京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

「期待と弾み心」

2020年05月30日 | 日々の暮らしの中で

4月初旬には京北の地にある常照皇寺に桜を訪ねたが、以来、人の出のある所へは行かないように心がける毎日だった。花のタネをまいたり読書をしたり、手作りマスクやちょっとした洋裁を手掛けてみたり、仏具の磨きものや家内の片付け等々で日を過ごし月末に。

5月になっても自粛の生活が続く時、田辺聖子さんの〈気を取り直す、という才能〉という言葉を心に留めていた。
閉塞感のある日々に心身をほぐす工夫を優先した。それがウォーキングの機会を増やすことだった。ゆっくり歩く 歩きなれた道ばたででも新鮮な目を凝らし、耳を傾ける。通りがかりのよそさんの庭木、路傍の花、鳥の声。季節の移りはちゃんと感じてきた。

今まだ檀家さんへの月参りもなく、私自身も相変わらずのひと月を過ごしてきて5月も終わろうとしている。
聖子さんは、人間が持っている良きもの二つとして〈期待と弾み心〉を挙げられていた。ここでこそ気持ちを引き立てようとまずは一昨日、美容院に行って、いつになく短めにカットして、ゆるくパーマを当ててもらった。「6月の例会への準備も進むね」と。そう、ちょっと先に気持ちを向けて、自分の今を自分が満足できる状態にしていきたい。何でもいい、自らを奮起させる力がいるほどに家籠りが長かったものね。


冬にはすべての葉を落とす梶の木に柔らかな若葉が吹いて、まだまだ小さいけれどたくさんの実をつけている。誰か見上げる人はいてるだろうか。立ちどまってじっと見るのが、通るたびのひそかな楽しみになっている。
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マスクをしたり外したり

2020年05月27日 | 日々の暮らしの中で

マスクの夏の対応法。屋外で近くの人と少なくとも2m以上の距離を確保できる場合には、マスクをはずしてよい、ということのようだ。朝刊で小さな記事に気付いた。
人とすれ違うことがめったとない散歩道で、マスクをしている意味があるのかと思っていたものだから、熱中症にかかるリスク回避のためとはいえ今後はマスクをはずすことにしよう。

よし早速と、近隣のスーパーへマスクをせずに向かうことにした。日傘をさしているので前方から人が来たら顔を隠せばいいだろう。しかし、途中でコンビニに立ち寄り支払いを済ませる用事があった。店の入り口でマスクをして、出たらはずす。次にドラッグストアーに寄ったのでまたマスク。そしてはずして、そこから5分も歩かないでスーパーに着。なんとうっかり、マスクをするのを忘れてしまった。出る時にはしっかり消毒薬を手にシュッシュッ。

混み合う人出などはないものの歩く人たちは圧倒的にマスク着用者だ。私だって昨日まではそう。暑いけれど、人の多少にかかわらず生活圏内ではマスク着用が無難なのかしら。難しい判断…。気まずい思いを日傘で隠して足早に帰ってきた。

  辛いという字は
  もう少しで幸せになれそうな字
    ……

こんな言葉が寺の掲示板にかき出されてあった。〈もう少し。いっしょに頑張りましょう 〉と続いていた。


   
  追記6/2 
〈もう少しで幸せという字になる〉と記しましたが、掲示板を再確認、上記のように〈もう少しで幸せになれそうな字〉と訂正いたします。〈星野富弘〉と名も添えられてあり、 氏の言葉だったと思われます。


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「積ん読崩し」

2020年05月25日 | こんな本も読んでみた
         

「時間が自由になるこんなときでないと読めない本がある」「かなり長大な作品」「静かに自分を見つめ続けた記録なので、それを読む読者のがわにもゆったりした時間が必要だろう」

新聞紙上で〈積ん読崩し〉と題したコラムが始まり、今日で5回目になった。
紹介される作品には長短関係なくあまり気持ちが向かないが、私自身にも3月に買ったまま積ん読状態で文庫本4冊が残されていた。昨日読み終えた『秋萩の散る』(澤田瞳子)には、5編の短編が収められている。

帰国の途に就いた4隻の遣唐使船。藤原清河、阿倍仲麻呂、鑑真らが乗っていたが、清河、仲麻呂が乗った1船だけは日本の港に着くことがなかった。玄宗皇帝のもとで出世した仲麻呂は56歳になっていた。帰国しても重用の見込みもない心の裡…。「夢こそ未来を切り拓く」と20歳で唐に渡った仲麻呂の夢を描いた万葉オペラの舞台を観たことがあった。思い合わせて読んだ「凱風の島」。

日本と唐を行き交う船には遭難がつきものだった。国と国を結ぶ200とある南洋の島々を富ませるために、島の位置を書き記すのに石碑ではなくあえて木牌で立てることを選んだ高橋連牛養。彼の真意を知り、遺志を継ごうとする吉備真備。「桃李もの言わざれども下自ら蹊(みち)を成す」、と「南海の桃李」。

阿倍女帝(孝謙天皇)の死後たちまち下野薬師寺に追いやられた道鏡は、女帝に寵愛され、並びなき高職につき、帝位さえも狙う稀代の妖僧だと仕立てられる。女帝が自分の人生を狂わせた、と胸のどこかで芽吹く恨みの種…。だが、美しい過去の思い出のひとかけらを胸に、70歳を過ぎたこの先を生きていこうとするまでの心の裡が描き出されていたのが表題作「秋萩の散る」。

歴史上に名前を知られた人物の様々な人生を見ながら、澤田さんが描く5編の世界がつながり、一つに合わさって、豊かに濃い余韻に浸る時間が訪れる。ほんのひと時であれ、時代に生きて悲喜こもごもを味わう。司馬さんが言われていた「精神の酔い」なくしては味わえないものだろう。

黒岩重吾の『弓削道鏡』を読んだのがちょうど55歳のときだった。ある日、どうした具合か突然だったが右膝関節に痛みが出て歩こうにも歩けず整形外科を受診した。一週間に一度、何回か通ってワンクール、ステロイドと記憶しているが注入した。効き目は早く、以後一度の再発もないままでいるが、このときに図書館で借りてきて読んだのがこの作品だった。ちょっと読み返してみたくなった。
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何を選択するか

2020年05月22日 | 日々の暮らしの中で

21日、緊急事態宣言が解除された。
「ずっと家にいた」と子供も若者も口にする。外出の自粛という選択を受け入れて、およそひと月。休業要請の解除も拡大されつつあって、街中への人の出も増えていくのだろう。だからといって、

デパートの開店前からの列に加わる選択肢はないし、仁和寺の拝観が始まったから明日にでも行こうという意欲もわかない。
この先、自分はどのような選択をするだろう。何かのはずみで思いもかけない選択をすることだってあるが、それだって、「ああ、それはやっぱりあなたらしいよ」と人には映るだけのものかもしれない。

今は「解除」の言葉を聞いても、別に何が変わるでもなくて気分も高揚しない。それなりに日々すべきことをしながら気持ちの維持には努めてきたつもりでいるが、3月後半、4月から続く自粛生活がもたらした気持ちの落ちようみたいなものがあるのかもしれない。まあ、ゆっくり気分の上昇を待つつもりでいる。その時、何を選択することか。白はすべてのはじまり。すべてを受け入れる色。

6月初旬の文章仲間との例会は開催するという連絡を受けとった。
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「変身の力」

2020年05月20日 | 日々の暮らしの中で

周囲の山々は次第に色を濃くし、ブロッコリーのような盛り上がりを見せてもいる。初夏の光が注ぎ、万緑に英気が満ち溢れる。この力に私は時として圧倒される。

立派な枝ぶりに豊かに葉を茂らせた満開のヤマボウシが風に揺れて、爽やかで気分がいい。
白いと言えば、大山蓮華をみてみたい。この天上の白い花は、弥山から釈迦ヶ岳への尾根筋にだけ咲く幻の花だった、と前登志夫氏が書いている。氏には大峰修験の山伏たちの白装束が奥駈道を行く光景を想像させる花だという。白はすべての始まりだ。

「若葉の木々は全身をもっていのちを歌いあげているのだ。その幹に感情がみなぎり、大地をしっかり掴んだ根っこから 、しなやかに空を指す梢まで樹液を上昇させ、木々の言葉を五月の風にひるがえしているのである」(『いのちなりけり吉野晩禱』)
やさしい自然も、荒ぶる自然も、わたしたちが「よみがえり変身する力」そのものにほかならないとも氏は書かれる。

心身ともによみがえる体験。こう家にこもりがちな日々には近隣を歩くほどしかなくきた。
コロナ禍は気象の異変によるものではないにしても、氏の言われる「非時の嵐」と言えなくもない。「新しい生活様式」という言葉がしきりと耳に入って、変化を求められている。少々うんざりするし、窮屈ではあるが、今を生きるには工夫するしかない。

心身ともによみがえる。変身する。さてどのように…。人と人、心と心、つながって…。
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ひと手間を

2020年05月18日 | 日々の暮らしの中で

昼から孫のLukas用に、ふくらはぎ半ばほどの丈でズボンを作り始めた。夏は短い丈が涼しくていいだろうと思うが、転んだりして膝をケガするから長めのほうがいいのだと母親は言う。

型紙通りに縫ってほぼ完成だが、(作り手の)物足りなさが残る。迷ったが、やはりワンポイントで飾ろう。ひと手間かけて、心を足して、ということだ。一針、一針、顔を思い浮かべては気持ちが向かう、最後の仕上げみたいな時間になる。
ため込んである図柄や図案集を出して思案。

生地さえあれば数枚は作れそうだが、男児用の服地が手元にない。
手元にあるもので利用できるといいが、3歳とは言え、まさか花柄とはいくまいなあ。

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青葉雨

2020年05月15日 | 日々の暮らしの中で

いつだったか随分前のことだが、庭師さんから「プロペラみたいにくるくる回って地に落ちる」と教えてもらったことがあった。楓の種(?) 可愛い花が咲いているのを楽しんでいたが、今はもうこうした赤い〈プロペラ〉を見かけるようになった。


散歩を兼ねて遠回りしながら近くのスーパーまで行った帰りの信号待ち。道路脇に見上げた柿の木に、花が咲いていた。よそ様のものながら、この木はおそらく渋柿ではないかと思っているが、毎年かなりの実をつけている。根拠は、なりっぱなしというだけ。我が家にも渋柿が1本あるが、柿スダレもいいなあと思いながら誰も手を出さない。
今の時季、柿若葉も美しい。

朝から曇り空で、夕刻遅くには雨が降る予報に、「トマトやキュウリが喜んでるよー」ってご近所さんが嬉しそうに笑う。丹精している畑に雨が待ち遠しいのだ。まだかまだかと待つトマト、キュウリ、それにスイカの苗??

「青葉雨」という季語がある。それに相当するのは、これまで「緑雨」だった。「緑雨」はアダルト向きで、「青葉雨」はヤング向きだ、と坪内稔典氏が私見を述べられていた。そして、
   「緑雨です今くちびるに触れないで」(わたなべじゅんこ)を、
   「青葉雨今くちびるに触れないで」と変えてみると、二つの違いがわかるだろう、と言われる。

「緑雨」は濃淡があって複雑だ。それに対して「青葉雨」は淡色、軽くあっさりしていて、今の時代の気分に合うかも、とのこと。

とりどりの若葉の緑、ちょっと楽しく鑑賞させてもらった。青葉雨、雨はまだこれから…。
 
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小さな花を

2020年05月12日 | 日々の暮らしの中で

明るい日差しが注ぎ、気持ちが晴れ晴れするが、ふっと、(ああ、どこも行くことはできないんだな)などと思い直している自分がいる。
せめてウォーキングどきに小さな発見を楽しもうとする日々だが、気温が上がったこの頃、マスクをつけて歩くのがどうにも不快だ。極々たまに人とすれ違ったり、いきなり後ろからジョギングの人が私を追い越していくが、こんな状態でマスクって必要なのだろうか。
山の白藤が花盛りだ。オレンジの花の蕾が開き出していて、ミツバチが羽音を立てていた。鼻を近づけてみると、かすかな香り。爽やかでもあり渋さもあるような。

まだ?と待っていたゲラ刷りが送られてきた。
例年6月発行の同人の会誌で、今年は30号という記念の号ではあったが3月、4月、この5月と例会は中止、印刷屋さんのほうも仕事が滞りで、すべてに遅れが生じている。長年在籍の同人は相当な愛着を持つ会誌だが、参加して3年目になる私は一歩も二歩も気持ちは後追いだ。それでも4作、原稿ときっちり突き合わせて確認し、修正を加えるなどもした。明日もう一度見直したら返送するつもりでいる。更なる校正を重ねていく。
まずは6月の例会が開催できるといいのにと楽しみにしているが、どうなるかしら…。

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「風も吹くなり 雲も光るなり」

2020年05月11日 | こんな本も読んでみた

どこといって行きようがない今だが、「『あじさい忌に』尾道へ。」一度は訪ねてみたいと、再読になるが『ひとり居の記』(川本三郎)のページを繰っていた昨日。
芙美子生誕110年にあたる2013年の6月の末に講演の仕事で尾道に行かれたことから書き始まる。
尾道では47歳で夭逝した作家・林芙美子の命日(6月28日)を「あじさい忌」として顕彰していて、氏は着いたらすぐに千光寺公園内にある尾道市立美術館を訪れたようで、大正モダンと呼びたい素晴らしい建物だと賞賛されている。
千光寺、境内からの海の眺めが素晴らしいという浄土寺。行ってみたいとこれまで何度も思いはわいたが、きっかけがないままに。東京から新幹線で行くも、倉敷か福山で在来線に乗り換えるのが氏のこだわりらしい。それも、映画「東京物語」の原節子に倣ってのことだそうで、むろん帰りもだと。

女学校時代の先生が芙美子の思い出を記したものを引いていたが、それによると芙美子は明るい性格で、「朗らかでクラスではいつも笑いの中心になっていた」という。〈花のいのちは短くて、苦しきことのみ多かりき〉。林芙美子といえば貧乏のイメージが付きまとってくるが、実は、〈花のいのちは短くて、苦しきことのみ多かれど、「風も吹くなり 雲も光るなり」〉と続くのだと知って、芙美子の印象を改めたことがあったのを思い出した。性格の一端がのぞけ、ずっと好感が持てる。

天候がイマイチで、外出予定もないせいだ。『本と暮らせば』(出久根達郎)では中谷宇吉郎の「I 駅の一夜」を知り、青空文庫で読んでみた。この I駅はどこのことだったのだろうと思いながら、駅に近いというつながりで、長野県の塩尻駅にごく近い宿で友人たちと一泊したことを思い出すことになった。ここから名古屋に向かった二十歳代の思い出を。

母娘のブラウスと、幼子のステテコづくりをし始めていて、この洋裁のあい間の時間を楽しむために本を読むといった感じ。そんなこんなで昨日は一日が暮れちゃった…。


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無事を喜ぶこと

2020年05月07日 | 日々の暮らしの中で

朝刊の休刊日で、朝の楽しみに大きな穴があく。
ウグイスの鳴き声がしきりに聞こえてくる。午前中は本を読んで過ごした。

散歩やウォーキング、時には孫と公園に出かけることを日課のようにしてきたので、比較的うまく気分転換してきたつもりでいる。それでも、ああ、いつまで続くのかと、さすがに少々「自粛疲れ」のイライラ感が我が身を襲うようになってきた。「。。たい」「。。。たい」、たいと、たいたい尽くしで、多いつもりで少ない分別、といったところ。

〈若い頃には、変わりない日々に物足りなさを覚え、時には苛立ったこともあったが、もともと人間の暮らしは、最も充実しているとき、概して平坦で静かなものだ。日々の暮らしにあっても、また旅に出ても、人は無事を喜ぶではないか。事が無いということ、平坦に変わりなく生命(いのち)が流れるということ、それは御仏の慈悲と考えていいものなのだ〉
久しぶりに都を訪れた西行が、藤原秋実に変わりがないことを何よりのことと喜んで語る一節があった(『西行花伝』)。

まあるいお月さんが東の山の上に昇ってきたのを見ていた。
清らかな月の輝きに、心も澄みゆくようだ。今日も無事に一日を終えられたことを喜ばせてもらおう。
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まず種を知るべき、だった?

2020年05月02日 | 日々の暮らしの中で
1971年に公開されたイギリス映画「小さな恋のメロディ」に使われた「若葉のころ」(ビージーズ)という歌が、原題は「First Of May」であることを知って、何度かYouTubeで聴いてみていた。「First of May」、5月1日。もう、それも昨日のことになってしまった。


一袋にミックスされた種を、大雑把にプランターにまいたのが4月19日だった。
一部密集しながら今これだけ芽を出し成長してきている。花はよく知るヒマワリやマリーゴールドだけれど、この状態でどれが何やら判別できない。



けれど何種類かがあるのは見分けることができる。

ウーン。。。、この先…。
「どうにもならないことは放っておけばいい。おまかせしてしまえばいいのです」
こんな声が聞こえてくる。
でもこのままじゃねぇ。できることはあるだろう。「なにかいい方法ないかなあ」、と孫の言葉を真似てみる。
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