11日、劇団希望舞台による『釈迦内柩唄』(原作 水上勉)の公演を観た。
【釈迦内は秋田県、花岡鉱山の近くの在所の名前。その地で代々続いた死体焼き場を引き継ぐことになった末娘・ふじ子の物語。仕事ゆえに忌み嫌われ、蔑まれる。だがそこには家族の深い絆と愛情、分け隔てない人間に対する優しさがありました。酒を呑まずにいられなかった父。その父が山の畑いっぱいに育てたのは人の灰で育ったコスモスだった】
父・弥太郎が死んだ日、ふじ子は父親を焼くカマの掃除をしています。ふじ子の胸に、さまざまな思い出がよみがえります。
二人の姉のこと、母親のこと、花岡鉱山から逃げて来た崔さんのこと、そして憲兵に殺された崔さんを焼いたあの日のこと…。頑なに断る父に代わって憲兵の要求を受け入れた母は、一人黙々と仕事をする。カマの中の真っ赤な火、立ち上る煙。憲兵の異常な威圧感。吹雪の夜に彼を招き入れた温かな団らんのひと時が前シーンだったのに…。息をのんで見つめた一幕だった。
「なして、人は焼き場の子と聞くと、あった冷てえ眼でみるんだべか」
家業ゆえの差別で愛する人との別れを経験したふじ子は、町から戻って父の跡を継いでいた。宿命に翻弄され、心を閉ざし、その先を差別への憤りで苦しみ続けるとしたら、それもまた辛い。
一面のコスモス畑では、コスモスがひとつひとつ、それぞれの顔をして咲いている。あのピンクの花はお母。あの白いコスモスは崔さん、きれいな目をした人だった…と。コスモスの花に、ふじ子はいのちの平等を見つめている。
コスモス畑を抜けてくる馬車の鈴の音が聞こえてきました。いつもは棺桶を運んでくる馬車に、今日は姉さんたちが乗ってやって来るのだ。お父を弔うために…。
「わ(吾)は さみしかったよー」。ふじ子は大きな声で姉たちの名前を呼んだ。ラストシーンだった。
一人残されたふじ子のさびしさが沁みてきた…。「寂しかった」という言葉でふじ子は気持ちを放つことができた。と思ったら、なんか涙があふれてきた、のでした。
会場となった館の出口で。「一緒に撮りましょうか」と歩み寄ってくださった、ふじ子さん。お父、お母、姉のさくら、梅子と並ばれて。
原作で読んだときとは違い、生の言葉、間合い、表情、仕草、…演劇の力に心は揺さぶられた。