京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

目を背けちゃいけない

2022年06月28日 | 日々の暮らしの中で
日傘をさして郵便局まで10分ほどを往復した。
日差しを遮る東側の建物の壁に添うようにして歩く。細い辻があるため、ちょくちょく日陰は切れてしまうけれど。

AUSでは昼間こそ半袖で過ごすも、夜は暖房を入れていると言っていた。大阪の暑さを忘れたわけではないだろうが、こちらがいくら暑い暑いとこぼしてみても、どこかひと事。それも仕方ないことかな。

祇園祭が規模を縮小して開催される。
平素から人出が多い地下鉄四条駅の地下連絡通路だが、祭りと重なって膨れ上がった雑踏の中を、止める間もなく一人駆けだして紛れ込んでしまったJessie。「いつも。。で隠れて待っている」という思いは、あの雑踏には通用せず姿を見失ってしまったのだ。思い出したくない記憶がよみがえり、Jessieに認めてしまった。彼女は記憶にないだろう。4歳には3か月ほど早い頃だった。


村上春樹の『風の歌を聴け』『ダンス・ダンス・ダンス』『ねじまき鳥クロニクル』などの名作群にはスパゲティが出てくるのだそうだが、読んだことがない私は今頃になって教えられた。ネットでちょっと見ただけでも、春樹とパスタの関連は意外に多くあって、ファンは当然ながらご存じのようだ。
語っていたのは「村上RADIO」のプロデューサーだという方。

人にはそれぞれに興味の世界がある。読書でも、映画でも。
何やらここにきて、友人の一人は「ひまわり」「ドンバス」、プーチンが一番恐れた男「ナワリヌイ」と、立て続けに映画を見たと言い、その感想が長々と届いた。おススメです、と言われてもね、あまりそうした(見もしないでいて)映画を好まない私は見たいとは思わないでいる。

「目を背けちゃいけない何かを感じるんです」
って言われちゃったな…。好まない、のよ。目をそむけてるわけじゃない。けど、背けてるってことか?
彼女の心を映している言葉。彼女の情報選択の拠り所となっている言葉だろう…。

  

いいんだ、私は7月8日から上映される「チロンヌㇷ゚カムイ イオマンテ」を楽しみに待っている。
4月の末に知った、アイヌのイオマンテ(霊送り)の記録映画を。これはこれで私の関心事、選択眼。


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ダディと二人がいい

2022年06月25日 | HALL家の話
16、17日と、孫たちの小学校ではスポーツ大会だった。
1~6年生を3組に分けて、Tylerはグリーンの組。髪を緑に染めての気合の入れようも、甲斐あったようで何より。
走り高跳び、砲丸投げ(この2種目はふるわず)、走り幅跳び1位、100mでは予選も決勝も1位の結果を残し、チーム優勝にも貢献できた。



2011年生まれ(5、6年生)の〈age champion〉として表彰され、メダルを手に鼻高高の帰宅。
この年代わけは、日本ではほとんど耳にしない。


ぼくも頑張った。マラソンで負けた子に今度は勝って1位。その子、20分くらい泣いていた。
二人の頑張りに、男組はゴールドコーストに1泊の予定を組んだ…。

ただ、兄はこの22日にも5校が競うサッカートーナメント大会に代表として参加した。会場は父親の母校のグランドだったとか。結果は惜しくも2位。



これだけの頑張りに、「ダディと二人がいい」という思いが受け入れられることになった。
兄弟にある歳の差。弟はめいっぱい兄の後を追うが、兄には多少の譲歩がついて回るという不満が残りがち。
Lukasは次の機会にと納得し、兄を送り出したようだ。

今日から彼らは2週間のホリデー。

  Principal's News   より    
・・・略…
...ford 1-0. Not long after, Tyler got onto the ball not far from goal, beat one, then another….and then time stood still. 2 feet out, all he had to do was put his foot through it and it was a goal. But the connection was barely there. Surely the keeper would save it. Maybe it was sheer will power that forced the ball to keep rolling, oh so slowly, past a hapless keeper. Goal. And suddenly it was within touching distance. Confidence coursing through their veins and it wasn’t long ‘til the death nail was added. Game over. 3-0, and the Grand Final beckoned.
・・・



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銀鏡 星の神楽を舞う人々 

2022年06月23日 | 映画・観劇
宮崎県の山里で500年以上続く神楽を題材にしたドキュメンタリー映画「銀鏡(しろみ)」を見た。


エンディングを歌うのが、各地に伝わる民謡の掘り起こしに取り組む上京区在住の松田美緒さんとかで、大きく新聞で紹介された。

「銀鏡」を「しろみ」とは読めるはずもなく、どのあたり?と位置も確かめた。
宮崎県と言えば、以前『見残しの塔』(久木綾子)を読んで、やっぱり椎葉とはどのあたりかと関心を持ったことがあった。

毎年12月12日から勤められる銀鏡(しろみ)神社の大祭で、夜を徹した神楽が奉納される。国指定重要無形民俗文化財だそうだ。

「星のように生きる神楽の民」「星の神楽を舞う人々」。

限界集落だとか。人口が少ないのに、準備に当たる1年の間に宮司と氏子総代長とを亡くしながら、祭りの維持に力を尽くす住民たちの姿。
寄り合って、言葉を交わし、将来の姿も模索する。500年の歴史を絶やさぬために、「つなぐ」のだと言っていた。
知識豊かな古老さん、言葉も滑らかにインタビューに答え、その生き生きとした姿が何とも素敵で印象深い。

星。銀鏡。月。太陽、アマテラス。地球。宇宙。これらの関係に縁語を思う。
照らし合って、響きあって…。

 【原石の如く
  比べようのない輝きを有す あらゆるいのち。
  それらのいのちは相互に照らし合って、
  自己を知り、より深い輝きを放つ。】

大宇宙の理? 「妙好人展」を拝観した折に見かけた言葉に思いは広がった。
私たちは相互に関係しあって、互いに支え合い、補い合いながら存在していると教えられるのです…。
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平重衡の墓(塚)

2022年06月21日 | こんなところ訪ねて
鴨長明が『方丈記』を記したとされる方丈の庵跡を訪ねるために地図を確認していた時、
近くに平重衡の墓と記された場所があるのに気づいた。

『平家物語』の展開には疎いし、関心もさほどなのだが、平重衡(清盛の5男)による南都焼打ちを題材にした歴史小説『龍華記』(澤田瞳子)はとても興味深く読んでいた。
だから、こんなところにあるのかと大発見したような気分だった。道筋からそう遠く外れてはいない。暑い日だったが、立ち寄ったのだ。




家を焼かれ、親兄弟を失った者の苦しみや憎しみは、南都が復興しつつあっても消えることがない。

ただ、奢れる者久しからずの理、一の谷の合戦で捕縛された重衡は鎌倉に拘束された。
重衡は南都の怨敵。罪人は南都の手で断罪したいと引き渡しを請願した。
それが認められ、迎え役に当てられ、そして処刑役として太刀を振りかぶったのが主人公範長だった。
範長は、「憎しみに憎しみで応ずるやり口は、新たな哀しみと怒りの連鎖を呼ぶだけ」といつしか仲間を離れていた。
処刑前夜、二人は言葉を交わし、重衡も怯えと悔いに心さいなまれ続けたことを知る。

「ここに参る道中、わずかに許され、西国で生き分かれた妻と日野にて別辞の時を持てた」


そうか。首は「般若寺門前に掲げられた」とあったが、引き取られたのか。

憎しみの輪廻からの解脱。ではどうすれば…。「いつの世も憎しみは血を塗ったかの如く際立ち、他者を思う祈りはやわらかであるがゆえに野辺の花の如く小さい」
「世人は常に相争い、定かなるものは世に乏しい。さりながらそんな不定の浮き世にあっても、何かを希(こいねが)う人の祈りだけはいかなる時も変わりはしない」

今夜のクローズアップ現代、〈桑田佳祐 いま音楽でできること〉と題したインタビューの中で結ばれた言葉が重なってきた。
〈行動し続ければ、答えは風の中に見つかるかもしれない〉
以前カーラジオで聞いたチャリティソング「時代遅れの。。。」、心に響きますなあ。
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方丈の庵跡をたずねて

2022年06月19日 | こんなところ訪ねて
連れを得て、日野の里に方丈の庵跡を訪ねてみた。
東西線「石田」駅を下車、真っすぐ、法界寺へと右折せず、真っすぐ真っすぐ、日野山へ小さく右左折すると、あと「800m」の標識があった。

山のふもとには「一の柴の庵あり。すなはちこの山守が居る所なり。かしこに小童あり。…つれゞなる時は、これを友として遊行す。かれは十歳。」(原文の引用は岩波の日本古典文学大系『方丈記』より)と記され、
小説で、がや丸と呼ばれた少年の家はどのあたり?と思い出しつつ、ゆるやかな上り道を15分ほどか進んで、ようやく山中への入り口に立った。

山道を10分も行かないうちにこの標識に出会う。



木漏れ日が美しく、頭上にホトトギス啼きかわし、野鳥の姿も見え、汗っだくだけど苦にならない。


春は藤波を見る。紫雲のごとくして、西方に匂ふ。夏は郭公(ほととぎす)を聞く。…秋はひぐらしの聲、耳に満(て)り。…冬は雪をあはれぶ。

進んでいくと、見えた! 方丈の庵の土台となる大岩。脇から岩の上に上がると「方丈石」の碑。大原住まいから移って、ここに方丈(1丈3m強四方)の庵を建てたとされる。彼自身によって、組み立て式に工夫された庵。

小説では、風が強ければ「庵の薄壁と板戸がガタガタ揺れ、桟木がギシギシ軋む。床下から風が突き上げる。これは薙ぎ倒されるか、小屋ごと吹き飛ばされるか」の心もとなさが描かれた。そうだろうなあ、第一こわくてこのような場所に一人ではいられない。この仮の庵もついには彼の「ふるさと」と書くようになる。






「つれづれなる」ときは、がや丸を友として遊行している。
「つれづれ」は、月の障りで里下がりした女の「ああ、つれ(連れ)がほしいなあ」といった思いを表す女房文学での言葉で、隠者文学には使わない。仏に仕える身で「つれづれ」とは隠者失格、退屈を感じているなど恥ずかしい告白となる。…と、かつて『徒然草』の一つの読み方を学んだ。

時々思い通りにいかないことに出会って、しぜんと自分の不運なことを知り、出家するも仏の道に入り切れない長明。
「すこぶるつきの自尊心とその裏返しのひがみ」で、「人に軽んじられるのは我慢なら」ず、「あれこれ邪推して腹を立て」「激昂して喧嘩して、失敗」(『方丈の孤月』)を繰り返すのは、日野の里に隠棲してからも…。「今生の恨みを晴らせるだろうに」なんて心境ものぞく。

仏の教えの趣意は「事にふれて執心なかれとなり」。なにごとにもとらわれるな、ということである。「この草庵を愛しているのも、世を離れた生活にとらわれるのも、仏道に入るうえでの障害。世を逃れ、山林に住まうのは、心を修めて仏道に入るためである。それなのに、姿は僧だが心は濁りが染みこんでいる」…自己嫌悪気味な長明、「こころからの要求ではない念仏をニ、三遍となえてみたが、やめた。」と記す。

人間らしさがある。「恥多き人生」と内省し己を見つめる姿には、私自身にとっての救いでもあるような…。

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映画 かば

2022年06月17日 | 映画・観劇

春先、監督がテレビでインタビューを受けていた。見たいと思って機会を失し、上映後のアンコール上映を経て、今回の再アンコールでようやくチャンスをつかんだ。

上映時間は2時間15分。終了後、川本貴弘監督(京都、伏見出身)の舞台挨拶があった。
【2年半にわたって大阪西成区で取材。映画の中のセリフは、取材した人たちの口から出た言葉であって、自分が書いたものではない。実在のかば(蒲益男)先生を中心とした群像劇で、かば先生の物語ではない。登場人物にはモデルがあり、男女を入れ替えた設定が一部にある】

1985年、バブル景気を迎える日本に、世の中の矛盾が集まったような地域があった。
大阪西成区。出自、偏見、校内暴力、すさんだ家庭…。過酷な環境の中でよりよい明日を夢見て、悩み、苦しみ、しかしたくましく生き方を模索するたくさんの子供たちがそこにいた。



川は流れる。時も時代も変わり、心はかすれていくが、この今日一日の先に未来があることを忘れるな、とエンディングでは歌っていた。

「あいつら、おれたちみたいな教師に出会って幸せだ。だけどもっと俺たちは幸せだ。あいつらに出会えたんだからな」
かば先生の同僚が口にする。子供たちと正面から向き合った教師たち。決して無理強いせず、押し付けない。教師も子供も周辺の家族も、自分の言葉を発して向き合う。

人の素のこころ、言葉がストレートに心に響く。涙がツーッ、ツーッと流れる。笑えて、そしてまたツーッと涙して、私も彼らに少し近づく。
人を信じたい。群れることはいらないが、人と人との心のつながりが、新しい力を内に宿すんじゃないだろうか。

ロングランを意識して、全国どこへでも車で行くと。学校で、公民館で、ミニシアターで、多くの子供たちに見てほしい。「見たい!と声をかけてくれればどこへでも行きます」と川本監督。「みんな、観ないと!」(映画監督・坂本順治)と映画のチラシにある。


新風館の地階にあるアップリンク京都で、6/17~6/23の一週間特別上映が始まった。
寺子屋サロンの子どもたち、連れて行こか??
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花を買う

2022年06月15日 | 日々の暮らしの中で
顔中笑顔のおちびちゃんが、まっすぐ私に向かって歩み寄ってくる。歩けるようになって、それがたまらなく嬉しいといった感じの年ごろだった。
顔見知りなんかじゃない。なんやのなんやの? かわいい。
待ち受けていると、すぐ前まで来て止った。「こんにちは」 
おちびちゃん、にこーっとして、行ってしまった。

ついこの間のこと。こうして一目散に駆け寄る孫の姿が重なって、会いたいなあってちょっぴり思ったのだった。
 
  今朝早く、彼が描いたという絵を写真に撮って娘が送ってきた。寒くなって、学校から帰宅後は絵を描いたりする時間も増えたみたいなこの頃。
「何の絵だか当ててみて」と言われても、パンダじゃなかったし思い浮かばなかった。牛だった。


もう忘れるほど以前になるのに、この紫陽花の時季に亡き母と水元公園(東京都葛飾区)を訪ねたことが思い出された。家からは距離もあるのに、どうしてだったか。確か柴又帝釈天にもお参りしたと思う。花が人を思い出させるのか…。母親と過ごす時間は短いなあ。

帰り道、通り筋の花屋さんに寄って安い花を買う。


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おれはきのうのおれではないぞ

2022年06月13日 | 日々の暮らしの中で

6月の寺子屋サロンも和やかに終えた。
ひとつ事が済むと、満ちていた意気がいったんしずかに引いていくのをいつも感じている。

紀元前1600年に始まった中国の古代王朝殷(いん)を興した湯(とう)という王は、生まれついてではなく努力して聖人になったという。湯王を補佐した名臣伊尹(いいん)は、
「時レ乃チ日ニ新ナリ」
(こレすなわチひニあらたナリ)という言葉が好きだったそうだ。
徳を古びさせるな、ということで、徳とは人に生きる喜びを与えるための人格的原理といっていい、と。民を新たにしつつ自らも新たに生きなければならない。

湯王は、毎朝顔を洗うための青銅製盤に、九つの文字を彫りつけた。苟日新 日日新 又日新。
  苟ニ日ニ新ナリ (まことニひニあらたナリ)
  日日新ナリ   (ひびあらたナリ)
  又日ニ新ナリ  (またひニあらたナリ)

司馬遼太郎は『風塵抄』で、「この詩句には近代の憂鬱や倦怠がなく、湯王が勢いよく顔を一洗して、おれはきのうのおれではないぞ、さらに一洗して、きょうはまたうまれかわったぞ、という素朴な明るさにあふれている」と記し、
「日に新たなりというのが生命の状態なのである。新たでない生命などはありえず、その平凡な事実を知るときに、精神があらためて奮い立つ」と言われる。

今日は用事もないのに友人と会った。面白そうだねと、映画「かば」を観る約束を交わした。
日に新たないのち。もったいないから楽しそうなこと、興味あることを積極的に見出して、今日一日を生きる。
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これもタイミングなんだけど

2022年06月09日 | 日々の暮らしの中で

馴染みの深い豊かな緑。

わが庵は古本紙屑「ほととぎす」
しきりにホトトギスが鳴き、喉元の仕組みはどうなっているのやら、軽やかな声が転がってくる。
荷風は「蟲の声」と続けているのだが、今日のわが庵はホトトギスに尽きた。

『方丈の孤月』を読みながら『方丈記』の原文を岩波古典文学大系で繰り返し味わっているが、長明の庵跡とされる方丈石が伏見区にある法界寺の裏、日野の山の奥にある。どんなところ? 周囲の眺めは? その場に立ってみたい。それだけの好奇心だが、推し進めた先には「なるほどー!」が待っているはず。自己満足が得たいのだ。行き方を調べてみた。

「巨岩があるだけよ」
素っ気ない物言いに、言わなきゃよかったとどこかで思うが、これもいつもの事。相棒とすべく誘いはするが、快い返事がない。
何ごともタイミングってものがある。
梅雨に入れば足場は悪いし、カンカン照りには自信なし。ああ、連れがほしい。


タチアオイの花のやわらかさに気持ちを穏やかにして一日を終わらなくては。
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深呼吸

2022年06月07日 | 日々の暮らしの中で
いつにないことだが朝の目覚めも気分よく、早朝から机に向かって書きものを始めた。仕上げはパソコン入力で、人数分を印刷すればいいだけにして終わる。
子どものお弁当づくりに時間がとられることもなく、すべき朝のお勤めさえ終えれば、ほぼほぼ自由の身。腕を枕に机に伏すと、そのまま居眠りしてしまったようだ。

一仕事終えて疲れた頭。このバランスをとるためには気分転換しかない。
琵琶湖岸にそって、近江八幡にある長命寺あたりまでを考えて走った。家でぼんやりしている方が疲れ休めとなりそうだが、出好きの虫がね…。


   つばめはハイカラ
   えんび服
   『土くって虫くって
   口しいぶい』
   もんどりうっては
   空でなく               「梟と燕と鶏」(槇本楠郎)より抜粋

時々霧雨に合うが、空気はヒンヤリと気持ちが良い。
長命寺港の広い空間はつばめ天国だった。つばめ返しの切れ味を磨いている?? 


長命寺の808段の階段は一度経験しているのでまたの機会に回して辺りを散策していると、なんと温泉があった。用意したのは昼食ぶんだけ。惜しいことをした。
ぼーっと湖面を見てゆっくりしただけなのに、なんだかやる気が出てきたとは。この気持ちが大切なんだわ。例会日を楽しみに。
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聖徳太子に聞いてみたい

2022年06月04日 | 日々の暮らしの中で
中学校の国語の教科書に、加藤周一さんの言葉が引用されていることを知った(どこの出版社のものかはわからない)。

「ケータイ」電話を用いれば、どこにいても、友達と話すことはできる。しかし、わが身のふり方を聖徳太子に相談するわけにはいかない。
古今東西の偉人たちに、自由自在に意見を求めることは、本を読むことでしかできない。


     

聖徳太子に聞いてみたいと思えば、先ずは〈十七条の憲法〉を前にして、太子の言葉をじっくり受け止め、対話を楽しむことだろうか。太子の人となり、生き方の思想などへ、自分なりの読解が生まれれば、問の答えが導き出せるかもしれない。U君、聞きたいことって何? 


梓澤要の『方丈の孤月 鴨長明伝』。
大原から洛中を縦断し南へ、半日以上歩いて歩いて日野の里にある法界寺に着いた。この寺域の奥、つま先上がりの杣道を進んで巨岩がそそり立つ場所に、終の棲家となる庵を建てることにする。長明は50歳をいくつか過ぎている。ほんの数ページ、読み始めた。 

鴨神社に生まれながらも、不運と挫折の連続。歌道や管絃に親しんでいたが、50歳を過ぎた頃に起きた事件をきっかけに、隠者としての生活を賭ける。
小説では、折々の長明の身の処し方がどう描かれるか。そしてまた原文で、言葉の力強さを味わいなおしてみよう。

不運と挫折の連続でも、人生を豊かに生きていくコツは何なのでしょう…。長明さんに聞いてみよう。
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田の神の月

2022年06月02日 | 日々の暮らしの中で
カブトガニを見つけた田んぼは水が張られることもなく、畑としての作物も見られないまま2年になる。そら豆より小さな雨蛙が飛び跳ねていた田には、今年も早苗がそよいでいた。
比叡山を目の高さに遠望するが、近いうち、この辺りも水田のある風景はなくなってしまうのではないだろうか。
30度に近そうな昼下がり。水田を渡る風に吹かれ、立ったままひと休み


 〈五月雨に鳰の浮巣を見に行む〉 
ちょっと琵琶湖まで鳰(にお)が水上に作った浮巣を見に、と江戸を発つ暇乞いに詠んだのは芭蕉。

 〈湖の水かたぶけて田植えかな〉 几菫
芭蕉の遠征に比すれば、ほんそこの近さ。米どころ湖東平野も田植えが終わり一面の水鏡だろう。見に行ってみるかなあ。ついでにもう一度西明寺百済寺へ。菩提樹の花が咲きだしたかもしれない。

         オニグルミの実
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