を手に入れた。
灯りがともる窓の向こうは、作陶に励まれる細川さん。

60歳での政界引退は決して唐突だったわけではなく、隠棲して「晴耕雨読」の実践をすることを前々から決めていたという。

3歳のときに母親が亡くなり、ひねくれた落ちこぼれの少年時代を過ごしたらしい。
父親から素読による教養を仕込まれる一方で、人物論、伝記(それも古今東西の歴史を動かしたリーダーたちの物語)、歴史書、紀行文といったものを夢中で読んだそうだ。
祖父は「いちばん勉強になるのは人物論をよむことと、当代一流の人物に会うことである」と言い、機会を作ってはさまざまな分野の人々に会わせてくれたと書いている。

巷と不即不離の程よい位置にある湯河原で工房と窯を構え、「不東庵」での閑居の生活を続けられる。

「『晴耕雨読』をベースに、気の向くままに轆轤(ろくろ)を回し、筆を執り、茶を点て、花を活け、季節至れば渓流に糸を垂れる、そんな自分なりの草庵主義の徹底が、「残生」を生きるこれからの私の目指すところだ。」
今年85歳におなりだ。

楽しむ。楽しんで生きたい。
「ひとってぇ、いくつになっても、だれのタメでもなく自分のために、ホントに好きなことしたいこと、持っているのがいいのとちがいますか」
聖子さんも言われていましたっけ…。
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楽しみの種まき日

2023年10月19日 | 日々の暮らしの中で
楽しみを待つようなタネをつくっておきたい、というわけでプランター3つにオオアマナの球根を植え付けた。

これは義母が、どなたかにもらい受けて庭に埋めていたのだった。気づけば消滅寸前の危機。
草っ葉の中から拾い上げたのを機に、プランターに移した。
花殻も摘み、葉が枯れたら毎年掘り上げて、と珍しく手をかけている。

 
        桜が咲いていた

鎌を手に、あたりをちょこっと草刈りするだけで汗ばむ夏日の今日。大きなひと仕事を終えたあとは、縁の階段に腰を下ろして空を見上げてのひと休みが続く。虫の声が高らかに耳に入る。

畑帰りの文子さんが自転車を止めて声をかけてきた。「花いらん?」
(いらんことなどないわ。有難くいただきます)。
彼女とは込み入った話を、もう何十年と交わしてきた間柄だ。しゃべりたいという心の内がわかるので、ずいぶんと聞かせていただいた。お互い歳を重ねた。なんだったんだろうね、あの頃…。

   ダーリアも仏に供へ奉る  

明日は雨の予報だ。
〈たのしみは人も訪ひこず事もなく心を入れて書を見るとき〉 こんなふうに過ごせるだろうか。

長谷川等伯ゆかりの本法寺を訪ね、墓にもお参りし、『等伯』を読むための心の準備などしながら、横入りの本に先を越され続けている。
こうも後回しということはきっと何かある。(読まんでもいい)(読むに値しない?)(楽しみは先にとっておけ??)

 先に『中陰の花』をと取り出した。玄侑作品、この際再読しておきたい。
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実は引き寄せられた出会い

2023年10月17日 | こんなところ訪ねて
父の祥月命日を目前にして東本願寺に参拝した。


親鸞聖人の御真影を安置する御影堂は、内陣と外陣あわせて927畳の広さがある。座って対面していると、高校生らしい男女の一団が上がってこられた。
小松大谷高校1年生の東本願寺研修参拝とのことだった。小松って…? 

真宗宗歌を唱和したあと、寺の僧侶からお話があり、朝8時に出発し3時間かけての到着に「疲れたでしょう」とねぎらう言葉が掛けられていた。
話の内容は出会いの大切さを説き、それに気づける自分となるために学びがある、というようなことだった。
彼らは親鸞聖人の教えを学ぼうとされる石川県の高校生たち。きちんと顔を上げ前を向いて話を聞く姿は気持ち良い。


式の最後の恩徳讃は音楽に合わせ一緒に唱和させていただく。この恩徳讃は、なぜか不思議と言葉にならない思いがあふれる。

昨日ではなく、今日この時間に参拝したことは、見えない力で引き寄せられていたのだ。彼らに出会わせていただけるよう、布置された出会いだったのだろう。偶然、のようでそうではなく。そう考えてみる。
後方に下がって同席して、よいお参りになった。

くも膜下出血で倒れた父は意識を回復したものの私を娘と認識できず、「お寺の」と呼んだ。穏やかだけど意志的ではない笑顔が、やはり寂しかったが、退院の話が出るようになって誤嚥から肺炎を併発し亡くなった。74歳。写真を見ながら思い出を手繰り寄せている。


【感情に染まらない記憶などないのだ。人間の記憶というのはいつしか創作され改竄され、物語が作られる。記憶は変容する。】『御開帳綺譚』(玄侑宗久)

物語の中で、記憶というものがいかに曖昧なものであるかをさらして見せてくれた。薬師如来の眩しい光に包まれた御開帳。ラストでは救いが描かれた。
ちっぽけな自分を主張するより、〈あずける〉。すると〈いただく〉ものがある。夕子の言葉を自分に引き寄せてみると、得るものがあった。
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過不足

2023年10月15日 | 日々の暮らしの中で
昨日は月に一度の寺子屋エッセイサロンの日だった。扇風機もうちわも不要になった。
作品の合評で出される意見に耳を傾けながら、わが身を振り返る。

…書き過ぎている。語り過ぎ。詰め込み過ぎだ。
これもあれも伝えたいという思いが冗漫な文章にしてしまう。隠れた想いを探りながらいろいろな感情を味あわせてもらう余地がなくなれば、読後に余韻は生まれない。
「言葉の過剰が芸を滅ぼす」と山田稔氏が書かれていたことが思い当たった。


もっとも自分には逆に、グタグタ書かなくても「わかるでしょ」とばかりに言葉を節約気味だった昔があったのだ。自分のことを忘れちゃいけない。

若い参加者の文章には、この子にしか書けない言葉、一文はどれだろうといった思いもひそませて拝読する。孫のような年齢だが、そこを生きている人間のユニークな形容、比喩、言葉に触れたとき、感心させられたり発見もあるし、味わい深さだって生れる。

老若男女年代に関わらず寺の本堂に寄り合って坐し、ときにはやさしいことを小難しくして意見を交わす。楽しからずや。楽しくないわけがない。


花茎が伸びてきた。葉の陰にはまだ控えが時を待っている。

    つわぶきはだんまりのはな嫌ひな花   三橋鷹女

初冬の空気の中で、花茎の先端を飾る黄色い花は孤高のともしび。
手引きとしたい、鷹女のきっぱりとした精神。花も彼女も、どちらも好きよ。

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蒲生野万葉の森へ

2023年10月13日 | こんなところ訪ねて
秋晴れに、近江「蒲生野」にある「万葉の森船岡山」を目指した。
琵琶湖の東岸、近江八幡から東の方に八日市というところがあるが、その一帯の原野をいう。




667年、飛鳥から近江に遷都し、天智天皇(中大兄皇子)が即位した。
668年5月5日、蒲生野で薬猟(くすりがり)が行なわれた。不老長寿の薬にするため男性は鹿の袋角(出始めの角)を取り、女性は薬草を摘む。
このときに額田王と大海人皇子との間で交わされた有名な贈答歌がある。


大海人皇子が馬上から額田王に袖を振って見せる。〈袖を振る〉ことは愛情表現だと高校時代に習った。

  額田王が作る歌
あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る

額田王は天皇の弟の大海人皇子との間に十市皇女を生んでいたが、遷都後は天智天皇の寵愛を受けていた。
「そんなことなすっては野の番人がみるではございませんか」

野守を天智と解して、「うちの夫の天智が見るわよ」って調子では品のない歌になる。そうじゃなくって「人が見るではございませんか」がいいんです。「野の番人」としたところに面白みがあるのだ。と言われる犬養孝さん。

大海人皇子は答えた。
紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも

「非常に豪放で男らしい歌ですね」

犬養孝さんの万葉集は楽しくもある。
元夫がしきりと袖を振る姿をもっと見ていたい見ていたい、けれど危ない危ない。うっとりと陶酔しているような、女性のハラハラとした心持ち。そこまで高校時代に習わなかったなあ。けど「蒲生野」は印象付けられた。一つ望みをかなえた日。



だあれもいない。広々として空も大きく、芝生はふっかふか。あちこちにベンチがある。虫の音と鳥のさえずりばかり。
お弁当をつつきながら、ロマンに浸る。
司馬さんが言われた「精神の酔い」という言葉が浮かぶ。

   秋晴れの日記も簡を極めけり  相生垣瓜人
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今度はお薬師さま

2023年10月11日 | こんなところ訪ねて

京都十二薬師霊場で特別公開が始まって、平等寺(因幡薬師堂)を訪れた。
烏丸四条から下るか、五条側から上るか(この方が近い)して少し東に入った街中にあるお薬師さんで、秘仏の本尊薬師如来立像が御開帳されている。頭には頭巾というお姿だった。
がん封じ、諸病悉除、当病平癒、厄難消除など信仰厚い仏さまで、初めて訪れたのは母が病を得たときだったから34年前になる。


公開は収蔵庫でなされており、小さいので中に入れば仏像との距離がとても近い。
中にはご住職がいて説明してくださったが、二人も入れば動きがとりにくいほどだ。かといって拝観者だけでは、ちょっと心配にもなる秘仏や寺宝が収まっている。絵に描いた仁王像は珍しいが、両脇に掛けられていた。
本堂でならじっくり、気のすむまで座ってということも可能だろうに、ザンネン。




そも薬師如来は、大いなる薬師として大医王と称せられ、また急を救うその足取り軽きによりて医王善逝(ぜんせい)とも称せられけり。菩薩としてご修行にありし時、十二の誓願を立てられ給う。本願は、衆生の病を癒し、天変地異の災難をうち沈め、あらゆる苦悩に思い悩みし全ての衆生を救わんとの有難きお心 ― おんころころせんだりまとうぎそわか― その大願叶うまではいかでか如来になるべき、とて仰せられけり。(『御開帳奇譚』玄侑宗久)

無状和尚は、兼務する隣町の薬師堂のお薬師さまを21年ぶりに公開するときの儀式で読みあげるシナリオを準備した。
物語は途中途中に、そのシナリオを挟みながら展開していく。

本尊の薬師如来は本物ではないと言ってきた男たち。
寺の近隣から出火したとき、出火元の家の少女が像を抱えて救い出したのはよかったが途中で滑ってしまってお薬師さんを放り出してしまった。その時、本尊の指が折れてしまった。
事情を知って、どうやらこの男自身がすり替えたらしい。

・・・まだあと三分の一ほど読み残している。

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近江千年の秘仏

2023年10月09日 | 展覧会
小雨降るなか滋賀県立美術館へ向かった(昨日)。
「千年の秘仏と近江の情景」展が始まって、日曜日は無料になるからという滋賀県大津市在住の友の誘いに応じた。
「みちのく いとしい仏たち」展が1600円だったことを思えば、“千年の秘仏”を拝観するのに平日でも540円という拝観料を無料でとは申し訳ない気分にもなる。

 

33年ぶりに公開される正福寺の本尊大日如来座像は「厳重な秘仏」で、寺外では初公開だそうだ。この座像と兄弟の近さで、ほぼ同時代(11C)に同工房で作られたと考えられる善水寺の不動明王座像が出展されていた。正福寺の十一面観音立像3体も並ぶ。
腕を飾る文様、左腿の衣紋の流れなどの類似点が紹介され、拝観の助けともなった。

奈良時代聖武天皇の勅願によりに良弁が開山したと伝えられる正福寺。800年以上もの間、諸堂僧坊を持つ大寺として隆盛を極めたが、信長の兵火によってことごとく消失してしまった。火難を逃れた、出展仏4体を含む7体が現存しているのだという。



思い出して『御開帳綺譚』(玄侑宗久)を再読し始めた。
21年ぶりに「お薬師さま」をご開帳する準備に追われる無状和尚のもとに、突然二人の男がやって来て、この薬師如来が本物ではないと言いだした。
両脇の阿弥陀如来像と十一面観音像も同時に公開するのだが、〈指がなかった〉〈光背はなかった〉〈もっと小さかった〉などと指摘する。

目の前で聞く話、これまで耳にしていた話。それぞれが「記憶」する話がある。
記憶力の問題なのか。記憶の変質ではないのか。人間の記憶というのはいつしか創作され改竄もされる。あるいは、この男の話こそが真実なのか。

記憶の問題ではなく、御開帳の持つ大事な意味に触れていたはずだけれど、すっからかん。細かな展開は記憶にもない…。





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泡立つ黄色の海

2023年10月06日 | 日々の暮らしの中で

セイタカアワダチソウは、九州北部の筑豊の土地の象徴のような存在だった、と五木寛之氏が書かれていた(ので、ほおっと思って読み進めた)。

遠賀川の土手も、香春(かわら)岳の野づらも、見渡す限り泡立つ黄色の海と化していたそうだ。
石炭産業の合理化が進み、やがてボタ山は姿を消した。列島改造、高度経済成長の波のなかで、人と自動車の激しい流れが、セイタカアワダチソウの種子の空中拡散に拍車をかけた。
神武の東征にも似た、渡来植物の東上が開始された。・・・などと(「黄金色のバブルの花」)。
“東征”とすれば、セイタカアワダチソウにやられたのはススキであるらしい。


猛威を振るっていたかつての姿を私も見てきているが、今は小ぶりにもなって、群生し高々と茂る勢いはないようだ。次第に日本での環境に適応した姿を持つようになったのかしら。
夕日が当たって輝くさまは美しくもある。
さんたろうさんがそんな写真をしばしばブログに載せられていたなあ…と思い出した。

足元を落ち葉が音を立てて転がっていく。
林の中から、木の実が落ちるような音がしてくる。

おにぎりと温かいお茶と本を持って、歩きに出た。
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100年水底に

2023年10月04日 | こんな本も読んでみた

「わし」は葛川(かつらがわ)村に生れて100年あまりになる山椒魚。
葛川坊村葛川谷(明王谷)の滝壺の底に棲み着いて、何十年かになる。

近江の国の明王谷は、比良山の豊かな水を集めた山深い山中にある。大小の滝がいくつもあって、比叡山や比良山を回峰してきた修験者が滝に打たれ、呪言を唱える。その声を、わしはじっと聞いている。

895年、ここで滝に打たれて修行していた相応という修行僧が不動明王を感得したという。
そして刻んだ不動明王像を祀って、息障明王院を建立した。

ある日、若い修験者が「もう神仏の感得はあきらめる」と背負っていた笈籠を岩に叩きつけた。その拍子に、籠の中にあった金色に輝く蔵王権現が飛び出し、滝壺の水底に沈んできた。
この物語は、蔵王権現と山椒魚との世間話が綴られていく。

山椒魚は思っている。「いくら修験者たちが歳月を重ねて呪練難行したとしたとて、誰もが悟りを得られ、仏を感得できるものでないことは、はっきりしている」。
蔵王権現も言う。「まことをいえば、悟りや感得ともうすものはないのじゃ」、と。

幾度も幾度も季節は巡るが、山椒魚はときどき谷を「よたよた」移動するだけで、「高い志など持った覚えもない」。滝壺の底にじっと潜んで「途方もなく退屈を感じ」ている。そして、いつまで生きるのだろうと「生きているのにもう飽きてきた」。

つまるところは、私も山椒魚みたいなものかな?


「比良の水底」(澤田ふじ子『閻魔王牒状 滝に関わる十二の短編』収)の存在を知って、以前から息障明王院を訪れてみたいという思いがあったので、この編だけだが読んでみることにした。
この短編の舞台を訊ねてみたい。小さな集落坊村の風景は“名画のごとし”とか。

同行者が欲しい。募ってみようか
一緒に行きたい人、この指と~まれ!
           
        (偶然9/26の朝、テレビで山椒魚の話題を)

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表と裏と、内

2023年10月02日 | こんな本も読んでみた
「小さな蕾のひとつひとつの、ほころぶということが、天地の祝福を受けている時刻のようにおもえる」
― 自分の色と形をそなえた蕾が、ある日ほころぶ。
大地が生み、太陽と雨が、あるいは雪や風が育て、まわりの種々さまざまな植生の中にあって、…。  

石牟礼道子さんの「一本の樹」(『花をたてまつる』収)という短い文章を読み返しながら、今日18歳の誕生日を迎えた孫娘Jessieをつかのま思い浮かべていた。




幅広く活躍される辻仁成氏だったので、あれこれの話題を耳にすることも多かった。それが、作品を読んでみようかと思う気持ちの邪魔をしていたようで、今ごろの遅まきながらの読者なのだが、浅からぬ作品群であることを感じている。

『白仏』は素晴らしい作品だと思った。『代筆屋』は格調高く、氏の抽斗の多さに感銘した。(何が良かったのかは置いたまま)「よかったね」と娘と言葉を交した。



『サヨナライツカ』に続けて『海峡の光』を読んだ。
「私」は函館少年刑務で看守として働いている。そこに少年時代に「私」を残忍な苛めの標的にした同級生・花井が入所してきた。18年の歳月が流れていた。
心地よい文章、言葉の力が、心理描写から緊迫を浮きあがらせ、ぐいぐい引き込まれて読んだ。

表紙絵が頭の隅っこに貼りついた。
人には、他者に見せている「表」の部分と、語らなければ他者にはわからない「裏」の影の部分とがある。普通、それはそれでそっと大事にしておいてよいものだろう。
そして、光が当たることで一瞬なりとも「内」があぶりだされたりして…。

仮出所を拒み、恩赦による出獄も拒む行動に出た花井だった。当然刑期は延長だ。彼の「闇」は語られない。
ラストシーンでは一人黙々とシャベルで土を掘り起こし、植物の種を蒔く姿を見せる。やせ細って、遠目ではまるで老人だった。
ちょっと彼の心理を聴いてみたい。

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