京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

あのな、俺には夢があるんや

2022年08月30日 | こんな本も読んでみた
地平線のかなたに帆の先端だけを見せていた船が、徐々にその姿を現し、大きくなって近づいてくる。
「この地上が丸いからだよ」

『帆神』(玉岡かおる)の主人公・松右衛門と同郷の幼馴染み惣五郎が言った。10歳あまりの子が、禁制の地動説を試行していたのだ。

姫路藩高砂の村の神童は、やがて大阪の中之島にある升屋に奉公した。各藩を相手に年貢米を担保に取って銭金を貸す金融業を営む升屋に入り、17歳で升屋別家の家督を継いだ。
それでもこの先、「俺には夢があるんや。天文や」。
彼は番頭奉公を済ませると学問に没頭し、後年、山片蟠桃(やまがたばんとう)の名で『夢の代(しろ)』を著す。
惣五郎・「山片蟠桃」に関してはこんなことが描かれていた。


今日の朝刊に「江戸文化は国際的ハイブリッド」という見出しで記事があった。
〈山片蟠桃賞受賞…〉とあるではないの。見たことあった文字の並び。記憶はあの惣五郎とつながる。

海外の日本研究が対象の山片蟠桃賞(大阪府主催)が、『阿蘭陀が通る 人間交流の江戸美術史』などを執筆された英国出身のダイモン・スクリーチ国際日本文化センター教授に贈られたことを伝えていた。
鎖国時代にも、中国、朝鮮、琉球の人、西洋人も、来ている。「江戸文化は国際的な異種混交」。

長くその功績を、名を顕彰されている人物なのだと知った、ということだけなのだが…。

教授は、「還暦の年で何か違うことをやれたらいいなと思った」そうだ。
〈夏の終わりにリセット〉なんてテレビからの声に乗ってるくらいが私だけどなあ…。
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現世の極楽浄土、と

2022年08月28日 | こんなところ訪ねて

私個人にとって大事な方の命日を迎えていたが、数日遅れで東本願寺にお参りをした。
かれこれひと月以上、市内の人混みを警戒し出ることがなかったので京都駅も久しぶりだったが、時期も時期でか思うほどの人の出はなかった。

御影堂へ向かうと、恩徳讃の最後の一節、
   師主知識の恩徳も
   ほねをくだきても謝すべし
を和す声が聞こえてきた。終わると僧衣姿の人たちが数十人、お堂から出てきたが何が。

京都は伝統仏教の本山があり(ないのは曹洞宗と日蓮宗)、お金では買えない権威の都である、とお話を聞いたことがあった。
本山の権威、家元の権威、大学の権威。文理融合した知識人の社交場となる祇園、女将さんたちは話題についていけるインテリであった、とも。

親鸞聖人の七百年大遠忌が営まれたのは1961(昭和36)年4月。(もう61年も前の話にはなるわけだが)、その年の1月には知恩院で法然上人の七百五十年大遠忌(だいおんき)が営まれた。合わせると人口100万の都市に400万からの人が集まってきたというから、民族の大移動にも近く、
「京都は現世の極楽浄土であった」と『梅棹忠夫の京都案内』にある。寺は“観光施設”ではなく信仰に直結する力を持っていたのだ。
また、昔から京都にあるさわってはいけないもの”三つ”に、祇園と、西陣と、本願寺が挙がっている。氏は本願寺に代表される宗教勢力の健在ぶりを認めておられた。
61年も経た現在、時代の変化はあると思うが…。


確かに本山はどこも立派。ここで御影堂門(写真の右手)を見ても、なんて大きなものがといった類での“権威”を感じてしまう。大きな声じゃ言えないが、末寺の、ひそやかな日常の気配、構えが好ましく思うのだな。

とは言え、ここに来ると気持ちが穏やかになる。
お世話になったご縁に感謝して手を合わせ、「現世の極楽浄土」の風を受けて縁の端にしばし腰を下ろしていた。
ヒンヤリとした風に季節の移りを感じながら。
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空の石盤に

2022年08月26日 | 日々の暮らしの中で

平成12年度の点訳ボランティア講習を1年間受講し修了。すぐに活動に参加しているので年数だけはずいぶんになったものだ。
最初から一人PCに向かっての図書点訳ではなく、人と交わりながら何ができるかを考えて、いくつかの団体に属しながら徐々に方向を定めてきた感じかな。

様々な年代の仲間と知り合えたのが何よりの財産に。
80代半ばを迎えて、今日の例会を最後に退会されるM子さん。一冊の文庫本を3人で分担して点訳されていたが、残りわずかな部分の作業ができていないということで、私がそのオシゴトを頂戴してきた。ちょっとだったから。
親しくお付き合いもいただいただけに残念だけれど、せっかく健康に恵まれているのに目や肩への過重な負担で苦しんでは何にもならない。


せっかく大津市まで来ているので、琵琶湖岸へと出て楽ちんなドライブを楽しんだ。
海は日常から遠い存在だから、気持ちを大きく解放するには琵琶湖を前にするのがいい。

今日もまだ強い日差しが届くが、「空の石盤に」秋の気配が描かれて、何かしらほっとするものがある。爽やかな青い秋の空が待ち遠しいこと。
                 
                  (「空の石盤」は堀口大学の詩〈海の風景〉書き出し)
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日本人のお出かけ好き

2022年08月24日 | 日々の暮らしの中で

弥次さん喜多さん(弥次郎兵衛と喜多八)は十返舎一九が滑稽本『東海道中膝栗毛』(1802-)で生み出したコンビだが、彼らも清水寺に参拝している。

本堂の大規模修理を終えた清水寺で、江戸時代の巡礼札が718枚も発見された(2021.2.2付記事)。堂内の絵馬を取り外したところ、壁面に取り付けられた長押(なげし)の内側から出てきたという。札上げで燃やされないよう隠したのだろう。最古の札は1635年のもので、甲州巨麻郡逸見荘(今の山梨県北社市)の居所と氏名があった。

1603年に江戸幕府が開かれ、芭蕉が「奥の細道」に旅立ったのは元禄2年(1689)。
弥次喜多の二人は1802年以降として…。江戸時代の初期、すでに中山道は整備されていたのだったか?
「1600年代中頃には日本中が平穏になって旅行者の数が増え、さらに元禄(1688-1704)の高度成長期に入ると、大勢の人が日本中を歩き回るようになっていた」と石川英輔さんの『江戸人と歩く東海道五十三次』にある。

人は宗門人別帳で土地に縛られており、居所を移すには寺請証文が要り手間がかかったこと、『帆神』(玉岡かおる)にも描かれていた。
旅行では寺か名主が作成した住所、名前、旅行の理由、目的を記した往来手形(身元保証書)を携行していればよかった。当節ではワクチン接種証明書とかPCR検査の陰性証明などを持ち合わせないと、気まずさを味わうのだろうか。そんなことはない?

〈病気や願掛けのための寺社参詣〉を目的として届けても、「伊勢参り大神宮へちょっと寄り」で、どうやら人気のお伊勢参りは一種の方便。さっさと参拝を済ませ、あとは私的な家族観光旅行…ってのは珍しくはなかったみたいだ。絶頂期には、日本人の5、6人に一人が全国から伊勢を目ざしたそうな。
日本人の「お出かけ好き」は今に始まったことではないって、まさに。てくてくてくてく。


石川氏によれば、江戸日本橋から京都三条大橋までの約450kmを平均14泊15日ぐらいで歩いたとある。
「三条橋上より…四方をのぞみ見れば、緑山高く聳えて尖(と)がらず。加茂川長く流れて水きよらかなり。人物また柔和にして、…。…京に良きもの三ツ。女子、加茂川の水、寺社」「悪しきもの三ツ。人気(じんき)の吝嗇(りんしょく)、料理、船便」などと記したのは20代の滝沢馬琴だが、京の風物には夢中になったらしい(『羈旅漫録』)。

「天明5年(1785)、田沼意次肝煎の蝦夷地見聞隊は、江戸を立った」。松前まで陸路を「船待ち加えて二十四日の旅路だった」と今読む本では書かれている。最上徳内が松前に渡ったところまで読み進めている。

23日、処暑とはいえ真夏日だった昼下がり。三条京阪で人と待ち合わせの合間に、弥次さん喜多さん訪ねて橋を西南詰めへと渡った。
日本史の資料集など開いて、あれこれ思いをとばしている。あああ、こっけいなことを。
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おばあちゃんの名前は?

2022年08月21日 | 日々の暮らしの中で
中学3年生で初めて徳島の祖父母の家に行ったとき。
サイクリングが好きだったので、おばあちゃんのボロボロの自転車を借りて街中を抜け、川沿いを走った。まったく橋がない。終いにどこをどう走っているのかもわからなくなってしまった。

携帯もなかった時代。日も暮れかかる。
ぼろい自転車でうろうろしている少年をおまわりさんは呼び止めた。
「なにしてるの? 防犯登録を確かめさせてもらいますね。その自転車は誰の?」
「おばあちゃんのです」
「おばあちゃんの名前は?」


彼は祖母の名前を知らなかった。
「とめ、だったかなあ…。〇〇って苗字なんですけど」

おそらく家の住所も電話番号もそらんじてなどいやしなかったろう。
それでも連絡を得た祖母が迎えに来たそうな。
彼が言うに、今でもどうして迎えに来たのかわからない。

「へえ。おまわりさんに会えてよかったですね」と相方は笑う。彼女は二人の祖母の名前を言ってみせた。「エミコさんとチカコさん」
「新しいやん。そうか、とめ、なんて名前じゃなかったかもな」「人によるでしょ」
この返しもまた面白く・・・。

カーラジオで聞いていて、しばらく笑わせてもらった。
中学3年生にもなって、なんてあほな!
と思ったものだが、「徳島のおじいちゃん、おばあちゃん」なのだ。
同居でなければ祖父母の名前を知らないってことはあるかもしれないなと、今になって思い直している。


ぼそぼそ、ぶつぶつ、まったく自然体でのおしゃべりは、ホームカミングスという男女のグループだった。
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いつの間にかほれ込んで

2022年08月19日 | こんな本も読んでみた
これまで2度ほどふれてきた。毎夜の就寝前の読書で、読んだまま眠ってしまっていた?という晩もあったが、とってもとっても面白く読み終えた。
文芸評論家・細谷正充さんが書評で書いておられたのだが、「常に前に進む松右衛門に、いつの間にかほれ込んでしまう」時間だった。

姫路藩高砂の漁師の家に生まれたが兵庫津に移る。海上を行き交う白帆の全てを画期的な発明で作り替えたり、その帆を織る地場産業を興し、また、新船の造船に、港の整備に、工事専用船を作り出したり…とまさに工夫を楽しむ男、工楽松右衛門の一生が魅力的に描かれる。
瀬戸内の島々を抜け、北前へと航路をとって出雲崎、新潟、そして樺太、択捉、箱館…と北前船を馳せる。


兵庫津の者の利益だけにこだわらず、船に乗る者がみな等しく栄えるために。自分一人が楽になっても何ほどのこともないが、天下が改まれば、そこで暮らす庶民がこぞって楽になり、大きな福となる。
「人として天下の益ならん事を計らず、碌碌として一生をすごさんは禽獣にも劣るべし」
大蔵永常が著した『農具便利論』に、松右衛門の言葉として記されているという。
彼の一生は、『思いがけず利他』(中島岳志著)という書名を思い出させた。

幕府は老中田沼意次になってようやく北方防衛の必要性を感じ始め、蝦夷地探検に着手する。蝦夷地の海に生きるすべての人間のためにと、恵土呂府に港を築いた。後にロシアによって壊滅的な被害を受ける。高田屋嘉兵衛の再建の頼みを断り、択捉からは手を引く。

これまた魅力な女性たちの心ね。彼を支える幼馴染み。どれも文句なしに楽しんだ。オススメです。



『帆神…』でも彼の名前を見つけたが、今度は蝦夷地の探検で知られる最上徳内の生涯を描いた『六つの村を越えて、髭をなびかせる者』(西條奈加)を手に入れた。
出羽で貧しい暮らしをしながら、やがて江戸に出て勉学に励む。そして田沼意次が派遣する蝦夷地探検隊の測量係となった最上徳内。アイヌのために尽くした彼の人生とは…。
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花一輪たりとも辞す

2022年08月17日 | 日々の暮らしの中で
茨木のり子さんの世界に水を向けられて、先日『一本の茎の上に』を拾い読みしていた。「花一輪といえども」と題した小文がある。

長く交遊のあった木下順二さんが母親を亡くされたことを知り弔文を送ると、「勝手ながら花一輪といえどもご辞退申し上げます」の一文を含んだ挨拶文が届いた。別れの儀式などは一切行わない。生前から母と何度も話し合い、約束していたことだとあった。気概に打たれ、また、花一輪をさえ辞すために要ったであろうエネルギーの大きさを思いはかっておられる。
茨木さんは、この葉書を「いつの日にか私のためのよき参考に」と大事に保存されたことが知れる。


そうしてご自身も別れの手紙を認めた。

「あなたさまから頂いた長年にわたるあたたかなおつきあいは、見えざる宝石のように、私の胸にしまわれ、光芒を放ち、私の人生をどれほど豊かにしてくださいましたことか」

こんな言葉があるらしい。生前に印刷し、甥夫妻に発送を託したという。
死後ひと月、交流のあった人のもとに葉書が届いている、と2006年3月16日(日付メモが違っていたかも…)の読売新聞コラム「編集手帳」で読んだ。その切り抜きは、この本に挟み込まれて今も残る。このようなお付き合いをしてこれただろうか、と振り返る。

「あなたのおかげで満ち足りた生涯、どうか思い煩ってくださいますな」

「永訣は日々の中にある」。
〈死とは出会ってきた人びとに「さよなら」を言うことだ〉という岸本英雄さんの言葉に惹かれる。自らの生涯、どう締めくくれるだろう。
盆さ中、うちつける雨音を聞きながら思いあぐんだのは、こんなことだった。

      椿の実の赤さに魅かれて一週間ほど花瓶に挿しておいたら、
      正面裏側がはじけて種が現れた。切られても、このエネルギー。
      
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あとまで残るひびき

2022年08月15日 | 日々の暮らしの中で

毎年終戦記念日には、昼の12時に合わせて鐘楼の鐘を撞く。鐘の音が消えかかるころに次の一つ、そしてまた一撞き…と。

折しも数日前、茨木のり子さんの詩「わたしが一番きれいだったとき」に触れる機会があった。私の母も茨木さんとほとんど変わらない年代を生きていた。こういう何かの機会を得て、平素は取り出すことの少ない手持ちの詩集や詩人のエッセイ本を開くことになる。

西原大輔さんの指摘が引用されていた。
「最終行の控えめな『ね』は、決意表明の気恥ずかしさを打ち消す効果を生んでいる」とあった。

一方で、この詩については以前に谷川俊太郎さんが指摘されていたことを覚えていた。
「書き過ぎているのがもったいない。最後の一節はいらない、というのが私の意見」だとあった。“最後の一節”とは、小池昌代さんが「私もくどいとか、念押しはいらないと言われる」と続けておられたので、「ね」の扱いと理解した。

詩では「連」という表現をするが、時間を置くや、一節とは、〈だから決めた〉以降「ね」までを言うのか?と思い始めた。
西原さんと谷川さん両者の言を念頭に、何度か読み返す。盆のお参りがあれば挨拶させていただきに出るが、ぼんやり考える時間はたっぷりあった。

詩作への姿勢もあろうし、仮に一語であっても、用いた作者の感情や思いが存在する。
どう読むか。最後は手渡された読み手に託される。


韻文と散文の違いはあるが、「謂ひおほせて何かある」という芭蕉の言葉に学びたい。
河野裕子さんが言われた〈「結句病」。書き足すと説明句になりやすい。説明句に味わいはない〉とか、〈書き過ぎると大事なものが消えてしまいます〉は宇野千代さんだったか。そしてまた山田稔さんは〈言葉の過剰が芸を滅ぼす〉と記される。

若くはない今になっても、ようく考えなくっちゃと心の内で念を押した。余韻のない文章はつまらない、だった。

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食えば食うほど食い気が

2022年08月12日 | 催しごと
「中学を卒業すると上京し、古書店に勤めた」出久根達郎さん。
『本と暮らせば』で書かれている。

「古書店は本を読むのが仕事である。売る者は買う客の数倍、読まなくてはならぬ。満腹だからといって、食うのをやめてはいけない。しかし面白いことに、本は食えば食うほど、更に食い気が増し、とめどがない」。
「読書人は年をとらない。…女性は、美人ばかりである。眼に張りがあるせいである。活字で洗われたまなこは、一点の曇りも無い。男性は、卑しさがない」。    (そうかしら~ぁ?)

朝から黒い雲に日差しが遮られがちだ。祇園祭で人出が増えることもあり、7月8日を最後に街中への外出は控え、映画の誘いも断るという自重を続けてきた。ワクチン接種後の体調も落ち着いたし、私には今日しかない。

ということで、納涼古本まつり開催中(~16)の糺の森に出向いた。ほんの1時間半ほどだったが、不特定多数の中に身を置いた不安は残る。
やっぱり気持ちが落ち着かないのか。春も今日も、食い気どころか食傷気味。
350円で講談社学術文庫を一冊だけ買って帰った。

出久根さんの文章をもう少しだけ読み進めた先には、「あきんどの売り口上」って言葉がある。


ここは最も北側。奥へ、南は西側に河合神社という位置で出店している。河合神社の神官の家に生まれたのが『方丈記』を著した鴨長明ということはよく知られるところ。


ホント、たま~に、そお~っと、涼やかな風がながれてくる。(ああ、きもちいい)と独り言ちたいけどそれも我慢して、背表紙を追う目を休める。
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花をたてまつる

2022年08月10日 | 日々の暮らしの中で
    花を奉るの辞

 春風萌(きざ)すといえども われら人類の却塵いまや累(かさ)なりて 三界いわん方なく昏し まなこを沈めてわずかに日々を忍ぶに なにに誘わるるにや 虚空はるかに一連の花 まさに咲(ひら)かんとするを聴く ひとひらの花弁 彼方に身じろぐを まぼろしの如くに視れば 常世なる仄明りを 花その懐に抱けり 常世の仄明りとは この界にあけしことなき闇の謂(いい)にして 我ら世々の悲願をあらわせり かの一輪を拝受して今日(こんにち)の仏に奉らんとす

 花や何 ひとそれぞれの涙のしずくに洗われて咲き出づるなり 花やまた何 亡き人を偲ぶよすがを探さんとするに 声に出せぬ胸底の想いあり そを取りて花となし み灯りにせんとや願う 灯らんとして消ゆる言の葉といえども いずれ冥途の風の中にて おのおのひとりゆくときの花あかりなるを

 この世を有縁という あるいは無縁ともいう その境界ありて ただ夢のごとくなるも花 かえりみれば 目前の御彌堂におはすほとけの御形 かりそめのみ姿なれどもおろそかならず なんとなれば 亡き人々の思い来たりては離れゆく 虚空の思惟像なればなり しかるがゆえにわれら この空しきを礼拝す 然(しこう)して空しとは云わず

 おん前にありてたゞ遠く念仏したまう人びとをこそ まことの仏と念(おも)うゆえなればなり
 宗祖ご上人のみ心の意を体せば 現世はいよいよ地獄とや云わん 虚無とや云わん ただ滅亡の世迫るを共に住むのみか こゝに於いて われらなお 地上にひらく 一輪の花の力を念じて合掌す
                 (熊本無量山真宗寺御遠忌のために)
                          『花をたてまつる』収 石牟礼道子著

読むことは言葉を手渡されること。読むことは、一人の私の感受性に働きかけてくる言葉を味わうということだ。
…長田弘さんの言葉をいただき、どう読んだらよいのかと迷いながらも文言の美しさとリズムを味わい、繰り返し読む。そうする中で、言葉に滲む祈り、願いが心に届く。石牟礼道子そのものの言葉。時を越えて今に生き続けるのを感じる。

50年に一度のこの御遠忌の行事のあと、寺に来て一年もものを云わなかった眞澄少年がまさに蕾がほころぶような美しい笑顔になってきて、静かな声で経をとなえる姿を目にされた。その少年の経を聞いていると、「蓮弁の舞っていた阿弥陀経の時間を思いだす」…とも書かれている(「蕾のまさにほころぶ刻)。

「家族らを5人死なせ、心を通わせていた歌人たちの自殺にも耐え、水俣の被災者らのむごい死を多く見送って」、2018年2月に亡くなられた。あの『苦海浄土』を著わされた。言葉の一語一語に、「石牟礼道子」が映る。


     (日ごと花茎を伸ばし、小さな星のような形をしたハゼランの花が咲きだした)
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極楽の余り風

2022年08月08日 | 日々の暮らしの中で
盆月に入ってなにやら気ぜわしい。
尼講さんの中でも選りすぐった若さを誇る女性軍の手際よさ。この協力あって今年も無事仏具はピカピカに化粧直しがなった。それらを本堂内陣に飾り付け、お内仏のほうと整えて、もうめいっぱい…。

明日は4回目のワクチン接種の予定日。まさかこんな時期にだが、選択肢は少ないのだから仕方がない。何ごともなく進むと予定して、お花は10日には立てたいと準備をしておく。
(ああ、助けが欲しい)と愚痴るでもなく思いは湧くのだが、どなたかが、お盆は亡き人と暮らす二日間だと詠んだ句があったなと思い出しもして、だから気持ちは収めておこう。

    光りつつ仏壇沈む秋出水     東条素香

「おそらく家がばらばらになって流されてしまったのだろう。そのことを気の毒に思いつつも、どこかシュールな感じもして、なかなか美しい句である」
著者の櫂未知子さんが俳句を始めた頃、〈生身魂〉を成仏できない霊魂だと考え、大声で〈なまみたま〉と読んで爆笑を買った話(「成仏できない季語」)が収められた『季語、いただきます』を読んでいた昼下がり。その中にあった一句。
つい最近の集中豪雨で被害を受けた方々の暮らしに思いが飛ぶ。



稲田に極楽の余り風が吹き渡り、立ちつくしているとシオカラトンボがやってきてじっとしている。なんて気持ちの良い風だろうねぇ、トンボさん。

午前中に届いた娘家族からの小包パックにCAMEL MILKが入っていた。ラクダを見に行ったときに買ったものを送ると言っていたものだ。ハンドクリームと、包装されずに直に箱に入った石鹸からは清涼な香りが漂ってくる。
線香ではない香りに包まれて、いい香り~の盆月、我が家。。


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親バカ精神は家庭教育の基本

2022年08月06日 | HALL家の話
週末の二日間、陸上の地区大会が開催され、各校のスポーツデーで記録を残した子供たちが競い合った。

初日の4日は200m競走に出場した孫のTyler。全力で200mを走る練習などしてはいない子だが、力の差を見せつけられたようだ。「もうしたくない」って言ってる、と母親からラインでメッセージが入る。「でも今かき氷食べてる」。
スパイクを履いてファイト満々の顔ぶれの他校の子供たちにまじって…。
健闘を遠くから祈っていたが届かなかった。

2日目はリレーから始まり100m、走り幅跳びに出場。「そこまでがっかりしてないわ」の表現に、結果は推して知るべし。そうねそうね、よう頑張った! 

 リレーメンバー

スポーツでは結果は客観的に明快な審判が下される。
負けを知る。負けを知るチャンスだったのかもしれない。「もうしたくない」。この体験をどう生かすか。そんなことは本人のカイショ。
けれど、家族としては健闘をじゅうぶんに褒めたたえたい。明日に咲く花を思い描いて、言葉をかけたい。ダディは肩を抱いて、“I’m proud of you.”と言うのだろう。その先は? やっぱり本人のカイショ。

江戸時代に京の二条高倉に住んだ脇坂義堂と言う町人が家庭教育書『撫育草』(そだてぐさ)を記していた。それを小児科医だった故松田道雄さんが『おやじ対こども』と題して読み解かれたという。
地元紙の5月5日のコラムで読んだのだったが、文中、「親バカというのは子供の将来についての徹底した楽観論(中略)親バカ精神は家庭教育の基本」と説く一節が引かれていた。


この日の体験、きっと何かよいことにつながっていく。
仲間に支えられ、仲間を支える一員でもあれかし…。
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本の神様

2022年08月04日 | 日々の暮らしの中で
本の表紙と本文の間にある見返しという場所に、鬼の姿を描いた朱印が押されていることがあって、魁星印と言い、本の神様とも呼ばれているそうです。

天保11(1840)年の随筆集『三養雑記』に描かれた魁星(京都府立京都学・歴彩館蔵)

一般的には鬼の姿をして斗(ます)を蹴り上げていて、筆を持ち、足元に大亀、頭上に3つの星で表されるそうですが、この絵のように足元が亀でなく雲であったり、頭上の星の数が6つ、などと幾つかパターンがあるようです。
中国の官僚や文人から学問の神様としてあがめられ、それが出版業から書画商へと広がって、本に住み着くようになった、と。もっとも、江戸時代の本です。

漁師から船乗りになり、虫けらのように怒鳴られ追い回される苦役の日々。「おれは何をするために生まれてきたのだ」。何のために。どんな意味が。
耐え、経験を積んで、北前船の帆の改良で、江戸の海運を変革した海商・松右衛門の苦労、喜び、成長。千鳥、小浪の人生模様。『帆神 北前船を馳せた男 工楽松右衛門』(玉岡かおる)をひたすら、じっくり読んでいる。。


海上を行き交う多くの白帆。「風をつかみ光をはらんで満帆に膨らむ大いなる船」。
彼は後年、白帆の全てを画期的な発明で作り替え、♪金比羅 船々 追風に帆かけてシュラシュシュシュ― の風景を打ち立てることにもなった男、と早くに明かされた。
姿の見えない本の神様が誘い込むのか。自らが引き込んでか。わくわくドキドキ。

心に住み着いたごんママ(『大事なことは小声でささやく』)の声が聞こえてくる。
「何か一つ夢を持ちなさい。夢は必ず叶えなさい」
「夢をかなえるとね、アラ不思議、あなたの過去が変わるのよ。ああ、私のこれまでの人生は、今日この日のためにあったんだって。辛かった過去がキラキラした大切な思い出に変わるのよ」

過去にとらわれないで、大切な「今」をつまらなくしないで、いまこの瞬間だけをしっかり味わって生きなさい。ねっ、松どん。
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ハゼランだったらいいのにな

2022年08月01日 | 日々の暮らしの中で
道路に沿って個人宅の壁際の隙間から毎年花を咲かせていた。それが「ハゼラン」と言う名の花だと知ったのは昨年のこと。


秋口に種をもらい受けて、4月下旬にまいてみた。それからもう3か月が過ぎている。
小さな二葉が土の表面が見えなくなるほどびっしり。これだけの量を、無造作にパラパラとまき散らしたのだから、そこらを埋め尽くしたとしてもおかしくはない。
でも自信がなくて芽を摘んでいた。草かもしれないと思ったのだ。


適度に残し、水をやったりやらなかったり…。最近、ぐっと大きくなって覗き込む機会が増えた。


花茎が伸びているんじゃないかしら。
水をやるくらいだけれど、愛おしさがうまれる。これでただの草だったら!? 
だけどここにはハゼランの種をまいたのだ。ハゼランが育つのが当然だろうに。
ハゼランだったらいいのになっ。

種だけあっても花は咲かない。太陽も水も、咲いて欲しいと願う気持ちも、ご縁は十分にそろっている。


親元の花はもう咲きだしていた
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