京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

 天空の通路では…

2009年06月30日 | 日々の暮らしの中で
          

旧暦六月三十日は夏の終わりの日。空の上には、夏から秋へと一本の通路があるのかもしれない。暦の上では明日から秋。向こう側ではきっと涼しい風が吹いているのだろう。現実の暑さはこれからだというのに。

      みなづきのつごもりの日よめる     凡河内躬恒
   夏と秋と行きかふ空のかよひぢは
     片方(かたへ)すずしきかぜやふくらむ

そして、「あきたつ日よめる」と藤原敏行が歌っている。
― 秋が来たと目にはっきりと見えるわけではないが、風の音に秋の訪れを気づかされることだ…と。私たちも、春夏秋冬、その運行を察することはできよう。だが、時間の流れの微妙な変化を、いち早く聴覚で感じとることの鋭さよ…。

六月の晦日の祓いをすれば「千歳の命が延ぶる」と、千年も前のどなたかの声が聞こえてくる。茅の輪をくぐりけがれをはらい、残る半年間の無病息災のご利益に授かりたい。庶民の願いは変わらない。人並みに、私も上賀茂神社に詣でることにした。
   

輪の前にたち、まず左回りに1回、中央からくぐり入り輪を半周して戻る。2回目はそのまま逆に右回りで。3回目は再び左回りでくぐり抜け、中央に戻ったところをそのまままっすぐに、もう一度輪をくぐり抜けて前へと進むことで終わる。

今夜八時から、境内を流れる「ならの小川」に形代を流す大祓式が営まれる。かがり火の薪を組む準備が進んでいた。
神々しい境内、「みそぎぞ夏のしるし」となる光景なのであろう。雨が降らなければ良いが。
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 「龍馬」との遭遇

2009年06月28日 | 日々の暮らしの中で
     

近ごろ都にはやるもの ― 舞妓に龍馬に大文字…弁慶と牛若丸。

「捜すのはむずかしいですよ」と、少なさを売りにするタクシーのあんどんの一つが、目の前に飛び込んできた。なんと龍馬さんだ。


三条通りを西に、ちょうど神宮道を越えて間もなくの場所。スッと左から前に入ってきたタクシーだった。ここは片側2車線、再び左に出て停車のために減速し出した。当然あとにつく私もとろとろと。幸運だった。カメラを取り出してしまった。
危ないので良い子は真似をしませんように?? 次のチャンスはないかもしれないのでお許しを~。

実はこの付近、一か月ほど前には、五山の送り火の「大」をかたどった16台のうちの1台に遭遇した場所。あの時は携帯で撮ったので、失敗。しかも娘の腕の悪さというおまけ付きの結果に、しばらくはぼやいていた私だった。

出会えないものかと、いつしかタクシーの行灯に目が行く4カ月だった気がする。でも意外と面白い。三つ葉・ハート・星・月・象…、その他もろもろが走る。四つ葉のマークになると、これまた希少価値。
全国屈指のタクシーの激戦区と言われる都大路だが、「珍しさ」に興味をそそられて、ついついきょろきょろ。安全運転!!

来年のNHK大河ドラマの影響か、すでに京では龍馬ブーム。2004年の『新撰組!』の際には試算で203億円の経済効果があったと伝えられている。今回も、たくさんの方を京都に呼び込みたい、わけだろう。そこには「京の活性化」という言葉がつづく。

いらっしゃいませ、ぜひ京都に。
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 課外授業

2009年06月27日 | 日々の暮らしの中で
“京都のど真ん中”、佛教大学四条センターにて、当日申し込み制で受講できる講座がある。それは現代社会、仏教、京都学、歴史・民俗・伝統、文学・芸術、等々にわたって多彩に開講されている。

今日は土曜日。幼稚園も休みだし、どこかへ遊びに行こうか?と考えていたところ、もうちゃんと計画済みの母子。ふられて、時間ができた。と、言うことでこのセンターに出向くことにした。

『「文学」の課外授業  文学と音楽 ①野口雨情の生涯と作品』
受講料を払う。待っているうちに、眠くなってきた。個人参加ばかりなのか、私語がない。静けさが、かえって始まりもしないうちからの眠気を誘う。
講義の途中には、ピアノの伴奏つきで雨情の童謡の独唱がはさまる。その先生が別に二人。幸いお若い教授だったことと、童謡を口ずさめたことが眠け防止につながったみたいだ。

雨情は、いかなる場合でも人と争わない。「たとえ形の上で負けても、良心で勝て!」という父の言葉を思い出し、良心に恥じないことを日々の信条にしていたという。
かつての、童心のままの優しさから、労働者・農民・貧しい人々の苦しみへの共感。資本家への激しい怒りの表現。そして戦争批判を―「○○○(愛国者、かと)たるよりは、寧ろ人道(ひと)に忠たれよ」と、思いを露わにしていく。

彼の伯父や近代文学に影響大だった内村鑑三、児玉花外等、社会派の人々との交わりから、社会の弱者にあたたかな目を向けていく過程の話は、資料と共に興味深かった。

「黄金虫」「俵はごろごろ」「十五やお月さん」「赤い靴」「青い目の人形」「七つの子」「証城寺の狸囃子」「雨降りお月さん」「しゃぼんだま」「船頭小唄」……童謡だけでも作品を挙げればきりがない。

雨や月が好きだった雨情。「詩とはことばの音楽です」と。

           ( 原田泰治さん描く 童謡「赤い靴」)
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 傷

2009年06月25日 | 日々の暮らしの中で
失敗の原因を解明して、防止策を究明する「失敗学」というのがあるらしい。
【失敗― やりそこなうこと。しくじり。】
「失敗」・「する」、避けようがなくて、おきる、ってことになるのか。今朝のことだった。

皿洗いの最中だった。ひびが入っていたのかもしれない。小皿が割れ、あっという間に手のひらを切った。右親指の付け根、ふっくらもりあがった部分。勢いがついていた。2センチ弱の切り傷にもかかわらず、なかなか止血ができない。

働き者でない私にとっても、さすがに、肉の盛り上がりを待つには場所が悪い。チクッとした麻酔針の痛さと、緊張感だけ味わって、縫合してもらった。包帯を巻き“大けが”、“小手術”。

失敗すると、エネルギーがなくなる。ファイトは失せる。痛み止めはいらない程度のうずき。濡らせない。見た目が大そう。何かと不自由。
この結果の重大さから、気力の回復を待つしかなさそうだけれど、それにしても失敗してしまった。でも、不可抗力なのだから、仕方がない。寝てるか!? いっそ人のせいにしようか。愚痴っていれば気が楽になるかもしれない。

失敗を避けるコツは、事前によく考えておくこと。

あの車は止まる。ではなく、あの車は止まらないかもしれない、だ。
となると、この皿は、ひびが入っているかもしれない。手を傷つけるかもしれない。静かに洗え……。一枚・二枚・三枚…と? 

面倒だ。さっさと片付けたい。
こんな人間には、失敗を避けて通ることは難しいかもしれない。困ったこと。

       (夾竹桃の花が咲きました…)
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 「甍の波」

2009年06月24日 | 日々の暮らしの中で
本堂の甍が雨に濡れて漆黒に染まったこの数日。
町へ出れば相国寺の大屋根も然り。雨の外出は好きではないが、銀鼠色に輝く瓦屋根の街並みに目を移して歩くのは、ビル街にはない楽しみの一つになる。

雨あがる。
徐々に晴れ上がった空には白い雲がぽっかり浮かんでいる。のどかさには遠くても、からっと心も晴れる思いがしてくる。まだまだこの先続く梅雨なのに、言い飽き聞き飽きる「蒸し暑いね~」のことば、それさえ今日は控えめ、お休みの感がある。たっぷりの雨を吸い込んで濃い緑が美しい、京都盆地を取り囲む一端、なだらかな東山連峰。

いつもは仰ぎ見る空だが、空から、雲の切れ間、眼下に広がる京都の街のたたずまいはどのように見えるのだろう。
甍の波。日常の生活が広がる建物と建物との隙間を、スーッと横切る、薄い衣をひるがえした美少年義経の幻などが視界に飛び込む、なんてことはないのだろうか。

次第に眼下に迫る異国の初めての光景。家々の赤レンガの屋根。思い描いた地。とうとう降り立つ、この感慨は深く嬉しいものだろうと想像する。きっと心躍る瞬間だろう。

例えば……、海の上で大きく旋回し着陸態勢に入る、あのわずかな瞬間さえ私は好きだ。あ~、いよいよ……、グーッと気持ちが入る時だもの。

一度は京都の街を空から眺めてみたい。できることなら、歴史の興亡の中に消えていったどなたかの幻に遭遇できないものか。
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 立葵の花に…ならって

2009年06月22日 | 日々の暮らしの中で
ドーン! バリバリバリッ!!天空を突き破ったか。雷音を伴っていっきに大粒の雨。目が覚めた。起きようか? 勇気がいる。あと10分……。

何の脈絡もないが、空に背筋を伸ばしていた立葵が頭に浮かぶ。……よし、起きるか。
外出の日に雨はつらい。傘を持たなければならないし、第一に足元が悪い、濡れる。帰り道、カンカン照りに雨傘持ってなどときたらたまらない。嫌だなあ……。

ではあっても、せっかく開けた道、好んで選んだ道を雨のために欠席なんてことはできまい。雨なのにせっせとお出かけ……、どこぞから聞こえてきそうだけれど、我が道。
「人は人 吾はわれ也…」、“哲学の道”でお会いする西田幾太郎氏の言葉。
今は自分のために使える時間も多く、何になるのかわからないが、昔馴染んだ世界を今一度……。晩学に同じ興味で語らえる友の存在は嬉しい。家人とも同種の分野でありながら、あまり深く文学の話をした記憶はない。

背中から聞こえる雑音は、今の時代にそぐわない。気にしない気にしない。もっともっと視野を広げたい……かな。打たれて伸び、朽ちるなかれ、か。もうちょっとだけ、広がることの可能性に賭けて、楽しもう。雨など、なんのその、と言いたい。

平素、気にもしなかった花言葉。立葵の花ことば、見てしまった。
「大きな志」「大望」「野心」「気高く威厳に満ちた美」「高貴」「率直」「開放的」
まあ!! でも、落ち着いて。志を持つ事の大切さは、多くの先人が示してくれている。

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 上昇の気運で、吉

2009年06月21日 | 日々の暮らしの中で
    「璇枢(せんすう)は運(めぐ)りを停(とど)むる無く、
    四序は相錯行(さくこう)す。
    言を寄す赫曦(かくぎ)の景、
    今日 一陰生ず」

「璇枢」は天体。四序は「四季」。天体は運行してやまず、四季は循環する。「赫曦」は夏の盛んな日ざし。極盛を誇る陽光の中に、はや陰気が萌(きざ)している。                                  
 唐の権徳輿(けんとくよ)の詩、「夏至の日に作る」にいう。(6月21日付「漢語歳時記」より)

夜来の雨音が嬉しく、静けさが心地よいままに宵っ張りを決め込んだ。朝寝坊。年に何度とない“寝過ぎた”目覚めに、頭が重く肩が凝る。何とも損なこと。午後まで寝られた日々など夢のまた夢。

”Midsummer Night's Dream” 明け急ぐ夏の夜、妖精たちと人間の夢のような恋……はシェイクスピアにまかせ、早起きして、朝顔のご機嫌でもうかがうとしよう。
茎は日焼けし、最高で5枚目の葉が出た。不格好な茎の長さは気になるが、成長しているのは間違いない。元気出してー!のJessieの一声が、ひょっとすると大きな喝を入れることになったのか。葉数が増え、すかすかだったもやし畑も、涼しげに“らしく”なってきた。真夏の夢、花を咲かせてみたい。

蒸し暑い。風のない雨上がりの一日だった。クールアース・デイ。エアコンは……、「忍」の一字。
夏の太陽は頂点を極め、この日を境として衰えていく。
地上の暑さはこれからだけれど、梅雨雲の上では秋の準備が進んでいるのだそうだ。

出会ったことが喜びとなるような運気をいただき、新しい自分でさらに出発していけるのなら、そう言う出会いに恵まれることはありがたいことです。山あり谷ありの人生も捨てがたい……。
                    
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 聞こえたり、聞こえなかったりは…

2009年06月19日 | 日々の暮らしの中で

日本人初の快挙 ― 二十歳の盲目のピアニスト・辻井伸行さんの充実感を物語ることばが、メディアを通じて大きく伝えられている。
「目は見えなくても、心の目は見えているので満足しています」、は印象的だ。

かつて、『僕は声が見える』という、ドキュメンタリーのテレビ番組を見たことがあったのを思い出した。近畿大学アメフト部に属す二十二歳の西山君(今は二十七歳か)には、聴覚に障害があった。ゲーム中、彼は相手方のレシーバーの目を見て走る。相手選手が、パスを受けるために、一瞬、ボールの方向に目をそらす。その時を見逃さずにパスカットする。見事な集中力だった。
不自由さを越えて、というのは多分間違っているのかもしれない。

何でも見え、聞こえる能力は備わっているのに、私の心の量りの目盛り加減一つで、ふるいにかけて選択しているような気がしてくる。自分の都合一つで、見たり聞いたりしゃべったり。だとしたら、本当に見るべきもの・聞くべきこと、物事の本質からは遠ざかって生きているのだろうか。

ずるいと言われようが、衝撃を和らげるクッションを存在させるのも一つの手。何もかも真正面から受け止める度量もない薄っぺらな胸ではなおさらかもしれない。処世術かしら……セレクティブ・ヒアリング(selective hearing)、セレクティブ・スピーキング(selective speaking)は。我が家の婆さまは聞こえたり聞こえなかったり、自由自在の変貌ぶりなんだけれど。しゃべるだけしゃべって、あとは黙りこくって、これもうまいのよね~。

「透徹」って、大事なことなの?いずれにしても「心の目」・「心の声」、大事にしなくっちゃ。
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姫の異変

2009年06月18日 | JESSICAの日本滞在記
よく運動するその白い肌は柔らかで、それでいてむっちりとひきしまり、ほどよく色づきだしている。生来の奔放さに、なかなかの芯の強さもにじませる、見るからに健康的な三歳児。

豪傑笑いが影を潜めた。声に力がない。機関銃のようなおしゃべりも耳にしない。あ~、そういえば憎まれ口の一つも聞こえてこないなあ。第一に、私を出迎えてくれなかった。口元をゆるめたままDVDの“しんちゃん”にかじりついている。
なんかへん。

ここしばらく咳がつづいている。「あんなあ~、きょう せんせいに あたまいたいっていうた」「えっ、Jessieは今日も元気でしたって先生言ってたよ~」??
「マミちゃんさむいー」眉間にしわ寄せ、わなわなと話す。私の背中に覆いかぶさってくるその身体が熱い。39度。

処方してもらった風邪薬を飲んで、早めのお休み。夕飯は、ぬか漬けにしたにんじん。生でもかじる好物のにんじんは、こんな時でもお口に合うらしい。
やっと静かになったとばかりに、それぞれの夜が始まるのだが、さすがにかわいそうと、周りの空気も沈みがち。冷えピタ貼って、たっぷり汗をかいて。37度3分に。
明朝、「おはようございまーす」の声が聞こえますように。

みんなの元気も吸い取ってしまうJessie。笑ってよ・笑ってよ、Jessie。
「もう!うるさ~~い!」がちょうどいいんだわ。
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「紫絵巻」

2009年06月16日 | 日々の暮らしの中で

杉木立の中に五千坪と言われて広がる大庭園は、約30種、一万株のあじさいが咲き乱れている。「紫絵巻」とたたえられる、あじさいの海は圧巻だ。

西国観音霊場第10番札所の三室戸寺。山門をくぐり、なだらかな道続きの先に60段ほどの階段が見えてくる。やはり、ご利益は“苦行”のあとと決まっているのだろう。保育園児がかけてくれる「こんにちは」の声に励まされながら上った眼前に、大きな本堂の甍が迫る。あじさいには雨。しっとりと濡れたあじさいめぐりも、粋なことでっしゃろな。

女三人、宇治散策。必要以上の暑さに見舞われた。例によって、久しぶりの再会を喜んだあとは、一方的にご無沙汰だった時間を埋めるべく一人しゃべりが炸裂。勝手にしゃべっていても、人の話には適当に相づち?と見えながらも、案外人の話も聞いている。うんうん、だんだん成長の私たち、女三人組。

お腹がすいた、ってまだ十一時過ぎ。のどが渇いた、宇治金時がおいしそう、ソフトクリームはのどが渇く、茶団子食べなきゃ……。早昼にありついてお腹もふくれ、平等院鳳凰堂へ。

平安貴族の生活に関心大であった昔、何度訪れたことか。30年ぶりに近い再訪となる。
鳳凰堂の彩色がはげ落ちていること!うるわしき浄土を思い浮かべながら念仏を唱えた頼道たち貴族。さながら「極楽絵巻」の世界であったろうに。

宇治十帖の最終章「夢の浮橋」。薫・匂宮・浮舟。霧深い宇治川をはさんで此岸と彼岸、夢のようにはかなく流れやすい浮橋の暗示か、夢の浮橋。ちょっと昔を懐かしみながら、一人の世界に入っていても、ちゃんと二人の声は聞こえてくる。

      「極楽いぶかしくば宇治の御寺をうやまへ」(『扶桑略記』)
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大好きです、幼稚園

2009年06月15日 | JESSICAの日本滞在記


幼稚園行事、「キャラクターと遊ぼう」に参加したJessie。さる・うさぎ・きつねに変身したお父さん方。日曜日、親子で船岡山公園に集合。ゲームをして過ごした2時間だったようです。

にんじん・バナナを持たされて、障害物競争の超・縮小版、まずは小さなトンネルくぐりからスタート。途中、さるやうさぎに“えさ”をやり、平均台を渡り過ごし、“迷路”に見立てたコースを走り抜けます。

レースはともかく、Jessieのどらえもん。わぁ~お!なぜ、お目めまでが赤いの!!
「Jessieはどらえもんを知りませんでした」と、先生。
アンパンマンならもう少し上手にぬれたのに?でも、あの「お時計さん」だから……。
「まっ、いいか」彼女の処世術です。

歓声が聞こえるような写真を見ながら、これが○○ちゃん、これは□□クン、みんな仲良しのお友達。先生に抱きつき、バスの運転手さんとも仲良く?手を振り合っているこの頃です。

明日は代休。2時間のかわりの休日に、うなっているのは母親。Jessieはお休みなどいらないのですが。マミーは「カラオケに行こうか~?」と娘・3歳児を誘っています。
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「落とし文」

2009年06月14日 | 日々の暮らしの中で
  

葉がくるっと巻かれている。さわってみると、中から小さな茶色のものがぱらぱらっと落ちる。虫の卵で巣だとするなら、これが「落とし文」と言われるものだろうか。

オトシブミ科の昆虫が、ナラ・クヌギ・クリなどの広葉樹の葉を巻いて中に卵を産みつけ、地上に落とす。中の幼虫は内側を食べて育つのだそうだ。この地上に落ちた筒状の巻き葉が、巻紙の手紙に似ている。そこで付いた「落とし文」という名。京都あたりでは「ホトトギスの落とし文」と呼んだらしい。

公然とは言えないことを匿名の文書にし、わざと路上などに落としていく。(落書)

“思いを伝えたい人がいる”、どこかで聞いたセリフだけれども。
人知れず恋心を伝えるために、その人の通り道に手紙を置いてみる。密かに反応を、返事を待って……、抑えた気持ちの中にもロマンがあるような。

気になる人の前でハンカチを落とす、何かをわざと落として拾ってもらう。それによって生まれる出会いに賭ける、ウソかほんとか、昔・昔のお話もだけれど、今はメールで直結。
“恋の手を変え、品を変え”、和歌が詠めなきゃ恋もできない時代でなくてよかったのかしら……。

 

大江健三郎氏の講演会があった。「言葉を正確にする」と題して。ことばを正確に覚えて使うことが大切であることをお話しされた。言葉の使われ方の現状として、「きちんと文章を引用する習慣がなくなってきた」といわれる。大江さんの親の世代までは、源氏物語の文を引用する人も珍しくはなかった、と。ことばを正確に伝えながら、覚えることの大切さを述べられた。ノーベル賞作家。

恋の歌でもさがそうかしら… 

  (和菓子 落とし文)

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「京の二面性」

2009年06月11日 | 日々の暮らしの中で
 

『「京都から来ました」「はじめまして。私たちは京都生まれの企業です」― 世界で憧れを集める自己紹介』……、かつて、こんなCMを見たことがあった。

木津川計氏が京都の二面性について、高い都市格と世界を駆ける進取性を取り上げて語られている。

〈動かない京都人〉。大阪人は京都をよく訪れるがその逆はほぼない。
南座での文楽の興業が10年間ずっと途絶えた。だからと言って、大阪の国立文楽劇場へ、京都人が足を運ぶかと言うと、ほとんどないという調査結果だそうだ。
「そのうち、また南座に来はりまっしゃろ」ぐらいで、鷹揚というか、無関心というか、動かない。

そこには、京都の高い“都市格”へのプライドが存在しているという。神社仏閣、茶道・華道…伝統芸能の豊富なストックに加え、50近くもある大学都市として、関西で群を抜く京都だ。東京の政治的権威に対し、京都のこうした文化的プライドが際立つと指摘される。企業もほとんど東京へは動かない。

ところが、動かない京都人も、海外へは、吸収力でアクティブに行動する。先端産業のためには世界を駆ける進取性があるというわけだ。ビジネスに観光に、京都人は世界の風によく触れる。その風が先端産業を育てるのだという。
引用された京都商工会議所会頭の談にこうある。「京都の人は、この都市の国際的ブランド力、知名度を誇りにしている。企業も直接、世界を相手にビジネスチャンスを生かしている」

この二つが崩れることなければ斜陽に見舞われることはない、と。

世界を駆けるにしても……
昨日十日、関空からゴールドコーストへ向けて帰って行ったH。娘の幼馴染み、先月結婚式を挙げ、一足遅れで夫のもとへ。数日後の予定を十日に変更されての搭乗となり、京都駅で見送った。……思わぬアクシデント報道に驚く。
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コチコチコッチンお時計さん

2009年06月10日 | 日々の暮らしの中で

     コチコチ コッチン お時計さん
     コチコチ コッチン 動いてる
     子どものはりと お隣さんのはりと
     こんにちは さようなら
     コチコチ コッチン 動いてる

人差し指を右へ左へとつきだしながら、そして交差させ、「こんにちは~」。
ここは、必ず声がひっくり返って上ずり、大きな笑いを誘う。本人はなんとも思うことなく、舌足らずさも加わり、得意げであるが故に一段とおかしく、かわいさも増す。

Jessieがつくってきたお時計さん。この色づかい、はみ出しよう、このセンス。アンパンマンの鼻だけなぜ真っ赤っか?ほっぺは、塗る時間がなかったのかな。
この時計は何度でも自分の好きな時間にセットできる優れもの。今、何年の何月何日、何時かな??

時間がもっと欲しい、とは幾度となく思うことだ。一日が、速かったり遅かったり。その時によって違って感じられる。長い一生だって、おそらく誰にとってもある時には速く、ある時には遅く流れるのだろう。どこかで結局誰もが、帳尻合わせができているということか。極力あわてず、ゆっくりと見極めながら上手に時間と付き合っていきたいものだ。ついつい、今でなくても、という思いでのびのびにする。大切な機会を見失うまい。

何度でも時間をリセットでは、人生の醍醐味は味わえないのだろう。
もっとも、私が「醍醐味」などという言葉を口にするのは不似合い、おこがましいが。

本日、時の記念日。
一点鐘(いってんしょう)。中国語で一時の意だという。
深夜、“一時を告げる古い柱時計のもの憂い響き”が聞こえてこないうちに、今日のことは済ませよう。
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ぶらぶら気の向くまま、京都のお散歩はいかが?

2009年06月07日 | こんな本も読んでみた
         

家にいながらこんな京都散歩はいかがでしょう。
京都新聞出版センター発行『京都文学散歩』(定価:本体1333+税)

『作家たちの京都追憶』
 【京都は小説や映画の永遠のステージである。歴史や伝説に彩られた数多い社寺仏閣が点在して美しい景観を形づくり、伝統的な町衆の生活文化が連綿として今に伝わる。そんな京都という町が、多くの作家の創造力と想像力を刺激するのだろう。京都を描いた小説は枚挙にいとまがなく、そんな小説を素材にした映画・ドラマも数限りない。小説の舞台となった場所を訪ねる〈文学散歩〉……】



【京都に向ける作家たちの視線は実に多様だ。
……心安らぐ故郷として……眺める。
……反近代のシンボルとして古都を評価する。
……職人の世界を憧れと反発をこめて凝視する
……過度なまでの耽溺。
……過剰なほどの鑚仰
……青春の残像を追う切ないような視線……。
……痛々しくも甘美な日々。……】

【京都府の外郭団体(財)京都SKYセンター発行の「すかいくらぶ」誌に連載したものからの抜粋。】3人の筆者が散歩の案内を務めてくださっている。

芝木好子さんが71歳の時に発表した『京の小袖』などには強烈な興味を感じた。また松本清張氏の「球形の荒野」、沢村久雄氏の『夜の河』。映画「夜の河」が紹介されているが、山本富士子主演で上原謙との共演。(知らないなあ…)
(もう一度、も含めて)原作を読んでみたいと思わせてくれる作品も多い。

気の向くままに「京都文学散歩」。
よろしかったらぜひお手に取ってみてください。
歩いてみたい、訪ねてみたい、そう思われるのも間違いないことでしょう。
  
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