京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

「教授」がやってきた

2008年10月31日 | 日々の暮らしの中で
           

“教授”がはるばる東京からやって来られた。
世界文化遺産で『源氏物語』を公演するためだ。
雅楽の調べで開演。基調講演は冷泉貴実子さん。パネルディスカッションもある。

一学年後輩、柔らかな笑顔が素敵だった彼に、貫禄が備わっている。和服姿で、淡々とマイペースで講読もされるという、「静」の教授のようだ。
彼の風貌、声に学生時代が蘇ってくる。

当時の私は、中古の文学に傾倒しており、とりわけ王朝人の暮らしへの関心が高かった。四年間を『源氏物語』と共に過ごしたといっても決して過言ではない。民俗学を背景に据えて物語を考察していたのだった。
「折口学」、出雲神話「いろごのみの道徳」・「説話」・「須磨」「明石」の「貴種流離譚」…、忘れかけていた言葉の数々、懐かしい響きに思い出が重なる。

夏の合宿での餅つき、冬の源氏万葉旅行。春日大社の若宮の御祭りでは深夜の外気の厳しさに泣け、詠めずに苦心した歌会、奈良の日吉館、当麻寺、新薬師寺に泊まったこと…。
貴重な体験の数々の記憶と共に眼に浮かぶのが、「今の教授」ではなく、数十年前の彼の穏やかな笑顔であるのがやはり嬉しい。

『秋の深さが深まってくると、ああ、今年もまた万葉旅行の時期が近づいてきたな、と思う。十二月の下旬に、研究会の学生たち二、三十人と、一週間の旅をするのが二十年来の習わしになっている。』 
―中略―
『冬空の下に蒼く広がる琵琶湖を見ながら、近江万葉の世界を歩く日の近いことを思うと、私の胸はときめく。』

かなり以前のものとなってしまったO教授の文章。
万葉の和歌をいくつも挿入した大好きな随筆文だが、教え子たちを悩ます入試問題となってしまった。

もう一度、今度は情愛の機微に触れながらこの物語の世界に遊ぼう。
捨てがたい原文のリズム。
「そりゃあ、原文で読まなければ」と言うだろうか。“寂聴さん版”で良しと言ってくれるのだろうか。これからの楽しみ方を模索しよう。

予期せぬ出会いは、私に思いがけない可能性を感じさせてくれる機会となった。
自分と異なる日常を生きる人の力だ。
  ―「教授!」感射です。ご活躍を!―

      (百万遍に近い知恩寺境内にて、秋の古本まつり)

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女三人…

2008年10月29日 | 日々の暮らしの中で
東映太秦映画村と大覚寺へ行きたいという知人の要望に沿って、京福電鉄嵐山(らんざん)線の四条大宮駅に午前10時集合。

今回ぜひ立ち寄りたいと願った太秦広隆寺は、下車後すぐ目の前です。
きれいに掃き清められ、手入れの行き届いた広い境内。その奥に弥勒菩薩半跏思惟像がおいでです。

右足を左足の上に曲げてのせていらっしゃいます。軽く頬に右手を添えようとされ、ふっくらとした大きめな耳。
コンクリート製の霊宝殿の奥、わずかなライトを浴びて浮かび上がる繊細なお姿に、言葉もありません。
ただじっと…。30余年を経ての再会です。無性に嬉しく、ただじっと見つめておりました。
千数百年を経て、木目も見てとれる、素朴な美しいお姿であります。
少しばかりの哀しささえ感じるほど。ずっとこの仏様のおそばに座っていてもいいと思えてきます。
悩める心も救ってくださいますでしょう。合掌…

3人の女の会話はだれかが黙らなくてはなりません。
勝手に自分のことばかりしゃべっていては…、よくしゃべる二人の間に私が入る、いつものパターンです。
映画村へ歩いて。
松平健さん出演のTVドラマを撮影中でした。
画面を映像を通じ見ているのであろう街並みは、ふとその角から悪徳代官が、近藤勇が、竜馬が…出てきそうな錯覚すら…?。
実際は大勢の人出、そんな気分も今ひとつでした。物見遊山、修学旅行の女の子と一緒に楽しんでいる始末でした。

   

 

 見上げる大きな山門は清涼寺です。
「源氏物語」、光源氏のモデルと言われる源融の山荘あとにあります。
ここへ案内し、二人からは、ただただ感嘆の声!秋の空にも目を奪われます。
境内を抜けて大覚寺、大沢の池へと。時代劇のロケ地。
水面の美しさが以前より失われている気がしたことを、Gさんと嘆き、渡月橋へと戻るコースを歩き出すのでした。

もうだいぶ足は悲鳴をあげています。最後のとどめは電車の構内にある、足湯、嵐山温泉。足を温泉につけて20分ほど。気持ちよくなって、元気も復活。

楽しい秋の一日となりました。今度は、奈良へ…と。
(写真上段左は太秦広隆寺です)

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「働き蜂たちの最後の闘いは…」

2008年10月28日 | 日々の暮らしの中で
「働き蜂たちの最後の闘いは、膨大な時間との孤独な闘いである」という中島らもさん(「固いおとうふ」)。

携帯やメールで他人とつながって生きていく。
いつも誰かと一緒でないと不安でたまらない。

映画やお芝居を観たり音楽を聞いたりする時、笑ったり涙したり、怒ってみたりするのはいつも「自分」です。
そこに楽しさを共有する相手がいても、瞬間瞬間にそうした感情を抱くのはいつもひとりの「自分」。
一人でも楽しめる、ひとりでも感じることができる心、精神・根気・気力…がなかったらどうなるのだろう。
「一人」じゃいられない。

働き蜂だった父は、定年退職後、13代目であることの責任を次代に受け渡すことのために多くの時間を費やして暮らしていた。家系に関する古文書類を整理し、写真に撮り、現代語に書き直してみたりだった。
「もうそんなに家だ家だと口にする時代ではないだろうに」と、父のいないところでささやいていたものだったが。
その合間には読書が楽しみだった。
外出はと言えば、健康管理を目的に近所の開業医へ行くことと、少々のパチンコと競馬新聞に書き込みをしながら頭をひねり、若干の嬉しさを味わっていた時だったのだろう。
母亡きあと数年、家系の整理は続き、未完成…。

まだ独りでいたいと口にし、弟家族との同居を拒んでいた頑固さ。
孤独だった?まっ、それを想う時にだけ少しの涙を浮かべてしまう私なのだが。

中島さんいわく「『教養』とはつまるところ『自分ひとりでも時間をつぶせる』ということだ」と。
膨大な時間との闘い、「自分ひとりでもうまく時間をつぶせる」ひとのことを、「孤独」とは言わない。

だとしたら、寂しさを乗り越え、「孤独」を克服し、父の時間も極めて充実していたのだろう。
常に顔を出し心配していたその弟の法事が近い。

子育てを終えた女性達は積極的に外へと関心が向かっているというではないか。
仲間もいいけど、またひとりもいい。
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磁場…

2008年10月27日 | 日々の暮らしの中で


「源氏物語千年紀」関連で催しものが相次ぎます。
能舞台、11月の「能楽ごよみ」が紙上に。

狂言の茂山家といえば華やかな活躍ぶりが伝えられる千五郎家、若い逸平さんや千作さん・千之丞さんがすぐに浮かびます。
ただ、関西の狂言界を支えてきたのはもう一つ、忠三郎家があるのです。

その比較が紹介されていました。芸風の違い、でしょうか。
千五郎家は、彦根の井伊家に仕え、派手な笑いが多い。
一方、忠三郎家は、御所に勤め、抑えた演技でうちに秘めた笑いが特徴とされるとあります。

大蔵流狂言師の四世忠三郎さん(80)、舞台歴75年。
「舞台でお客様を大笑いさせたらいかん」という父の教えが胸に残るという。
会場でどんなにワーッと笑っても、外へ出たら忘れられるような狂言ではいけないとやかましく言われ、
「家に帰って思い出してもらえるような、温かい含み笑いができる狂言」を一貫して目指してきたと話されています。おおらかで柔らか、芸はお人柄そのものだと。
「温かな含み笑い」…  ふ~~ん…

千之丞さん(85)
元気の秘訣は声を出すことだそう。
「体が欲しがるものを食べ、お酒を飲み、いつまでも女性にほれて、自然体が一番!」と。
一生現役。やりたいことが次から次とあって、そんな欲求不満が元気の源のようです。

タイプの違いはあっても、生命にエネルギーを感じます。

案外こういうお方は身近にいらっしゃる?
人間性、人間味、生命力、発散するエネルギー、それらの磁場に吸い寄せられそうになる方は、男女を問わず必ず身近にいるものだ。
ただそれに自分が気づくかどうか、でしょう。

(左から忠三郎・千之丞・逸平さん)
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空き巣狙い…

2008年10月26日 | 日々の暮らしの中で
ごめんくださ―い
  「夕方でかけますよ」
  「じゃ、そのときうかがいます」

「留守のうちはねーのかよー」「こんにちはー」「ぶっそーですよー」「お留守ですかー」
「いない!?」「いない!」「いないとわかったら落ち着け!」……

空き巣狙いだ。桂文朝「できごころ」と言っていた。
願えばかなう運の良さ。偶然にもつけていたラジオから、落語の放送だった。
「…あっ、いけねー、草履おいてきちゃったよ」と終わった。

次は3代目三遊亭金翁?「三軒長屋」。聞き出したら電話がかかってきた…そこまで。

思い出す事がいっぱい。
夕方、私と入れ違いに学校から帰宅した息子。10年ほど前になるだろうか。
自転車を奥に入れようとすると、一人の男が何食わぬ顔ですれ違い、外へ出ていったという。
「おばあちゃん、今誰か来てた?」「知らん」 !!!
東の小門から外へ走り去る姿。後を追う。西の大門の後ろに回り込む。両の足首から下だけが覗いている。
こんな情景はもう沢山。もういい!何もなくてよかった、それだけだった。
思いっきり逃げ去ったという。

先がピンととがった、まっ白いエナメル靴をはいた男。押し売りだった!下へ下りずに上から応対に出たのだが、すでに腰を下ろし、箱を開けている。何?!選手交代、すぐに婆さまを呼びに行く。
「若いもんに聞かんと…」、お帰りいただけた。

「何か食べるものを分けて欲しい」。我が家の夕食後、さて…、選手交代。折りに詰めてお引き取り願う。翌朝、隣のお地蔵様の前に空っぽになって置いてあったと聞く。

キリスト教の布教に見える女性連れ。どういう神経なのか、即刻お断り。「ご苦労様でした~」。

いつ誰が見えるかわからない。どこもかしこもあけっぱなしの昔昔。
玄関をあけ内の戸をあけ、どんどん奥まで。勝手よく知る方は上がって見える。
「鍵をかけない」、このため、いったいどれだけの珍客を迎えたことだろう。

しかし、たとえ鍵をかけたとて、お断りできないお客様。
本堂、大屋根の上を、青光りしたものがふ~~っと横切られるのだそうな…
(…御不幸があります、帰ってこられるんだと、前の家のお婆さまが)。私どもには見えません。

空き巣にご用心。戸締りは早めに。命あってのものだねです。
幸い失ったものはない。
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秋を惜しみ・愛しみながら…

2008年10月25日 | 日々の暮らしの中で
長袖も、綿シャツ一枚で過ごせる気温が好ましい。
そぞろ寒さを感じながら少しずつ確実に移ろうこの時期、過ぎ去ってゆくのが惜しまれます。
「惜しむ」、「愛し・おし」同義で愛着のあらわれなのだという。
消えゆくものを、消えゆくからこそ愛する。
「永遠の愛」ではなく「移ろう愛」を尊ぶ、のだそうな。

 肌寒と言葉を交わせばこと足りぬ

賀茂川の西側に沿って加茂街道を北に走る。遠くの山並みは黒いシルエットと化し、灯りが見えるのは人の家だろうか。寂しさを覚える秋の夕暮れ。まだ午後五時過ぎ―、いっきに日は落ちてしまう。

植物園北門沿道には、ろうそくの炎の揺らぎとともに、暗闇の中、異様な顔が数知れず浮かび上がっている。
わびしげにさえ映るのを見ながら通り過ぎた。なんぞや、ハロウィンとは…。

「kei さんや」「来た来た」「お待ちかねやよ~」「来ないのかと思た」
「話があるんやて~」
三十分ほど遅れた私を迎えてくれた笑顔と言葉。
アルコールなしに温かな思いをいただいて…
大切にしていただいて…
惜しみなく愛を注ごう―なんて、言わせていただこう…

話がある?
沢山の宿題と明日の課題を抱えて…、ちょっぴりつらいけど、まあ、笑っておこう。
「笑う門には…」何かがやってくる、きっとこの時期!
  (最近の姫)
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「時は金より貴重」

2008年10月24日 | 日々の暮らしの中で
さあー、やらなければだめだよ~。
どんな小さな宿題でもおろそかにしない。こんな平凡に見える心構えが私を支えているのです。
信用問題ですからね、

あくびをする時間もくしゃみをする時間も、極限すれば、取り返しがつかない時間となるなら、心して!
そうか、「時は金よりも貴重」ってこと、うなずけます。

すべてのこと、自分には「関係ない」と切り離してしまう社会は寂しく悲しいものです。
人のために、あるいは社会・おおやけのために、ひとりの力は限りあるものですが、力を尽くす。惜しみなく愛を注ぐ??
そんな社会性を持って触れ合えば、種はまかれ花が咲き実を結ぶ…
ああ~、こんな大きなことを口にしながら、実は、大事なのは足もとの一歩の前進。
(あとちょっとだから、この後仕上げます。)

落語ってそんなに面白いのでしょうか。
お勝手仕事をしながら、落語をラジオでCDで聞いているという方がいる。
志ん生、枝雀、談志と6席(っていうのですよね?)を聞いて、笑いながらの食事の支度。
栄養満点、おいしいご馳走ができることでしょう。
人の日常・経験を自分に重ねて、そんな体験をしてみるのはどうだろう。

最近ちょっと関心をもった「落語」です。
急に私が落語などを聞き出したらどう思われるだろうか。
来週、とりあえずレンタル店をのぞいてみよー…かな。


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ぼんやりとした時間の中で

2008年10月23日 | 日々の暮らしの中で

丹波橋まで行く用事ができてしまった。小雨が降っている。

先に座っていた学生らしき男性、全く顔を上げることなく30分以上は本を読んでいた。そのきれいな顔立ちに見入っていた私。やがて、読書は中止、イヤホンを取り出した…。

隣のおじいちゃん、週刊誌を広げていたのですが、気付くと小声が聞こえてきます。4コマ漫画を読んでいる。覗いてしまう。
アメリカに端を発したこの金融危機、「将軍様、我が国とは全く関係ないことですね」「国民は皆貧乏なままですから」…。

わずかな隙間に入り込んできたのはおじさま。いくら傍がいいたってそんなにべったり狭すぎでしょう!
もう嫌だなあ…
体制を整えると、数センチはあろうかという分厚い本を開き、ラインを引いている。3段組みだったか細かな文字が連なる本、2駅程で降りて行った。どういう方でしょう。
地下鉄では目のやり場も少なく、それとなく“観察”です。

やがて電車は地上に出ます。
かすかに色づき出している木々。家並みのあいまに、わずかな季節の移ろいを感じ取りながら、ぼんやりと考え事をして電車内での時間を過ごします。贅沢でちょっぴり高尚な時間だと思っているのです。
ぼーっとしていて、受け身ではない時間。
心の中を洗いながら?考えたり感じたりして「自分」でいられる時間です。

「一時間きっかり」計ったように欠かさずジョギングに出る家人。
走りながら風景を楽しみ、街角の変貌に気付き、「走る」という時間の中で自分と付き合い、ちょっとした構想を練ることもあるそうな。
耳を傾ければ聞こえる声もあるのです。虫の音、鳥のさえずり、風のささやき、転がる落ち葉の笑い声…。

黙々と歩きながら、「自分」でいる時間を豊かなものにしていけたら…、ぼんやりもいいものです。
実は、あの揺れで心地よい眠りに落ちることは多いのです。

(写真は先日見つけた梶の木)
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へっちゃらよ!へいき・へいき

2008年10月21日 | 日々の暮らしの中で


転んで大泣きし助けを求める子、立ち上がり一人で再びかけ出す子。同じことをしてもストレスとして抱え込む人と、そうではない人と。
事実は同じでも、対処の仕方、受け止め方が違うのは、要は本人次第ということなのだろうか。
とは言え、避けられないストレスに日々さらされる人も多かろうに…。

結構なんとかなるものだ。
毎日、毎日、時間に、仕事に追われるばかりではない。
ちゃ~んと好きなことのためにはそれなりに時間を割いているものです。
できない理由があるのなら、それを取り除き…。そんな理由もありません。
となると、まさに自分の気の持ち方一つ、怠けの虫さえ退治すればすべて解決となりそうですが。

どうも気が乗らない。まだ日はある。
あと一週間… になってきたけれど…
“だいじょうぶか~?”と、聞こえてくる。
やっと、やっと!封筒から預かった宿題を取り出すのでした。
やっと動き出せるときが来た感じです。

気ままな心さえなければ、もっと余裕を持ってできるのよ!
できるはずなのよ、私は。
なんとかなる。だから「へっちゃら」。
やればできるの、やってしまうさ!
なんともお気楽な上昇志向は、残り半分をあと3日でクリアーさせる力を与えてくれるにちがいない。
ああ、だから「へっちゃらさ」。
「へいき、へいき」、内心の動揺を抑えているのかな?。

家にこもっていてはもったいないほどの好天続き。1時間ほど散歩に。
伯母とよく散歩した疎水べりへと。見事な桜並木も今は鬱蒼としていた。
紅葉した落ち葉がかさこそと。今日は少し風がある。半袖が心地よい。

ちょっと疲れて、うとうとっと。
あと半分。大丈夫、今晩からするから。

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長~いごあいさつ

2008年10月18日 | 日々の暮らしの中で
親以上に年配の方々と「こんにちは」と会釈して行き過ぎることができない。
「お寺の~」「こんにちは」
ここから延々とつづく「ご挨拶」に、私も何かわからぬままぶつぶつとつぶやいて応じる…
相手の言葉が途切れるまで… もういいか?…
最後の言葉を受け、また何やら続いて…
この間、ご丁寧過ぎる相手に合わせてひたすら腰をかがめ続け…
顔を上げればまだ頭が下がっていて、あわててまたご挨拶の続きを。
小柄な、高齢のおばあちゃん方ですから案外大変。下手をすると、立場が変わる光景になってしまいます。
心の限り?姿勢を低く、時間を保ちます。
「平身低頭」状態が続く挨拶にも、何度か体を起こしかけて、また…。
どうやってこの間をつなげばよいのか困ったものです。

が、不思議とそのあいさつの仕方も、相手から、そと目から眺めながら、真似ていけたものでした。
“コツ”を会得するのです。口にするプラスアルファ的言葉も同じ。
何より、真似るにはもってこいの手本が身近にいることでしたし、いつしか同じような言い回しを学んでしまっていました。

「時」は順送りですが、だいぶ変わってきました。腰の疲れは雲泥の差。
「こんにちは」、せめて立ち止まってと心がけるのですが。

映画を観に、会釈で言葉を交わし、そそくさと…。

きれいに身体を折ってのあいさつの姿。女形の芝翫さん、扇雀さん、身のこなしは美しいものです。
娘の身に替えて手にした50両を、行きずりの文七の命を救うために与えてしまう。
「死んじゃいけねーよ・死んじゃいけねーよ」と、左官の長兵衛(勘三郎)。
時折、きらっと光る勘三郎さんの“目”。真顔のようで、真剣な、強い、光る目。
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どうしてわかるの?

2008年10月17日 | 日々の暮らしの中で
「なんで目の見えへん人が通う学校にも桜の木があるのやろ?桜の花が咲いてるのなんかわからへんのになあ」
「そら、目で見るだけと違って、花の匂いとか花びらが落ちてくるのが顔に触ったりとか、いろんな事でわからはるのやで」

府立盲学校へと続く一帯が桜の花で満開だった、小学生の頃のこと。
「五感で感じることの大切さを、母は教えてくれたのではないか」と、振り返りながらおっしゃいます。
育った地域の徒歩圏内に、盲学校やライトハウスがあり、視覚障害のある方を見かけることは日常のことだったと。でも、それ以上のこともなく…。

千本北大路という、交通量も多い、非常に大きな交差点があるところです。
バス停で(学校まで)「一緒に行かせてもらいましょうか?」と声をかけたら、
「前にもお会いしましたね」と。
…どうしてわかるの…
「声や話し方を覚えていますから」

…匂いや歩き方、腕の曲げ方、様々なことを合わせて一人の人間を描いて記憶されていかれるのでしょう。
「顔を触ってもいい?」と言って、目、鼻・口…輪郭を確かめるように触れてこられます。
ボディタッチも。頭から肩・腕…と、やはり触って全体像をとらえる方は当然いらっしゃるわけです。

「花が咲いているのもわからないのになあ…」と感じた小学生、今は、アイヘルパーとして活動され、気さくでおしゃべり上手な女性です。

電車やバス、エレベーターの乗り降りなど、つい大丈夫かと気になり、その方の後ろや脇に立ったりする私ですが、訓練を受けて白杖で一人歩きされていますので、上手に足元は確かめられます。

先入観も固定観念も捨てて。
柔らかな気持ちで寄り添えることができれば、楽しい時間や空間は自然に共有できるはずです。
お互い、ちょっと手を差し伸べあう・声を掛け合う機会が増えれば…
それを必要とされる人たちもいるのだし…

久しぶりに“サロン”でご一緒に、6月以来でおしゃべりする機会があって。

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秋、 たけなわ…

2008年10月16日 | 日々の暮らしの中で
                  

真っ青な空に飛行機雲が、東へ。
北山通りに出ると絵を描く人もちらほらと見かけます。
この近くにある「金ちゃんラーメン」店に点字メニューを届けがてら散歩に。

植物園に隣接する「陶板名画の庭」
―いずれもこの通りの南(写真右方)に沿ってあるのですが―に入ってみました。100円!でした。

設計は安藤忠雄氏。。
原画の写真を陶板に転写して焼き、組み合わせて一枚の絵にするという工法の名画が、屋外に展示されているわけです。

入ってすぐに、モネ作『睡蓮・朝』が水の中に見られるのには驚かされました。透明の柵の上に身を乗り出すようにして。200cm×1275cmのほぼ原寸大。太陽の光が反射しています。ゆるやかなスロープを巡っていきますとミケランジェロ作『最後の審判』が壁面に見えてきます。これもほぼ原寸大1430cm×1309cm、地下に降りると絵の最下部につきます。
途中、ゴッホ作『意図杉と星の道』、ルノアール作『テラスにて』、スーラ作『ラ・グランド・ジャット島の日曜日の午後』の3作品も。縦横原寸の2倍拡大で。 

通りの喧騒はなく、替わりに壁一面から流れ落ちる水音が大きく響いています。
コンクリートの打ちっぱなしのような建造物。外部の建物や木々も目に入ります。
置かれたスチール製のベンチに腰掛け名画を見上げれば、抜けるような青空が。
屋外の美術館もそれなりに驚きがありました。
素通りが続きましたが、一度は入ってみたらと、勧められそう。

  

ハロウィンのグッズが並ぶ店。
植物園入り口にかぼちゃをくり抜く家族連れが集まり、展示される日も近い。

ああ、秋たけなわ、空も街も……。
でも、何かが足りない…そう、“姫ちゃん”かな。
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写真で情念の世界を…

2008年10月15日 | 展覧会
            

『秋たけなわ。人並みに芸術を楽しむ意気が頭をもたげた。』

実はちょっと触発されたのでした。過去1度だけ知人に同行したことのある「写真展」。花鳥風月の類だったと記憶していますが、縁は薄かったのです。

「京都写真家協会展」
「もののあわれ」「はかなさ」を、写真という表現手段で感じてみよう、源氏物語の世界に近づいてみようという試みのようです。「源氏物語千年紀」としていろいろな文化的行事が展開されています。ただ「千年紀」は、再び巡り来ない“宇宙的遭遇の瞬間”と評されたりしています。

心象風景を、まさにこの一瞬とでもいったチャンスでとらえるのだろうか。
感情、複雑な情念の世界をどのように写真で表すのだろう、そんなことに若干の興味を感じて出かけてみました。

「怨霊吹く」「宵闇」「執着」「怨情」「恋心」「源氏香」「いのちの燦光」「うたかたの……」「千年?」「千年の追憶」「桂川にて一刻、千年を想う」「情炎」「欲情」「見返り……」…等々のタイトルが。
草や花に風の動きを添えて怨霊吹く様を、ホタルの乱舞に怨念、怨情を。
御簾が巻き上げられ賢木が投げ込まれた瞬間・野々宮神社・雲隠れする月の3枚組で第十帖「賢木」を。
千年という悠久の流れを川の流れに投影したり…です。
写真家としての技量、どうやってとるんだろうと素人を誘い込む多くの世界。

「女性は美しい、朝の御菩薩池(深泥池)もすばらしいのう」は3枚組で、朝まだ暗い池と周囲の山々を。紫式部は、この池の近くを通り、さらに北の奥の大雲寺へと行っているようですから、ロマンです。

京都御苑を抜けながら…。
「この世をばわが世とぞおもふ望月の…」と道長が歌ったところとされる土御門第跡地。近くに式部邸跡とされる蘆山寺もあります。彼女の御所への“通勤路”がこの近くだった…。

思わぬ触発を受け、かなり得した気分でタイムスリップ。
ひとひらの雲、とはいきませんでしたが、松の緑と、御所の上に浮かぶ雲も絵になり、青い空をまぶしく見上げながら、この美しい光景、お届けしたい思いでした。


(写真右側がその跡地に)
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松に鶴

2008年10月14日 | 日々の暮らしの中で
お愛でたいことの代表に結婚式がある。
以前よく見かけた「松に鶴」の図柄の屏風。
これがどうしてめでたいのか…と。

禅語の「松花伴鶴飛」」、「松花、鶴に伴って飛ぶ」と読む。
松は六月頃にピンクの花をつけるが、たまたま飛来した鶴の脚に花がくっつき、それに伴って見知らぬ土地に落ち、そこで芽を出し根を張り始める。―花嫁に似ている。偶然ともいえるご縁を愛でようという生き方を松に見ているのだろう、ということだ。

『松ではないけれど、自分がどこで何をして暮らしていくのか、そのことに揺らぎない確信が持てれば、たいがいのことは愛でることができると禅は考える。 
この人と、ここで生きていく。その気持ちが揺らぎさえしなければ、ケンカすることも病気になることも、あるいは不景気に苦しむことさえ「風流」だというのである。

バンザイと叫んだところで、その事態が「万歳」続くとは誰も思っちゃいない。
しかし志さえ揺らがなければ、人生はさまざまな「ゆらぎ」さえ風流と味わえる。その人間の知恵に、私はバンザイを言いたいのである。』
                 (玄侑宗久 『釈迦に説法』より)

人間、器の成長はほぼ二十代でとまってしまうらしい。…となると私は成長が止まって何年が!??
あとは内容の深まりだそうな!!
内容の深まり、人生の内容の深まり。

果たして愛でるだけの豊かさを蓄えてきているだろうか…。
さまざまな「ゆらぎ」を“風流”とさえ味わえる知恵…、

どう揺らいでも倒れない心棒、芯棒そして辛抱…。

禅の言葉というのは心に入りやすい。
今日は一日雨降りでした。こんな文章にも出会って、よい雨の一日でした。

 「Jessieね~、コロッケのころもつけたの~」と
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保証書付きのバランスで

2008年10月12日 | 日々の暮らしの中で
体をまっすぐにすれば心もまっすぐになるのだと、104歳の禅師が言っておられた。物の置き方・スリッパの揃え方―みんなこころの現れだとはいいますが

裏の畑で取れたホウレン草をいただき、草みたいに束ねられたニラをいただく。
土に汚れていても“信頼と安心”のある食材(のはず)です。

手つかずだったからとの再利用、賞味(費)期限切れのパックの陳列…米を疑い、果ては菓子類にまで及び、「味覚の秋」に食の安全はどう保証されるのでしょう。

『一日江戸時代』
ある晩秋の一日、我が家では朝からあるTV局での収録がありました。
水団(すいとん)を作り、持ち寄ったお漬物を添えて町内中が家族ぐるみで集まっての会食です。
小麦粉を水で練って作るだけのものですが、まあ現代のこと、出し汁は美味しく“作ってもらえます”。
例によっていつも私はチョイ役のお手伝い、賑やかしでした。

が!、インタビューだけはしっかり回ってきたのです。
が、「一日ぐらいなら…」、なぜもっと気の利いたコメントが言えなかったものかと!
大幅カット。しかしアップの映像で終了でした、私に関しては。
小麦粉だって今はお高くあります。江戸時代、たかが水団ではありますが。

何でもかんでも手に取る品をぐるぐるひっくり返し、何を根拠に安心のお墨付きを頂こうとするのでしょうか。
豆腐一丁を買うのに、重なる底の底から1パックを取り出したお母様。
(そこまでする~?)と見ていましたのですが…
自己認定書付き「信頼と安心」の保証を印し、豆腐のパックがスーパーのかごに入れられていきました。

今、あちこちで見られる光景となっています。
疑心と信頼のバランスをとろうと、品選びにも心が動きます。
  なぜちゃんと立っているのかと…
コメント (10)
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