9歳で自転車を、14歳で豚、ピーナツ一袋(このときは鞭打ち20回に)などと盗みを繰り返し、19歳では服役していたルイス・ミショー。
彼の生年は諸記録あってはっきりせず、作者は1895年8月4日と設定された。
時代や人々の悪意が自分たち黒人にどんな仕打ちをするかを見てきたミショー。その状況を変えたい。彼はマーカス・ガーヴィーの「黒人は自分たちのことを知らなきゃならない」という言葉に出会い、わが人種は本を読まなければならないと考えるようになった。
黒人のために、黒人が書いた、アメリカだけでなく世界中の黒人について書かれている本を、世の黒人男女が発する声を聞き、学ぶ必要がある。知識が必要だ。自分で学んで、事実を知る。それができる場所が必要だ。
44歳のミショーは、ハーレムに〈ナショナル・メモリアル・アフリカン・ブックストアー〉を蔵書わずか5冊で開店した。
1939年、人々はまだまだ大恐慌から立ち上がろうともがいている時期だった。
ハーレムで暮らす人たちは本や雑誌を買い求めるためだけではなく、話をするために店を訪れた。店は様々な思想や意見であふれ、店の前の歩道は公民権、教育、政治などについての演説の拠点にもなっていく。
ミショーはあらゆることに自分の意見を持ち、語った。「黒人の手に本を渡すこと」を使命に。書店にやって来る人たちに知識の一部を受け渡していった。
本が買えない少年には店の奥の部屋を提供し、読書を薦め、これも、これも、これもと読むよう周囲に積み上げた。
こぶしを高く掲げ、ブラックパワーのポーズをとる客がいると、「こぶしをあけてみろ、中は空っぽだ」と言って本を持たせ、言った。「いいか、それがパワーだ。黒は美しい、でも、知識こそが力だ」。
髪の縮れを伸ばして黒く染め、撫でつけた客に、「レイ、頭のまわりにつけているものは、寝たらこすれて落ちてしまうだろう。君を死ぬまで支えてくれるのは頭の中に入れたものだぞ」 知識こそが今の若者に必要なものだ。知らなければ身を守れない。「なるほどな」とレイ。
知識を求める多くの黒人たちが、ミショーの店の敷居をまたぎ、この店を図書館代わりにして、教育の不足や欠落を補ってきた。
「私は、誰の話にも耳を傾けるが、誰の言い分でも聞き入れるわけじゃない。話しを聞くのはかまわないが、それをすべて認めちゃいけない。そんなことしたら、自分らしさはなくなり、相手と似たような人間になってしまうだろう。勢い込んで話してくる人を喜ばせ、それでも、決して自分を見失わずにいるには、けっこう頭を使うものだ」
ハーレムに州政府の合同庁舎が建設されるにあたって、立ち退き指示を受け入れた。息子は19歳の大学生。本を売るのは私の生きがいであって、息子の生きがいじゃない。閉店を決めたミショーは80歳になろうとしていた。
5冊から始まった店は、在庫数22万5千冊となった。それに加え、植民地からの独立を果たしたアフリカ諸国の指導者に関する写真や絵画、記念品などがあった。
大量の蔵書をどうさばいたのだろう。閉店前の〈特別セールのお知らせ〉がいい。
通常価格3.00ドルから10.00ドルの書籍2万冊の本を1冊99セントで販売。5万冊の書籍を半額で。子供向けの本も多数ある。
「ハーレムにお住いのお子さんをお持ちの皆さんに、アフリカの子供たちの生活史を描いた2万冊を用意しました。この絵本は、その他の本を購入してくださらなくても保護者の方と来店してくださったお子さんのすべてにさしあげます」
「他書店のみなさん、蒐集家のみなさん、図書館関係者、教員、子育て中の方、大学関係者、どなたでも大歓迎!
そろそろ店をたたもうと思います。私は遠くへ行きます」と呼びかけていた。
ミショーのインタビュー記事や録音、親族が保管していた記録、実在の人物から聞き取った話などを拠りどころに、情報不足の部分は調査に基づく推測で埋められているので、この作品はフィクションになる。
行きつ戻りつ、ざっくりとルイス・ミショー―の生涯を追いなおしたが、作品は年代を追って読みやすく語られていた『ハーレムの闘う本屋』。
本の実物を見て驚いたのは、絵本によくあるA4サイズ大だったこと。
※ 図書館で借りた本で返却し、今手元にありません。
記録しておこうと長文になりました。悪しからず。