京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

おどろくような話じゃあ、ないんだよ

2024年12月19日 | 日々の暮らしの中で
  僧とケーキ (12月23日)   
あれは、何年前のことか。正確な年代は、もう覚えていない。だが、日付けは脳裏に刻まれている。12月24日。クリスマスイブの午後であった。ケーキ屋の前に、クリスマスケーキを買う行列が、できている。その中に、私は見たのである。袈裟姿の僧侶が、並んでいる光景を。日本人はキリスト教をうけいれなかった。これが、宗教学の常識である。しかし、その風俗は受容した。私がその点で、確信をいただけた一瞬である。

  本堂にイブ (12月24日)    
クリスマスケーキを僧侶が買っていた。私はその光景に、軽いショックをうけている。多くの人に、そのことをふいちょうした。浄土真宗で得度をした宗教学者にも、つげている。やや、うろたえ気味の私を、くだんの学者は、こうさとしてくれた。うちの家は、西本願寺系の寺でね。毎年、クリスマスイブには、本堂でいわっていた。そりゃあ、そんなものなんだ。おどろくような話じゃあ、ないんだよ、と。

  4月8日も降誕祭 (12月25日)  
クリスマスイブは、デートのクライマックスをむかえる日にほかならない。あなたこそ、自分にとっての本命である。そのことをたしかめあう日に、今の日本ではなっている。若い僧侶にとっても、その点はかわらない。キリストの生誕前夜際に、お坊さんたちも、いちばんたいせつな異性をえらんでいる。たとえ、祇園祭の日には、ほかの人とデートしていても。もちろん、シャカの降誕日など、4月8日らしいが、誰も気にしていない。


地元紙の朝刊コラムで一年間(’17.4.1~'18.3.30)、井上章一氏が「現代洛中洛外もよう」と題して書かれたことがあった。
専用のノートにスクラップする年もあるが、なぜかこの年は気ままに残し、今手元にあるのはクリスマスに関連した話題など年末の6日分しか残っていない。
クリスマスをどう過ごしているのか、よその寺に聞いたことがなかったので、これを読んで(へえ、本堂で!?)と驚いたり、(そうなんだ)と言う思いで気づかされた感じだった。我が家でも子供たちにプレゼントを用意もしたしケーキもいただいた。別にこっそり楽しむなんてことではなかった。

  親心からのミッション (12月28日)
私は二十世紀末に、神戸女学院大学で教鞭をとった。プロテスタント系のミッション校である。いつも授業を受けに来たのは、30人ぐらい。なかに、お寺のお嬢さんがいて、おどろいた。この学校へかようことに、ご両親は反対しなかったの。そんな私の質問に、彼女はこたえてくれた。親はいい学校に入れたと、よろこんでいる。ここを自分にすすめたのは、両親だ、と。お寺さんは、しばしば子供をミッション校にいれたがるらしい。


そうなの? もっとも、甥っ子は実力以上の公立高校を目指して失敗し、ミッション系の高校に進学した。寺の跡継ぎだった。相当にへこんで暴れていたらしいが、今では立派に跡を継いでいる。

夏のクリスマスを迎える娘家族にカードを贈ろうと思ったものの時機を逸したような…。しかたがない。ごめんしてもらおう。
言っていたケアンズからのAustralian Mango が届いた。

 
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ほほえむ花あり

2024年12月17日 | 日々の暮らしの中で

白川通りで信号待ちしたとき、左手はスーパーだった。
たぶん、一輪。
細く白い紙に巻かれたものを手にして自転車を出そうとしている若い外国人男性が目に入った。道路に出るやそれを口にくわえ、去っていく。その後姿を見ていた。

偶然見かけただけなのに、なんだか見る者の気持ちをあたたかく、軽やかにもしてくれた。
一人で暮らす部屋に飾られるのだろうか。
誰か待っている人がいるのだろうか。



楽しく暮らしていると思うけど、悲しいことがあって花を買ったんじゃなければいいのにな。
彼の部屋の、花のある暮らしにちょっとばかり想像を積み重ねた。
暮らし上手。そんなことにまで思いをはせる。
花はほほえむことだろう…。





一季奉公人として、一年限りの武家屋敷勤めをしていた“俺”。
ずっと定まらず、江戸に染まらなかった人間が、40も過ぎて人を好きになり、人の死を悲しみ、「家族」を感じるまでになる。
“俺”の生きる意味も変化する。

江戸末期の社会不安のなかで自分が望んでいる暮らしを問い、きっとこれまで以上の知恵を働かせて生きていくだろう。よいラストだった。
辛抱が心棒を作った。
“俺”は、最初思った以上に人の心をよく察するし、何より自分自身を見つめる人間だった。
楽しく読んだ。

いつの世も、ちょっとした暮らし上手の心づかいが豊かさをもたらしてくれそうだ。

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日常

2024年12月13日 | 日々の暮らしの中で
厳しくなってきた寒さの中で色を凝らしているけれど、近づいてみれば葉先は色褪せが始まっている。
それでも、「日おもてにあればはなやかな冬紅葉」(日野草城)。


この秋は紅葉の観光名所を訪ねることは一度もなかったけれど、何度か大津方面へと国道1号線で逢坂越えをしたので、沿道の人の手が入らない木々が目の醒めるような色づきを見せてくれるのを楽しんだ。

感動的だった。車の流れもあって止まって写真を撮るなんてことができるはずもなく、だがそれがいいのかもしれない。脳裏に、まなうらによみがえる。

その1号線沿いに、もとは橋本関雪の別荘だったと聞くが、「走井 月心寺」と記した軒行灯が下がった庵のような小さな構えの門がある。
中の様子はうかがい知れなく、苔むした瓦屋根がのぞけ、うっそうとした木立、高みに積もった落ち葉に無住なのかと思うのだが、それらの樹々の紅葉もまたすばらしいものだった。
NHK朝の連続ドラマとの縁があるらしい月心寺。

何度か通うたびに色づきの変化があり、秋から冬への移行を感じてきた。
人の一生もどこか似通うものがある。

今日はかつての文章仲間6人が集えて会食の機会を得た。琵琶湖を見下ろし、鈴鹿の山並みを遠望したりするロケーションに、寛いだひとときを過ごした。
作品に触れるたびに向田邦子原作のドラマを彷彿させた大先輩がいたが、施設で亡くなられたのを知った。
どたばたと賑やかな取り込みごと多発の日常を、人間関係の葛藤も含めてよく書かれていた。

日常は書き残しておかないと消えてしまうものだとよく思ったものだった。
写真もよそ行きの写真よりも、ごちゃごちゃした日常の写真が断然面白いと永田紅さんが書いていた。時間がたった後に、懐かしく愛おしく価値を持つのは日常のこまごまの何でもない情景だと…。

これからは文章を通じてその姿を偲ぶしかない。
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なぜ?の答えはふと

2024年12月11日 | 日々の暮らしの中で
「貞応3年(1223)12月11日 運慶没す」

『荒仏師 運慶』(梓澤要)の最後の一行はこう終わっていたので、手持ちの歳時記にメモを残しておいた(旧暦では1月3日にあたるという)。
それが目に留まったというわけだが、東大寺南大門の仁王像、阿形像と吽形像の配置が向かい合う形になっていることが読後ずっと引っ掛かりを残していた。
何か特別な理由があるのだろうか。


重源上人は運慶の言葉を聞いて目を剝いて怒鳴り散らした。
「なに? 仁王像を向かい合わせるだと? そのために、門を造り直せだと?
痴れ者め! いまさら何を言うか。そんなことができると思うてか」


運慶はいつになく強引に上人の手を引いて外へ連れ出して言う。
 ー ご覧ください。参道を進んでくると、仁王像はいやでも目に入ります。最初は遠く、徐々に近くなって、門の前まで来て見上げる。これでは見る人は衝撃を感じませぬ。間近に来て不思議な像だと驚くより先に、目が慣れてしまいます。

前方の壁をふさいで見えぬようにしておいて、門をくぐる際にはじめて、
「向かい合った阿形と吽形が両側から睨み下ろしている。いやでも驚きます。巨大さにあっと声を上げ、奇怪な姿に圧倒されるでしょう」

 

(向かって左側に阿形像、右側に吽形像)

門は侵入せんとする魔や邪悪なるものを阻止する装置であり、仁王は戦士である。同時に、われら人間の心の煩悩や穢れもうち払う。そのためにはぎりぎりまで引き寄せておいて、一気に出現し、一瞬にして打ち倒す。その方が効果的だ。

じっと門をにらんで黙りこくっていた上人、
「あいわかった。すぐに門を造り直させる」と宣言した。
そのあと、運慶は吽形像の眼球の視線をより下向きに修正した。

といった具合で描かれていた。
大河ドラマでも時代考証をなさっている倉本和宏氏は、日文研退官記念講演で力説された。
「歴史を語るのに、歴史文学を根拠にしてはならない」と、資料の扱いの大切さを説かれた。
そうですよね。ただ、小説とわかっていながらそうかもしれない、なるほどなるほどと共感してしまう。とは言っても、本当はどうなんだろうと疑問は抱いている。思うだけなのだが。

「なぜ?をいっぱい持っておくと、答えはふといつかやって来るものだ」。ある講座を受講の折にアドバイスをいただいている。
来るまで待とう…。
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デんしゃに乗って

2024年12月09日 | 日々の暮らしの中で
京阪電車で中之島へ向かい、その帰りには三条京阪で降りた。

11月のいつだったか地元紙のコラムに、「関西の人は『〇〇電車』という言い方をよくする」と書かれていたことがあった。
考えたこともなかったので、確かにそうだなあと気づかされた。
京阪電車 ー「ケいはん」と「ケ」にアクセントが置かれ、阪急電車 ー有川浩に同名の小説があり、そうそう、近鉄電車もある。
いちいち「電車」までは言わないことが多いだろうか。京福電車もある、叡山電車を忘れてた。大阪へ行けば阪神電車ってのもあるけど、乗ったことあったかしら? 
なぜ『〇〇電車』というのかは知らない。そしてコラムの内容も覚えていない。



三条通りに面した北側から地上に出ると、通りを挟んで向かい(南側)に、京都御所に向かって土下座をする高山彦九郎の銅像がある。


彼については尊王論者という理解しかしていなかった。
ところが、尊王思想を守り続けたことは、幕府を倒すための大義名分であり、幕府に対して徹底的に抵抗した運動家、論客であったというのだ。孤独な戦いであったようだ。やがては絶望して自刃する。



自説を世に広めるため全国を遊説したという足跡がすごい。
房総半島を一周し、水戸、白河、仙台、盛岡、久慈、青森を経て津軽海峡沿岸に達し、秋田、山形、米沢の地も踏む。もちろん東海道、北陸の富山、金沢、福井、松江にも行き、山陽道から九州へ、福岡、佐賀、長崎、熊本、中津、宮崎、鹿児島へ。



『高山彦九郎日記』という膨大な日記が残されていて、それを読んだ吉村昭氏は、考え方を改めたと「反権論者高山彦九郎」で記していた(『歴史の影絵』収)。
ここ駅ビル上にある中古書店「ブ」に立ち寄り、買って帰った一冊。めっけもの!

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ささやかに十分楽しく

2024年12月07日 | 日々の暮らしの中で
紅葉真っ盛りの雑木の森が夕日を正面に受けて美しく輝いていた。その上の空高く高くに、おおきな弧をゆうゆうと描く一羽のトンビ。
空を見上げながら、私の一日の終りです。


今日は寺子屋エッセイサロン一年の収めの日として寄り合いました。
内容はなんでもありの400字文章で、それぞれが思いを披露することを試みました。

学期末の試験を終えたばかりの中高生には、400字と言えど負担かもしれません。書いている暇などなかったでしょう。けれども文章の巧拙ではなく、誠実で思いがこもっていれば聞いてる側の心に届きます。聞く側も思いを汲めるのです。
私には600字という枠で書いていた時期がありましたが、それよりも短く400字。これはもう、小さなことをふっくらとですね。



    

江戸に居て江戸染まぬ、“俺”。
どんな人間が交錯し、もつれ、展開していくのか、などはやはり小説を読む上でのたのしみの頂点です。 
読み始めたところ。




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心よき笑い

2024年12月05日 | 日々の暮らしの中で
まっすぐ進んで右に曲がると、赤い山茶花が咲く高い塀のような植え込みがある。
その小道を通り抜けて左へ曲がって道路を渡れば、田圃が広がる間の道をまっすぐまっすぐ。
山すその墓地への道。


少しばかり斜面を登って、線香をくゆらせ父や母にも手を合わせた。


柿の木の葉が庭に散って、風に吹かれてあちらこちらに飛ばされている。鳥があちこち歩きまわるのに似ているから、「かきどり」と言ったらどうだろうか   ーと明恵上人は冗談を言われた(『あかあかや明恵』)。
かきどりは「柿鳥」のこと。

路上の街路樹の落ち葉が風にあおられて一斉に同じ方向に吹き飛ばされるや、軽やかに跳ね上がり転がりながら四方に散ってゆくのは、「葉鳥」と呼んでしまおうか。

信号待ちをしていると、横断歩道の真ん中あたりで高齢女性が転んだのが目に入った。
起き上がれない。少しの間があって後ろから駆け寄った女性が手を貸すが無理で、前方からもう一人、さらにもう一人、女性が三人がかりで抱き起して渡り終えた。
一人、二人、三人の仏を見た。人間ってすばらしいものだと心をぬくめた。
停止線から2台目の車の中から何もせずに見ていた私だけど…。


そのまま大津の友人のお宅に伺って二時間あまり楽しくお喋りをしてきた。
かつて共に学んだ文章仲間で、最近入手したという吉川宏志の『読みと他者』や青木桐花の句集『あるがまま』を得意そうに見せてくれた。
疎くて知らずにいたが、吉川氏が書かれたものを地元紙で拝見することはある。
彼女の前では言いにくいが、道浦母都子さんの『挽歌の華』を気に入っていて、しばしば開くことを話した。

興味関心の分野が異なるものを持つ友との交流に目が覚める思いは有難い。
心よき笑いに、ここのところの気持ちの疲れが晴れた気がする。  
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親しさの膝を寄せあう

2024年12月02日 | 日々の暮らしの中で
「小春の空の晴れつゞき。」
と書き出される荷風の「小春」という詩(『偏奇館吟草』収)のように、日曜日からぽかぽか陽気に恵まれて(おそらく明日も)、土・日と勤めた報恩講を無事終えました。

お参りのなかったご門徒宅へ、午前中に“おけそさん”(お華足さん - 積み重ねて供えた丸い小餅)をお届けにあがり、後日の会計報告を待つばかりに。
後片付けはボチボチと。

初日は昼から、二日目は朝から晩まで、当番組の方々と共に過ごし、お参りには本堂に寄り合い、法話も共にいただき、もうまさに
〈親しさの膝を寄せあう親鸞忌〉でした。
段取りを確認し合いつつ、何かを一緒にすることで親しさや信頼度が増すのは、老いも若きも変わりないことですね。


ただ、私は膝に特別な故障を抱えてはおらず平素から正座も可能なのですが、立ったり座ったりが響いたのか、今日は歩行中に関節の芯?に鋭い痛みが走りあわてました。




寛喜4年(1232)正月19日の朝、明恵上人が亡くなりました。
8歳のときから上人のおそばにいたイサが、日々を振り返る視点で物語は語られる。
華厳教学を説く師に、最後まで出家せず従者として仕えたイサ。
死に別れれば二度と師に巡り合えない。

死後の世界を思ってイサは、阿弥陀仏の慈悲を信じ、念仏を唱えさえすれば、誰もが阿弥陀仏の西方浄土に生まれ変われるという浄土教の教えを知りたいと、初めて思い始めるのです(ここ、興味深い)。
ここ高山寺にいて自分で学び、俗体のまま寺男のまま、命尽きるまで亡き師にお仕えするのだ、と。
末3行。
  あるべきようわ ー 。
  「おまえはおまえのあるべき様を考えて生きよ」
  明恵さまのお声が聴こえる。

と読み終わりました、『あかあかや明恵』(梓澤要)。
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8歳に

2024年11月29日 | 日々の暮らしの中で
娘家族が大阪の地に住まいを移したのが2016年5月でした。孫娘は小学校5年生に編入。弟は幼稚園年少組に。
その年の11月29日、第3子Lukasが誕生しました。
日本を離れることになった2021年6月まで、生まれておよそ4年半を暮らしたというのに、今では日本語がおぼつかない。なんてさびしいこと。
コロナ禍で閑散とした関空から、「オートスラリア」なんて言いながら父と姉の待つAUSへと飛行機に乗り込んだのでした。


1歳過ぎた冬の朝。
カラスが「カー、カー」と鳴く声を耳にしたとき、空を見上げて「あー、あー」とLukas.
「るーちゃん、あーちがうよ。かーだよ」
するとまた「あー、あー」とLukas。
(よけいなことを言ったものです)

まもなく3歳になろうという秋の夕暮れどき。
「みて! くも!」
夕飯の支度に精出していたときLukasが驚いたように窓際に私を誘います。
建物と建物の間の空が真っ赤に染まっていました。
「かじ、かじ」

「夕焼け」という言葉を教えたときでした。

家を出て少しのところに西を遠望できる場所があります。山並みの向こうに太陽が沈んでいくのが見える場所。
どうして真っ赤な空を見あげに外へ連れ出さなかったのか。
ボクシングジムに通っていた兄のTylerがお腹を空かしてもうすぐ帰ってくるだろう時刻で、夕飯の支度を優先してしまったのです。
あとになって悔いを感じたのでした。

たくさんの想い出をしまっています。

今日8歳の誕生日を迎えました。幸いなことに前日にカードは届きました。今朝は、母親に作ってもらったクラスメートぶんのカップケーキを持って登校でした。

 

2か月にわたるトーナメントの決勝戦が先日の日曜日に行われ、惜しくもの2位。


市のアカデミーのクラブに属していて、サッカー漬けですが、楽しそうです。
(ベンキョー〈も〉ちゃんとしてるかな? 言いたいけど言わずにおこう)

一日一日を全力で過ごしているのです。親に叱られたり、きょうだい喧嘩をしたりしながらも、誰かに見守られていることをしっかり感じられることで、安らぎも自信も持てるようになるようです。
「家族ってそういうあたたかいものなんです」
ある日突然Tylerの口から飛び出した言葉が思い出されます。

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一枚の写真の奥に…

2024年11月27日 | 日々の暮らしの中で
11月30日から12月29日まで、京都新聞ビル地下1階の印刷工場跡で「世界報道写真展」が開かれるそうです。
世界各国のフォトジャーナリストの作品を展示し、紛争や気候変動などの問題を伝える写真展。


記事によると・・・、
世界報道写真財団が主催する世界最大規模の報道写真コンテストで、今年は130の国と地域から約6万点の応募があり、「今年の写真」にはイスラエルによるガザ攻撃を取材するモハメド・サレム氏の「めいの遺体を抱きしめるパレスチナ女性」が選ばれた。

横2m、縦1.3mのパネルに印刷された入選作品32点を6地域ごとに並べ、日本語と英語の説明文が添えられるそうです。

入賞作は80都市以上を巡回しているそうですが、日本では2021年を最後に途絶え、3年ぶりの復活です。
会場は15年まで毎日ニュースを印刷していた場所。
ムリョー、無料です。
が、作品の輸入や会場制作に費用が必要でクラウドファンディングへの協力を求めています。
(市営地下鉄の今出川駅⑦番出口から南へ、近いですよ。)


「写真には時間的、空間的な距離を飛び越えて、見る側を想像の世界へと強く誘う力があるのだ」と竹内万里子さんが昔、むかし書いておられた。
異なる状況に置かれた人々に対して想像力を働かす。
「一枚の写真の前で、遠く離れた他者への想像を膨らませることを学ぶ意義は大いにあるだろう」。自然環境についても同様でしょうか。

一枚の写真の奥に、自分は何を見るか。

私も行ってみるつもりでいます。誰か誘おうかな…、いや、ひとりがいいかも。

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辻々で別れ別れて

2024年11月25日 | 日々の暮らしの中で

畑の土をつけたままの
今日は母の祥月命日。
お内仏の花を立て替えるのに松を真にして、この日ばかりは母を偲んで、母も好きだったダリアの花で色味を添えた。

「人は生涯がだんだんに詰まるにつれて、何かの折に、境遇によっては自分がたどることになったかもしれない別の生涯を想って、ほんのつかのま、それに惹かれることがあるらしい。」と古井由吉さん(『楽天の日々』)。
必ずしも後悔の念からではない。別に現に歩んできた人生より華々しいとは限らない。
「生涯の郷愁のごとき情」、と言われる。

「人はどこかの辻で自分と左右に分かれた、もう一人の自分がいる。高年に至れば、あちこちの辻やら角やらで別れた自分の分身の、数もふえる」
身に覚えのある事がさまざまでてくる。

御茶ノ水駅に近い病院に入院していた。この界隈は好きな場所の一つだったし、母亡きあと何度か病院の近くを訪れては、母が最期を迎えた部屋はあのあたりと上階の窓を見あげたことがあった。
64歳で亡くなった。恩は返せるものではない。ただ謝するのみ…とはまさに!


先ごろなぜか書棚から取り出した『京都うた紀行』(永田和宏 河野裕子)は、地元紙に連載されたものがまとめられている。
2008年7月から2年間の連載を終えてほどなく、河野さんは64歳で亡くなられた。
初回の連載が紙上に載るのと前後して乳癌の転移・再発が告げられたというから、時を経ての読み返しは時に涙が誘われる。

放火とみられる出火で焼けた本堂も、黒く焼け焦げた本尊も復元された寂光院に出かけたとき。
人々の何百年の祈りを御身に吸いとってきた存在である古仏に、手を合わせ深く頭を垂れた。
そして添えられた歌が
   〈みほとけよ祈らせ給へあまりにも短かきこの世を過ぎゆくわれに〉 
だった。

あちこちに分かれた似たような顔を増やしながら、
「あまりにも短かきこの世を過ぎゆく」われら、でもあるのだろうな。
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どことのう おもしろく

2024年11月18日 | 日々の暮らしの中で

日曜日は少年野球の試合があって声援やら歓声やらで賑やかなグランドでした。
立ち止まって応援に必要な?わが子(孫)がいるでもなければ見知る子もいない。無心に見て楽しめるというほどの関心もなく横目にみながら通り抜け、周辺を小一時間ほど歩いたのでした。


先日、ブログを通じて吉川英治記念館があることを知った。
50歳になっての頃、唯一、吉川英治 歴史時代文庫で『親鸞』(1~3)を読んでいるに過ぎなくて、氏のことも作品についてもほとんど知らずにいる。
少しその先をネット上で探っていて、吉川英治氏の〈至言〉とやらに出会った。

「小説というのは、自分を読むんですね。読者はめいめい自分を読んできたんです」

 規制から解放された自由な連想での「感想という名の読書会」のやりとりが重なってくる。メンバーは超高齢者。混乱の記憶など、そのまま認めている。
自分勝手な発言のようで、課題本の作中人物の視点とずれてもおらず、寄り添いつつ、まさに我が事として意識されていく。

なかなか読み進まないのは、言葉(描写)の過剰な文章がまだるっこくて、呼吸が合わないせいだろう。ページをのべつめくり返している。
でもそうした過剰さによって、かえって高齢者集団のやりとりの様相がうまく表されているとも感じる。

ひとこと言うたびに中断され、能天気に無駄話。何か言うたびにおこるどよめき。「いま、なんて?」と聞き返しては、確認し合う。
「たとえ聞こえなくても、いちいち、みんなで確認しないこと!聞こえなくても聞こえてるフリしましょう」と会長がいら立つ。
そうかとおもえば、彼らの耳がよく聞こえるようになったりする。
こうした「読む会」の進行がこってり描写されるのだ。

一方では、「何かひとつ意見が出ると、それにみんながわあっと飛びつき、全乗っかり」で「他人とピッタリ歩調をあわせ」てくる。

(ある、ある。こういうこと何度も見ている、聞いている)と私自身、過ごしてきた体験を根っこに読んでいるのだ。
自分自身のこととしても、(ああ、おっしゃる通りです)と至言にうなづく。


今日、報恩講を前にして世話方さんたちと当番の組から数名とが寄ってくださった。
本を見せて、ここまでの荒筋を紹介して、笑いあって、オススメしてみた。
本に関心を示した一人、二人。
わが身を重ねれば、いずれは記憶の混乱だってひと事じゃなくなるだろうし、どことなくおかしくて、どことのう切ないような。


93歳のまちゃえさんの発言に88歳の会長がキレた!
「ちょっとアンタね」
「よくまあ言ったシリからポンポンポンポン出まかせが言えるもんですネぇ!ええ?…」
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己の分を

2024年11月15日 | 日々の暮らしの中で
公園の銀杏の葉が黄色い。
巨木だが樹形が悪いせいか、今日は時おりの小雨にみすぼらしく濡れていた。

昨年は孫娘の来訪を心待ちにするこの時期だったが、今年は寂しいかな、それもない。
それでも秋はくる。
そして冬支度を思うころ、今年もまた報恩講の時節となった。

親鸞聖人のご命日法要として真宗門徒には一年で最も大切な仏事としてお勤めされてきた
(東本願寺にては11月21日~28日)。
そして月末には私どものところでも勤行させていただく。
当番組の女性陣の手を借りて、仏具は磨き上げられた。組の方々に当日の裏方としての段取りはお任せだ。
私はまずは本堂内陣の荘厳(しょうごん)、その他諸々の準備を担うことになる。


とは言え実際は、関わってくださるすべての方々と縁がむすばれ、力が添えられ、声を掛け合ってお勤めは無事に終えられる。
「あなたがしかるべき場所で、しかるべき役割を演ずることは、今までお育て頂いたことへの報恩行です」

自分がいただいてきたものを根っこに、この言葉に込められた願いを味わうと、それぞれにどう読めるでしょうか。

賜った場所に坐し
いつわりなき光に照らされつつ
すべてと共に実りゆくいのち…

それぞれに己の分を尽くさせてもらって生きましょうか。
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年輪

2024年11月13日 | 日々の暮らしの中で
あらっ、この子はひらがなで書けば簡単な文章なら読めるのだったかしら!?
小学校入学前の一年間(プレップ)、その延長で、小学校生活はAUSで始まった。日本語の読み書きを習っていない。
口は達者で、巻き舌早口の英語で連射してくるが、…確かめておくべきだったかな。

今月末に8歳の誕生日を迎える孫のLukas宛にメッセージカードを出した。


姉か兄か母親に読んでもらえばいいと漢字まじりで書くことにした。
“おもしろ孫録”と名付けたノートを取り出してエピソードを探す。
どっさり書き込んで、手元のものをペタペタ貼って、裏にも「しんちゃん」の口を借りてお祝いの言葉を連ね、さらには寿司まで贈った。


2週間の余裕は持って出した(早くついて欲しいわ)。



こちら超高齢老人集団の読書会は、喫茶シトロンの若い店長(28歳)を巻き込んで、彼の視点から描かれていく。


朗読の本が決まると、会長(88歳)によって担当箇所の割り振りがなされる。
一人の朗読が終わると、その都度〈感想という名の想い出語り〉が実に真剣に交わされるのだ。

長年懸命に人生を歩んできた先にたどり着いた、それぞれの今。
超高齢で、枯れているように見えながら内には熱い思いを秘めている。
〈感想という名の想い出語り〉は、幼児みたいに感情の起伏も大きく、気ままも見えるけれど、老人と幼児は違って未熟なのではない。
今後、個々をどう浮き彫りにしてくれるのか…。

実のところ今はまだ描写のこってり感にまいっていて、3分の1ほどしか読み進んでいない。
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かかわったが故に起こる幸や不幸を

2024年11月05日 | 日々の暮らしの中で
昼から点訳の会合に参加した。
その折、よく一冊を分担して仕上げる3人ほどの気心が知れた仲間がいるのだが、「どうかな?」と名前を出された塔和子さんのことを私は深く知らずにいた。

名前はそう遠くない日に何かで触れている、という記憶だけを頼りに帰宅後、切り貼りしてあるノートのページをめくって目当ての記事を探し出した。

幸・不幸の積み重ねが醍醐味 〈人とかかわったことで起こる幸せや不幸を積み重ねて人は磨かれる。それこそが生きる醍醐味、豊かさなのだ。
塔和子さんの詩、「胸の泉に」はそう教えてくれる。〉

ジャーナリスト川名紀美さんが地元紙の連載コラム「ひとりで生きる みんなで生きる」の中で紹介されていたこの詩を、知ろうともせず後回しにしてしまっていたのだ。


塔和子さんは1929年に愛媛県で生まれ、11歳(と思われる)でハンセン病を発病し、13歳のとき国立療養所大島青松園に入所。1952年ごろに特効薬で病気は完治したという。それでも亡くなる2013年まで、70年にも及ぶ隔離生活を余儀なくされた。その間に多くの詩を書いた。

   胸の泉に

かかわらなければ
  この愛しさを知るすべはなかった
  この親しさは湧かなかった
  この大らかな依存の安らいは得られなかった
  この甘い思いや
  さびしい思いも知らなかった
人はかかわることからさまざまな思いを知る
  子は親とかかわり
  親は子とかかわることによって
  恋も友情も
  かかわることから始まって
かかわったが故に起こる
幸や不幸を
積み重ねて大きくなり
くり返すことで磨かれ
そして人は
人の間で思いを削り思いをふくらませ
生を綴る
ああ何億の人がいようとも
かかわらなければ路傍の人
  私の胸の泉に
  枯れ葉いちまいも
落としてはくれない

 〈人とかかわったことで起こる幸せや不幸を積み重ねて人は磨かれる。
    それこそが生きる醍醐味、豊かさなのだ〉


軽い言葉ははばかれるけれど、
ふと、中村久子さんの生涯が胸に浮かんできた。久子さんは歎異抄に救いを見いだされていた。

塔和子さんの詩集の点訳をしてみない?という誘い、ぜひ参加させてもらおう。
コメント (8)
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