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京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

「観音の里めぐり」4 - かくれ里の趣

2016年09月26日 | 奥琵琶湖・湖北路を訪ねて
9月25日、久しぶりに「観音の里めぐり」のバスツアーに参加し湖北路をたずねました。
東林寺 - 昼食 - 上丹生薬師堂 — 菅山寺の里坊弘善館 — 医王寺 — 浅井三姉妹の郷(何かと思えば道の駅でした)に立ち寄り長浜駅に戻って解散の一日コースです。


この日、東林寺では聖観世音菩薩立像が17年ぶりの御開帳(中開帳)でした。
集合した滋賀県のJR長浜駅から更に北へ35キロほど、人の手が入らない鬱蒼と茂った深い木立の中に小さなお堂はありました。ご住職の話に続き、自治会長さんの挨拶があって、ご開帳法要はまだ営まれている最中でした。小さなお堂から村の人たちが次々と出てこられたあと、参拝者は順番に堂内に入ります。お顔が見えないといけない、と順番が来るまでの間に、秘仏と回向柱とを結んだ白い紐にそっと、しっかりと触れて、このご縁に感謝。

狭い堂内では写真撮影が許可されていてフラッシュがたかれどうし。「形」のないままよりはお姿をを求めてしまうものなのだろうか。帰宅後、丹生神社に関して白洲正子さんの『かくれ里』に目を通していたら、世阿弥の言葉を引いて、ご神体というものは元来「秘スレバ花」なのだと言われていました。
秘仏のご開帳は至極貴重な仏教行事。拝観者には自己の心の開帳なのだとどなたかが…。真正面に立ってカメラを向けるという行為が、何かとても無作法な気がしないでもなくためらわれます。

記されていた縁起によれば、順徳天皇の御代1216年にこの地を訪れた比叡山の僧・泰恒法師によって建立され、自らご本尊を刻んで安置して、千花山東林寺と名付けたとあります。地区36戸、村人が持ち回りで世話役をして護寺されているとのことですが、押し寄せる高齢化。次回の御開帳が危ぶまれるという状況らしい。


『星と祭』(井上靖)で、きれいで美人だと描かれた医王寺の木造十一面観音立像。これまた深い深い山の中へと入っていきます。
明治22年、医王寺の僧・栄観が長浜の古物商の店頭に合ったものを買い受け、152センチの像を背負って寺に持ち帰ったのだそうです。「目も柔らかく口も濡れているようにみえ、頬は張りを持ちながらも優しく丸みを帯び、…ういういしい花嫁御寮連想させる」と日本画家・椙村睦親の文章を示していただけました。
正面に座し、少しづつずれつつ見上げたお顔。眼鏡を家に置いて出たおかげで、その口元はどこから見ても微笑みかけてくださる。ようにみえるのでした。裸眼の効能です。オペラグラスでのぞき込む人に、そんな鮮明にしてしまうよりと言いたくなるほど、何や誇らしいような良い気分に包まれたのでした。

この村でも30数軒のうち10件は空き家になり、高齢化が進んでいる、と80歳の世話方さんのお話でした。7月からひと月、東京藝術大学で開催される「観音の里の祈りと暮らし展」に出品された観音像。どのような場所に安置されているのか。隅っこに無造作に置かれている状態だったらとどうしようと気が気ではなく東京まで出張したそうで、わが子を愛おしむような心もちが感じられるのでした。入った正面にあってほっとした、と嬉しそうに。


上丹生薬師堂、素朴で剛健な造りに目を見張ります。堂はもとより電線の高さまで積もる豪雪の重みに耐えるという目的もあたようです。ここの秘仏の公開が待たれます。ご本尊の秘仏が本当にあるかどうかの調査があり、その時、収めた厨子の床が抜けていることがわかったのだそうです。その修理が終わるのに合わせてご開帳できないものかと、若い自治会長さんのお話でした。2年後? 50年に一度開帳の秘仏のようですが。
煩悩によって厚く閉じ込められた自分の心、果たして開く一日となりえたかどうか…。
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「観音の里めぐり」3 - 賑わう「隠れ紅葉スポット」

2015年11月23日 | 奥琵琶湖・湖北路を訪ねて
日曜日(22日)、地元のボランティアさん同行で「奥びわ湖・観音のふる里と隠れ紅葉スポット散策」を楽しんできました。JR長浜駅10時出発です。静かな湖北の山里、盛りを過ぎた紅葉が装う道を歩きました。ほんの少し。

まずは高月にある渡岸寺(どうがんじ)観音堂で、あの十一面観音立像との対面。ここでガイドをいただいた方の穏やかで品のある口調も心地よく、何やら観音像へのいっそうの親しみが増した気分でスタートしました。
連休とあって人の出でも次第に増え、狭い道は車で渋滞です。先の読めない列に加わることを避けてバスを下り、石道寺(しゃくどうじ)-鶏足寺(けいそくじ)-己高閣・世代閣(ここうかく・よしろかく)の順で、当初の予定とは逆コースで歩くことになりました。再訪、再再訪…となる場所も含まれていた中、これによって、山裾に、石道寺の小さなお堂を眺めながら歩くチャンスが訪れたのです。


前回ここを訪ねた4月22日は、小型のバスでお堂に近い場所で下りたために周囲の様子はさっぱりでした。

             春先に
薄暗く小さなお堂。春夏秋冬、唇に朱を残し、右足の親指を小さく上げた、村娘のようなかわいさで讃えられる十一面観音がたたずんでいるのです。長い年月、大事に守り続ける村人、見守る観音。愛しいお堂にさえ感じられ心に沁むようです。


石道寺を下に見て、山道を上って鶏足寺へと進みます。写真で見るだけだった鶏足寺の散り紅葉の美しさをこの目で! これが今回のエスコートツアー参加の主目的でした。が、この人の賑わいでは…。


檀家もなく無住のお寺は朽ち果てるばかりだったという鶏足寺。散り紅葉の敷かれた長い石段道の先に建っていたお堂は、村人の手で再建されてまだ新しいようで、本尊の十一面観音は少し離れた己高閣に安置されておいででした。参道の両脇には大極殿や僧坊などの跡を示す碑が多く建ち、一般人が往来するための石段が別に参道脇には設けられて残っているのです。立派な、力のある寺院だったのだと偲ばれます。


ヒガンバナではなくトウガラシの赤い実が畑で目を引く初冬の里を、己高閣・世代閣へ…。

歩く楽しさを感じた好き日。ウォーキングツアー参加復活をしてみようか…、そんな思いもチラリと芽生えたのでした。



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 「観音の里めぐり」2

2015年06月22日 | 奥琵琶湖・湖北路を訪ねて
再び「観音の里めぐり-奥びわ湖観音巡礼」ツアーに参加、徳圓寺ー和蔵堂ー腹帯観音堂ー洞壽院ー全長寺ー黒田観音堂と6ヵ寺をめぐった。


写真左手にある和蔵堂では、会議出席のために不在の住職に変わって92歳の老坊守さんが、唇と裳に朱が残り、両の足裏を見せてかかとで立つ不思議な立ち姿の十一面観音像についてお話し下さった。井上靖さんはこの像を見て「立ち去り難い仏さまですね」と言われたそうだ。立ち去り難く感じる、とっても素敵な老坊守さんだった。


姉川合戦の難を逃れ、88年もの間、池に沈められていたと伝わる十一面観音像。晒しを巻いて泥まみれになっていた観音像を川から救いだしたと。お腹が少しふっくらした像だったために、晒しが巻かれたまま、安産祈願の観音さまとして祀られているらしい。安産にまつわるそれらしい話も残っており信仰も厚いようだ。美智子さまと雅子さまご懐妊時には腹帯を献上し、お礼状が送られてきたとのこと。姪っ子にお守りをいただいたので、さっそく送るとしよう。


湖北の寺でも最北端にある祠壽院。川のせせらぎを耳にしながら、苔むした老杉が連なる参道を上って行くのは、しばし「世俗を離れて」という心地。こんな場所を歩くのは?…と思っても、いつ以来のことか思い出せない。
宮家との縁も深く、本堂内には菊の御紋章がつき、徳川家の帰依も受けた曹洞宗の名刹。道場でもある。禅寺らしい素晴らしい霊域。冬は全山真っ白、雪が深く生活には苦労もあるが、寺を守っていくのに一生懸命だと口にされた55代目のきりりっとした若い素敵なお坊さん。良い声で、お話が聞けた。…と思っていたが、聞いていたのは声だったのかも。この場所に立ってみることだけで価値がある、と思う。

水上勉の小説『湖と琴』の舞台、大音の村落をバスで通り過ぎた。映画をみたと言われる女性ガイドさんの語りは熱っぽい。
お椀を逆さにしたような竹生島を遠望。月出、菅浦、大浦、塩津、葛籠尾崎、賤ヶ岳…と2013年にウォーキングツアーで歩いた懐かしい地名を幾度となく耳にし、所によってはその場を通り、と今日は観音巡りとはまた違った部分で気持ちがはずむ楽しさもあった。
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 「余呉湖行楽」

2015年04月27日 | 奥琵琶湖・湖北路を訪ねて

琵琶湖の北にある賎ヶ岳を一つ隔てた裏側に余呉湖はある。若狭に生まれ、この付近の西山という村の養蚕家に15歳で奉公に出て、糸とりをしている間に桐谷紋左衛門に見初められ、京都で女中をして暮らした「さく」。再び西山に帰って、姿を消してしまう短い生涯が『湖の琴』(水上勉著)に描かれている。


【自分でよった琴糸で首をくくって死んださく。その観音様のような美しい死に顔を誰にも触らせたくないと思った宇吉は、さくを糸箱に収めて、余呉の湖の深い淵へ沈めて葬ってやろうとう考える。(糸を入れて湿気の来ないように密閉してふたを閉め、遠方に送るための箱は、この辺りの農家には必ずあった)
「角のまるく温かそうな石を選って詰め終った頃だった。今まで、風が吹いて騒いでいた淵の水が、突然ぴたっと動きを止めた。とみるまに、空にたれこめていた黒雲が割れ、ふたたび月光がさした。…月はさくの冥府への旅立ちに、明りを添えてくれようと、わざわざ、ひろい余呉の湖の龍神の岸にだけ、ぽっかりと明りの輪をくれたようだった」
さくのいなくなった淋しさ、いっそのこと一緒にと、宇吉も湖底に向かって沈んでいく】

                             「天女の衣掛柳」


こんな舞台となった余呉湖を今日訪れてみた。「賤ヶ岳の戦で死んだ侍が、鎧を着けたまま眠っておると言う人もいる」(『湖の琴』)余呉湖。さほど高くはない山々が周囲を取り巻いているが、なかでも険しく切り立って落ち込んでいる賤ヶ岳方向を見やりながら、一周6キロほどのところ(南のほうは周辺の道路工事と重なって通行止めという事情もあって)歩いたのは半分ほどだったろうか。周囲の山々の緑の美しさ。水田風景の爽快さ。寄せるさざ波の音、ウグイスにトンビにカエルが鳴いて、鴨が飛び立つ。ヒメオドリコソウの群生、目も耳も心も奪われながら湖のすぐはたをゆっくり歩を進めた。琴の音を湖畔に聴くには、晩秋の夕暮れ時のほうがふさわしそう。
『ガラスの壁』(芝木好子著)では、瑤子と萩生が菅浦から余呉湖を訪れ、神々しい残雪の山に囲まれた暮れゆく湖を眺めている…。


今日は私たちも、「余呉湖行楽の帰り、高月の渡岸寺に詣で、十一面観音の艶やかな姿を見た」水上氏の行程をなぞった。1時間に1本の電車に合わせ、余呉から木之本、高月と2駅戻って、渡岸寺に立ち寄った。
と驚いたことに、つい先日22日に「観音めぐり」バスツアーでガイドして下さった方と観音様の前でお会いし、今日はここで説明を受けることになった。なんてご縁!! 氏は今年77歳に。
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 「観音の里めぐり」1

2015年04月23日 | 奥琵琶湖・湖北路を訪ねて
琵琶湖の北の地にある高月、木之本地域には国宝や重要文化財に指定されている仏像が特に多くあり(地元ガイド氏によれば300体はあると)、「観音の里」と呼ばれている。

京都御所の北に比叡山、その北方に位置する己高山(こだかみやま)は近江国の鬼門として古代から崇められ、古くは北陸十一面観音信仰、さらに比叡山天台勢力の影響を強く受けながら独自の仏教文化を構築してきたとされる。
「近江を制するものは…、」と言われたように交通の要所でもあった湖北地方は、姉川の合戦、小谷城の戦い、賎ヶ岳合戦など幾度も戦乱の舞台となり、社寺はことごとく焼かれてしまったという。川に沈め、土に埋め、さらには焼け傷んだ像の鞘仏まで造ってその胎内仏として納めるなどして護られた多くの仏さまたちが、静かに立たれたりお座りになっている“観音の里”。
「土地の習俗、信仰として秘仏を守っていくのではなくて、公開し観音さまが本来のお役目を果たされるようにすべきだ」と説かれたのが井上靖氏だった。

昨日、JR木ノ本駅10時30分集合で「観音の里めぐり」バスツアーに参加した。12名、夫婦が一組あっただけで、女性9名・男性1名が一人参加。東京からの日帰り参加者もいれば、神奈川や埼玉からは3泊の計画で高野山などを歩いてきたという人もいた。
現地のボランティアガイドさんのわかりやすい説明を得ながら、小型バスで各寺のすぐ近くまで運んでもらって、私にとっては有難迷惑とも言える楽さでの参拝だった。周囲の風景に目を馳せながら、風を感じ土地の空気を吸うといった大切な行程が完璧に省かれてしまったのは残念至極。車窓から眺める新緑の濃淡の美しさ、水を張った田んぼが初夏の装いだ。「風趣」、こんな言葉を使ってみたくもなるこの季節、そうした面での味気なさは残ったものの、参拝者があれば年中無休で村民が交代で鍵を開け応対して下さり、無住の寺を力を合わせ守り継ぐ姿の尊さには改めて心打たれた。




【赤後寺(しゃくごじ)】の千手観音立像と菩薩立像をぜひお厨子の中に拝観したいという思いがかなった。美術館でむき出しのまま観賞、拝観した時とは異なり、立派な安土桃山風のお厨子においでの2体は小さく見えた。渡岸寺の十一面観音像より50年ほど古いとされる。毎年3月2日の夜、堂内に幕を張り巡らせたあと、集まった一人一人の顔を確かめ、見慣れぬ顔があるとどこの誰かを確認。村外であれば親類縁者でさえ退出いただいたうえで初めてお厨子の扉は開けられてきたのだそうな。傷ましい姿を外部には隠したかったのだろうと。
【石道寺(しゃくどうじ)】の十一面観音立像はうすく紅をさし、右足の親指を立てた可愛い姿が印象深い。

【大円寺】の千手観音立像は手前の台にお顔が映る 
【冷水寺】の十一面観音像は胎内仏を納めた坐像。
【大井観音堂】の十一面観音像が今回特別公開。珍しい坐像の観音さまだった。

そして最後に【神照寺】を拝観し、長浜駅で解散。
4時前の播州赤穂行きに乗って、米原までは東京へ帰るという高齢の方と同行だった。菅浦神社を参拝した折の感動を聞いた。各人各様の関心で湖北周辺を回っているのを昼食時の会話から知ったが、それぞれに在るべきものを愛で、賞賛する心を持たれてることに魅かれた。だからこそ一木一草、一石にも仏心の宿り、そんなことを趣深く語れる人たちなのだろう。よい出会いもあった。
『星と祭』の再読もいいだろうな。そのためにちゃんと文庫本で購入してある。
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 「小さな記念室」のある町、高月

2014年06月08日 | 奥琵琶湖・湖北路を訪ねて


刈り入れ前の麦色が辺りを埋め尽くすかと思えば、水田の緑の量も増した米どころの風景を車窓から楽しんで、JR北陸線高月駅で下車。もうここまで来ると、琵琶湖北端の近江塩津に近いのです。
「有名な渡岸寺の十一面観音像をはじめとして、沢山の衆生済渡の仏さまたちが、静かに立たれたり、お坐りになったりしている古い町。琵琶湖を隔てて、遠く比良山系を望める美しい町、高月」(文学碑「聖韻」の詩文に 井上靖著)です。


昨日、30数年ぶりで二回目になりますが、手入れの行き届いた環境に静かにたたずむ渡岸寺(どうがんじ)観音堂を参拝。ここから東へぶらりと歩いたお隣には歴史民俗資料館があります。黒田官兵衛博覧会連携会場・開館三十周年記念で特別展が開催中です。

そのあと、平成5年4月29日にオープンした「井上靖記念室」を伴う町立図書館へ向かいました。『星と祭』(井上靖)に描かれている湖岸の十一面観音像が縁となって完成です。

遺品の品々、『星と祭』の複製原稿、地元民との交流の写真、氏の著書がずらりと並び、書斎を再現したコーナーなどがありと、小さいですが氏と十一面観音との関わりに焦点を置いた部屋になっていました。愛用の背広をマネキンが着ていて、立体感があるためか井上靖さんのそばにいるような気もしたり…。

【当初からこの事業は積極的な指示を得てはいなかった。本なんか読むのは限られたものだけだ、図書館など作っても活用などできるわけないと否定的な意見が多かった。にもかかわらず、背伸びしたものになってはいけないと注意もしつつ、本格的な図書館を作ろうと準備した。
オープン当日は司馬遼太郎さんに記念講演を依頼。弁当や景品をつけなければ人など集まるものかといった声が、職員の中からも上がっていた。ところが、千人収容の小学校体育館がいっぱいになってびっくり。町はじまって以来の大きな式典となってドタバタしているうちに一日が終わってしまった】
資料として置かれていた館長さんが書かれた「小さな記念室から」から、こんな経過が読みとれました。


この日を境に図書館をめぐる空気は一変。本の利用率は初年度から日本一に。
駅周辺にはコンビニの看板ひとつ目に入りません。穏やかな田園風景が広がる地帯、図書館に期待した人たちの熱い思いが計画を支え、利用率を上げているわけでしょう。

氏は小説を上梓後も幾度となく湖北を訪れ、渡岸寺や石道寺(しゃくどうじ)の十一面観音と出会い、それを秘仏として守り続けてきた土地の人たち、観音堂で参詣人の世話をする老人たちとの出会いも重ねられたとか。そして、土地の習俗、信仰として秘仏を守っていくのではなくて、公開し観音さまが本来のお役目を果たされるようにすべきだと熱心に説かれたのだそうです。それが、秘仏公開のきっかけとなったことを知りました。すごいことです~…。

また同じ風景を見て京都駅に戻りました。
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 奥琵琶湖を訪ねて-③

2013年07月16日 | 奥琵琶湖・湖北路を訪ねて
15日午前6時、滋賀県北部には大雨警報が出されていた。前日から、リュックは、雨具ばかりが大半でふくらんでいた。カッパにリュックのカバー、足元へのスパッツや折り畳み傘…と詰めて、タオルもいつもより2枚余計に持った。きっといつものようにたいして使わないですむだろう…、などと心のどこかで思いながら。今回は、帰途にスーパー銭湯に立ち寄るとあって、着替えも一式含めてある。

途中参加して3回目の行程は菅浦から大浦園地までの10.5kmとあるが、葛籠尾崎展望台でお昼を済ませてからの出発である。すでに山の上。さらにそこからゆるやかな登り道を行くと、竹生島を眼下にする展望所に出た。


「遠くから眺めるとその形には古墳の手本となったものがある」「前方後円墳そのままである」と書かれた白洲正子さん。(「かくれ里」) 大正天皇は「青いタニシ」と讃えられたとか。そんな竹生島へ、子供たちを連れて彦根港から渡ったのは、彼らが小学生だった頃の事だ。船の中でお弁当を食べることを、ひどく喜んだ息子を思い出す。竹生島の形をし、小さな穴を覗くと弁財天が描かれている赤い根付けは未だに手元にある。

葛籠尾崎のある琵琶湖に長く突き出たこの半島は、手入れがなされてなくて荒れ放題だった。見事な大木が折れて頭上の木々に橋を架け、足元は枝を張ったままの倒木が道を塞いでいる。またいだりくぐったりを繰り返す、難儀な道だった。が、本当の危険個所は、このあと。一気に下る斜面に、丸太で作った苔むした階段は足を乗せると滑る。落ち葉の下にかくれた石も、雨で濡れた落ち葉でさえもが危険だった。小さな悲鳴に「大丈夫ですかー」と、前を向いたまま声だけをかけていたガイドさんが、いきなりスッテン、尻もち!! 菅浦集落の東よりに出た。

背後に山を背負い南は琵琶湖という集落は、東西に二つの四足門を設けてある。この村を通過する時は一列で、と記した立て看板があった。




休憩を繰り返しながら、大浦園地まではひたすら湖畔沿いの道を進むだけ。ガイドさんの説明はない。速いテンポでさっさと進んでいく。ガイド氏がだ。「ガイドさん、おさきにどーぞ」と言ってみたくもなるというものだ。実際そう言いながら、この湖面の美しさが心を捉えるものだから、写真を撮ったり振り返ったりと自由に楽しみながら歩かせてもらった。ではあっても、適度に遅れすぎないように続くのだから、出来のいい一団だったはずだ。


この先も湖岸を歩くことになるが、さて次回はどうしようか…。予定通り、午後3時30分、ゴール・イン!
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 奥琵琶湖を訪ねて‐②

2013年06月25日 | 奥琵琶湖・湖北路を訪ねて

湖北沿岸の素晴らしい光景を見てみたくて、「ぐるり琵琶湖ウォーク」ツアーに途中参加したのが5月20日。昨日6月24日、前回のゴール地・塩津浜を出発地として-月出集落- 月出展望所‐ つつじ平展望所と葛籠尾崎の半島を南下しながら - 菅浦まで、約11kmの行程をクリアーしました。
月出集落までは湖岸沿いを歩いておよそ1時間。ここからです、民家の脇から入っていって菅浦まではアップダウンを繰り返す山道が続きます。昼食後からしとしとと雨が降り出しましたが、しばらくは樹林帯がやさしい傘を広げてくれていました。

 

月出の集落を抱えて静まりかえった琵琶湖、霧に煙った琵琶湖、いずれもまことに神秘な景観です。


イノシシが一目散に逃げていきました。根っこを大きく掘り起こしたあとがそこかしこに。「熊に注意」と注意板が立てられています。落ち葉の積もった段差のある上がり降り、枯れて荒れ放題の竹林、木々が倒れ、崩れた岩がごろごえろとした歩きにくい道が続きました。いよいよ菅浦集落まであと一つの下り道を残すだけとなった頃には、雨も上がり空にも明るさが増してきていました。
初めて目にした菅浦集落の光景は…

道なき道をくぐり抜け、ひょいっと出た所が灯篭が立ち並ぶ菅浦神社の参道だったのは、驚きでもあり大感激でした。


葛籠尾崎の半島が、断層運動によって押し上げられた山地だと知ったのは犬養孝さんの著書『万葉の旅』ででした。湖北には、大崎と葛籠尾崎の二つの半島が北から南に突出しています。そして、そこに奥深く入りこんだ小さな湾をいくつも抱えているのです。
菅浦は葛籠尾崎の西側の湾入りにあり、奥びわこパークウエイが開通するまでは、道とも言えない道が1本あっただけ、人の来ない陸の孤島状態でもあったようです。惣という自治組織を形成し、集落の入り口に立つ四足門より中へ他郷の者が移り住むのを許さなかったような集落でした。

理由はあるようです。菅浦という集落は、「淳仁天皇に仕えた人の子孫と信じられており、その誇りと警戒心が他人を寄せつけなかった。外部の人とも付き合わない極端に排他的な」だった、と白洲正子さんです(『かくれ里』)。



「岸辺に打ち寄せられたように小さな集落があった、風光の清らかな、寂とした流離の里である。… どこからか侵入者を監視する目を感じる」。 芝木好子さんの『群青の湖』をきっかけに強く関心を抱いた菅浦の地。主人公瑞子が自ら命を断とうと向かった先が菅浦でした。
参道をしばらく登ると急な石段の上に白木の神社が現れて来るようです。せっかくここまで来て、行ってみたかったのですが、…。「ここは死者の眠る奥津城なの。さざ波は人が死んで還ってゆく黄泉路でしょう」瑞子が言います。
今はすっかり門戸開放、民宿数軒、国民宿舎もあるようです。ですが、流離の天皇を祀った由緒ありげなかくれ里、私たちはそっと、静粛な気分に包まれて?入らせていただき、後にしました。


青さが深まる湖に葛籠尾崎の影が落ち、竹生島がすぐそこでした。波も立たない湖中に吸い込まれていくような静けさです。なにか心残りがあるのか、何度も何度も菅浦の集落を振り返らずにはいられませんでした。
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 奥琵琶湖をたずねて

2013年05月21日 | 奥琵琶湖・湖北路を訪ねて

全周約220kmの琵琶湖を16回に分けて一周する「ぐるり琵琶湖一周ウォーク」が開催されていました。昨秋9月、瀬田の唐橋から出発したこのツアーは、今回が8回目にあたります。湖北、奥琵琶湖を巡る回につまみ食いで参加してみたいと思い立ち、申し込んでいたのです。まさかの体調不良に見舞われコンディションづくりに慌てましたが、当日の朝の気分次第と決めてのぞみました。前夜は早めに就寝、ぐっすり眠れたようでした。

20日、午前8時35分京都駅八条口を出発。名神高速道路の集中工事による片側1車線の通行規制で、滋賀県長浜市湖北町にある「道の駅湖北みずどりステーション」到着は予定よりも遅れました。到着後、先ずお弁当とお茶でお昼です。お豆さんのおこわがおいしく、ご飯の量が多いのも「しっかり食べてしっかり歩けよ」という励ましに感じます。実際、案内書にあった12.5kmという今回の行程は、正しくは16km弱だと行きの車内で聞かされ愕然。したがって5時間前後このあと歩かねばならないことになります。

眼前に竹生島が浮かぶスタート地点を、ウォーキングリーダーのあとについて12時40分に出発。

延々と鹿よけの防護柵が施され、山藤や桐の花が咲く山沿いの道で片山集落を抜け、「西野水道公園」で一休み。「西野水道」とは、江戸時代、余呉川氾濫に苦しんでいた村人を救うために、古生層の岩盤から成る山塊をゲンノウとノミだけで琵琶湖へ水抜きのために掘削した、全長220m、幅1~1.5m、高さ1.6~3mの水路です。5年の歳月をかけ、私財を投じたのが西野村充満寺住職・西野恵荘だったと説明がありました。



1時40分、いよいよ賎ヶ岳リフト乗り場までの山越えの道に入りました。息が切れるひどくきつい山道、登っては休憩を繰り返し尾根に出るまでに1時間20分。起伏に富んだ尾根づたいを徐々に下ってリフト乗り場まで、山越えには2時間ほどかかりました。

石灰石を切りだしたあとが無残な伊吹山、その手前に青々と小谷城があった小谷山です。水田が広がる眼下の集落まで下ります。足元左下方に琵琶湖が広がっていることがわかるのですが、木々の茂りでよくは見えません。そして開けました!琵琶湖の展望の美しかったこと。2度と見ることのない風景を目に焼き付け、心に刻むばかりでした。

山を越え、「賎ヶ岳リフト乗り場」で小休止後、4時に出発。あと7キロ弱で琵琶湖最北端の塩津浜に到着です。旧トンネルを抜けて湖岸へ出たあとは、左手に琵琶湖を見ながら「飯浦(はんのうら)」へ、そしてゴールの「塩津浜」へと進みます。
飯浦から広々とした湖が広がり竹生島の後方に周囲よりは小高い長命寺山までが望めます。進んできた山中は明るい緑が湖面に映えています。


この山の向こうに余呉湖が広がるのです。

湖岸を作る山の切り立ちも美しく、水鳥が飛び立つ音を立てます。湖を抱きかかえて静かに日が傾いてゆく奥琵琶湖でした。

塩津浜ゴールは5時40分。名神の工事による渋滞を避け、湖西回りで6時前帰途につきました。
季節ごとに表情を変えるといわれる琵琶湖、この万緑の侯に訪れることができたのも嬉しいことです。しかし奥琵琶湖は冬、いつか冬にもう一度訪ねることができたら、幸せです。

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