京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

15歳で出家得度して

2017年04月29日 | 展覧会

前回(4/13)とは場所が変わって、東山区四条通に面した西利のギャラリーで開かれている写真展に出掛けた。蓮華笠と白い浄衣に身を包んで雪の山中を歩く光永圓道大阿闍梨です。昭和50年生まれ、42歳とお若い。

       
写真集出版を記念しての写真展でしたが、写真集には手が出せず、こちら『千日回峰行を生きる』を求めました。「何かしら生きる上での糧となるような機縁に」なるよう、読ませていただきたい。

実は昨日、出羽三山で修験道を今に守る羽黒山伏が唱える『感じるままに生きなさい 山伏の流儀』を購入したところでした。
羽黒山五重塔の一見をかなえたくて、ツアーでの参加を計画したものの先延ばしで断念することになった4月。これまでは、はるかに遠方の地、縁も薄いかと思っていたのですが、一歩踏み出したことで、タイミングさえ合えば行けるのだという思いを強くしています。気になっていた一冊でした。

       
山伏の流儀を読んで、「物事を頭で受け止める癖を改めて魂で受け止める方が、ストレスからの解放や生きやすさにつながるという道理がよく胸に落ちる」、かどうか。さっそくこちらから。
 ある書物を読んでいて、「結局、その信は教養以上には出ないのです」という言葉に触れました…。
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雑多なものを一気に食べれば

2017年04月27日 | こんな本も読んでみた

昨日は雨の一日でした。そこで久しぶりに家でゆっくり、きままな読書でも、ということに…。
この4月は、なんの脈絡もなく、初めて読む作家の作品ばかりを追いました。

『妻籠め』(佐藤洋二郎)『素敵な日本人』(東野圭吾)、共に読後感もよく楽しみました。東野作品は9つの短編が収められていて、お洒落な作品だなと思えるのが3つ、4つ。きっと再読しそうな気がします。が、ひとまずは娘に回すことになります。
『妻籠め』の主人公は大学で教壇に立ち、他者との関わりをほとんど持たずに慎ましく暮らしてきた「わたし」。つながる人との縁、背景が明らかになる「終盤からの鮮やかな反転」が見事です。自分の過去、自分の人生を作ってきた要素を静かな語り口で掘り起こしながら、心に負った傷の養生をしている、かのようで心に残りました。

        
せっかく買ったのだから読まずに放棄はもったいないというだけの理由ですが、読み始めたら滅多にギブアップしません。が、4つの短編が収められた『地鳴き、小鳥みたいな』(保坂和志)は手ごわかったです。

 〈八月十七日だった、午後二時少し前、私は駅に向かって歩いていると編集者である友人から携帯電話が鳴った、K先生が昨日亡くなられたとさっきネットのニュースで見ましたと彼は言った、私は今夜通夜かもしれない、そうでなくても先生のお顔を見に駆け付けなければならないと思い来た道を、わりと広い駐車場のところで引き返した。〉

この読点でつながる長い文章に目が慣れた頃、頻繁に脱線する話題に読むのが億劫になってしまいました。なんとか少しづつ続きをと粘りましたが、どうにも面白くないのです。お終いにしたのでした。

「雑多なものを、時節もわきまえず、一気に食べれば、腹が突っ張って、どうしようもなくなる」。読書も然り。800年も前の貝原益軒の教えが身につまされるところでした。
津野海太郎が、松田道夫の現代語訳文を引きながら紹介しています。江戸開闢から100年ほど経った1710年に出た益軒の『和俗童子訓』。これは、当時の実践的幼児教育のベストセラーだったそうです。「むやみに速読に走らず、ゆっくり読む」「音読する」「手に取った本は最後まで読みとおす」「読んだことは覚える」「複数の本を並行して読まない」などとも教えられていたのでした。

読書環境も変化し、読者である私の年齢も上がりました。最後のあがきをしたものの、これを言い訳にして今回ばかりはお手上げです。綺麗なうちに古書店に持っていこうっと…。

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往きはよいよい、天神さん

2017年04月25日 | 催しごと

毎月25日は北野天満宮の「天神さん」と呼ばれる縁日が開かれます。今日はウォーキングを兼ねて歩いて行ってみようと決めていました。市営地下鉄の今出川駅から地上に出て西へ。何度も信号待ちをしながら足元は快調に40分強。その後、天神さんをぶらぶら見歩いて、小一時間。これで疲れました! 鳥居近くまで戻ってやれやれと腰を下ろして、一服でした。油のムッとする匂いが漂ってきます。

柳宗悦は著書『京都の朝市』の中で東寺の弘法市について、「何もかも、けじめなく売る」「何でもかでも並べる市である」と記し、さらに、天神さんはこれと双璧をなし、境内境外にぎっしり所せまきまでに物で埋まると、その様を綴っています。

「大体こういう朝市には、何も名のある立派なものは出てこない。だから評判などに便ってものを見る要もない。こういう所にこそ、誰もに自由な選択を求めているのである。ここが大いに魅力のある所であろう。こんな場所では知識などは余り役に立たぬ。それだけに直感が遠慮なく活躍せねばならぬ。之が働くと、物の方でも悦んで近寄ってくる」

誰もが楽しそうに、熱心に、それぞれの表情で物を手に取って見て、場合によっては値段と相談です。「それ買うてえな、五つ揃えて。頼むわ。明のな…」などと聞こえてきました。明の時代のものって本当? などと思う私です。あの人、買ったのかしら…。
外国人の男性が徳利を手に、店主に値段を聞いたようです。主人は、指を1本立て、続いて2本を立てて、2回繰り返して、12000円だと伝えました。どう解釈したのか、伝わらなかったようにも見えたのですが、首をかしげて元に戻しました。連れの女性が何か言った言葉は、英語ではありませんでした。他の店でも徳利を探す彼の姿を見たのでした。

一つ500円とした猪口の籠に、若い女性が頭を寄せていました。図柄は様々ですが形とサイズは揃っていて、でも家の整理で出た不用品の集まりの域を出ない感もあるのですが、普段使い、勝手道具と呼ばれる雑器、その価値は見る人によって、また新たな使い手によって異なるということなのでしょう。

まさか、どこぞの道祖神などではないでしょう。道路上に置かれた意外なものを目にしましたが、仏さんでもブルーシートの上に並ぶことがあるのです。
  
   〈仏さま売られておはす梅雨筵〉 〈盗品にあらずよ買へや陶まくら〉 こんな西野文代さんの句が浮かびます。(『おはいりやして』)

        

わらび餅を買って帰りました。もちろん、最寄りの地下鉄駅までバスを利用して。くったくたになりました。
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春深まり

2017年04月23日 | 日々の暮らしの中で
ふらっと訪ねた上賀茂神社では境内で手作り市が開催中でした。
五月五日に行われる神事・賀茂競馬(かもくらべうま)を前にして、一日には、馬足の優劣を定める足汰式(あしぞろえしき)があります。
そして五日に、乗尻(のりじり)という騎手が左右に分かれ、左方は赤い打毬(だきゅう)、右方は黒い狛鉾(こまぼこ)の舞楽装束を着けて馬場を駆けぬけ勝ち負けを競うのです。


馬場の周囲には埒(らち)が張り巡らされてあり、ちょうど馬の足慣らし? 調整をしているところでした。

          馬出しの桜 スタート地点
          むち打ちの桜
          見返りの欅

五日の祭りを終えて、柵(埒)を取り除き片付け終えると、「あぁ、これで埒があいた」と言うのです。八坂神社でも、祇園祭のときに限って年一回、「埒があく」と言うのだと。「埒があく」は、堀川天皇の時代に始まった神事である賀茂競馬から生まれたことばです。

  〈五月五日、賀茂の競べ馬を見侍りしに、車の前に雑人立(ち)隔てて見えざりしかば、おのおの下りて、埒のきはに寄りたれど、ことに人多く立ちこみて、分(け)入(り)ぬべきやうもなし。〉
たくさんの観客が詰めかける様が『徒然草』第41段に描かれています。

大安のお日柄。結婚式でも多くの参列者があったようで、ごった返す賑わいでした。見かけた苗代の緑も鮮やかに、空もご覧のとおりの青空。よい日でした。
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隣り合って

2017年04月21日 | 展覧会

「漢字三千年 ー漢字の歴史と美ー」 日中国交正常化45周年記念特別展。


「漢字」誕生以来3000年。最古の漢字として知られる甲骨文字、清の時代の漢字が刻まれた世界初公開となる兵馬俑。太鼓に似た大きな石・石鼓(せっこ)に刻まれた文字、…等々、およそ110点の出品があるようだ。毎日読んだり書いたりと漢字は身近なはずだが、深く考えることがない。気持ちが弾まないまま、足早に見て回ってしまった。この感性の乏しさ!
ただ、〈中国と日本は一衣帯水の隣国…〉、こう始まる掲示物の冒頭にあった「一衣帯水」という言葉を初めて知ることになった。


もともと気乗りせずに敬遠した展覧会だったが、友人に誘われ、行ってみる気になった。久しぶりに会う友人だったから、これを機にと私の中では目的がすり替わっていた。向かい合うより隣り合ってのお喋りを好む彼女は、私より7つ年上だが、一目見て元気そうだと感じた。どのような事情があれ、縁ある人との別れに穏やかではいられまい。それでも月日の経過は、とらわれていた心を軽くさせたようだ。
戸惑いや悩みにも、潤いをもたらす優しい雨が降る。気づかないくらい静かな、恵みの雨が、ね。
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恋の隠し方

2017年04月19日 | 講座・講演

一歩外に出れば、そこかしこが花見の場所だった。ようやく喧噪も落ち着いて、静かに自分を取り戻す時間になってきた。
      さくらさくらさくら咲き初め咲き終わりなにもなかったような公園        俵 万智

この1年、光田和伸先生の『徒然草』その真実」を受講することにした。昨日がその1回目だった。
書くことが許されない。しかし、どうしても書いておきたいことがあった。当時、男性が交際していた(結婚しなかった、できなかった)女性のことを書くのはルール違反だったから、途中で断筆。10年以上の空白を置いて、女性の菩提を弔ってから一気に書き出したのではないか。作品の執筆時期、構成を解説された。

仏に仕える身で「つれづれ」とは。隠者の生活に入ってみるが仏の道には入りきれず、することもなく、申し訳ないが退屈だ、と記す。隠者としては失格、恥ずかしい告白である。人と話をすることが恋しい…。隠者文学に「つれづれ」という言葉は用いない。終段を書き終えてからの序段は、驚くべき書き出しになっている、と。

「自分でも理解できないくらい、あほみたいな本です(ものぐるほしい本です)。仏に向かうものでなく、文学書でもなく、筋道だってもいませんし、何の役に立つのでしょうね」。謙遜であって謙遜ではない。本心ではなく、含みのある言葉、「あやしふこそものぐるほしけれ」。言葉がどういう含みを持っているか、きちんと理解することを求められる。
「恋物語が完成している」という見地から読み方を説いてくださることになるのだろう。著書『徒然草 恋の隠し方』のタイトルに見られるように、テーマは「恋の隠し方」だろうか。書きたい話をどのよう混ぜ込んで、話の中に置いてあるか。
聞き漏らすまいとメモを取り続け、何やら今日は朝から肩が凝って困った。力はいり過ぎたのかしら…。

「若葉の梢涼しげに茂りゆくほどこそ、世のあはれも、人の恋しさもまされ」(『徒然草』第19段)

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「己の分」

2017年04月16日 | 日々の暮らしの中で

初夏の陽気の日曜日。車で15分ほど走った先で駐車場に止めてからウォーキングをしようと思いついた。
川のせせらぎと鳥の声を聞きながら、山あいの道を奥へと入っていく。この道は時折車が通るだけで、人が歩いてはいないために多少の不安が付きまとう。行くたびに前回よりは少しだけ先へと進むことを繰り返しながら、最寄りの集落には500mと記された道標があるところまで進んだ。次回には、今日よりもまた少し先まで進むのだから、いつか集落に行き着くことになる。しかし、そこに人家があるのか否かは、行ってみなければわからない。


昨日の高村薫さんのお話にあった、「己の分をわきまえる」ということを思った。自分が賜った場所で、己の分を尽くさせてもらおう。


深山の桜が咲いていた。どなたが言ったか、「まごころ尽くせ、人知らずとも」。
今年の桜はこれで終わりにしようと思った。
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「日本人の慢心」高村薫さん

2017年04月15日 | 講座・講演

中外日報社の宗教文化講座、今年度の第一回目がありました。講演は作家の高村薫さんです。

「変化していく社会を軸にして日本人の佇まいを考えたい」。
何をもって「変化」とみなすかは、感覚的なとらえ方だが、6年前の東日本大震災という未曽有の体験を機に、私たちは暮らしのスタイルを変えなくてははならない、原発はもういらない、嫌だ、と思った。しかし、現在本当に社会が変化したかと言えば、変わらなかった。政治家は国民の方を見ていないし、海辺の暮らしを捨てることはなかった。私たちは死生観を変えることはなかった。
つまり、人間は変わることが難しいのかもしれない。変えるべきなのに、それができないことは多い。

現代はインターネッとスマホのおかげで、情報集めも容易になり、その気になれば何でも集められる、なんでもわかる、と「大いなる錯覚」をしている。情報は真偽のほども危ういネット頼りで、新聞を読まなくなった。次々とスマホでスクロールして、目に映るのはせいぜい見出しぐらい。少数文字のつぶやきで、意見を言わない。自分に関係のないもの、都合の悪いものは、忘れていく。変化のなさは日本人の「忘却」による。
わかっていても、危機感を抱きながらも変えることができない。変えることをしないで黙認する。これも人間。つまり、人間の価値観は変えにくいものなのだ。

かつては、自分の「無知の自覚」があったのに、今は消えてしまった。「大いなる錯覚」で、無知であることを忘れてしまった。無知を自覚する、自分の分をわきまえることが社会の安定をもたらし、社会秩序ができていた。その重しが今は外れた。そこで、無知のくせに馬鹿にされるのはイヤだ、自分を大きく見せたいと、自分の内に押し込められてあったものを表出していく。

「保育園落ちた。日本死ね」の声に見られるように、個々人の不満は多く、大きなものがある。しかし、政権を倒すだけのエネルギーが集まらない。この声はごく微力だった。韓国でのことなら大きなデモがあるだろうし、暴動にもなりかねない。
現状の問題を、私たちは知らなすぎる。そして、他者への無関心、無理解。無意見の他人任せ、神頼み。スマホで、バーチャルの世界に没入している者が、思い出したように神頼みをしている。
私たちの「究極の無関心」が現政権を支えている。社会の右傾化も、こうした生活者の変化によるものなのだ。社会が変わらない、変えられない理由は、私たち日本人の「慢心」にある。

高村さん、なんて穏やかに話されるのでしょう。声高な部分はどこにもありません。用意された原稿にそいながらですが、次にどんな言葉が続くのかと気をそばだてての一時間半でした。お話の中で印象に残った部分を、ここに残しておきたいと思います。
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比叡山千日回峯行写真展

2017年04月13日 | 展覧会

実は、中外日報社の宗教文化講座第2回目になる来月には、千日回峯行者・光永覚道氏の「千日回峯行のこころ」と題したお話が予定されています。すでに受講票も手元にあって心待ちにしているところに、この新聞記事が目に留まりました。光永覚道氏は光永圓道大阿闍梨の師であります。

「行は険しい山の道を歩くというイメージが強いが、祈りの部分を意識して撮影した」、と写真家の内田氏の言葉もありますが、『比叡山・千日回峯行酒井雄哉画賛集 ただ自然に』を開いてみました。、
〈回峯行とは歩く行だけではなく、むしろ、礼拝行である〉
「ひたすら礼拝して回る日々を過ごしてきた。口先でも頭の中だけでもなく、体をもって一生懸命に祈ること。小さな野の花をはじめとして、自分を取り巻くすべてのものに祈りをもって接する。これもまた行なのだ」「仏に華をたてまつれ」などと記されています。
         

会場の入り口に、B5サイズほどの小さな説明が貼られてました。印刷物はありませんが写真に撮っても構わない、と言ってもらえて…。それによると、
行者の「頭に戴く『お笠』は未敷蓮華(みふれんげ。蕾のままの蓮の葉を象り、檜で網代に編まれている)を象り、千日回峯行者でも第四百日目に入ってからでないと頭に戴くことは許されず、大切に手に持って歩く」「すべて白一色で整えられた行者の装束は死装束を意味し、お笠の中には三途の川の通行手形の六文銭がつけられている」のだそうです。

白い1輪の山百合が圓道さんの「お笠」に挿された写真があって、ひどく心に残った1枚です。斜め後方にはスクッと伸びた2輪が映っていました。厳しい行のさなかにあって手折って挿す、「仏に華をたてまつ」る行為を想像していました。

「不退の行」「捨身の行」とも言われ、断念するときは、自ら命を絶つ定めとなっているという回峯行は、自分のためではなく、衆生済度を願う「化他行(けたぎょう)」であるそうで、その真意を覚道氏がお話下さるというので楽しみにしているわけです。


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桜どき

2017年04月10日 | 日々の暮らしの中で

十日。公立小学校では、まさに「花どき」のタイミングで入学式が行われました。

「桜は朝8時までに見ると、夜露が残っていて美しい。寝起きの顔が一番よろしいということですわな」
とは、桜守の佐野藤右衛門さんの言葉です。京の桜どき、近くの公園も満開です。明日は雨の予報です。今日を逃しては悔やむことになると、午前11時ごろから花見に出ることと相成りました。
上賀茂神社の参道の東側にある「御所桜」は白い花の枝垂れ桜です。青空だったら、日差しがあればなあと、ひどく曇った灰色の空が残念ですが、この白い花びらが醸し出すやわらかで、ほんのりとした空間が、風景が好きです。気品を感じる桜で、今年の花見への思いは充分に満たされました。

       孫娘のJessieが初めて日本にやってきたのが生後半年の春。ベビーカーに乗せて訪れていたことを思い出します。

そして、賀茂川沿いに「土手の花見」です。



よいお花見をしました。もう少し早い開花なら、孫を連れての散策も楽しめたでのしょうが。

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桜の国

2017年04月08日 | こんなところ訪ねて

「中国の『花文字』展」が京都市国際交流会館で開催されていることを、朝のローカルニュースが紹介していました。
画面にちらっと映し出された作品はカラフルで、文字の中に花が描かれているのが見て取れました。「中国の花文字」なるものがあることを初めて知った次第で、単純にきれいだなと感じ、一度見てみたくなりました。

「いつ頃からのものなのですか」と何も知らずに尋ねてみると、まあ、なんと2000年を超える歴史のある中国の伝統芸術なのだと教えられまして、ただびっくり。古くは黒色の墨と朱墨だけで描かれていたとか。文字の中に織り込まれた絵柄には、それぞれの意味があって、配置を工夫しながら文字として美しくデザインするのだと“生徒さん”のお話でした。
なるほど仕上がりは美しさだけではなく、運気を向上させ、パワーを与えてくれる物になるというのがわかりました。写真は、額入りで飾られた、中国人の先生の作品の一つです。


この会場へは、地下鉄東西線の蹴上駅で下車。使われていない線路が見えるインクライン沿いに仁王門通りを緩やかに下っていった先、南禅寺前の交差点付近に位置しています。


この界隈、南禅寺はもちろん、永観堂や哲学の道へと足を延ばす人もいるでしょうし、京都市立動物園、平安神宮にも近く、ものすごい人の出です。このインクラインを下に眺める小さな橋の上は押し合いへし合いで、さっさと行き過ぎることもできず、楽しくありません。一度は平安神宮まで歩こうかと足が向いたのですが、あまりの人の多さに早々と退散でした。

桜は水辺を好む、と。鴨(賀茂)川の堤の桜並木は見事ですし、加茂街道も大好き。私の花見は専らこうした川沿いを散歩しながらで、堪能しています。
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「きょうは素晴らしい日」

2017年04月06日 | 日々の暮らしの中で

文章の仲間とのおベンキョーで大坂へ。終了後ちょっとだけ寄り道して、「カンパ~イ」とジョッキを合わせた後は、より濃密な“第二次”作品合評会でした。同じ趣味を持つ者同士、その中でも何度かこうした機会を重ねた顔ぶれなので、場所を選ばずに値千金のひと時です。

孫たちも帰っていきました。楽しいですが、すべてを彼らのために費やす日々はなかなかタイヘン! Lukasは生後4か月が過ぎ、意味不明なおしゃべりをしてみたり、じーっと顔を見つめて…、にこーっと笑うのです。Tylerは来週の月曜日から幼稚園が始まります。Jessieは6年生です。明日の入学式では受付を担当するのだとか。それぞれの春に、私もようやく4月スタートの感を強くした一日でした。

Tylerではありませんが、一日の始まりに、「あ~、今日は素晴らしい日」などと口にできたらどんなに幸せなことか。言葉の力。それを思い起こせば、朝一番に口にしてみるだけの価値あるひと言かなと、5歳児に教えられます。
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