京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

 「沢山の仇名を」

2013年05月30日 | 日々の暮らしの中で
雨にぬれて、ジャガイモの薄い紫の花が咲いていた。
啄木は「馬鈴薯の花咲く頃となれりけり 君もこの花を好きたまふらむ」と歌っている。
消しがたい面影の「君」を馬鈴薯の花に偲んで…。どことなく恋ごころを誘う花なのだろうか。

「ジャガイモみたいな人が好き」、海老蔵さんをこんなふうに言われたのが麻央さんだった。茨木のり子さんに「おんなのことば」という少し長い詩がある。
 【いとしい人には 沢山の仇名をつけてあげよう 
  小動物やギリシャの神々 猛獣なんかになぞらえて
  愛しあう夜には やさしい言葉を そっと呼びにゆこう 闇にまぎれて】
と始まる。
いとしいどなたかを思い浮かべながら、果たして次から次と名づけられるほどに湧き出る喜びはあるものだろうか。一度いかが、お試しあれ。
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 雨にけぶる花

2013年05月28日 | 日々の暮らしの中で

雨の似あう花だとか。理由は、雨の多い時季に咲くから、とあった。上賀茂神社で咲く楝(オウチ)の花です。
芭蕉にこんな句があります。「どむみりと樗(オウチ)や雨の花曇り」 (「どむ(ん)みり」とは「どんより」の意)

『徒然草』に登場します。5月5日の競馬会(くらべうまえ)の日、この楝(オウチ)の木の上で居眠りをして落ちかかっては目を覚ましながら見物するお坊さんがいました。写真、ちょうど奥に緑濃い植え込みが見えますが、その前が馬場になります。この高みから見物を決め込んだ坊さんが一人。気付いた人たちからは「とんでもないあきれたばか者だ。こんな危ない枝の上で、どうして安心して眠っていられるのだろうな」と呆れられてしまいます。10メートル以上にもなる高木だそうです。

この木を知ったのは、2010年4月に観た吉田松陰生誕180年記念映画「獄(ひとや)に咲く花」ででした。当時は、獄門の木として理解してしまいました。松陰が収監されていた藩の牢獄「野山嶽」。海岸で大きな楝(オウチ)の木が花をつけ爽やかに揺らいでいた終章のシーンが浮かびます。


白っぽく見えます薄紫の小花がびっしりと、雨にけぶるようです。 10日ほど早く梅雨入りしました。

コメント (12)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 「歩くうちたのしくなりぬ」

2013年05月27日 | 日々の暮らしの中で

今日は朝から風があり、昨日までの日差しの強さもなくてありがたい。1週間ぶりに2時間ほどかけて散歩をした。琵琶湖一周ウォークに参加後、外出した日は数日あったが、なんだか本調子ではないものを感じて、余分なエネルギーの消耗を控えた。休めばやがてムズムズ、こうなれば調子も上向きなのだと思う。
晴天続きで川の水量も減った賀茂川沿いを北に、豊かな緑を目にして歩いた。
紫の花を咲かせ、もう小さなナスビがなっている。畑に打ち込まれた杭には黒長靴がゴム底を天に向けてひっかけてあるが、何のためにだろうか。以前、畑仕事のおばあさんに声をかけて立ち話をさせてもらったのだが、今日は姿がなかった。周囲はだいぶ草丈が勢いづいていた。


身体が軽くなるのか、心がなのか、とにかく心身が清々しくなってくる。「歩くうちたのしくなりぬ麦の秋」(田中裕明) 
「歩くうちたのしくなりぬ青い山」 としてみよう。

コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 登山のファッションは

2013年05月25日 | 日々の暮らしの中で
「家にありたき木は、松・さくら。松は五葉もよし。」とはじまる『徒然草』第百三十九段で、兼好さんはこう言っています。「卯月ばかりのわかかへで、すべて萬の花・紅葉にもまさりてめでたきものなり。」と。四月頃の若葉の楓(若楓)は、すべての花や紅葉にもまして、いいものであるというのです。映えて透けるように繊細な楓の若葉は、新緑の美しさそのものでした。
すっかり初夏の装いとなって満目の緑が爽やかです。黄金色の麦畑の横を車で通りかかりました。陽を受けて白っぽく輝く穂先が、風に揺れなびきだしたのは優しげでした。


爽やかな朝を迎えていたら、友人から連絡が入りました。「娘が富士山に登るんだけど…」という話です。登山どころかトレッキングさえ体験がないという娘さん。母娘一緒に登山グッズを買いに行ったそうです。山の天候は変わりやすいからと、用具の機能を熱心に説明する店員さんですが、若い娘は色や柄ばかりを気にするというのです。「危なっかしくて。なんか気持ちがすれ違っちゃってね」とこぼします。結局どれも気に入らずなので、登山用品を売る店を知っていたら教えてほしい、といったやりとりの朝でした。

太宰治の『富嶽百景』を取り出してみました。
作者は、「甲府市からバスに揺られて一時間」、御坂峠にたどり着きます。井伏鱒二が夏の間、この峠の頂上にある天下茶屋を仕事場にしているのを知っていて、訪ねて行ったのです。で、2、3日経った午後、二人して三ツ峠にのぼることになります。
「井伏氏は、ちゃんと登山服着て」、太宰は、「登山服の持ち合わせがなく、ドテラ姿」。「茶屋のドテラは短く、…毛臑(けずね)は一尺以上も露出して… 茶屋の老爺から借りたゴム底の地下足袋をはいたので、われながらむさ苦しく、少し工夫して、角帯をしめ、…古い麦わら帽をかぶってみた」が「いよいよ変で」といった身なりでした。

この娘御はどんなファッションで頂上を目指すのでしょう。 
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 芝木好子が描く世界に魅せられて

2013年05月23日 | こんなところ訪ねて
西国三十三所第三十一番札所長命寺


この5月初め、私はやっとのことで滋賀県近江八幡市長命寺町にある長命寺を訪れることができました。
琵琶湖に突き出た長命寺山にある西国三十三所第三十一番札所は、808段の階段で有名です。101段を残して、途中まで車で行くこともできます。長命寺のすぐ近くを何度も車で走っているのに、長い階段を上った山の上にあるということが、ずっと参拝への意欲を失わせていました。

それなのに、どういうわけか、「よし、行ってみよう!」と思い立つやすぐに腰を上げたのですから、あら不思議。 …と、言っても、実はそれほど不思議なこと、突然のことでもありませんでした。機を、「よし! 今日だ、行けー!」とでもいう姿なき声にビビッとくる時を、待つばかりだったからです。

この時、『群青の湖』(芝木好子著)を読み終えていました。その読後感が無性に気持ちを長命寺に向けたのだと思います。
主人公・瑞子(みずこ)が嫁いだ近江八幡の旧家には、病床につく義兄の玲がいました。重篤で家を離れ、湖が見たくて長命寺で療養していたのでした。気むずかしくなった彼を見舞い、言葉を交わす中で、病人が日々見つめる夕暮れの琵琶湖に一瞬にして訪れる闇のすごさを教えられたのです。玲との別れは、このあと続く長い物語に、鎮魂と言った形で群青の湖に深く影を落としているように思うのですが…。

そんな長命寺、訪ねてみたくてたまらなくなっていたのでした。ふくらはぎが痛くて痛くて、歩行困難になったことは4日にお話ししました。
先日は、湖北の飯浦の地から長命寺山の山容までもがうっすらと認められたのでした。感動続きのような5月です。
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 奥琵琶湖をたずねて

2013年05月21日 | 奥琵琶湖・湖北路を訪ねて

全周約220kmの琵琶湖を16回に分けて一周する「ぐるり琵琶湖一周ウォーク」が開催されていました。昨秋9月、瀬田の唐橋から出発したこのツアーは、今回が8回目にあたります。湖北、奥琵琶湖を巡る回につまみ食いで参加してみたいと思い立ち、申し込んでいたのです。まさかの体調不良に見舞われコンディションづくりに慌てましたが、当日の朝の気分次第と決めてのぞみました。前夜は早めに就寝、ぐっすり眠れたようでした。

20日、午前8時35分京都駅八条口を出発。名神高速道路の集中工事による片側1車線の通行規制で、滋賀県長浜市湖北町にある「道の駅湖北みずどりステーション」到着は予定よりも遅れました。到着後、先ずお弁当とお茶でお昼です。お豆さんのおこわがおいしく、ご飯の量が多いのも「しっかり食べてしっかり歩けよ」という励ましに感じます。実際、案内書にあった12.5kmという今回の行程は、正しくは16km弱だと行きの車内で聞かされ愕然。したがって5時間前後このあと歩かねばならないことになります。

眼前に竹生島が浮かぶスタート地点を、ウォーキングリーダーのあとについて12時40分に出発。

延々と鹿よけの防護柵が施され、山藤や桐の花が咲く山沿いの道で片山集落を抜け、「西野水道公園」で一休み。「西野水道」とは、江戸時代、余呉川氾濫に苦しんでいた村人を救うために、古生層の岩盤から成る山塊をゲンノウとノミだけで琵琶湖へ水抜きのために掘削した、全長220m、幅1~1.5m、高さ1.6~3mの水路です。5年の歳月をかけ、私財を投じたのが西野村充満寺住職・西野恵荘だったと説明がありました。



1時40分、いよいよ賎ヶ岳リフト乗り場までの山越えの道に入りました。息が切れるひどくきつい山道、登っては休憩を繰り返し尾根に出るまでに1時間20分。起伏に富んだ尾根づたいを徐々に下ってリフト乗り場まで、山越えには2時間ほどかかりました。

石灰石を切りだしたあとが無残な伊吹山、その手前に青々と小谷城があった小谷山です。水田が広がる眼下の集落まで下ります。足元左下方に琵琶湖が広がっていることがわかるのですが、木々の茂りでよくは見えません。そして開けました!琵琶湖の展望の美しかったこと。2度と見ることのない風景を目に焼き付け、心に刻むばかりでした。

山を越え、「賎ヶ岳リフト乗り場」で小休止後、4時に出発。あと7キロ弱で琵琶湖最北端の塩津浜に到着です。旧トンネルを抜けて湖岸へ出たあとは、左手に琵琶湖を見ながら「飯浦(はんのうら)」へ、そしてゴールの「塩津浜」へと進みます。
飯浦から広々とした湖が広がり竹生島の後方に周囲よりは小高い長命寺山までが望めます。進んできた山中は明るい緑が湖面に映えています。


この山の向こうに余呉湖が広がるのです。

湖岸を作る山の切り立ちも美しく、水鳥が飛び立つ音を立てます。湖を抱きかかえて静かに日が傾いてゆく奥琵琶湖でした。

塩津浜ゴールは5時40分。名神の工事による渋滞を避け、湖西回りで6時前帰途につきました。
季節ごとに表情を変えるといわれる琵琶湖、この万緑の侯に訪れることができたのも嬉しいことです。しかし奥琵琶湖は冬、いつか冬にもう一度訪ねることができたら、幸せです。

コメント (12)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 緑濃く

2013年05月18日 | 日々の暮らしの中で

 
緑濃く、川面を渡る風がさわやかですが、日差しの強さにはくらくらしそうでした。
めったにない(と、思うのですが)不調が続いてしまっています。何が何でも何とかしなくちゃと少々の焦りを感じて、午前中は思い切りました。JessieやTylerが来たらここで遊ぼうと思っているこの場所は、ウォーキングの遠出で見つけたのでした。今日はここまで車で行くことにしました。大きなグランドが二つ。少年野球ではこんな小さな女の子がバットを振っていました。社会人の(ママさん?)ソフトボールチームの練習など初めてみる私は、その投球の速さ、ボールがグラブに収まる音の大きさに驚きました。

「おうちを出れば空がある」、頭の上に真っ青な空があります。そして万緑です。クローバーの花が咲き、黄菖蒲を見つけました。メダカが泳ぎ小さなミズスマシ。モンシロチョウにシジミチョウ、見たことあるけど名前を忘れた蝶チョも。川べりの草を踏んで近づくとトンボでした。



浅瀬には親子づれです。木陰でお弁当を広げる夫婦もいれば、お昼寝中の男性も。

自然の中で少し身体をならして、今、気分もまあまあ、7-8分かたは良好か。明日には残りの2分を復調させて。寝起きが良ければ問題なしと言えそうです。英気を養えた一日になりました

コメント (12)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 余呉の湖畔に

2013年05月16日 | 日々の暮らしの中で
どちらかと言えば体調の維持管理には極力努力するタイプではないかと思っています。あまり無理をしない、疲れたら手を抜くし楽をすることを考えもします。向上心も前向き思考もあったほうがいいけれど、あり過ぎてもいけないのです。無理をして辛い思いをするのは御免こうむりたくて、その一歩手前で「疲れた~」とブレーキがかかりだすのです。それなのに、この数日気分がすぐれずで突然の不調に陥っています。身体を横にしていると楽なので、日がな気ままに過ごしてしまいました。

図書館への返却日が迫る『湖の琴』(水上勉著)を読み終えました。不快感を忘れて思わず夢中になりました。昭和40年7月から翌6月まで、読売新聞に連載された小説をかなりの削除をして結構し全集に収めたと「あとがき」にあります。

          かつて電車から眺めた時の余呉湖 

滋賀県長浜市にあって、琵琶湖の北側にそびえる賎ケ岳を越えて約1キロ半ばかり山を入った地点にあるという余呉湖が舞台です。当時の余呉の湖(うみ)は、南から賎ケ岳・大岩山・赤子山・行市山と「四囲がすべて山であった」と書かれています。山から注ぐ川がなく、昔から湖底には湧水があるといわれ、いかなる干ばつの年でも水は涸れたこともなく、鏡面のような湖面であると。

琵琶湖東岸は桑畑の多い一帯で繭作りが栄えた所のようでしたが、余呉の大音、西山の二村も昔から繭をとり、この地でとれる糸だけが三味線や琴の糸に向いていたとあります。
その西山の養蚕農家に奉公にで、糸とりをしている間に桐屋紋左衛門に見初められ京で奉公して暮らす、若狭出身のさくという女性が主人公です。さくは再び西山に戻りますが、ある日突然姿を消して行方不明に。彼女にずっと思いを寄せていたのが男衆の宇吉です。
「自分でよった琴糸で首をくくって死んでしまったのだから、糸箱におさめて余呉の湖の深い淵に葬てやろう」と宇吉は思いつくのです。悲しくも美しく、さくの冥府への旅立ちに月光が明かりを添えています。そして宇吉もあわれです。最後の最後まで、さくがよった琴の糸が役割を果たして、湖底に向かって沈んでいくのです。

羽衣伝説でも名高い余呉湖ですが、はたして、湖底の遠くから琴の音がひびいてくるか。余呉の湖畔に立ってみたくはありませんか。できるなら晩秋の夕暮れにでも。
周囲約6.4キロ。JR北陸線余呉駅下車徒歩5分です。ゆっくりと時間をかけてハイキングコースを楽しみ、水面を眺めてみたくなりました。
こんなこと思っているうちに、どうやら復調の兆しです。
コメント (12)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 高野街道ウォーク③

2013年05月12日 | 高野街道ウォーク

5月11日、午前7時30分に京都八条口を出発しました。前回のゴール地となった石切神社山門の上、なぜか剣のモニュメントがありませんでした。今回はここから13km先の近鉄大阪線安堂駅(柏原市)付近までまっすぐ南下、…の予定でした。

体操で身体をほぐして8時30分、瓢箪山稲荷神社を目指して出発です。傘が必要でした。
枚岡神社一の鳥居を東(左手)に見過ぎ、狭いところに路上駐車も目立つ歩きにくい道を進んで近鉄の瓢箪山駅前に出ました。道はそのまま駅前の大きな商店街へと続きます。車・バイクも通行禁止のアーケードを設けた国道170号となっていて、そこを抜けていくのですから驚きです。


30分ほどで瓢箪山稲荷神社でした。以下【】内は案内板によります。
【創建は豊臣秀吉が大阪築城にあたり巽の方鎮護神として伏見桃山城から「ふくべ稲荷」を勧請したるを由緒とする】【社をまつる小丘はこの地一帯にある山畑古墳群の中でも最古最大に属する6世紀末古墳時代後期の双円墳であり、瓢箪山と称する由来である】
【江戸時代より門前の東高野街道沿いにおいて、「辻占い」の風習があり明治初年宮司山畑阿良美が「辻占」を創始する】ここ日本三大稲荷の一つは、辻占(つじうら)の総本山でもありました。


【幕末から大正時代にかけて、神社から東高野街道までの参道両側には、たくさんの旅館、茶店がならんで大いに繁盛し、大阪堂島の米相場の上り下りも、この辻占によって占われ】、【古くは往来者の言動・持ち物などで事を占ってい】たのだとか。雨のせいか寂しい参道です。享和元年(1801年)刊行の『河内名所図会』には、「如卜(じょぼく)」ということばで記されているようです。
やがて、「淡路島通ふ千鳥の河内瓢箪山 恋の辻占いらんかへ」という売り口上で「辻占おみくじ」売りの少女が活躍したそうです。

雨は上がり、蒸し暑さを感じて歩いていました。一直線の街道を南下の途中で東にそれて、平成17年に復元された国史跡心合寺(しおんじ)山古墳へ。

    写真右手から上がってみました。


全長160mの前方後円墳からは副葬品として馬具類が多く発見されているのだそうです。朝鮮半島から馬と飼育技術が伝わっていたとみられ、この辺りは騎馬を飼育する馬飼部を率いた渡来氏一族の勢力地で、そうした一族の墳墓と見られることが記されています。

東側の道を進んで再び街道と交わる付近に垣内一里塚がありました。生駒の山並みももやっています。

朝が早いのでお腹がすきだします。みな、昼食が気になりだしました。あと30分ほどで着くとわかってもうひと踏ん張り、行進は再開です。靴を脱いで上がった座敷はテーブル席。もうこれで終わりかと錯覚するほどくつろぎ、ゆっくりとウォーキングツアーには不似合いな?食事中に雨が降り出しました。あと4kmを残して、雨中さらに歩く気持ちなど失せてしまっても不思議ではない、…ほどに腰を据えてしまいました。「もう歩きとうないわ」「全員撤退しよう」という声がで始めて、…あれこれ思うことはありましたが、異を唱えることもなく、したがって私も同意ということです。13kmの行程は予定であって、ここにて終了!!

後味の悪さを感じています。
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 歩くだけで… 

2013年05月10日 | 日々の暮らしの中で

明日は高野街道ウォークの第3回目。前回4月13日にゴールした東大阪市・石切り神社をスタートし― 瓢箪山稲荷神社 ― 垣内一里塚 ― 石神社 ― 柏原市・安堂駅付近まで、約13kmの行程が予定されている。

この道は高野へ続く道、そう思うだけで住宅街を抜け、国道や府道沿いを歩いてきた。特別心躍る出会いもないが、『河内国絵図』には東高野街道に11か所の一里塚があったことが記されているのだそうで、現存している二か所の内の一つが「垣内の一里塚」であるという。

この道は確かに高野への道。すべてを忘れて歩く。自分の興味や関心も、家のことも、その他一切のことから解放されて、歩くだけでいい。歩くことに意味がある。そういう気持ちで歩く。そういう道の上で、ふと、何かを感じることもあるのだから…。無心ではいられないと明かしているようなものだが、とにかく明日はこれで行こう。

明日は天気の心配が加わっっている。なあに、雨が降っても傘がある。ひどい降りならカッパもあるわ。
っということで、明日の準備は整えました。おやすみなさい。

コメント (12)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 「競馬会神事」を前にした上賀茂神社

2013年05月05日 | 日々の暮らしの中で
2日の上賀茂神社


5日、今日は朝からの好天気でした。家でじっとしているのはもったいないのでしたが、いかんせんふくらはぎの痛みがひどく、歩きだしの1歩が難しい挙句にへっぴり越しでかかとで歩かねばなりません。大事をとって(過保護!?)休養です。

競馬会でのたくさんの見物の人たちで賑わう様子がテレビニュースで報じられていました。
昨日、馬場は180mほどかと申しましたが、150mほどだそうで訂正いたします。

神事を終えて、馬場の柵(これを「らち」といいます)を取り除き片づけます。「あー、これでらちがあいた」と使うわけです。
物事の区切りを外して片をつけることで更にことがはかどるのです。馬場は神聖な場所でいつも柵で囲われていますので、実際には柵に張られたロープを取り除くようです。これが片付かないことには15日の葵祭の準備も進展せず「埒が明かない」のです。

    『徒然草』に「…埒(らち)のきはに寄りたれど…」(多くの見物人で見えない)と記してあります。
言葉が生まれる元を知るって楽しいことです。

私はと言えば、パソコンの不具合を何とかしようと手持ちの本を開き、ネットを探りおおかた一日かけて奮闘したにもかかわらず一歩も進展しません。ハードルは高く手に負えぬまま日が暮れました。
コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 満目の緑…

2013年05月04日 | 日々の暮らしの中で
五月もはや4日が過ぎました。1日には古書市に出向きました。また滋賀県近江八幡市にあります西国三十一番札所長命寺に、808段の石段を登って参拝してきました。ふくらはぎが筋肉痛で歩行が困難です。痛いのなんのって~!! 

明日5日、上賀茂神社では「競馬会(くらべうまえ)神事」があります。ぶらりと覗いてみました2日、木製の長椅子が並べられロープで囲った有料(500円)観覧席はすでに整えられているようでした。
5日の本番を前にすでに1日に「競馳(きょうち)」の組み合わせや順番を決める「競馬会足汰(くらべうまえあしそろえ)式」を終えていますが、リハーサルも神事なのだそうで、人出の少ないこちらが見学にはお薦めと聞かされました。

広い芝生地が広がる左手奥に2頭の馬が競う直線で180mほど?のコースがあります。
スタート地点に「馬出しの桜(さあ出た桜)」と命名されたまだ細い桜の木があります。
途中、後方確認の地点を示す「見返りの桐」の木があります。
そのほんの少し先に「むち打ちの桜」が。ここで鞭を打つのだそうです。
その先、「勝負の楓」があります。「もうよいもみじ」ともいうようでして、ここまでくればはや勝ち負けが決まるということです。
わずか180mほどのレースにもこれだけのポイントがあることを知っていてみれば楽しさも増しそうです。…が、古くからこの日の人出は相当なものらしい。

『徒然草』にも登場する賀茂の競馬です。
「五月五日、賀茂の競べ馬を見ました時、(私が)乗っていた車の前には群衆があふれて見えなかったので、降りて馬場の周囲の柵近くまで寄ったのだけれど、やはり人が多くて前へと分けて入れそうにない。」と、その時の様子を兼好さんはこんなふうに書き出しています。(第41段)
そんな折、向かいの楝(おうち)の木の上で居眠りして落ちかかっては目を覚ましながら見物する坊さんに気付きます。人々は「とんでもないあきれたばか者だ」とばかにしているのです。…
楝の木は、馬場とは反対側の2本の枝垂れ桜の並び、北側にありました。はるかな高みからの見物を決めた坊さんがいたとは。

「野にも山にも若葉が茂」り、神社仏閣、京の町中でさえも新緑爽やかな時季ですのに、写真もなくてまことに不本意です。
ブログ新規投稿画面にタグメニューが表示されず、写真のアップロードができません。イカレポンチのパソ子さんを修理しなくてはならないのかと思うと憂鬱です~。

 
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする