中外日報社の宗教文化講座、今年度の第一回目がありました。講演は作家の高村薫さんです。
「変化していく社会を軸にして日本人の佇まいを考えたい」。
何をもって「変化」とみなすかは、感覚的なとらえ方だが、6年前の東日本大震災という未曽有の体験を機に、私たちは暮らしのスタイルを変えなくてははならない、原発はもういらない、嫌だ、と思った。しかし、現在本当に社会が変化したかと言えば、変わらなかった。政治家は国民の方を見ていないし、海辺の暮らしを捨てることはなかった。私たちは死生観を変えることはなかった。
つまり、人間は変わることが難しいのかもしれない。変えるべきなのに、それができないことは多い。
現代はインターネッとスマホのおかげで、情報集めも容易になり、その気になれば何でも集められる、なんでもわかる、と「大いなる錯覚」をしている。情報は真偽のほども危ういネット頼りで、新聞を読まなくなった。次々とスマホでスクロールして、目に映るのはせいぜい見出しぐらい。少数文字のつぶやきで、意見を言わない。自分に関係のないもの、都合の悪いものは、忘れていく。変化のなさは日本人の「忘却」による。
わかっていても、危機感を抱きながらも変えることができない。変えることをしないで黙認する。これも人間。つまり、人間の価値観は変えにくいものなのだ。
かつては、自分の「無知の自覚」があったのに、今は消えてしまった。「大いなる錯覚」で、無知であることを忘れてしまった。無知を自覚する、自分の分をわきまえることが社会の安定をもたらし、社会秩序ができていた。その重しが今は外れた。そこで、無知のくせに馬鹿にされるのはイヤだ、自分を大きく見せたいと、自分の内に押し込められてあったものを表出していく。
「保育園落ちた。日本死ね」の声に見られるように、個々人の不満は多く、大きなものがある。しかし、政権を倒すだけのエネルギーが集まらない。この声はごく微力だった。韓国でのことなら大きなデモがあるだろうし、暴動にもなりかねない。
現状の問題を、私たちは知らなすぎる。そして、他者への無関心、無理解。無意見の他人任せ、神頼み。スマホで、バーチャルの世界に没入している者が、思い出したように神頼みをしている。
私たちの「究極の無関心」が現政権を支えている。社会の右傾化も、こうした生活者の変化によるものなのだ。社会が変わらない、変えられない理由は、私たち日本人の「慢心」にある。
高村さん、なんて穏やかに話されるのでしょう。声高な部分はどこにもありません。用意された原稿にそいながらですが、次にどんな言葉が続くのかと気をそばだてての一時間半でした。お話の中で印象に残った部分を、ここに残しておきたいと思います。