京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

 よきかな「とろろ飯」

2009年09月30日 | 日々の暮らしの中で
   

自然薯や長芋などをすりおろし、すり鉢ですった「とろろ」に母がだし汁を加えていきます。それを軽くすりこぎで混ぜ合わせていた父の姿を思い出しました。「とろろ汁」が好きだった父は、いつも母との共同作業を楽しんでいました。ご飯にかけての「とろろ飯」と。

珍しく思い浮かべた両親の姿。…と思えば十月・十一月はふたりの祥月、うっかりした、と言ってもまあしかられることはないでしょう。仲の良いふたりでした。
    
        妻老いて母の如しやとろろ汁

父がこのように実感していたかどうか…。「老いた」には少し早い母でしたし。
私は、若いころは、「とろろ」が何とも気色悪い食べ物に見え、口にすることはありませんでした。

先日、鴨川を眼前にして、おいしく「とろろ飯」をいただきました。あれって噛んだかな?噛まずにスルスルスルっとのど元を通っていくようです。
昼間からたっぷりとのどの渇きをうるおし、川風にあたり近況報告し合って…。

河原町三条を南に下がってすぐ、東へ入る「竜馬通り」があります。カラオケ屋さん、居酒屋も並ぶ雑然とした通りですが、龍馬寓居の跡を刻んだ「酢屋」があります。
付近にはおりょうさん寓居の跡も。

歌舞練場の前から先斗町通りを下がって… 三条と四条の中間ぐらいの位置に、京都・パリ姉妹都市盟約締結40周年を記念して計画されたポン・デ・ザール(芸術橋)のモデル、鴨川歩道橋が建設予定だったそうな。その計画は現在“凍結”。そのようなものがなくてよかったと思うひとりであります。

先斗町界隈をぶらぶらと歩きながらの先日、“姉さん”の回復を嬉しく思っておりました。
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 「ひとり」は「ふたり」に…

2009年09月28日 | 日々の暮らしの中で

     いつかふたりになるためのひとりやがてひとりになるためのふたり

すべてがひらがな書きにされている。漢字が多いと、それが持つ「表意」の働きで目で読んでしまう。それに比べれば、ゆっくりと、ことばやこころと向き合いながら読める違いがあるというもの。

不可解な自分という「ひとり」を見つめ、その先に他者の存在を見出して「ふたり」の関係でつながっていく。ふたりで生きる日々は続くけれど、またやがていつか「ひとり」になるための「ふたり」であって、「ひとり」になったらまた「ふたり」になるための自分がいて……、この終わりのなさよ。

やけに理屈っぽい私。なんでこんなことを考えているのだろうか。なぜだかよくはわからない。
「ひとり」は「ふたり」になれる。「ひとり」はニ分の一。残りの半分は背負ってもらって、同じ空気を吸って、そんなこんなで「ふたり」の日常を肯定していく。生きるってことだろうかなあ。肯定することでしか始まらない、受け入れることでやっと始まる日常もありだなあ…。

喜びの裏には哀しみが。表と裏・相反するものが…。
永遠ー一瞬 記憶―忘却 虚像―実像 空虚―充実 上品―下品
達筆―悪筆 敏感―鈍感 単純―複雑 多弁―寡黙 老練-幼稚(未熟)…… 

日常は「ロマン」!なのね、きっと。

ま~、突然ですが、なぜかこういうことになりました。ちょっとどうかしてるかな?

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 夢・誇り・愛…

2009年09月24日 | 映画・観劇

第140回直木賞作家の山本兼一氏は京都市在住。千利休が切腹する場面に始まる『利休にたずねよ』が授賞作だが、大徳寺は子供の頃の遊び場だったそうだ。山門の上に木像がある。京都の街を歩けばそこここで「歴史」にぶつかる。日本史に出てくる数多くの人物が歩き、見ただろう風景。さほど変わらないそれを今自分も見ているのかもしれない。そう思えば楽しい素敵な街、京都かな。

著書『火天の城』を原作とする映画「火天の城」を見てきた。

【百花繚乱の安土桃山時代―織田信長が天下統一の先に見た日本。その象徴は、日本建築史上最も壮大にして華麗なる城“安土城”。築城の命が下った!
挑むのは、天才宮大工・岡部又衛門率いる〈百万人の名もなき男たち女たち〉。「すべての人の手により、山ひとつ城にする」三年に及ぶ前代未聞の大事業…(略)…
織田信長の最後の夢が、岡部又衛門と家族の愛が、仕事に命をかける男たちの誇りとそれを支える女たちの愛があった。】
…この程度の入門、お邪魔にはなりますまい…。

2000年の歴史を背負う木曽のヒノキを守る緒方直人演じる杣人、夏八木勲が演じる穴太(あのう)衆の長の言葉も心うつものがある。
♪「空には空の… 海には海の…」、中孝介がエンディングで歌っている。

「気張る」(=努力する。「気」を張ること)
この「京ことば」の先は、自分を取り巻く人間関係を使って多面的で多様な視点のサポートを得て、自分の能力を伸ばすことにつながるのだそうだ。
ちなみに、「頑張る」は「が=我」を張る。じぶんひとりのがんばりだと。

みなさん よおう きばらはります…。 そんな作品だった。

映画を見ている最中に、原作者のことが頭に浮かぶのは初めての経験だった。

         (映画館のすぐ近くに信長公の御廟があります)
    
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 彩りの一冊は…  

2009年09月22日 | こんな本も読んでみた


本を読むときは正座です。せいぜい胡坐をかき、やがて体を前後に軽く揺らし出すのを見受けます。足の疲れや姿勢そのものをほぐしているのでしょうか。本は机上に、もしくは手で正面に構えて持ちます。

結婚前、三橋節子著『湖の伝説』を単行本で送ってきた夫でした。「…吾故郷を余所に見んとは」と武将の和歌を添えた手紙を付けて。ハチャメチャな取り合わせは、送り主そのものです。

私は、腹ばいになって肘をついて本のページを繰ることもあります。何かにもたれ膝の上に本を乗せ、お菓子をつまみながら…読んだりもします。本に染みをつけてしまったり。ソファの上なら超りラ~ックス。夫は横眼でチラチラ、時にニタッとしますが、私の恰好をなじることはしません。ただ、私の横に正座人間がいることを想像すれば、何とも…行儀が悪い光景。

東京に出た息子が十八歳の頃、最近面白かった本だと紹介してくれたのが、キャムロン・ライト著『エミリーへの手紙』。 “死んだおじいちゃんがいいたかったこと”と帯にありますが、早速に読んだ一冊。

小学生の頃、父の書棚からB5判ほどの古臭い「銭形平次捕り物帳」を抜き出した記憶があります。好きで何度も読んだ童話があったかどうかも忘れているのに、夢中で読んだ一冊。

娘は今回の帰国中、東野圭吾氏の作品を読みあさり、何を思ったか夏目漱石の本を買い込んで戻りました。彼女の頭の中は想像がつきかねます。

人生の折々に彩りを添えてくれた書物はあるものです。
課題図書の感想文がかけずに閉口した学生時代を思い出します。今その一冊が、岡本太郎著『青春ピカソ』(新潮文庫)。本来なら、興味をもってその世界に入りたいのですが、どうもいまいち、こうした類は苦手です…。

そういう時に限って、ぐーたらな格好で読み出す。「著者に悪いだろう!」という声が聞こえてきそうです。人並みに、「読書の…」。
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 老いても花を

2009年09月21日 | 日々の暮らしの中で


「今夜は7時からMさんやしな」
出勤前の息子に、その日の晩の予定を必ず言って聞かせるあなたでした。その姿を「子供じゃあるまいし」とみていた私です。

連絡もなく、約束のお参りの時間に間に合いそうにない。あなたはどれほど気をもみながら先方に詫びの電話を繰り返してきたか。
職員会議が長引いた、出張が入った、(たまに)ワスレテシマッテイタ、という理由が聞こえてくる。遅れても許されるならまだしも、時に「寺を変えるぞ」と厳しい言葉を受け、信頼を失いそうだった…。

やがて、時間のルーズさを嘆くことでは嫁姑団結しましたね。この時ばかりは“こころの友”。連絡ぐらいはせーよ!とイライラを発散させ、本心から怒ったものでした。そんなことが続きましたね。今はもう忘れてしまいましたか?一代、頭を下げ通したのはあなたでした。

快活で話上手なあなたの周りには、いくつもの笑いの花を咲かせてきました。何もかも自分でしょって立たねば気が済まない強さも持ち合わせ、その裏で、私は出る幕がないわと言っては楽をしてきました。誰に教わればよいのか、それは今までも、この先も明白なことです。

「角を矯めて牛を殺す」。こうならない配慮を私は受けたのでしょう。

“老いても老木に花が咲く”。
一代記を穏やかににじませて、あなたはそこにいてくれればいいのですよ。
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 ふわっと 浮いたような

2009年09月18日 | 日々の暮らしの中で

【離れていて、ときどき通って暮らすのが、年月を経ても縁の切れない関係を保つことになるのだろう。ひょっこりやって来て、泊って行ったりするのは新鮮な感じがしてよいにちがいない。いつもいつも朝から晩まで顔を見て暮らす、そうなったらやはりうっとうしく気に入らないことも出てきて、憎らしくなるだろうから。
子供を大事に養育しているだなど、情けない。「いつもひとり身」、身軽さが感じよい。】

これは、兼好法師の婚姻感と言えるのだろう。何と、こんなこと考えていたのかと思ってみたり。それでいて、女性の色香ほど男心を惑わせるものはない。しばし漂うだけの匂いであるのに、あまりの芳しさについくらっときてしまう…とおっしゃって。
そんなことに目を通したりしながら、孫との生活を重ねてもいたのだった。

八か月間の長丁場となった孫娘の日本滞在。
関空に送り、最後の最後にガラス越しに私を呼ぶ声、それと共に、にこーっと笑って手を振る姿をしっかりと焼きつけた。日常に引き戻されてみれば、なんとはなしに沈みがちな日が続く。

が、気づけば、すぐ隣にあった笑顔も笑い声も小さく遠のいてきている現実があった。あんなに潤って楽しかった日々さえも、はや「過去」へと押しやってしまう時間の流れ。でも、それは同時に私を再生へと向かわす力で誘ってくれてもいるようだ。

ふわっと、気持ちが浮いた…気がする。


Jessieに送ってあげるはずだったお菓子類、食べてしまったよ。
残ったのはこれだけ。これあまり好きでないのよ。
また買ってくるからね。

「野原しんのすけ」の生みの親が行方不明だとかよ。

       

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 豊かに九十歳

2009年09月17日 | 日々の暮らしの中で
この夏、多くの人が集える場にと町屋を改装し終えたことを新聞の投稿欄で知った。投稿者は、知人であった。ボランティアを始めとし、地域で積極的に活動を展開している。
その人柄ですべてを包み込む大きな女性だ。温かさの中で、はっきりとした物言いをする私の大好きな女性。

ギャラリー「こもれび庵」。
「第二の青春を謳歌しているの」とほほ笑む九十歳の女性。ここで、繊細なタッチの油絵と陶芸作品が並ぶ初の個展を開いているという。娘さん四人が、九十歳を迎えた母へのプレゼントとして企画されたのだそうだ。七十五歳から絵を習い、八十五歳から始めた陶芸の作品展。俳句も始めたいと…。

「こんな機会に恵まれ、家族に感謝している。今が人生最高のとき」。
『九十歳の今』がなんとも素敵だ。よい場所によい出会い。

歳をとるのも悪くはないな。こんな時代に、そう思える私は幸せだろう。
いい“物語”を見て、誰もが生き方を模索していく。生きるためのお手本がいる、というのはホントウだ。

ちょっとのぞいてみたい、「こもれび庵」。

                (頭の上に、いっぱいのなつめの実)


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 今日も自転車で…

2009年09月15日 | 日々の暮らしの中で
今日も自転車に乗って軽快に~

ちょっとそこまでお使いに…。
転倒をなぜかやたらとご心配いただき、なんの!と持ち前の気性がむくむくと…。いやいや、若モンと違うのだからええ加減にせーよとのご忠告、心にそっとしまい込んでサイクリング、ヤッホ~。

「keiさんのために道路があるんじゃないんだから」と、右に左に両車線を気ままに走る私に教習所の教官が言ったことがあった。クラッチを踏んでギアチェンジするその左手に手を重ねてくるいやな奴だったっけ。

しかし、今や交通ルールも呑み込んで、模範生。自転車ぐらいはなんのなんの、のはずなのだが、なんと「止まれ」が多いこと。“押して歩け”もあるのだから、案外気を使い少々煩わしい。道路は私のものではないのだった。でも、せっかくだからとちょっと足を延ばす。

◆中京区麩屋町通二条上ル(ここは梶井基次郎の初めての全集を発行した「高桐書店」があったところ)◆中京区寺町通二条上ル西入ル(ここは本好きのお方はぜひ一度とお勧めの本屋さん「三月書房」)◆中京区河原町通三条下ル4筋目BALビル東入ル(ここは京都最古のJAZZ SPOT のブルーノートが入っているところ)

この地名の表記法。北へは、あがる、南へは、さがる、また、そこの地点から東側にいる(はいる)、西側にいる(はいる)。慣れると見当もついて大変にわかりやすいはずだ。

この「上ル」「下る」が示すように京都の地形は北ほど高い。北山通りと京都駅より南の東寺の塔のてっぺんとが同じ高さだと聞いている。その勾配からすれば市内を流れる河川は急流河川と言えるのだそうだ。私の息が切れる理由もここにあった。帰りはエライ!!

みんな自転車に乗っているものなあ…。明日はどこへ行こかな。

(飛び石伝いに怖さ知らずの3歳児でした… 4/3)
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 自転車に乗ろう~

2009年09月14日 | 日々の暮らしの中で
そうだ、自転車に乗ろう!

と、突然に思った。
いきなり外へ。後部にはJessie用の座席がついたままになっている。緊張で腕に力が入るのか、ハンドルがふらふらする。が、どういうわけか、すぐにちゃんとバランスをとって乗れるようになる。不思議だ。3・4年は乗っていない。
楽しくなったので、これからはもっと乗ることにしよう。

“ジテ通”(学・勤)という言葉もあるように、京の町には自転車が似合う。
温暖化対策はどこへ行っちゃったのと首をかしげたい「たった千円で乗り放題」。
それよりも、どこまで走ってもただ・排ガスゼロの自転車。上がるのは私の息だけ。

「一人に一台」。この考え方の転換も始まっている。サイクルシェア・カーシェアリング(自転車・車の共同利用)という試みだ。レンタカーと違って、会員登録した者が共同で利用する。現在は市内27拠点あるという。拠点や車の数、何よりも会員数を増やし京都のまちの交通のスムーズ化につなげようというわけだ。

Jessieと一緒に大きな“あたまじゃくし”を見たハスの群生地。琵琶湖畔の草津市には、「くさつ夢風車」という風力発電の施設があった。大きな羽はほとんど動かない。帰り際、雲行きが怪しくなり風が出てきてやっと動き出し、それからはびゅんびゅん音をたてて回り始めた。風を読み間違えたらしい。採算が取れない。自然エネルギーの活用だからコストは低くても風次第で不安定。

様々な小さな活動から始まって、温暖化防止の環境整備も求められる中、「たった千円で乗り放題」を歓迎していていいのだろうか。よかないでしょ。

私にも自転車がよく似合う…とはどうもいいにくい。極力車は控えて…みようか。
 
              (7.5 くさつ夢風車の前で)
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「…てなんだっけー」にこめられた見栄

2009年09月12日 | 日々の暮らしの中で


学生風の男女が電車に乗り込んできて、私の隣に腰をおろした。と同時に女性の言葉が聞こえた。「今は小学校の一クラスに???の割でADHDなんだってね」

男性は体を前傾したまま彼女の話を聞いていた。ほんの一瞬、間があって「うん、ADHD…」と。言葉の最後は軽くしり上がりだ。そのさらにほんの数秒後「ADHDってなに?」と尋ねた。素直そうな感じで聞こえたが、いずれもこのわずかな「ま」が何を意味するのだろう。「そんなん、自分で考えてぇー」が女性の返事だった。で、お終いになってしまった。

わからないから聞いてるんやろ~って、隣で私は女性の言い方を不満に感じていた。

この時、男性は知らない言葉が出てきても、聞かないふりで流してしまうこともできたかもしれない。それとも、もっと女性の考えを知りたくて尋ねたのだろうか。
また、女性も聞かれた時に例えば「多動性障害」という言葉に変換していたら、学生らしい教育論でも展開されたのだろうか。
電車内だし、ここらがおさめどきだったのかな…。

利口すぎる人は、爪を隠そうと鈍なふりをする。軽薄な人は侮られまいと背伸びをする。「「アホぶりなかしこ」「かしこぶりなアホ」と言うらしい。

私なら聞くとしても、「ADHDってなんだっけー」派かもしれない。ちょっぴり見栄を張ることはあるだろうな。いずれにしても見透かされそうだが。

ちょっとしたことから見知らぬ人のイメージが覗ける。電車の中でも人の話に耳を傾けていると退屈しない、ってことはありそうです。

          ( 本日新着の写真、Jessieだけでよいのに?)
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 ふ・麩、腑が抜けて・・・

2009年09月11日 | 日々の暮らしの中で
             

娘のところへ送る箱詰めの中味を探しながら“京の台所”錦市場のアーケードを入って行った。新京極や寺町通りに比べてさすがにここには修学旅行生も少ない。
年末には食材を買い求める人で狭い通路はごった返し、私などは買い物をすることすら煩わしい。なのに足が向く、言ってみれば行事だろう…。

「京の華」、湯葉とのセットで、色も形もかわいい麩だ。三歳の姫のお気に入り。麩は好きと見える。

小麦粉から取り出したグルテンを主原料とする食品の麩。たんぱく質を補う食品である。
「フッ」と吹けば飛ぶ麩。これがまた脳の働きに欠かせないアミノ酸濃度が高いために、脳の発達を促すというではないか。今更“脳の発達”でもなさそうだが、脳へのピンポイントでグッドタイミングな食品となるかと思ってみる。三袋購入、2-1で。
    (映画村で5/30)   
めっきり会話も減っちゃって、笑いも少なく、大きな声を出すこともない。
麩が、いや、腑が抜けたような、ちょっと気弱な自分のままで、頑張らなくてもいいようにと世間を泳いでいるこの頃。どうすることもできない気分の落ち込みに、少々いらだち、歯がゆさも感じている。

ただ…、心が波立つような時も、どんと重苦しい時でも、どこか人間の心の奥底には冷静な、静かな領域があって、時が過ぎるのを待てば…なんとか、と経験上からでも感じている。だから、今はそれが浮上してくるのを待っているだけ。

郵便屋さんが運んでくれた朝顔の思い出、手紙はあの世の弟のところまでも届いたようだ。
しかし、それでも私の心は浮きたつこともない。すべてが行き過ぎるのを待つかな。
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 おのおの花の手柄かな・・

2009年09月09日 | 日々の暮らしの中で

春の七草は草だが、秋の七草は「花」であります。「花野」と言えば秋の季語。

    秋の野に咲きたる花よ
       指(および)折り数ふれば七種(ななくさ)の花

草むらでの姿なき演奏会の正体見たし。奏者を捕まえることができるかどうか。
Jessieが使った虫かごにきゅうりでも入れて、ふたを開けたまま草むらに一晩置いておくとします。朝には宿代わりにしている者がいるでしょうか?たとえ空っぽでも、「まぁ、いいか」とJessieの口真似ですませましょう。
もっとも人間同様、季節と共に暮らす彼らにとっては迷惑千万な侵入者でしょうが。

先日見かけた赤まんまは、通りすがりのお宅の門扉のすぐそばに生えていました。しかし外側、道路の端っこ、ということはもらってもよい、と判断し、まるで雑草を抜いてあげるかの素振りよろしく頂戴してしまいました。
「まるで雑草」、こんなものをわざわざです。我が家に移植。増えるはずですが根付くことを祈って、朝顔の代わりにしばらく様子見を続けます。

    草いろいろ おのおの花の 手柄かな  (芭蕉)

手柄と言ってはおこがましいが、自分は自分の色で生きていることを認められている気がします。まるで応援歌のようであります

なんやらちょっと味気ない秋の夜です……。
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 女の火花・・・

2009年09月08日 | 日々の暮らしの中で
帽子に日傘、日焼け止めクリームと気を使っても、夏の日差しは私の腕にサンサンと。これからは長袖で隠せるし、そのうち色も落ちるでしょ、と言うのに、もう遅い!今更もう無理だと。Iさん曰く、「落ちいひんわ」。

「アンチエイジング」、これやな。Anti (反) aging(年をとる・老いる)。
今を保つ、戻らんでもいいな…、いやいや少しばかりの若返りは期待したい。お肌もみずみずしく。そんな化粧水が作れるというではありませんの。

八日の晩に菊の花の上に綿をかぶせ、一晩かけてその香りを移した綿で九月九日重陽の節句に身体をぬぐうと、老いが去ると信じられていた。綿は夜露でしっとりと濡れている。

『紫式部日記』に記されている、1001年前の9月9日重陽の節句の朝のエピソード。
【九日、菊の綿を、兵部のおもとのもてきて、
「これ、殿のうえへの、とりわきて、いとよう老いのごひすて給へと、のたまはせつる」とあれば、
  菊の露わかゆばかりに袖ぬれて 花のあるじに千代はゆづらむ
とて、返し奉らむとするほどに・・・】

菊の綿が、(式部がつかえている后の母に当たる)道長の北の方から式部に届けられた。「充分によく老化をぬぐい捨てなさいませ」と。
式部が返そうとした歌は
(なんのなんの)「いただいた菊の露に私は若やぐ程度に袖触れるにとどめ、それで拭えば千代の寿命が延びるというその寿命はあなた様にお譲りしましょう」

道長を間に、45歳対推定30代後半の女の戦い、火花が散る。

まだ菊には早い。自家製でアンチエイジングの化粧水。婆様の深いしわも伸びるだろうか。千代の寿命も?敬老の日がやってくるな。
「ありがたきもの・・姑におもはるる嫁の君」。
9月21日、菊の花は…。やはり「思はるる嫁」とも縁遠いってことかな。
               
     (顔を忘れそうになります…) 
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 見上げる月に… 

2009年09月07日 | 映画・観劇
            

「…露は今夜従(よ)り白く、月は是れ故郷の明かり」

戦乱の中、白露の時節に当たって、消息のない弟たちの身を思いやっている詩の一節(杜甫「月夜(げつや)に舎弟を憶(おも)う」)。
空の高さを実感しながら、お月さん相手に起きているのも悪くはなさそうに思えるこの頃の月だ。

アメリカ映画『扉をたたく人 The Visitor』を観に行く道すがら、なかなか出会えない赤まんまを見つけた。「この世に雑草という植物はない」と、どこかで目にした言葉。たどってみれば『牧野日本植物図鑑』の著者、牧野富太郎氏だった。

  「赤まんま」は秋の季語、名もなさそうな草でも懸命に咲いている。
          
孤独に暮らす大学教授と移民の青年タレクとの出会い。閉ざされたような教授の「心の扉」を開いたのは、他者からの人間的な優しさのノックだった。眠っていた他人への思いやりの心は反応し、新しい空気に触れる楽しさを感じていく。わずかな勇気が扉を開かせる。他者に決して無関心ではいられなかった教授の人間性は、人と人とをつないだ。自らの再生と共に。

アフリカン・ドラム、ジャンべの奏者であるタレク。不法滞在を理由に拘束され、移送先も告げられぬままに行方も分からずじまい。自国を逃れる事情も様々だろうが、逃れた先での状況も異なる。不法滞在と人権擁護、その現実的な厳しさを突き付けられた。

タレクの移送先は“国外”だった。シリアへの強制送還なのか。彼が幸せに暮らしているのならいいが…。今宵の月は、タレクへの思いをいざなうことになりそうか。彼の見上げる空にも月が輝いていてほしい。
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 これで私の“夏じまい” 

2009年09月03日 | 日々の暮らしの中で
             

きのう、ひとつひとつ、ていねいに切り取りました。

「ねえさん!」と呼んでいてくれそうな思いにとらわれもした朝顔でした。
十七か月の夢から醒めて、はにかむような、それでいて深い慈しみの微笑みをたたえているかのような朝顔でした。

花数が増える中、jessieが毎日「ひとつ、ふたつみっつ」と数えていました。大きなかわいい声で。明日はも一つ多く咲かなきゃと、弟も目を細めて笑っていたことでしょう。ただ、いくつ咲いても「みっつ」止まりでした。

ささやかな思いと大きな楽しみ、そのすべてを包み込んでくれた朝顔でした.
ありがとう。命のリレー、また来年……ね。
 
思いがけなくも、太陽を浴びた影の造形の面白さを発見。写真に収め残すことにしました。
     これをもって、私の“夏じまい”と致します。

思いの一端を郵便屋さんが運んでいってくれました。
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