京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

 ミュージカル「エリザベート」

2012年09月26日 | 映画・観劇
「えー!? keiさ~~~ん!! なんでまた?? おもしろ~~っ」「パンフレット送ったでしょう!」って笑われてしまいました。

実は、なんで日本人?と、見もしなかったパンフレット。開いてみたら、「←9/25 このキャストです」と丁寧に付箋が貼られていました。ウイーン版のキャストはガラ・コンサートのことだったのです。(トリプルキャストで、マテ・カマラスがトート役の日もありますが)
どこでどう思い込み違いをしたのやら!?ウイーン版で観劇だとばかり。開演するまで、思い込みは続きました。幕が上がり、エリザベートを暗殺するルキーニ役の高島政宏の登場に、!!!??? えっ?えっ?

暗闇の中で、私だけが舞台を見ながら違うことを考えていたのでしょう。そう、確かに劇場入り口には日本人のキャスティングで写真が…。「本日のキャスト」と小さな案内も目につくところに示されていました。この時に気付かなければおかしい。変だったのは、山口祐一郎の声だけではなかったのだ。
さらに、開場を待つ間にチケット代を清算し、渡されたチケットは3階!  えーっ!! なんでこんな高くて遠いところから???  この席いくら!? と心ひそかに。

       

何もかもお任せでチケット予約をしてもらって、文句など言えようはずがありません。
「今度は本場だからね」と念を押されて、来月は「ロミオとジュリエット」です。チケット代の大半はこちらの舞台に注ぎ込まれたというわけです。彼女なりの配慮かもしれません、「高いからね」と。

【演劇界も不景気の風が吹いてなかなかチケットが売れない状況みたいです。閉鎖的な世の中だからこそいい舞台を見て元気になりたいですね~。いい舞台を支えるのは、確かな観客の目かもしれません。演劇界も「だからこそいい作品」しか興業しなくなってきています。選んで足を運ぶ私たちの期待を裏切らない作品にワクワク~。
今年後半、最も輝かしい作品の一つがフランス版「ロミオとジュリエット」だと信じてます。お楽しみに!! カレンダーには花丸マークをよろしくね。】
こんな友人の言葉をいただきながら、とんでもない勘違いの私。「確かな観客の目」などどこへやら、申し訳ないような…です。

昨日は山口祐一郎、子役の加藤清史郎クン、高島政宏さんたちで観てきました。三階という高所から、見下ろす役者の表情はわかりませんでした。それでも、しっかりおしゃべりして、時々観劇仲間として3人が顔をそろえられることを喜ばないわけにはいきません。
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 なに思う

2012年09月24日 | 日々の暮らしの中で

            なにしているの?

涼しくて気持ちいいのだもの / 散歩をしたいよ / アマガエルは / おうちの玄関をわらで隠し / ぴょんぴょん出かけてきた
おーい、こんちわと言うのに / 口を一文字にむすんで / 喉をグビッと小さく動かして / 眠たげに眼をぼやっとあけ / 
邪魔するなといわんばかり / パクッと開けた口をまたむすぶ   ・・・ここなら誰にもわからないと思ったのに  … って??

稲刈りが終わった田んぼの脇の柵囲いに、よく見ると一匹のカエルがご覧の通りじっとしている。「秋の蝶」もあれば「秋の蛙(かわず)」の季語もあるようだ。暑い夏の日がすぎて、この心地よさは人もカエルも同じなのだろうか。それとも、ねぐらの頭の上の賑やかな秋の取入れで追い出されてきたか。帰るところはあるのだろうか。一人ぼっちかい?  

牟礼慶子さんの詩を思いだした。 
「…くらい土の中では / やがて来る華麗な祝祭のために / 数かぎりないものたちが生きているのです /・・・」(「見えない季節」)

どこが思案気な様子を漂わせて、秋には格好のポーズとなりそうだ。これから長い冬眠に入る蛙クン、なに考えているの?
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 「花にも魂が…」

2012年09月21日 | こんなところ訪ねて

「クサカンムリにアキ」、「萩」は秋の草を代表していそうだ。この字は和製漢字だという。よほど日本人の思いが込められた花だったのだろう。万葉集にも萩を詠んだ歌は数多く残されている。

ようやくひと息つけて、小さく細かな花をつけた萩の花の風情にも心寄せられる日がやってきたような気がする。優しげに、風にそよぐ様は静かな秋の装いにふさわしい。好きな一句がある。
     ほろほろと秋風こぼす萩がもと  召波

 

萩と言えば、奈良の白亳寺がよい。参道の両側からしなやかな枝が伸び、こぼれんばかりの細かな赤や白い花をつけて、閑静な寺は迎えてくれる。二十歳ぐらいで訪れて、築地の土塀がところどころ破れた冬枯れの石畳の階段を上がったのが最初だった。以来、萩だけを観に何度か訪れ、新薬師寺へと回って歩く。
萩の花ことばは「想い」だそうな。静けさの中で何かに耳を傾けるにふさわしい場所、かもしれない。一人でいくのが良いところ、かな。


外出ついでに立ち寄ってみたのは、年に一度だけ鳥居をくぐる、京都御苑の東側にある梨木神社。健礼門前を東へ進み、清和院御門を出ると大きな鳥居が目に入る。この時期は萩の枝に結んだ短冊が揺れている。花の見ごろはまだ少し先のようだった。

細い首を絞められて失神状態なんてことではあるまいね。草木はものを言うとか、忘れてはいまいか。白洲正子さんは言っていた、「花にも魂があることを忘れていた」と。それとも、そんな心配など無用の「真逆」で、花も喜んでいるのかしら…。
俳句の趣味を云々するのではない。できれば短冊などないほうがいいと思うが、それも身勝手なのかもしれない。


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 ふらり、曼殊院から詩仙堂へ

2012年09月19日 | こんなところ訪ねて
昨日の雨も上がっている。朝からどこかへ出てみたくなる気分だった。いつもとは逆コースで、曼殊院から詩仙堂への道を歩き、一乗寺下がり松を左手に見ながら白川通りへ出ようと思い立った。
ふらっと散策にというには今日も日差しは強く、日傘をさして歩いていても照りつけられてしっかり汗ばんでくる。おまけに登り坂とくる。
出発は叡山電鉄の修学院駅に近い白川通りから、【曼殊院→】に従って東に入る。

 
「修学院」、今は離宮があることで有名になっているが、平安中期には、京で修学する僧たちの精舎を「修学院」と呼んだらしい。当時、学問をするには、高等貴族の子息か、僧侶になって叡山に上がる以外ほとんど道はなく、学僧は重んじられ、憧れの的だったという。
やがて、お山の上の学問だけでは飽き足らなくなった燃える若い僧たちは、洛中洛外の碩学に教えを請おうと山を下りてきた。そうした彼らのための宿舎が必要になり、精舎を中心に「修学院“村”」となった…、とかだ。

そんな修学院離宮から南の方角に曼殊院はある。宅地化が進んだとはいえ田園風景が残り、晴れ晴れとした大きな風景、視界の展望は、25歳で初めてここを歩いた時以来変わらないものを感じる。よく訪れる理由の一つだと思う。

         
内側の拝観はめったにしないのだが、今日は拝観料600円を出して入ってみた。
小書院の入り口にある梟(ふくろう)の手水鉢。台石は亀、傍の石が鶴をかたどっている。廊下から手を伸ばしても届かないが、わざと軒にかからないように置いてあるのであって、鉢の水に月を映すためだというから、まこと風雅な趣向と驚き入る。


久しぶりの外歩き。小書院を吹き抜けるひんやりとした風に息を吹き返し、詩仙堂へ向かおうと腰を上げた…。
     
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 三冊

2012年09月18日 | こんな本も読んでみた
予報ではまだこの先真夏日が続くらしい。「さよなら猛暑」、いつか必ず終わりは来るのだから、秋めいた陽気を喜べる日も、まあ、そう遠くはないだろう。もうちょっとの辛抱だ。


昨年に続く第2弾、友人間で今年も過去の直木賞作品から3冊の読破を夏休みの課題としていた。昨年はそろって同じ作品を読んだが、今年は好きに選んで回し読みでもしようということにした。
終わった~!! 
世の中の「夏休み」はとうに終わってしまったが、それでもこう暑ければまだまだ夏休み継続中とひたすら、エアコンをつけたり消したりしながら、頑張った。

篠田節子、桐野夏生作品に加えたのが、車谷長吉著『赤目四十八滝心中未遂』。
解説で川元三郎氏が言っている。「口当たりのいい作品が多い現代文学にあって… 異物のように屹立… 異彩を放っている」
 〈日当たりの悪い老朽木造アパートに潜んだ33歳の世捨て人。けれど、所詮はインテリのいい気な他所者の「私」。底辺に生きる人間たちの観察者でしかない「私」〉
そんな「私」の、異様な世界に引きずりこまれたが、読んだことのない作風だった。

篠田節子作品は好きで、実は『女たちのジハード』はずっと以前に読んでいたのだが、手許にある事をいいことに、ちょっとだけズルをしてしまった。まだ読んでいない『砂漠の船』を読むことに変えてしまったのだ。黙っていればわからないだろう。プラス1冊、と言うことにだってできるのよ。
いずれにしても3冊ちゃんと読んだことに…しておこうっと!! 
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 爪の重さ

2012年09月14日 | 日々の暮らしの中で

禍も三年どころか三、四カ月で、新生へ。

5月、熊野古道ウォーキングツアー最終回、初日のことだった…。
それまで、もっと急な斜面を何度も下りていたというのに、この日初めて、膝小僧の内部に刺すような痛みを感じて歩いた。距離にしてそう長くはなかったが、膝への衝撃を和らげようと足先の着地に気を配ったのかもしれない。つま先まで痛みが生じてきた。が、幸いこの時限りのことで終わって、翌日に持ち越すことはなかった。痛みは。

問題はその後のこと。ほどなく、左親指の爪の付け根が内出血したように変色してしまった。あれから四ヶ月、生え変わりの準備は着々と進行していた。歩行に不都合などないが、爪の片側が剥がれきらぬままここ1週間。引っかけてはいけない、覆いっぱなしではどうかと気を揉んで、とうとうひとまずはめでたくゆるりと剥がれて、「一件落着」といった具合。

これで足元が軽くなりました。はがれかけの爪一枚のなんと重たかったことか…。



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 初めての「健」さん

2012年09月08日 | 日々の暮らしの中で

今夜、NHKの「プロフェッショナル」は高倉健のスペシャルだった。彼が主演した映画のタイトルは、もちろんいくつか知っている。が、これまで一度も関心を抱いたことはなく、つい先日、映画「あなたへ」を観たばかりだが、これが初めての高倉健作品になった。

少ないセリフなので余白が多い。そこを、顔や言葉の表情から思いを汲もうと心が働くし、一瞬、胸をつかれる思いに襲われたりする。
セリフが詰め込まれていない。装飾過剰でないので、ゆったりとした時間が流れ、筋を追っていくことになる。懲り過ぎていないぶん、興味をそそられながら、主人公の時間に寄り添うようだ。短く少ないセリフに込められた思いがあるのだった。
「謂ひおほせて何かある」って言葉を思い起こした…。言い尽してしまえば余韻がなくてつまらない…。

「ほっとするけど、気安くない」、北野たけしの言葉があったが、素敵でカッコイイ「健さま」でした。


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 「輝ける皇妃 エリザベート展」

2012年09月07日 | 展覧会
  
エリザベートは、19世紀ドイツ一帯を中世以来支配するヨーロッパの名家、バイエルン王国ヴィッテルスバッハ家の一族に1837年12月24日、クリスマス・イブに生まれている。父親と野山を歩き、乗馬を好んだ少女は、一方で文学少女で、詩作にふけるメルヘンチックな「野生の少女」だったと紹介される。
そんな少女が16歳で王家に嫁ぐ運命が決まってしまって、やはり少しづつ心身のバランスを失っていくようだ。ハプスブルク帝国皇妃となって、数奇な運命に翻弄されていく。宮廷生活から逃げ出すように、やがて放浪の旅に出、暴漢に襲われて最期を遂げる。

この肖像画の口元の愛らしさ。と、同時に見惚れるほどに美しい。野性的な魅力とともに「気品と神々しさ」を備えていた女性は、身長172cm、体重は生涯48~50kgを維持したそうで、52cmのベルトにサイズ22.5cmの靴が展示されていた。死後100年以上経っても世界中で語られ、ミュージカルとしても上演が繰り返されている。人気の秘密は何だろうか、このドラマチックな人生かもしれない。そしてこの美しさ。


初めてウイーン版でミュージカル「エリザベート」を観たのが5年前。以後、宝塚や東宝の舞台でも楽しんできた。今月末、再びウイーン版観劇のチャンスが控えている。DVDやCDで何度も再現して、不思議とはまり込んだミュージカルの一つになった。これも演劇好きの友による道案内があって、楽しみの世界を広げることができた事だと嬉しく思っている。

そんな折も折、『輝ける皇妃 エリザベート展』が美術館「えき」KYOTOで始まったとあって、足を運んだ。エリザベート生誕175周年とある。
数々のすばらしい展示物の中で、最も印象深かったことは「扇の言葉」に関する説明書きだった。
当時の社交界、恋の相手と思しき男性に向かって、扇を扱う様々なしぐさ一つひとつに思いを込め、モールス信号のように「言葉」を発していたらしい。その扱い方は複雑で、アカデミーで学んだという。
扇の、わからないほどのひねり具合、開き加減、それをどの位置に持っていくか、目、胸の位置、扇の振り加減、バタバタの仕方の違い… 多用な組み合わせに意味を持たせて、実に様々な説明がされていた。扇を持つ指の小指を立てたら「さようなら」、だそうな。

演劇通の友人はこのことを知らないだろう。彼女の関心はあくまでも「舞台」なのだ。歴史や文化的なことは置き去りにしがちなので、仕入れたばかりの知識を披露してみるとしよう。ふーんって顔つきで、さっと聞き流すだろう。きっとそうだ。
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 夏の疲れに

2012年09月05日 | 日々の暮らしの中で
食欲が落ちてくるのも夏の疲れかなと感じる一つ。そこで、というのも何なのですが…。シャリシャリ、シャリシャリ良い音が耳の奥から響き、小気味良いのでさらにシャリシャリシャリと音を…。あっさり、ふンわ~っとわさびが鼻を抜けます。今年3回目。350mlのビール1缶とキュウリを10-15本で「きゅうりのビール漬け」の出来上がりです。

先日、ゴ―ヤの佃煮を作ってみましたが、申し訳ないが口に合いませんでした。砂糖を減らしたのに甘い!苦みが消える!歯触りが…。
ですが、これはお薦めです。私はカラシではなくワサビ派です。ものは試し、お試しくださいませな~。

もう何十年も前に手に入れた作り方ですが、私は砂糖をグッと控え(300g)、そのぶん塩も少し控え(75g)ます。もう少し甘みがあってもいいのかな?という漬かり具合です。

① 漬け汁を作る
  粗塩90g、砂糖400gと、ビール1缶(350ml)、練りワサビ1本を合わせます。
   
   全部溶けてて馴染むまで混ぜたら、密封容器などに移す。
   練りワサビはダマになりやすいので、あらかじめ少しのビールで溶き混ぜてから加えるとよい。

② 洗って水けをふき取ったキュウリを①に漬けて、冷蔵庫で保存します。
  
  

2‐3日経つと食べられ1週間はもちます。この付け汁は2‐3回繰り返して使える、とあります。
私のように完全に溶けきらないでワサビがダマニなって残っていても、キュウリに漬け汁を回しているうちにきれいに馴染んでいきます。   
 
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 ひと手、ひと足を先へ

2012年09月04日 | 日々の暮らしの中で

八月はもうあと明日一日だけ、という日。「絵本で英会話」のベッキー先生が、九月はどんなイベントがありますかと問われ、自ら話題にされたのは9月9日の「重陽の節句」だった。

古く中国には、重陽の日に近くの小高い所に登って酒を飲み、茱萸を髪にさして邪気を払う習慣があったという。王維の「九月九日憶山中兄弟」の詩で習ったのが漢文の授業でだった。
酒に菊の花びらを浮かべて飲んだりもする、菊酒がある。それに、8日の晩に菊の花の上に綿をのせておいて、露がおりてしっとりした綿で翌朝に顔を拭いたりしていた。『紫式部日記』には「いとよう老い拭いすて給へ」の一言が印象的なエピソードが記されている。
この、菊の露の化粧水?の話まで英語で、時に日本語を織り交ぜることで生徒の反応を見ながら、語られるベッキー先生。

菊には長命の霊性があるようだ。周の王に仕えていた少年が誤って王の枕をまたいでしまった。その罰で人里離れた山中に配流されたが、悪意のないことを知った王は、その枕に仏徳讃える詩を書いて与えた。少年が、その文字を菊の葉に書き写すと、葉の露が霊薬となり、それを飲んでいた少年は700年を過ぎても若いままで生きていた…。
そんな内容の「枕慈童」の一端を紹介されて、9日の演目にあるので良ければぜひとのお誘いである。「永遠の美少年の長寿を寿ぐ」曲だとか、重陽の風習にふさわしい上演なのだろう。

なんと言っても、難解さでこれまで敬遠気味できた能の世界だ。二人で行ったから理解しやすいということもないのに、一人では…。「行ってみましょうか?」「あなたが行くならね」と、再びT子さんと約束成立。したかに思えたが、これが少し危うい…。


勇気を出して、ひと手先へ手を伸ばす。足を踏み込ます。気持ちを前に向かせる。これしか拓くことはないだろう。こんな魅力ある人との出会いに、びっくり仰天止まりではもったいない。人との出会いが新しい出会いを生んでいく。わかっている。わかってはいるが、やめとけば…って声も聞こえてしまうんだ…。
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