京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

 やよいつごもり

2012年03月31日 | 日々の暮らしの中で

          白木蓮ひらくよすべて天に向き    野瀬潤子

白木蓮は日が当たると開き、暗くなると閉じるのだとか。あいにく朝からひどく雨が降りつづき、閉じた大きな花弁もしっとり感を増している。春先に存在感を誇示するかのように純白の花が印象深い。晴れ上がった青空を背景に見上げたいものだ。何色にも染まらず、洗練された美しさがある。

母はモクレンが好きだったのだろうか。聞いたことはなかったが、子供のころに一緒に植木屋さんまで買いに行った記憶がある。境内の隅に根付かせた紫木蓮だった。白木蓮に比べれば小さい小さいけれど、父や母と暮らした風景につながる1本の木ではある。

「やよいつごもり」、思いもかけない体調不良の1週間をはさんでしまったが、4月からの準備は進めてきたし、心ひそかにも新たな思いを方向付けてみている。三月尽きる時に思う…、心しなやかに春風を感じながら日々丁寧に過ごしていこうと。風は様々なものを運んでもくれる。先々で彩りを添え、やがては発色の奇跡があるやもしれないからね…。

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 記憶

2012年03月30日 | 映画・観劇

気温20.9度。この頃は朝の目覚めが早くなり、そのまま起き出す日が増えてきた。
「一刻千金」、一分一秒を惜しんでなどとは思ってもいない。

      映画「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」を見た。
なんとも大変な時代に、強い決断力を示して国の舵取りをしてきたものだ。
国のために生きた11年間。認知症を患い、幻覚や回想の中でドラマは展開している。滲む彼女の涙はせつないが、立派な人生だ。

最近、父の最期を思い出すきっかけになることがあったのだが、父は母を送って3年後、くも膜下出血で行きつけの医院で倒れた。長い時間をかけて目覚めた父に、私を娘だと認識する能力は残されていなかった。「かあさん」と、死んでもういない母を呼ぶ姿も悲しかったが、「今日姉さんの事をお寺の奥さんが来たって言ってたよ」と、弟から聞いた時の驚き。父にとって目の前にいる私と「お寺の奥さん」とは一緒ではない。こうした言葉が出る不思議…。

記憶が断片化されたり蘇ったり、潜在的な意識との関わり…、いったい脳の仕組みはどうなっているのだろう。

ふと我にかえれば、昨日何をしていたかもすっと思い出せないことがある。あれこれ友人とおしゃべりして、物忘れの度合いを笑い合った。必要以上に不安になって恐怖心で占領されるのも考えものだ。とにかく毎日の暮らしを丁寧に暮らすことか。
「物事は記憶せず記録する」と梅棹氏。心の内面より、毎日の出来事を客観的に記録しておくという教えだ。やはりそうか…、前夜は寺の世話方さんの寄り合いだったこと、書き残しておこう。

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 山道の趣

2012年03月25日 | 熊野古道(紀伊路・中辺路)を歩く
目覚まし時計は5時にセットしたが、朝4時に目が覚めた。「降ってない!」布団に潜ったまましばらくじっと外の気配を窺っていたが静かだった。雨は上がっているらしかった。起き出してみるとなんとも温かだ。やったね~って感じだったなあ。


参加者26名。前回のゴール地点・高原霧の里休憩所で早目のおにぎり弁当をいただき11時45分出発。

 
 
大門王子への道。この辺り、高原集落は宿場町として栄えたという。宿の跡もあったが、一里塚の横に残る廃屋は語り部さんの友人が建てたものだそうだ。民家にあったらしい庭木が巨木に成長していた。片側斜面にはかつて田畑が広がっていたというが、その面影はなく人工林ばかりだ。間引かれた木々は苔蒸している。朱の社殿が見えてきた。定家はこの付近の山中で1泊したそうな。


 
木洩れ日の美しさをしばし感じながら、片側が崖になっている道をただひたすら、一歩一歩登って行くばかりの道が続く。このあたりでも以前には民家があったという。行き倒れになった人を供養したものだというお地蔵さんは、口に小判をくわえているように見える。
山並みを眺める時間もなく通り過ぎる。慌てて撮った写真はピンボケだが、実際目にした山は幾重にも重なる美しさであった。帽子が吹き飛ばされそうな強風は、うっすら汗をかいた身体の芯まで沁みる冷たさだった。

                    
             
上多和茶屋跡付近に立つ道標に従って、左手から段差の大きな下り道が続く。一気に大坂本王子まで下る。どんどん下る。が、ここからは河原から集めた石で後世に作ったという石畳が敷かれていた。大きな段差をゆっくりと足を下ろすのだが、トレッキングシューズを履いていてもキュッと一瞬滑る。慎重に足の着地場所を求めていかなくてはならない。湧き出る水が石を濡らしている。小さな悲鳴が何度となく響いたが、人の事に関わってもいられず、自分の事だけで精いっぱいの感だ。脇は崖の道、やがて大きな川音を耳にしながら川沿いを下って行く。どんどん下る。写真などとる余裕もなく、大方下を向いて適度な間隔を取りながら前の人に付いて行った。

牛馬童子口、道の駅に出た。ゴールだ。13116歩。疲れた…。「どーもない」と言う人との違いはなんなんだろう…。

 
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 雨の予報に

2012年03月22日 | 熊野古道(紀伊路・中辺路)を歩く

熊野古道を歩いてみたいと思い続け、その夢をかなえようと一歩を踏み出したのが2010年10月3日だった。

この第1回目は、現地到着後語り部さんを囲んで皆でストレッチなどしているうちから雨がポツポツし始めた。「あー、降ってきちゃったな…」と思ったものの、終日いっこうに苦にはならなかった。徐々に雨脚は強まり、やがては雷を伴って激しさを増した雨中の行進というふうだったのに。雨は覚悟のおよそ16㎞のコースだった。
こうして少し振り返ってみても、まあまあなんと楽しい思い出になっていることか。ちょっと胸熱くなりかけてあの日が蘇る。以後まったく雨とは縁が切れ、順調に回を重ねてきた。

が、再びここにきて、どうやら今週末は危ない。明日午後遅くからは紀伊半島でも激しく降りそうな予報が出ていた。たっぷり浸み込んだ上に翌朝も雨だろう。

24日土曜日、12回目の熊野行きはこちらでも雨降りの朝を迎えそうだ。
今回、牛馬童子口まで約8kmの道は、このルートの最高地点・上多和(うわだわ)茶屋跡まで5・3kmほどの長い登り坂が続く。ここを過ぎると大坂本(おおさかもと)王子に向けての40分は一気に下っていく。その後15分も歩けば牛馬童子口に到着だ、雨は止んでいるだろうか。

登るも下るも滑る石畳には要注意、足元が悪い。雨には雨のよさがある、だが、山の向こうに山山山、果てしない果無山脈の眺望が煙ってしまうとしたら、やはりちょっぴり惜しまれよう…。

リュックにかぶせるザックカバーを買ってきた。
杖も雨合羽も用意した。靴や靴下の替え、場合によってはズボンの替えもと考えている。

手抜きをせずに周到に準備して、楽しい熊野ウオークにしないといけない。遠い将来振り返ったときに絶対に楽しい思い出として残るはずなのだから!!
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 クルマのせいで

2012年03月20日 | 日々の暮らしの中で

信号待ちの交差点で二人の外国人が会話をしていた。少し後ろに立って待っていたら、左側の男性が“Do you like sushi?”と尋ねたのがはっきりと聞こえてきた。私に背を向けて立つもう片方の男性がどう答えたのか…。

あいにくこの話は進展しない。つまりは聞こえなかったのだ。前を行き交う車の音が邪魔したのかもしれない。YESもNOも、マグロの「ま」の音も耳にしなかったから、わからずに聞き取れなかったというより、明らかに聞こえなかったと言えそうだ。尋ねた人は寿司が好きだったのか、あるいは自分は食べられないが相手に聞いてみたのか、何もわからずじまいのままなのが残念に思えてくる。耳を澄ますだけでも街には面白いことがいっぱいある。

クルマのために人間の動きがコントロールされている面がある。信号がある。信号が変わってもそこに立ちつくしていれば邪魔になるし、勝手に道路の真ん中で立ち話もしてはいられない。石ケリなんてする話どころではない。人の流れで押し出されたり、クルマをよけて端へと追いやられたり。普段から祇園祭の時のようにあの四条通りからクルマが消えたら、人間はどんなにゆったりと自由に解放されることだろう。「歩くまち」作りが話題になるが、ちまちまとした交通規制ではなく大胆な発想はないものだろうか。

きっと寿司は好きそうな気がする。何の根拠もないが、その後の会話は寿司の話で盛り上がっていなかった。だから、フツーに食べられるのではないかな…。
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 不調日

2012年03月17日 | 日々の暮らしの中で

芍薬の小さくてもしっかりした芽を見ていた。昨夜からの雨が潤いを与えている。地表に顔を出すこの力強さ、たくましい生命力に見飽きることがない。真っ白な花が咲く日が楽しみだ。

めったにない不調日。ごくごくたまにある、頭痛のチョッとひどいヤツで、さすがに昨日は動き回れず一日中ごろごろと過ごしてしまった。
休養とはどんなに洒落っ気を出しても言い難く、起き上がればむかつきで閉口したが、おかげさまでこの時間帯になって復調!を感じていられる。

まったく突然の変調だった。すぐ直るだろうと思える時と、気分的にエネルギーや時間を費やしそうな不安がよぎる時とがある。最近はずっと心身の疲労といったものを感じることなく過ごせてきた。1週間後に熊野行きを控えているので、今でよかったと思うことにしよう。早めの注意信号が点灯したと思って、ゆるりと調整しようと思う。

ゴロンとしていてできることはそうはない。他に楽しみもないので結局読書となった。
古書市で買った一冊。会場に入って中央の筋、左手に並んだ書籍の中に見つけたものだ。しかも奥から1冊1冊と目を凝らして入口の方へ進みながら見つけた本。こう言う具合に本との出会いの状況を記憶していることが多い。それぞれが意味を持つ1冊なのだ。

 
どんな人が読んで手放したのか…。しっかりした装丁で紙質もよい単行本だが、なんとも無造作にページの隅が折られている。しかも頻繁にだ、閉じるときにの目印だろう。これはとても残念だ。ラインが引かれていたり書き込みは許せる私だが、いかにも雑な扱いを感じてゾクッとするものがあった。

ゾクゾク寒気を感じるのはここだけにして、明日から復活できそうだ。



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 お母さんと一緒

2012年03月13日 | HALL家の話

昨日今日と雪化粧の朝を迎えた。

4歳になるまさ君がお母さんとかくれんぼを始めた。「むこう向いて」とだけ言ってお母さんは隠れようとするが、そりゃあ無理というもの。すぐ振り返って話しかける4歳児に、「むこう向いてなあかんやろ~」の繰り返しだった。で、10数えようか…、と言いかけてやめた。しばらく気をひいてから「もういーいかーい?って聞いてみたら」と促すのと、母親の「もーいいよー」の声とが同時だった。母親がいた方向に一目散に駆け出すまさ君。幼子が100パーセントの信服を寄せる母親、よい時期、大切な時期だ。

 

この15日には孫のTylerも生後半年を迎える。夜がだいぶ涼しくなってきたというブリスベン、季節の変わり目にHall家は“鼻水多羅四郎”の一座と化して鼻をすすっているらしい。あの家族は年中風邪を引いているような気がするが、その割には子どもたちはたくましそうだ。力強い足で「こぐ」のか、座っているバウンサーが揺れる揺れる!!その揺れようが、揺らしようがなんとも楽しいそうだ。見てみたいこと~。

Jessieが初めて日本にやってきたのも生後半年を過ぎた時で、6年前の3月下旬だった。今は毎日楽しく小学校へ通っているというからまずは一安心か。親は迷った末に、日本の補習校へも通わすことに決めたという。確かに判断の難しい選択かもしれないと思っている。どっぷり英語圏での学校生活ではだめなのだろうか。わからない…。
当分帰国はなさそうかな。元気で笑って暮らせ、ふふふふふふふ。
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 自分を大きくできる、と

2012年03月11日 | 日々の暮らしの中で

本日開催された第1回目となる京都マラソン、市民ランナーの数は「1万4942人」と新聞報道されていた。

「マラソンをなめたら大変なことになる。痛いほど思い知る体験をしてからは、勝つためにしっかり準備をして慎重にレースをするようになった。マラソンはいつでも諦められる。だから、走るのをやめたいと思った時、あと少し続けてみようと思えるかどうかが大切だ。人生と似ている。走った分だけ苦しさに耐えた自信が生まれ、自分を大きくできる」瀬古利彦さんはこのようなことを語られていた。

そして、「人が走るのは本能。子供は何も教えなくても走り回るでしょ。大人も本当は走りたいんだよ」とも。
そうか、やっぱりね。私が年齢も考えずに突然走りたくてウズウズしてくる気持ちは“本能”だったのだ。けど、そこはやはり悲しいことに、ドタドタと100メートルがやっとこさで、しかもいかに体が重いかを痛感させられる。ここをクリアーすればいいのかと思いながら、走る必要もないなと自らを抑え気味でもいる。けど、懲りずにチョコチョコっと小走りを繰り返す。これが最近は案外楽しい。あくまでも、ほんのわずかだけ取り入れているこちょこちょ走りなのだけれど。

息子は参加すればよかった、と今年初めに口にした。「週2-3回、10キロ走る程度ではあかんやろ~」と落ち着かせたが、友人と参加してみたらと言ってみようか。
今日という日をどう過ごしたことだろう…。

1年前、仕事で出向いていた渋谷で地震にあった息子から、これから歩いて帰宅すると連絡が入った後は電話はもちろん携帯のメールまでもが通じなくなった。
福島、宮城に住む親戚をも思いながら、不安な時間を過ごしていたのを思い出している。




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 きみちゃん

2012年03月10日 | 日々の暮らしの中で

ひょっこりと杖を突いて出て来られたきみちゃん、見るとセーターは着込んでいるものの震えている。真冬に戻ったこの気温にはいかにも寒そうだ。縁に腰かけてとはいかないおしゃべりに、ストーブの前に特等席が用意された。年回忌の相談だった。

足が弱ったとはいえ、畑に出るのを楽しむおばあちゃん。道路に背を向けて草むしりしていると、「おい、きみちゃん!尻が出てるぞ」と通りすがりのおっちゃんから声がかかるのはしょっちゅうのことだ。なぜわかるかと言えば、その場によく居合わすからに他ならない。すると、頬被りした顔を向けて立ち上がり、大きな笑い声をあげ、ゴムが伸びているんだとかなんとか言いながらごそごそしだすのが常なのだ。

できれば捕まりたくない、陽気なきみちゃんは呼びとめたら人を離さない。捕まえるのがうまいから、足を止めたらいけない。足早に去る、そのかわしようがみそだ。言ってみれば勝負所だ。悪い気がしたりもしてよく立ち話する私は、それがうまいのか下手なのか…。

この凍てついたような土では畑にも見放されているし、暇なのだ。そんな彼女のお相手はバトンタッチするに限る。しばらく間をおいて、「きみちゃんか~、おおきに~」と、負けないほど大きな声を先触れに、ゆっくり杖をついて婆様が登場。
これで一件落着、私はお役御免と相成り候。

ずいぶんたくさんの人と別れた。元気に長生きせんとね~、きみちゃん。


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 かかわり

2012年03月08日 | 日々の暮らしの中で

あらゆる生物の遺伝子の基本構造は同じ― 遺伝子DNAの構造が解明されたことは20世紀最大の発見だった。近代科学も「いのちは一つ」を物質レベルで証明していった。(先端科学の進歩が仏教の正しさを証明した、という観点でお話は進んでいった。)

地球上に「いのちは一つ」、ここからすべての物が派生していった。
つまり、イヌもコウモリもミミズもダニも、足元を素早く走り去るあの憎っくき黒い物体も、草も木も、みなDNAは一緒。かつて、バナナと人間は30%、チンパンジーとゴリラは99%DNAが一緒だと聞いたことがあった。チンパンジーと人間を分けたのは「ことば」だったと。みんな一緒なんや~、とも簡単には思えないが…。

日本では科学以前から古神道の世界で石や草木にも命の存在を見ていた。山を御神体としたり、川や木を拝んだ。仏教でもそうしたものに仏性を見出している。地球上のあらゆるものは関わり合いながら生きている。では、私とミミズの連鎖はどこにあるのか。幸い花粉症を患ってはいないが、人間の無計画な樹木の伐採がもたらしたものだとしたら私利私欲に走ってはなるまいなあ。あの人と私も、「関係ねーよ」という間柄では片づけられないことになる。でも、あまり近づき過ぎてはうっとうしいなあと思われるかもしれない。

いずれにしても直接にも間接にも何らかの形で関わり合って生きているということだ。今度ミミズを見たら殺生することは慎もうと思った。科学の話は不似合なのか、収穫はこんなところに落ち着いてしまった。
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 ぽつっぽつっと

2012年03月06日 | 日々の暮らしの中で

梅はタネからの生育ということで木一本づつみな遺伝子が異なるために開花の時期は別個になるのだという。一方、桜は挿し木や接ぎ木で生きるので、同種であれば遺伝子が同じために若い木であっても開花はいっせいにそろう― と、こんな話を少し前にラジオで聞くことがあった。


そのせいか、と思い出しながらぐるっとひと巡りしてみた。花の芯に小さなハチが寄っている。雨上がりのせいだろう、辺りに漂う香りも心なしか重く感じられた。
どっさりと洗濯しながら掃除を済ませ、今日は早めにウォーキングに出ようと決めていた。
水辺の温度計は15度を超えている。気持ちよく汗だくになって、傍らの梅林をのぞいての帰宅だった。再度洗濯機を回してしまった。

          

午後から、パソコン点訳ではなく手打ちで点字を書くために、少し復讐?に時間を費やしていた。ビニールのシールに直接打つため失敗が許されない…。パソコン入力のま逆を手で書いていくだけ、と言えば「だけ」だが、それがついま逆のま逆に勝手に点筆が動いてしまう。これではまずい。少し練習がいりそうだ。
ぼちぼち積み上げた点訳の作業、活かせる道が一つ広がろうかとしている。これからもぽつっぽつっと自分のペースで~。

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 潤い、芽吹き、うごめき出す 

2012年03月05日 | 日々の暮らしの中で

奈良の正倉院に伝わる天平年間の暦「儀鳳暦」では、二十四節季が「立春」「啓蟄」「雨水」、そして「春分」の順で続いているのだという。「雨水」と「啓蟄」の順序が今とは逆になっているのがわかる。この暦の日本での使用開始は697年、67年間使われていたようだ。
もともと、二十四節気は古代の中国文化の中心だった黄河流域の気候を基準にしたものだというし、その成立が今から二千数百年も昔だとなれば、多少の違いは当然のことと言えそうだ。けれど、概ね優しい感覚で日本人の自然観にも取り込まれているのではないのだろうか。

凍っていた土がゆっくり潤い始め、草木は芽吹き始める。土の中でも、冬籠りしていた虫やカエルが目を覚まし地上に這い出すころとなり、草木がいよいよ生い茂る「いやおい」(弥生)の月…。
天体現象や気象に関連する名称ぞろいの中で、生物に由来するという特異な「啓蟄」だが、生きとし生ける物がやがて到来する春本番に向かってうごめき出す。少しづつ前へ進みつつある気配はいいものだ。

今日、池にカメが泳いでいるのを見た。間違いなく冬眠終了のカメだ。

こうした季節の中で、いくつになっても、それなりに熱い思いを秘めていられる自分を感じられるのは嬉しいこと。まずは自分の本文を尽くさねば。

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 もとひめまつり

2012年03月03日 | こんなところ訪ねて

「ひな祭り」にあやかって、元・姫たちでランチを楽しみました。
それぞれの趣味嗜好を語り合える時間は嬉しい。謙遜されていても知的な興味に溢れているのを感じる時、私はつい夢中に食らいついてしまうようだ。

東本願寺の別邸、渉成園。周囲にカラタチの生垣を植えたことから枳殻邸(きこくてい)とも呼ばれる。「約1万600坪の敷地を有し大小二つの池と数棟の茶室、持仏堂と書院群で構成されている」と説明されている。
西門を入ると目に入る高石垣。現在の建物は、蛤御門の変により炎上した以後に再建されたもので、持仏堂の「園林堂」(写真下・左)と山門に当たる「傍花閣」(同・右、階上は4畳半の部屋がある)を結ぶ線を中軸にして全体の庭作りがなされているそうだ。それは、真宗門徒のお内仏を中心とした生活規範の反映だと言われている。

 
 

暖かな日差しを受けて、足を延ばし散策した。梅の花の多くはまだつぼみだったが、ほころびだしたものもある。かぐわしい香りが漂う。

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 古都「奈良は仏」

2012年03月02日 | こんなところ訪ねて
東大寺二月堂で修二会が始まった三月一日、午後から奈良を訪れた。

  

踏み切りを渡ると目線の先に、周囲を森に囲まれて山門が目に入ってきた。屋根の流線が美しい、写真でだけ見ていた本堂が脳裏に浮かぶ。ドキドキしだしたのは、これから確かめたいことがあったからだ。

縁に腰をかけ友人とほほ笑む懐かしい一枚の写真が手元にある。かれこれ四十年近くにもなろうとしているが、学生時代の“源氏万葉旅行”でのものだ。厚手のオーバーを着込み寄り添うのは美智子妃殿下似の美しい友。

残された写真を撮った日は、夕刻から春日大社若宮のおん祭りでの演目を夜遅くまで見ていた。篝火が焚かれて12月半ば、厳しい足元からの冷え込みがつらくて早く宿に帰りたいばかりだった。泣きそうな思いで時間がたつのを待っていたのをしっかり記憶している。
宿は奈良公園に近い日吉館だった。今はすでに跡形もないが、多くの文化人が愛したという宿だった。狭い部屋で雑魚寝状態。そんなところにも部屋があったのか?というところから朝には人が現れて、若い時とはいえ慣れぬことで神経質な私にはあまりよい心地ではなかった。
昼間歩いたどこかの寺での一枚、ここ不退寺の境内であったことにようやく得心がいった日となった。

門をくぐり入ると、「ピンポーン」が鳴った。拝観料を納めるべく案内された。花の季節にも間があって訪れる者は少ない時季だ。本堂に上がりかけると今度は老僧が出てこられて正面に導かれた。立ちっぱなしでは、と座りかけるや機関銃のような解説が繰り出された。人の動きや気持ちなど量ろうともしない。

私自身は少しの記憶も残っていなかったが、椅子でふんぞり返る老僧に「実は一度こちらへ…」とお話させてもらうと、「40年も前やったらここらはみな田んぼで…」とお顔も柔らかに口はいっそう滑らかに愛相が増す。観光への振興策もおぼつかない様子で、このごろはさっぱりだと嘆かれる。
在原業平によって建立された由緒あるこの寺は、「法輪を転じて退かず」と発願、「不退転法輪寺」と号し略して不退寺(業平寺)と呼ばれている。長いこと秘仏であった業平自作の本尊は、光背や像に色彩を宿したまま静かに長い歴史の中で佇んでおられる。

 
 

「奈良は仏 京は庭」!と老僧だった。
法華寺の美しく整えた門跡尼寺の“品格”もさることながら、ひっそりと柔らかな風情の不退寺や、海竜王子に見た崩れた土塀に感じる年月の持つ温かみをむしろ好ましくさえ思う。京都とは異なる古都・奈良の魅力、もっともっと知りたい別格の地なのだ。栄華を極めた平城京の中心地、平城宮跡。復元された第一次大極殿脇を歩き過ぎながら、はるか向こうに朱雀門を眺めていた。ああ~、ロマン~。
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