京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

 暮らしも心もあらためて…

2010年06月30日 | 日々の暮らしの中で
               

平安神宮の薪能を皮切りに始まる水無月は、残る半年の無病息災と五穀豊穣を祈る夏越(なごし)の祓えの月と言われている。
ふと考える、この半年に身にも心にも積もった罪や穢れ…。
祓い清めて、これから先の「反省材料とするのか、はたまた発奮材料とするか」、忘れ去るだけなのか…。

夏への衣替え、御簾を吊るしたり襖の代わりによしずを張った戸に建て替えたりして家のしつらえにも少しだが手を加え、気持ちも新たにする。この時期の蒸し暑さからは逃れようもないのだけれど、気持ち、心意気が支える夏風景といったところだろうか。

昨日は東本願寺に参拝。
静かな時間を過ごせてありがたかったけれど、こんな日もあるのかと思うほどのひと気のなさだった。
合掌。ただお念仏申せばよしと…。写真は、瓦が埋め込んである東本願寺境内の隅。

校舎前に咲いていた花ざくろ。実はつかないとかだが、強い日差しの中、鮮やかな朱色の花が愛らしかった。


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 鬼瓦

2010年06月28日 | 日々の暮らしの中で
                 

今日は朝から晴れ。各地の激しい雨の様子が伝えられているが、気温も高く昨夜来の雨上がりとあって蒸し暑さには閉口する。じとじとのせいかな…、私の心もいまひとつ晴れてくれない。

雨にぬれて銀ねずみ色に輝きを出す瓦葺の屋根は、鬱陶しい梅雨時に興を添える光景の一つに感じている。大きな本堂の甍の美しさを誇りたくなる気分にもなる。
昨年本堂の瓦の葺き替えを済ませ、今は大門の葺き替え工事に入っているが、土台の工事がまだ途中、この季節だ、連日ブルーシートで覆った状態が続いている。
             

屋根を飾った鬼瓦などが境内西隅に下ろしてある。下から見上げるものを上から見下ろす。
何をすることもなく、なぜか今日はこの鬼瓦と対面。鬼のこの相貌、全く人間と無関係な存在ではなく、人間的な顔かたちを持っていて、人間に対して大きな力を持ってきている。
今、お面や装飾品としても存在している鬼。その魔性や霊力は、人間の情念の塊と無縁ではないと言われることからして、どこか愛すべき存在なのかも知れない。
じっと見ていると、この形相の奥からにじみあがってくる優しい表情…、あの人この人の面影に重なるような??

粘土など自然の素材から作られる瓦、ずっしりと見事な重量感がある。今、なかなか同質のものを作り直すだけの手がないとも聞く。いっぽうで、阪神大震災で損害を受けた奈良の中宮寺表御殿を京の宮大工が屋根瓦を10分の1の重さにして耐震性を強化したと聞いている。
技術的な進歩を讃えるべきなのだろう。

                     

「重さ」が負となり、下ろされたままのこれらの飾り物が命を吹き返すことはない。
今よりずっと軽いものが屋根を飾ることになる。彼らには展示品としての定めが待っている。

実のところ、本堂も然り。
私たちは「ちゃちになった…」と感じている
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 クリアランス・セール

2010年06月25日 | 日々の暮らしの中で
                       

百貨店は、店内の空気がモワーッとよどんでいるようで、行けば必ず気分悪く頭が痛くなるという調子だったし、人混みが嫌いで思い出も少ない。と、こう書きながら思い出すことに、学生の夏休みにMデパートのおもちゃ売り場でのアルバイトがあった。何度も包装紙のサイズを変えては箱物の包装を練習した。アルバイト代は京都への旅行に消えてしまったはずだ。

「四条河原町阪急」が8月22日に閉店する。1976年開業とある。若者向けの衣料品が中心で、上階のレストラン街をたまにうろつくだけで何かを買った記憶もない。ただ、店の前を待ち合わせ場所には使ってきた。

ただ今「クリアランス・セール」、つまりは在庫一掃セールの真っ最中。お買い得ということになる。そこで、まだ2ヶ月ほど先にはなるが、娘の誕生日のプレゼントに添えようかと見繕うことにした

    一枚はワンピースにもなるだけの丈がある。  
下にキャミソールを重ねるか、上に何かを羽織って…、と余計な一言は不要かな。自分のセンスで楽しむだろう。

何でこんな?…と、ちょいと眉をひそめたくなるような、やけに暑苦しげなスタイルを見かけるこの頃だが、何を言っても年代の相違は感覚のギャップを埋められないのだろうかしらん。

かなり寒くなったと言って、家の中では足元に3枚のソックスなどを重ね履きして過ごしているらしい娘に、お肌むき出しの服は寒々しいことだ。
この程度の服は、「つね」?「よそ行き」? 小物でお洒落して「ちょい行き」ぐらいには変身してくれるだろうか。 … 先日のストールを1枚まわしますわね。
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 MATOGROSSO (マトグロッソ)

2010年06月24日 | 日々の暮らしの中で
どんな本でも手に取ったとき、装丁には少なからず関心を示す。
手元に置くとなると、気に入れば申し分ないし、特に背表紙は目の前に眺めていたい立派なインテリアの一つになりそうな。

昨今はもっぱら書籍の電子化が話題だが、その上手な利用法には自身工夫の余地ありだと感じている。
そこで…、聞いて聞いて!教えたい!
今回息子のところで知った、ウェブ文芸誌「MATOGROSSO(マトグロッソ)」の“創刊”。
内田樹さんの命名で「深い森」を意味するポルトガル語だという。

Amazon内で閲覧できる仕組みになっているが、なかなかの、予想以上の反響だと企画・運営するイースト・プレスの編集長の談話があった。

 「筆者は学生時代を京都で過ごした。北白川にある四畳半アパートとに暮らしていた。」
こう書き出してあるのは、森見登美彦氏の連載で『熱帯』、第1章 沈黙読書会の(6)。
買ってまで読みたいとは思わないけれど、気楽に楽しんでいる。

http://www.matogrosso.jp/
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 同窓会 「あれから34年」

2010年06月23日 | 催しごと
              
19日、同窓会開宴までに彼らと過ごした中学校を訪ねた。校門をくくれば、校舎は正面だ。
懐かしい教室を見上げながら、わくわくしてくる自分に気付いていた。

「せんせ~、B組の大井です。わかりますかぁ」「Dの種村です、覚えていてくれてますか。国語の成績よかったんですよ」「僕の顔覚えてないでしょ、下ばっかり向いてたし」…。
仕事で指を大怪我し落ち込んだ苦労をしみじみ語る横から、編集長を降格されたという呟きが入る。かと思えば、昨年結婚して子供が生まれたドラマが割り込んでくる。ダボダボの背広に、かつての学生服がだぶる“チョイワル”の目がそばで笑っていた。

          

34年間の空白を飛び越えて、一気に多くの出会いが押し寄せた。言葉を交わしながら、頭の中ではめまぐるしく古い映像を捜し出す。目の前の姿を「あの頃」とオーバーラップさせることが始まりだった。

声やしゃべり方、身振り・表情に、目元にと、ほんのわずかなところにでも面影を見つけて寄り添っていく。何もかもを抱え込もうと、頭も心もパンク寸前だったに違いない。
疲れた。翌朝、まだぼんやりする頭で、一人ふたつの顔を静かに重ね合わせていた。

未熟だったが、情熱だけは負けないといった新米教師と2年間、これほどまでの思い出をプレゼントしていてくれた彼らに心からの感謝を伝えたい。
こんな素敵な出会いをいただいて、ここから新たなお付き合いの一歩が始まったと思えたら幸せなこと…。

「ハッピーな一日でした。先生に会えて、これからの活力がいっそう湧いてきました」

こんな言葉が届いた。こちらこそ!!です。ありがとう。
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 雨雨雨… この季節の同窓会へ

2010年06月17日 | 日々の暮らしの中で
たちまち明けてしまう夏の夜。短夜。
ワールドカップ、日本の勝利に沸いた日だけではない。いろいろ片付けて準備をしてしまわなくてはと寝床であれこれ思い巡らしながら、目があいたついでだ、今朝も早々に起きてしまった。

隠したって隠し切れないものがある。それなら…と思うのだ。
控えめながら季節の風趣を模して、はんなりと彩った加工食品に仕上げて、10歳、一回りほど若い仲間のそばで寄り添うことにしよう。
中学校卒業後、30数年経過の彼らの人生に香る“迷所休跡”に、聞き落としたくない秘話はきっと潜んでいそうだ。それをたっぷり聞かせてもらうのだ…。どんなまなざしで?どんな声で?どんなしぐさで?語るのだろう。傍で聞き耳をたてたいものだ。

生身の人間として生きる、個対個。素は変わらない、そんな「顔」を私は見せられるのだろうか。厚化粧なんていらない。けれど、内面はそれなりに30数年の化粧を施して、厚く豊かに肥えた部分もあり、ずるくなった部分も備えている。
何もない人生など誰にもありゃあしない。一人ひとり顔が違うように心も経験もみな違う。複雑で計り難いものだろう。私は、どう語ろう…。

心に涙降る…、篤っちゃん。教室の左隅、壁を背に奥から2番目の席に座ってこちらを見る大きな目。それに出会えないことが寂しいよ。

明日からは雨雨雨つづき。涙雨ばかりではない、嬉しい嬉しい幸せの涙もあることだって忘れてなるものか~。

  19日の同窓会出席のため、明日ひとまず息子のところに身を寄せる…。
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 ♪ カエルの歌が~ 

2010年06月15日 | 日々の暮らしの中で
雨が降り続く時期になると、賑やかな婆さまを重ねて「フクガエルの大合唱」と笑ったことも懐かしい。まだおたまじゃくし、ということはこれからか?

住宅街の一画のちいさな水田にも、ちゃんとおたまじゃくしの姿をみつけることができる。蛙はいつ産卵するのだ? 子どもの頃にはそんな卵を見たことを記憶しているが、畦を歩くなどということがそもそも日常に無くなってしまって長い。

トノサマガエル「0」
京都では5年連続して、1匹も見つからない「欠測」だという。地方気象台が毎年行う生物季節観測での話だ。農薬や減反が原因かとされるし、住宅地への開発、機械化農業も影響されるのだろう。生息地が減ってしまっている。

縄張りを作らずに、縄張りの周りに定位して、鳴き声も出さないサテライトと呼ばれるオスがいるという。縄張りで鳴くオスの声につられてやってきたメスを横取りし、繁殖を成功させようとするそうな。彼のこうした忍び込み戦術をスニーカーと呼ぶとあった。
先日立ち読みした本には、鳥にも浮気する鳥がいるって書いてあった。子育て中の母親が、えさを捜しにお出かけになるときが怪しいらしい。

案外生き物の生態も面白いんだなあ~。…と、笑っていてもいいのだろうか。
ペンキ塗りたての青さから、手足も短くいぼいぼで、のっそりグロテスクなものまで様々ながら、それでもやはり梅雨には蛙か。カエルの合唱はやはり素敵な風物詩の一つだろう。

(写真、いっぱいのおたまじゃくし…がいる)
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 一日一善

2010年06月13日 | 日々の暮らしの中で
6月13日、この日は「1963年、茅誠司東大総長の提唱で小さな親切運動が始まった日」だった。

朝刊の、わずか3センチ四方の枠内に収まってしまうほどの小さな囲みに気付かなければ、とんと忘れっぱなしの事柄だったろう。
「小さな親切運動」、いつ頃まで聞いていた言葉だったろう。すでに過去のことになってしまっていた気がする。
「一日一善」と書いた紙がなんやら教室の前に掲げてあった光景が浮かぶのだが、それもいつのことやら、定かではない…。

何か今日いい事しただろうか…。
実は今日は、ゲキ×シネの第2弾「朧の森に棲む鬼」に誘われていた。、だが、一度観たことがあったので今回はパス。演劇好きの友人の懇切丁寧な説明を、もう一人の友人に独占させてあげることにした。堪能したことだろう~。閉口したかな…。ちょっとばかり口を閉じてほしいと願ったかもしれない。親切も時に…、気をつけなくっちゃ。

お地蔵さんの脇で咲く紫陽花が、きれいになってきた。
本日梅雨入り。静かな雨の一日だった…。

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 「アグレッシブ」な… 

2010年06月11日 | 日々の暮らしの中で
アフリカ大陸で初のワールドカップが開幕した。バナナの皮を利用して球体にした“サッカーボール”を追う少年たちの映像を見たが、プロのサッカー選手を夢見る子供たちが増えることだろうと思っている。

今は京都サンガでプレーをする柳沢選手の高校時代のプレーを練習試合で見たことがあった。かつての代表、大阪の出身の大黒選手、今回代表の稲本選手も…。
サッカー一色で過ごしたような息子の9年余りは、私を素人批評家にしたし、また熱烈な応援団の一人も務めてきた。雨の日も雪の日もカンカン照りの夏の大会も勝利を願い、総決算としては国立へと続く道を家族としても支えてきた。夢破れてしまったたけれど…。
「批評家は好きなこと言えていいな」 イヤなひと言がチクンと刺さった日はあった。

なんと言われうようと素人なんだから、争っては負けだ。
なのに、もっとこうしてああして、それからM君にパスを出せば入ったのに…、と聞きたくもなかっただろう余計な解説をしてみせるのだった。

開幕前のサッカーの話題では、ホンモノ・シロウト問わず多くの“解説者”が「アグレッシブに」という言葉を盛んに使っていた。「アグレッシブな戦いを」と…。

思い切って前に飛び出す、前へ前へと意識して積極的にゴールをねらう、攻撃的なゲーム運び・ゲームスタイルなどといってくれたほうが、いくらかでもイメージしやすいのではないだろうかと思う。

難しいことは易しく言ってと、またまた素人批評家は口を開きたくなる。
舌足らずのカタカナ語をやめて、「攻撃的・積極的」と表現したほうがずっといいではない
のかしら。
そんなことも、日本の1勝と合わせ、道ははるかなり~~。

                     (写真はネットより拝借)
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 …得意冷然

2010年06月10日 | 日々の暮らしの中で
日本の新聞、テレビ各社の中で、京都新聞は本山別格と呼ばれている。マスコミが注目する京都の宝とはなんなのか。

京都で伝統文化・宗教の取材を続けて36年、東京生まれの京都新聞総合研究所特別理事による「メディアから見た京都文化論 - ジャーナリストの論じる京都の文化と宗教」

京都を利用し、引っかき回して、一過性、表面的な取材で終わるかのような東京メディアとは、一回だけになりがちだというお付き合いの実態。彼らが注目する京都の文化資源と言えば、伝統文化・宗教、京料理・西洋料理(屋)、京町屋・景観、グッズなど、日常にない非日常・異空間であり、僧侶や宗教人・芸舞妓、学者、料理人・シェフ、若者・学生、店主・家主…といった人的資源に多くは目が向けられる。

だが、京都の本領発揮は、伝統産業から生まれた先端企業だと氏は言われる。
ものづくり京都の中核産業として誇るべきは、まず島津製作所を挙げられた。京都の民間企業からノーベル賞が出るとすれば島津以外にはない、と見ていたというが、作業服姿で会見に臨んだ田中耕一さんが思い出される。何も知らない「田中耕一」、ここから始まって3時間で紙面を作り上げてしまった当時の“すごさ”を 口にされた。
ノーベル賞王国京都。叡山電鉄の車内でつり革につかまって通勤される、白髪で小柄なノーベル賞受賞者の姿を見られる街なのだ…と。

そして、任天堂。何をやっても失敗の連続、だが、倒産だけはさせてはいけない!続けるべきだと踏ん張って思考錯誤の結果に大ブレイク!!
1983年ファミコン1000万台、’89年ゲームボーイ1億5000万台、’90スーパーファミコン、そしてWillのヒットとなった。財界活動を嫌うが、趣味の囲碁連盟には顔を出す相談役の座右の銘は、「失意泰然 得意冷然」。
鼻高々、得意満面でふんぞり返りがちなのには、心せにゃあと思うけれど、まあ、そう「得意」な時もないわけだ…。

ほんものの京都、京都の誇り、奥深さとは…、
伝統と先端が融合したものこそ京都の宝であり京都の誇りといえる。

ポツポツ京言葉が混じり、東京弁にふれた1時間半は心地よく、およそこんなお話であった、か。
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 一反木綿が・・・

2010年06月09日 | 日々の暮らしの中で
はがきに「急いで書いています」とある。
文字の乱れ(失礼~)をさして言っているのだろうか。

七日午後、「着きました~。海を見るのは久しぶりです。…」
自分の顔が画面3分の2を占めて、その脇に小さく日本海。喜びの写メールが友人から入った。温泉つきゲゲゲのバス旅行、大阪のおばちゃん4人で賑やかに繰り出して行ったのだ。

投函後、この葉書には郵便局で鬼太郎の記念スタンプが押されて配達されるはずだったらしい。そこで「急いで」??書いてくれたようだ。が…、何を急いだか…。ことさら字の乱れもない。文字はいつもこうだよね~。
だが、せっかく急いで書いてくれたのに、スタンプなしで本日届いた。問い合わせの結果は、郵便局によるミスと判明…。再びのメールがそう伝えてくれた。
「面白いところなのでまた行くわ」と結んである。そんなにオモロイのか!

今日は家にいて、本の整理をしていた。学生時代のものを中心に、捨てきれず残しておいたが、手放してもよいと思えるだけ充分手元に置いた。この際処分しようと仕分け仕事だった。愛着はあるが、しまっておくだけで場所をとる。いとしきものよ、明日はまたどこかの店に並び誰かの手に?なあんて。

午後の一休みの頃、一反木綿が葉書とともにやってきたのだった。

長野の私設文庫の蔵書が東京の古書市場に一括出品された話があった。ダンボール箱で数百個!!新潟の私設文庫でもトラック5台分だったか、価値観の変化による部分が大きいと言っていたと記憶する。デジタル化が進むけれど、放出された本が消滅せずに、新たな人の手に渡っていくといいのに…。

    (鳥取県境港市、水木しげる記念館からのはがき…。鬼太郎の写真は別物で )
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 指先のこだわり  

2010年06月08日 | 日々の暮らしの中で
朝の目覚めだけは、次第に早くなってくる。
今日も聞こえる。小さな声で、ホケキョ ホケキョ ホケキョ…と。いつしか起きろ!起きろ!のかけ声になって。と、…カケタカ …カケタカも耳に入ってきた。紛れもなく「テッペンカケタカ・テッペンカケタカ」だ。どう聞いたって「特許許可局」とは聞こえてこない。
ぼんやり小鳥の声に和んでいるうちに、10分・15分と這い出すのが遅くなる。
今日は何曜日だったかな、今日の予定は…、脳からの指令はいたって遅く、起き出すまでにまあまあなんと間があることか。

「手は第二の脳」だと言う。その指先から生まれる副産物。Jessieのために作る洋服、編み物、小さな刺繍を施して手提げのかばん…。手芸を初め華道、書道、料理、農業…を楽しむ世の多くの人たち。ハンドメイドの市は賑わいを見せているようだ。

文章を書くのも手書き、これにはこだわりがある。と言うか、直接ワープロで文を綴ることができないだけなのだが。書いては消し書いては消ししながら表現を練っていく。何度も書き直して、わずかだけれど微妙に感覚が変わってくるのを実感しながら進むのだ。辞書を片手に。

改定常用漢字表が文化審議会に答申された。新聞では「大幅196字追加」が大見出しに含まれている。音訓の読みで追加の対象語もある。難解な文字が多いのも「社会生活で使われる漢字の目安」、今は簡単に文字を漢字に変換してしまうご時世の産物と言える。

手書きにこだわることはいっそう楽しいではないの。小さなこだわり、ずっと身についたスタイルをもはや変えることはない。「原稿用紙へ向かったものには深みがある」、せいぜいこの励ましを支えにするしかない。
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 「私は鏡だ」

2010年06月06日 | 日々の暮らしの中で
ある講義の折、自身の学問的解釈を示されるでもなく、華やかな交友録を披露したいのか、肩書きを添えて〇〇さんの説は― と、次々に繰り返していく「センセイ」がいらした。しかもパソコンで、次々と画面をクリックしていくだけだ。肝心の自説は伺えない。まことに気分が悪い。けばけばしい虚栄心で着飾った女助教授さんだった…。
日常の生活なら他人事、近づかなければいい?し、勝手にしやがれ、だけど。

他人には見せたくないものを心のうちに抱え込んで生きている。一方では、そうしたものをストレートにあらわにぶつけられる場合もある。

いずれも人の姿を通して自分を見つめなおすことになる。そして、自分に潜む虚栄心、弱さ、嫉妬心、邪心をほじくり返されて至らなさを思い知るわけだ。そこからが修養なのか。
人こそ鏡。人は鏡だ。
気持ちさえあれば自分を豊かにしていく機会には恵まれていると言うことになる。

「私は鏡だ」「おまえが邪心を抱けば、 ………… 。」
  と、北大路欣也演じる、島の王が息子に言った。(『五右衛門ロック』で)
王は、「……」なんて言ったのだろう。聞き落としてしまったのだ。

母を殺した父の命をねらう息子(森山未来)に、「義ではない、情がなければ人の道は歩めない」、そうも言っていたと記憶している。

今日は「芒種」。   
   芒種とふこころに播かん種子もがな      野村登四郎

おのれの心に撒く種がほしいものだといっている。
私、何を播こうか。

     (写真:緑に覆われた建物は文化財。中味は…よく知らない)
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 NEW 箱物へ・・・

2010年06月04日 | 日々の暮らしの中で
京都駅南側に4日、大型商業施設「イオンモールKYOTO」がグランドオープンした。
地上7階建て、京都高島屋に次ぐ大きさだという。映画館を含めての商業面積は5万1千平方メートル。年間1千万人の来店を見込んでいるとある。衣料品、生活雑貨、家電量販店、書店、スーパー、飲食店…、専門店が約130店…。

と、いってもそう関心は沸かない。Jessieでもいたらね、事情は違ってくるのかもしれないが。「なんにも欲しいものないわ」と漏らしたら、「あんた~、そんな無欲ではあかんわ」と言われた。

京都最大級!と言う触れ込みで書店が入っている。ところが、市内あっちにもこっちにも、書店にはまったく不自由してはいない。このすぐ近くにも相当な規模で一店あるというのに。競争で価格が下がるわけではない。本屋さんって文化度のシンボルなのだろうか。

明日は、ここのシネマコンプレックス(複合映画館)にて上映中の<ゲキ×シネ>「五右衛門ロック」を見に行く。珍しく、断ろうかなという気になったが、約束したしね…、何か理由をつけて…、それができない。6本、8月20日までかけての連続上映。

この京都駅周辺には、これから相次いで大型店舗のオープンが予定されている。箱物競争。水族館建設問題も住民への説明不十分の感がぬぐえないまま、市は建設を許可。
どうなっていくんだか。
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 うそやかに・・・??

2010年06月02日 | 日々の暮らしの中で
 俳句をやるには自分の俳号を作れ。
 俳号を名乗ることによって、別人格の目で物事にふれることができる。

と、いうようなことが高名な俳人の文章に書かれていた ―
こう記す筆者が属している句会での俳号は「徳三郎」。落語に出てくる二枚目の若旦那だそうだ。永六輔さんが「六丁目」、小沢昭一さんは「変哲」だと。

真実にちょっと手を加えるほうが面白いというわが師匠の勧めもある。言葉の力の応用として、うまく嘘をつく能力を学べというわけだ。

かつて“ペンネーム”なるものを用いようとしたことがあった。
 文香  みたまま~、ストレートすぎて第一候補だったが、ボツ。
 妙香 「妙」・不思議なまでに優れていること。上手な様。・・・
 弥香 「弥」・いよいよ。ますます。行き渡る。終わる。つくろう。・・・
      「弥陀」・阿弥陀仏の略。 「弥生」・植物がいっそう生い茂る

どれもいいなと思いつつ、「弥香」。「弥」は母の名前の一文字でもあったし…。
そこに、「弥陀」の語はいいんじゃないの?
要するに、なぜかいつも浮かんでくるのが戒名ばかり、とは笑える話だ。
そして似非っぽく、「宇曽弥香に…」で、宇曽弥香が出来上がったわけ。
「…やか」と接尾語をつけて、いかにもウソっぽく、はなやかに?デビュー。

ただ新聞投稿などは特にそうだが、本名でないと認められない場合は多い。
お披露目の機会は減ってくるのだが。
何にも書くことがなさそうでも、鉛筆を持てばおのずと書ける…
うそやかに…、 ウソかホンマかわからんような。これまたウソかもしれないが。

別人格で遊ぶ、こりゃあ、楽しく便利な“大人のどーらく”になる、でしょ。
大いなる背伸びも許してもらえそう。
もう少しましなネーミングを真剣に考えようかな。
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