京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

18歳の永徳が

2024年01月30日 | こんなところ訪ねて
立春を数日後にした京の空は、青く晴れ渡った。
日差しも温かさを増してきた午前11時ごろ。地下鉄の今出川駅で降り、烏丸今出川の交差点から西へ、室町通を越えて新町通まで歩いていた。

2筋目だから大した距離ではない。途中振り返ってみても、青い道路標識の先の右手、京都御苑の北西の角をのぞめる。


新町通から南に下がるや、ほとんど出会う人はいないまま、目指すは元誓願寺通。
今出川通りからどのくらい下がったか、これも知れている。
ここ、赤い塀のところから西に入ればよさそうだ。


西は元誓願寺通り。

ああ。ここね! このあたり「狩野元信邸址」


「道幅の狭い上京の辻」
「永徳の屋敷は、上京の誓願寺のそばにある。
あたりが狩野の図子(ずし)と呼ばれているのは、狩野家の名がそれだけ京で知れわたっているのと、本家を中心にして一族や弟子たちの家がたくさん集まっているためである。図子は、辻子(ずし)とも書き、細い通りや町の一角のことだ。
通りの両側に板葺き屋根に石を乗せた家が立ち並んでいる」
いかめしい侍の一行、坊主の乗った輿、大きな荷をかついだ物売り、辻には人が多い。上京のなかでもいちばん繁華な界隈だ、と描写される。
白梅が咲き出した永禄3年(1560)の初春。18歳になった永徳が登場した。(『花鳥の夢』)

「いつまで読後の余韻のなかにいるのよ!?」って、友の声がしてきそうだわ。

ここから今出川通りまで出て、小川通りを北へ。すると本法寺はまもなくのこと。禁裏も近い。
戦乱、争乱。再興しては焼失を繰り返し、京の街は絶えず変化し続けてきた。
将軍足利義輝から洛中洛外図を依頼されて、洛中の邸宅や寺社を巡り歩いた永徳。足跡をいっぱいつけて。
そうか!このあたりだったのか。初めて訪れた“狩野の図子”に、ちょっぴり感動。

「小説を読む、それは存在がはっきりしない何かを信じるという行為。例えば太宰を読むことは太宰を信じること。千年前に死んで会ったこともなく、しかも外国語で書いた作者をすごいと思って読んだりもするわけで」。文学的空間において自然に成立する「信頼関係」だ。

先日読んだばかりの高橋源一郎さんの言葉を友に伝えよう。ふらふら出歩く言い訳になる?
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ひとつひとつ深く心にとどめながら

2024年01月28日 | こんなところ訪ねて

本法寺に長谷川等伯による「佛涅槃図」を拝見しようと出かけたところ、ちょうど春季特別寺宝展が開催されていた。



           
平素は原寸大(縦約10m・横約6m)の複製が展示されているがて、毎年3月14日~4月15日の期間に真筆が拝観できるとのこと。
首を真上に向けて見上げる。でっかい~って感じ。
「一番左の沙羅双樹の根元に座り込み、緑色の僧衣をきて、ほお杖をついている男」を探した。下から見上げ、二階から、半分上を近くに見ることができる。洋犬も探し当てた。
多くの縁者と別れがあった。60歳を過ぎた老境の身での作。

帰り際、誰もいない気楽さから少しお話をさせてもらった。
「そこに白い壁が見えますやろ。等伯さんはそこに住んで本法寺にかよわはったといいます」
拝観受付の窓口で座って指さす先を振り返った。

〈安土桃山文化の芸術担い手となったのは、法華檀信徒だった。狩野元信・永徳、等伯、本阿弥光悦(王林派の祖)。日蓮の革新的性格が伝統様式から解放したのでは〉などと何かで目にしたことがある。光悦と等伯のかかわりも深い本法寺。

カラーでしたつもりなのにごめんなさい、といってくださった。
 

「生き残ったものにできるのは、死んだ者を背負って生きることだけだ」「ひとはそれぞれ重荷を背負いながら、一日一日を懸命に生きている。大切なのはその生き様であって、地位や名誉を手にすることではない」(『等伯』)
『等伯』を読み、五木寛之氏の『百寺巡礼』第9巻の本法寺、能登半島の付け根、羽咋にある妙成寺について第2巻で読むなどして、そして、狩野永徳を主人公にした『花鳥の夢』とも出会い、
「長谷川等伯とは、いったいどんな人生を送った人だったのだろう」と私も関心を寄せた。
自分で史実を調べるということまでには至らないのだけれど…。


2015年に高野山夏季大学でお会いした当時82歳の女性の、「『等伯』を読んでごらんなさい」のひと言が心にとどまり、巡り巡って今に至る、この巡り合わせの不思議を思うばかりだ。

「東福寺の涅槃図には猫が描かれているそうですね」
私は観たことがないと言ってから、こんなふうに添えた。
「猫は明兆さんのお手伝いをよくしたそうですよ。それで、お前も描いておいてやろうって描き足したそうです。エライ先生がおっしゃっていました。ほんとうでしょうかね」
「真如堂の涅槃図にはやはり猫が描かれていました。ガンジス川が流れているのですが、タコやクジラまで描いてありました」

帰りのバスの車内で、こんな会話もしたのだった。面白そうに小さく笑ったのを覚えている。このとき、それまでずっとしていたマスクを外されたから。
彼女は本法寺のこの大きな佛涅槃図は御覧になっていたのだろうか。



妙覚寺で狩野家累代の墓に参った。塀沿いに山梔子の実が生るのが見えた。

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めでたい兆し、緑色

2024年01月24日 | 日々の暮らしの中で
掘り上げて保存しておいた球根をプランター4つに植え付けたのが11月にも入ったころだった。
暗い土の中で淋しくないように、お隣さんとあまり離れないように、なるべく近めに寄せて植え付けた。
次々と蕾をつけて咲きだすと、群生の賑やかさ、華やかでいいものだし。
庭の草草に隠れていたのを拾い上げたのが鉢植えのはじまりはじまり。

 

新年に入って半ば頃にたっぷり水やりして、以後は失念。なんと、気づかずにいたらオオアマナが1センチほど芽を出していた。どのプランターでも、ぼつぼつと。おお、こんにちは~。

厳寒に芽生えた緑。
一つの新年の吉祥の色として、これもめでたい。希望であり、いのちの再生の色。

〈種は不思議が詰まったいのちのカプセル〉だとか。
種も球根も、いのちが再生するのだから不思議だー。




「重いリュックを背負って、慣れないシャツにネクタイ締めて。
重くて硬いフォーマル靴はいて、バイク通学。
Tylerはお疲れモードです。家に着くなり座り込んでいます」
  と娘から言ってきた。

「ああ、かわいそうに~」
 (そのうち慣れるでしょ~)

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明日、何が咲くか

2024年01月22日 | HALL家の話

年末には長年懇意にする生花店に蝋梅の枝を好きなだけ持ち帰っていただき、その代わりにお正月用の菊を上げて下さるという物々交換が続く。
ちょっと重く、甘い香気が漂う。蝋細工のような透けた花弁が美しい。我が家に居て、この蝋梅の花のほころびが春を彩る何よりの喜びとなっている。


     しらじらと障子を透かす冬の日や室に人なく蝋梅の花    窪田空穂


今日から孫のTylerが中学生として新しいスタートを切り、弟のLukasは小学校2年生に進級しました。
例年より1週間休暇は短くなったと聞いていたのですが、今日の日を忘れてしまっていました。朝、娘から写真が。
 

帽子をかぶって、とても中学1年生の年代には見えない可愛さ? それでもネクタイを締めて帽子をとれば、…やはり同じか、まだまだあどけないと見てしまう。
クリスマスプレゼントとなったマウンテンバイクで学校までおよそ15分、もちろんヘルメット着用での通学を目指すようです。
姉のJessieの後に続き、中学・高校の6年間をここで学びます。良い出会いがありますように。選択肢の多いカリキュラムにも楽しみを感じさせてくれる。

弟のほうは、このところ毎日鏡の前でジェルでヘアスタイルを整えていると聞かされ、思わず笑いが。

これまで多くの時間を兄のそばで過ごし、兄に寄りかかり守られても来たLukasです。それなりに逞しさを身に添えたようにおもえるのですが、これからが自立のとき?
子どもに明日、何が咲くか。
もっともっとたくさんの誉め言葉を贈ろう。

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ゆるやかな時間

2024年01月20日 | 日々の暮らしの中で
昨日はわりと穏やかなあたたかい日差しに恵まれた。

無為の一日、飛行機雲を見あげていた。
東から西へ。くっきりと尾を引いて伸びる直線もあれば、もわもわと緩んで崩れひろがるもの3本、4本。
もったいないので少し歩きに出たら、いつもより30分ほど時間をオーバーして帰宅。おかげで夜はぐっすり! ぐっすりと寝込み過ぎてしまった。

今日は雨。あたたかな大寒だ。
京の冬の旅」が開催されているのを地元のテレビニュースで知って、どこかへ行ってみないか?という話になった。「そうねえ」 しかし、どこへ?と思いつかなく、愛想なく応じてしまう。

『花鳥の夢』ではラスト、永徳が東福寺法堂の天井に龍の図の下絵を描いていた…。
しかし、明治14(1881)年の火事で東福寺は法堂を含む多くの伽藍を焼失してしまうことが、取り出した五木寛之氏の『百寺巡礼』第九巻の中で触れられていて、永徳の龍は現存しない。書き上げてもいないのだと検索してわかった。

「龍」を離れ、今一度本法寺を訪ね、等伯による巨大な涅槃図をレプリカであっても拝見してみたい。
〈等伯は、さりげなく自画像も描きこんでいる。一番左の沙羅双樹の根元に座り込み、緑色の僧衣を着て、頬杖をついている男〉だと、安部龍太郎氏は『等伯』の中で書き添えていた。見てみたいじゃないの。
そしてかつて信長の定宿だったと知って訪ねてみた妙覚寺で、永徳の墓に参ろうか。
やっぱりいつも通り、それぞれの興味で動くのが楽だと思えてくる。

と、今ここで思い出すのは、葉室麟さんが書いておられた言葉。
「幕が下りるその前に見ておくべきものは、やはり見ておきたい」(『古都再見』)
そうしてこのひと言がしきりに思われたのは、雨の一日に世間と隔絶したように家ごもりし、ゆるやかな時間を過ごしていたせいかもしれない。
今日も無為な一日、だったかもしれないが、だからこそ、今の自分の関心事が見えて、ひとまずそれを何とかしたいと思うのかも。

時おり強い雨音に気づかされる。

 ヤマザキマリさんの2冊目『ヴィオラ母さん』。
『水車小屋のネネ』(津村記久子)と、読書もぼちぼち進む。
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大津から、始まった

2024年01月17日 | 展覧会
琵琶湖西岸の山手にある大津市歴史博物館。その正面から琵琶湖を眺めれば、
左方に比叡山があり、その右手に続く比良山系の山並みには白く輝く冠雪が見られた。

そこからさらに右へ、東岸にあたる正面の山のその向こうに、やはり冠雪した伊吹山の台形の頂が望めた。


近江の人と、「源氏物語と大津」と題した特集展に足を運んだ。
まだこの先1年(~2025.2.2)もあるが、展示内容が変わる。この一期には、光源氏と葵上の出会いを描いた土佐光吉の源氏物語図色紙「若紫」(石山寺蔵)が展示されると報道されていたので、これが目的だった。


永徳の妻の兄、土佐派の後継者だった土佐光元は、「絵を描くより合戦に駆け回る方が得意で、千石の禄をもって秀吉の陣に迎えられ、戦に斃れた。」
それから10年。土佐派の後継には光茂の高弟だった光吉しかいない、といった箇所に一度登場したのが「光吉」だった(『花鳥の夢』)。
永徳は、「土佐派の絵は、いたって凡庸である。寺社の縁起や上人の物語を画巻に仕立てるのは得意でも、画面の中に躍動感や力強さなどはまるでない」と評していた。

この光吉の色紙に、力強さは不要だろうが、展示室がなあんか暗くって、あらゆる展示物の説明書きが読みづらく、見えない(ので読み取れない)というものもある始末。文字が小さい。眼鏡を取り出して見たが、小さい。こんなことは初めてだと思う。

「大津」に関わる常設展示と場所が一緒? 意図して構成されているのか? ごちゃごちゃと、余分なものまで見る羽目になったのか。
うーん、わかりにくい展示構成だった気がする。極めて不満足…。

外に出て、目の前に広がる琵琶湖の広がりにモヤモヤとくすぶった思いを吐き出した。

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心には翅(つばさ)もあらん

2024年01月15日 | 日々の暮らしの中で
いっきに血管が収縮し、身が縮みあがるほどに冷え込んだ堂内。
お仏飯から立ち上がるゆげのむこうに、こうして同じようにお勤めを繰り返したであろう、顔も知らない代代の女たちを思うことがある。

山の向こうから朝日が昇るので、とりわけ冬はいつまでも暗い。夜明はまだまだ先。


今朝、地元紙の文芸欄「柳壇」の入選句、〈毎日が贈り物だと思う朝〉に目が留まった。
「辛くてしんどい朝もあるのに、毎日が贈り物だという作者の前向きな姿勢に感心している。今日という日を喜んで生きていくという大切さを思う」(選者評)

そう言えば…。
【内側に何かを秘めない人はいません。何をどのくらい表にし裏にするかは人によって違います。その割合こそが、動かしようのないその人らしさを作るのでしょう】
そして、
 「心には翅(つばさ)もあらん蝸牛(かたつむり)
江戸俳諧歳時記にこんな一句が収められているということ、『夜の蝉』(北村薫)の中で円紫師匠に教わったなと思いだす。


比叡山が白くけむっていたので、吹雪いているんだなと遠望した午後。
奥のガラス戸がときどき音を立てていた。
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こころが遊ぶ場所

2024年01月13日 | 日々の暮らしの中で
絵は絵師のこころの力で描くのだ。絵師の情熱がたぎっていれば、観る者は必ずこころを揺り動かされると信じて疑っていなかった永徳。そして、画面の中の世界を、熱い情念と周到な計算でどう構築するかを考えてきた。(『花鳥の夢』山本兼一)

永徳は父・松栄の絵には「なにかが欠けている」と思っている。
花を描いても鳥、竹林、虎を描いても、端正な構図で丁寧な運筆で精緻だが、生命力に乏しく、地味で、見る者に迫ってくるものが乏しい。人物も、さほど思い入れがなさそうなたたずまい、面持ちにみえる。人を描くには、こころを描かなくてはならないと考えていた。


父は言った。
「こころは観ている者にあるのではないか。観ている者のこころが遊ぶ場所をなくしてしまおうというのか」「押しつけがましい絵はうるさくてかなわぬ。観る者が……気ままにこころをたゆたわせる場所がある方がよかろう」
「おまえの絵は気負いがありすぎて、見ていると疲れることがあった」
永徳は、等伯に描かせた屏風の小下絵を見て「空白が多いな。なぜだ」と問う。
等伯には、観る者が心を自在に遊ばせる場所、気ままにこころをたゆたわせる場所、余白に関しては譲らぬ「絵師としての強い信念」があった。
「あまり書き込み過ぎますと、絵を観ている方の居場所がなくなり、息苦しくなる気がいたしまして…」

『花鳥の夢』を読みながら、文章を書くことと重ねて考えもした。
「言葉の過剰が芸を滅ぼすのです」。山田稔さんの言葉を忘れたくない。


寒い日になりましたが、寺子屋エッセイの集いは今日が新年会でした。
大学入学共通テストと重なった不在者のガンバリを期待しつつ、春よ来い来い。
ひと月先には蕾もこのようにふくらむのを想像して心温め、春を待ちます。

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ポップに乗った

2024年01月11日 | 日々の暮らしの中で
久しぶりに市内の新刊、中古書店をはしごして数冊を手に入れ、満たされた思いいっぱいで帰宅した。それなのに、時間が経つにつれて後悔ではないのだけれど(ああ、のせられたかな)という思いがわいてきた。


いやいや、乗ったのだな。

お名前はもちろん承知。でも作品を読んだことがなかった津村記久子さん。平積みされた本の周囲で、幾つものポップによる作品の紹介がなされていた。
ポップって販売促進のためと単純にとらえるだけの私は、これまでポップによって気持ちが左右されたことはなかったし、そもそも関心も薄い。

永江朗氏が「芥川賞、直木賞受賞作品は単行本ではなく価値が定まって文庫本になってからで十分。あえて読む価値があるのは、野間文芸賞、谷崎潤一郎賞、泉鏡花文芸賞、大佛次郎賞」と挙げられていた(『51歳からの読書術』)。
氏を信奉しているわけでもないが、そうか、谷崎潤一郎賞受賞作品であることに乗せられたのかもしれない。
ちょっと値が張ったので、納得感が欲しいのだろう。みみっちい性分だことね。


【「家出ようと思うんだけど、一緒に来る?」身勝手な親から逃れ、姉妹で生きることに決めた理佐と律。……希望と再生の物語】だそうで、
〈誰かに親切にしなきゃ、人生は長く退屈なものですよ〉と帯裏にある。

よく言われるけれど、本に手を伸ばす、そのとき、「何か不思議な力」が働いているように思える。やっぱり出会いは一期一会。
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能登の海は

2024年01月09日 | こんな本も読んでみた
「能登の海は目が覚めるほどの群青色で、底まで澄み渡っていた。この地に生まれた桃山時代の絵師、長谷川等伯(1539~1610)もこの海を見ただろうか」

こう書き始まるのは2019年5月19日付の地元紙コラムで、
「今年生誕480年。石川県七尾市の武家に生まれ、染物屋の養子となった等伯は、後ろ盾もなく30代で京に上り、名門狩野永徳と肩を並べ渡り合った」と続く。
能登と京都の人々は琵琶湖の水運で今以上に緊密に行き交っていただろうとも書かれている。

古いスクラップをめくっていたのは、就寝前のわずかな時間に読み継いで、『花鳥の夢』(山本兼一)を読み終えたからだった。


安土桃山時代、足利義輝、織田信長、豊臣秀吉など、時の権力者たちの要望に応えて多くの襖絵や障壁画を描いた永徳。長谷川等伯との出会い、確執。一門を率いる棟梁としての苦悩。乱世に翻弄されながらも天下一の絵師を志す生涯が描かれていた。
今一度ざっと全体を振り返るつもりでいる。

ライバル、『等伯』(安部龍太郎)を先に読んでいた。

そのせいか読後は、大徳寺三門の楼上の天井に描いた龍の絵のことなどが思い出され、公開されるんだったかな??などと思いがいったのだった。
スクラップには忘れていた古い記事が現れた。

書き出しの一文は、まさに現在の能登の姿が暗く覆い尽くしてしまう。
もうはるかに昔のこととなり海の青さも薄れているが、輪島を訪れ、七尾の温泉旅館に泊まったことがあって、なんとも切ない思いでコラムの書き出しを読み返す。
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「そうそう、こんな感じで」

2024年01月07日 | 日々の暮らしの中で
1月7日は、ある地区のご門徒が寄り合う場に住職が招かれ、七草粥のお膳がふるまわれる。
毎年の恒例行事で、コロナ禍においては中止されたが、絶えることなく続いている。
留守中の朝、無病息災を願い、私は一人静かにいただく。


「せりなずな ごぎょうはこべらほとけのざ すずなすずしろ」
これぞ七草。小学校4年生だっただろうか。暗唱していた孫娘を覚えている。
食べずに帰ってしまった。
なんや寒さが増した気がする。その存在は心身まで温めてくれるものだったのだ。

外は風が吹いているようだ。

    宵過ぎや柱みりみり寒が入る     一茶
 「うす壁にづんづと寒が入」る冬の住居の実感。

    煙草盆足でたづねる夜寒かな
    たてのもの横にもせぬ冬ごもり

一茶58歳、3人目の子が生まれ、中気がおき、どんどん無精癖がつき…。

    合点してゐても寒いぞ貧しいぞ
    手拭いのねじったままの氷かな

おいおい、一茶さ~ん。
「炬燵弁慶で、老いだの、おとろえだのの句ばかり、口をついて出る」一茶は、62歳。
田辺聖子さんの『ひねくれ一茶』を思いだして開いてみた。

いけない。引きずられてはいけない。
今日から地元紙では漫画家・いがらしみきお氏(68歳)の「おいじまん」の連載がはじまった。

飼い猫が突然足をくじいたのか足を引きずって歩いていた。「いたい」とも「治してくれ」とも言わずに普通の顔をして、足元を盛大に足を引きずって横切っていく。それを見て、
「私は、そうそう、こんな感じで自慢したいものだなと思った」
と結ばれるのを読んで、ふふふ。

ユーモラスな老い自慢なら期待したくなる。
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未知の壮大な世界

2024年01月05日 | 日々の暮らしの中で
孫娘は最初の予定を早めて帰国した。



スーツケースの重量が20kgまでのところぎりぎり19.9キロ(機内持ち込みスポーツバッグが10キロ)でやってきた。
帰り、出国手続きのカウンターで計ってみるとスーツケースは29.7キロ(30kgに申請)だった。

持ってきた冬物の衣類は船便で送ることにしたので、ほぼほぼ家族や友人、自分のために買った品々で満杯状態。菓子類の多いこと。買うだけ買って詰める。だから入りきらず、航空便EMS1箱、船便2箱にも分散することになる始末だった。
待ち人の顔を思い浮かべれば、孫娘には重さなどなんのその。その代わりに支払う荷の送料(郵便料金)には、わかっていてもひそかにうならざるを得なかった。

孫娘の姿格好が目の端に入るようなとき、娘と錯覚する瞬間がある。「マミィちゃんがいるみたいよ」と笑ったことが何度かある。写真に撮って娘に送ると、娘は「アタシダー」っと笑った。
18歳。社会性では今一つ頼りなさがあるが、気づかい合って程よく距離を置いて過ごすとき、そばにいてくれることは心強く、ゆったりとした安心感を抱いているのを感じもした。

高校の卒業式を終えて日もなく、友人と来日した。
4年間暮らした大阪での友人たちは大学受験を控えて猛勉強のまっさ中。京都での友人も同様で、そう頻繁に会う余裕すらなく、当然誘うことは控えた。
来ることは早くからわかっていたが、小旅行に連れ出してやることもできないまま師走に入ってしまう。

滞在中、大雨による洪水だったかで乗り継ぐケアンズ空港が使えなくなったニュースもあった。当初のチケットは、ケアンズで9時間待ちというものだった。大学は2月に入ってからと聞いているが、少しは身辺整理して新しい出発に備えたほうがよいのでは。そろそろ…。

このところの生活の中心を占めた存在が姿を消したあとの、なんとも言えない空虚感。しかしそこにもやがて平常は戻ってくる。


ある時、自分は「変化を好まない人だから」と口にした。初めて聴いた自己分析?
幼いころから日本にやってきては短期間でも幼稚園、小学校の生活を体験したことは無意味なことではなかったはず。〈親の都合〉では終わらない。

『扉の向こう側』にあったヤマザキマリさんの言葉が再々思い出される。
「完全な偶然の中で知り合う他人というのもまた、見知らぬ土地への旅と同じく、自分の人生観や生き方を変えるかもしれない要素をもった、未知の壮大な世界そのものなのだ」

私がザッと読み上げたマリさんの体験談に、「それはすごい」と心動かしたことを忘れないで。
幾つもの出会いが自分を作っていく要素の一つ一つになっていく。
今後訪れるであろうさまざまな出会いに、喜びにあふれて生きていってほしい。今、18歳の娘に心から願うことかもしれない。

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