京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

蛸に八手

2024年06月29日 | こんなところ訪ねて
新京極の通りに面して蛸薬師(浄瑠璃山永福寺)があります。


何度かは線香のくすぶりの向こうでお参りしたことがありましたが、注意深くあたりをキョロキョロ…。と、本堂はこの奥、といった張り紙に気づき、初めて脇から奥まで進んでみました。

「蛸薬師」の名の由来は、
「親孝行な僧善光が病気の母の願いに応え、戒律に背き蛸を買って帰るとき、人に見とがめられ進退に窮した。薬師如来に念ずると蛸が経巻に変わり、母の病気も全治した霊験から」で、
坂井輝久氏は、ここに「京童」の駄洒落のような句〈たむけなば八手(やつで)の花や蛸薬師〉を添えている(「京近江 名所句巡り」)。


京都で出版された仮名草子で、最初の名所記となったのが中川喜雲の「京童(きょうわらべ)」。
随所に古歌が引用され、喜雲自身も歌や俳句を読んだそうだ。
蛸と八手。…そうか、駄洒落か、と読んでいたので、覗いてみようという気になった。
果たして果たして、奥へ進む途中に鉢植えの小さなヤツデが植わっていた。

本格的な観光旅行が始まった江戸時代には、「名所」-などころ・歌枕名所ーから次第に歌枕に関係のない旧跡や霊地まで、さまざまに和歌や俳句を拝借し、漢詩や挿絵にと名所を楽しむ工夫が凝らされたという。
蛸に八手、より印象深く風趣も増す?


澤田ふじ子さんの『闇の絵巻』がとてもよかったので、もう一冊と思い『花暦 花にかかわる十二の短編』を手に入れてきた。
八手の花は載っていないけれど。
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絵に魂を込めるなら

2024年06月26日 | こんな本も読んでみた

浅井長政の家臣・海北善右衛門綱親の3男として1533年、近江国坂田郡に生まれた友松。
家督を継いだ長兄は、友松13歳のときに東福寺に入れた。

中国の毛利氏の外交僧として活躍する安国寺恵瓊、生涯の友となる明智光秀重臣の斎藤内蔵助利三との出会い。
光秀、信長。永徳。

「武士は美しくなければならない」- 生き方がいかにすぐれているか。
「美しいだけの絵が何になろう。絵はおのれの魂を磨くために描くものではないのか」
群雄割拠する時代。いつか還俗して武士として生きたい。そう思いながらできぬまま「人がこの世に生を享けるのは何ごとかをなすため」、自分のすることは何だろうと問い続け生きてきた。

法華宗を〈安土宗論〉で裏切った信長。「法華の蜘蛛の巣に捕らわれることになりましょう」
歴史の展開を知っているだけに、信長の正室・帰蝶が言い放った言葉は私に先を読みせかした。
〈本能寺の変〉の後、友松は建仁寺の下間三の間に、八面の襖の中に対峙する阿吽二形の双龍を描いて、この世を救った正義の武人、明智光秀と斎藤内蔵助の魂を留め置いた。

墨一色で描きながらも華やかな色彩を感じさせる(如兼五彩- 墨は五彩を兼ねる)〈松に孔雀図〉など、すさまじいまでの気迫が込められた画風の世界を繰り広げていった。

「絵とはひとの魂をこめるものでもあると思い至りました。この世は力のあるものが勝ちますが、たとえどれほどの力があろうとも、ひとの魂を変えることはできません。絵に魂を込めるなら、力あるものが滅びた後も魂は生き続けます。たとえ、どのような大きな力でも変えることができなかった魂を、後の世のひとは見ることになりましょう」

「人としてのよき香を残す」。恵瓊は言い残して去った。
「ひとはなさねばならぬ生き甲斐を持っておれば、齢のことなど忘れてよいのではありますまいか」
60を過ぎて20代の清月と出会い、子をなした友松。これは清月の言葉。
晩年は風雅の交わりを好むようになったそうで、悠々自適の暮らしの中で絵を描き続けたという。

巻末の澤田瞳子さんによる解説で、この作品が上梓されて10カ月後に葉室氏は急逝されたことを知る。読了したばかりで、まだ様々な言葉が自分の内に収まっていないのだが、葉室さんは、小説の中で生き方の模索を主人公たちに託して描いてみせてくれた。

龍の絵を観て心安らぐような私ではないが、いつだったか海北友松の展覧会をやり過ごしたのを残念に思い出しながら、それもしかたないこと、何ごとも個々に合った時期があるのだと思う。
                             ※  /27 少し加筆しました
      
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ホールドオーバーズ

2024年06月24日 | 映画・観劇

「ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリディ」を観てきた。

1970-71年にかけて、ニューイングランドにある全寮制のバートン校を舞台に、家族とともに迎えるはずの休暇(クリスマス、新年)を、それぞれの事情で居残ることになった3人が心を通わせていく。

生徒から嫌われている古代史の教師ポール。
トラブルメーカーのアンガス。
息子をベトナム戦争で亡くした学校の料理長メアリー。


言ってはいけない、思いやりを欠く指摘を面と向かって言い合う。
なんで。知りたいのはそれが何に起因しているのかということだった。
それぞれに心の奥底に沈黙したままの言葉を持つ。事に触発されては殻が破られ、少しずつこころの内があきらかになってくる。

3人の年齢がいくつであろうと関係なく、他者の心を汲んで、思いを深めていく。
これからの三様の人生に、わずかな希望を感じさせられ、ポール先生ではないが私もアンガスに“You can do it.”と言葉をかけたくなった。

人と人が心でつながる。これって人間が克ち得た知恵だろうか。
〈人の心はつかめないが、心を汲むことはできる〉って、どなたかの言葉だったか。あたたかいものに満たされた。
もう一度観てもいい。Jessieといけたらいいけどなあ…。



いまだ音沙汰なしの孫娘。彼女不在の残留組〈The Holdovers〉は今日、
家族4人“小さな遊園地”で遊んできたという。

 
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韓国3日目の夜

2024年06月22日 | 日々の暮らしの中で

梅雨入りのなか、咲き始めた色の鮮やかさは気持ちを晴らすような活力にあふれる。


オーストラリアで暮らす孫たち、男組二人は今日から2週間の冬休みに入ったという。
長女のJessieはすでに休暇中で、お隣の韓国で3日目の夜を迎えている。
友人と二人で20日の朝発って、夜には無事韓国入りした。

2007年。この年は最初の新居を建築中で、そのため3月30日から3カ月半ほど日本に滞在した。彼女には2度目の日本だが、1歳8か月になっていた6月に一緒に韓国に行ったのだった。覚えてはいない、ってのも仕方ないか。
雨のソウルだった。


「どうしてる?」「お天気はどう?雨?」
 ひと言ことばを聞きたいけれど、楽しんでいるところにお邪魔するのは控えた。

たとえわずかな日数であれ、どのような目的での旅行であっても、初めて親元を離れた異国での体験は、一粒の宝物となっていくことだろう。
25日には東京に入るので、早く、早く(日本へ)と待ちわびる思い、無きにしも非ず。
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求めれば

2024年06月20日 | こんなところ訪ねて
南禅寺塔頭・金地院を訪ねた。


地元紙で長く連載されてきた「京滋(新・京滋)文学の舞台を行く」のファイルを読み返していて、『黒衣の宰相』(火坂雅志)が目に留まったのだった。
金地院は大業和尚が足利義持の帰依を得て北山に開創した寺を、慶長の初めに以心崇伝が移して自らの住む寺として再興したそうだ。
この以心崇伝なる人物は、徳川家康に近侍して幕議に参画、江戸幕府創立の基礎を確立した「黒衣の宰相」と呼ばれた人。その威勢はすこぶる盛大だった。と聞かされても知らない…。

方広寺の鐘の銘文にあった「国家安康」「君臣豊楽」に、「家康」を切り裂き、豊臣家が栄えるのを願う意味が隠されていると抗議し、豊臣側を追い詰める事件があった。と言われれば(ああ、そう言うことは聞いたことある)と思うくらいが私の知識なのだけれど、目的のためにはあらゆる手段を使う人物だったようだ。


ただ今日の目的は以心崇伝への関心ではなく、金地院にあると知った等伯の「猿猴捉月図」と「老松」を拝見することにあった。
30分ほどの説明を得られるというので、その時間に合わせて伺うことにした。
今まで何度も前を通っているのに、門をくぐったことがない。

半夏生が咲き睡蓮が埋め尽くした池のぐるりを歩きながら東照宮へとたどる。
天井には狩野探幽による鳴龍が描かれ、36歌仙の額は土佐光起の筆だそうな。


境内を一巡りして、方丈の縁で時間待ちをした。

外側から堂内の説明があって、柵が開けられ小書院へと導かれて説明が続く…。
「こちらカイホ―ユーショーの。。。。です』「えっ?!」
「海北友松ですね。なんという題のものですって?」思わず聞き直すと、「むれがらす図屏風です」と足元にあった名入りの木札を指して見せる。
「群鴉図屏風」。樹上の1羽の梟を、群れたカラスが鋭いくちばし、目つきで威圧するかのように取り囲んでいる。かつてカラスは位の高い鳥だった。
みなみな真っ黒、カラスの威厳と言おうか威圧感が迫って来る。
海北友松の絵と出会えるとは思っていなかった。ちょうど葉室麟氏の『墨龍賦』を読みだして数日、何という巡り合わせ。


こちらは水面に映った月を取ろうと手を伸ばすお猿さん。これを拝見したかったのよ。
硬い筆を使って1本1本毛を描き込んで、全体としてはやわらかな、腕も指先まで流れるような線で、顔も愛嬌ある仕上がりだ。澤田ふじ子さんが『闇の絵巻』の中で金地院とこの絵のことに触れていた。仏教説話が下地にある絵。

「黒衣の宰相」の先に等伯、海北友松へと導かれ、小堀遠州作庭の庭、茶室の趣向を楽しんだ。
求めれば、出会いの芽はそこかしこにあるものだわ。いそいそと出てきた甲斐もあったというもの。

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怠らずに咲いて

2024年06月18日 | こんな本も読んでみた
マッシュルームとプチトマトとをオリーブオイルで炒め、希釈していない麵つゆで味付けする。
茹でて冷水でしめたうどんの上にそれをのせ、ルッコラやサラダ用ほうれん草など緑の葉を周りに散らす。上から黒コショウをがりがりっとかけ、最後に、リンゴ酢を回しかけていただく。
ー 彬子さまの食欲がないときのオリジナル料理〈サラダうどん〉のできあがり。


試してみたいと気持ちはそそられるのですが彬子さま、丼ご飯に野菜炒めをのせて、さらにそこに納豆まで乗せて食べていたという。
「意外に美味しい」と言われるお方のオリジナル…、お味はいかに?

楽しい話は相手を楽しませることができる。辛かった話はいたずらに相手を心配させる。だから苦労話はしないで来たという。でもこの留学記ではどちらの体験も綴られ、生まれて初めて猛抗議したという話も知れる。

出会われた人たちが魅力的だ。人は人との出会いが自分を成長させるものだとつくづく思ったし、多事多難、何をやってもうまくいかない日はあるものだ。
それでも苦労を重ねても己の道を進もうと学問を続ける。「一念通天」、固い決意を抱いて一心に取り組めば、誠意は天に届き、物事を成し遂げることができる。
そんなお姿を拝見させていただいた。

X(旧ツイッター)で「プリンセスの日常が面白すぎる」と投稿した人がいて、反響をよんでいると。きっかけを作ってくれた読者に彬子さま直筆のメッセージ入りの本が届けられたそうな。そんな書評の一面にも誘われて手に取った。とても面白く気持ちよく読み終えた。


怠らで咲いて上りしあふいかな   才麿


下から一つ一つ咲きあがっていくタチアオイの花に重ねてみる…。
雨風に横倒れしたけれど、華やかに美しい花を咲かせている
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早いが取柄手抜き風

2024年06月16日 | 日々の暮らしの中で
昨夕、大門を閉めようと外に出たとき、「あーっ、あめ、あめだ」という声が聞こえました。
「あめがふってきたぁ」
近所の小学生です。はずんで聞こえたのは子供心にも一雨の有難さを欲していたのか、ただ単にこちら側の思いだったのか。
しばらくの間、乾いた大地に沁み込む雨の匂いが屋内まで届いていましたが、やがて本降りに。
夜は久しぶりの雨音のなかで本を読んだりしていた。


店頭に新らっきょうが並び出した頃、何年か前に向田邦子流のらっきょうの生醤油漬けを真似たことを思いだしていた。
洗って水けをきったものを漬け込むだけで、2日もすると食べごろになるというものだった。

「早いが取柄手抜き風」の酒の肴だったり料理?が多く記されているが(『夜中の薔薇』)、ただしそれらは決まったように〈いい皿に〉〈九谷の四角い皿に〉〈とっておきの双魚の青磁の皿に〉〈魯山人の俎板皿に〉と、好きで集めている瀬戸物のあれこれを使い、見栄えも盛る。
らっきょうを盛る小皿は、毎年お気に入りの〈「くらわんか」の天塩皿〉と決まっているのだった。
こういう心の持ち方こそ日常うんと真似たいところ。

例のらっきょう漬けはあの年だけのこと。
今夏は、向田流「枝豆の醬油煮」を試してみようかと思いついた。
枝からサヤを手で千切ったものを塩磨きして、うぶげを取り除き、さっと茹でて、酒、醬油、味醂にほんの少し水を足して煮る。出汁も使わず、水だけで。「このほうが自然の味でおいしい」と言われる。大鉢に、山と盛ってみよう。
最初はそこそこで。
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まるまるとまるめまるめよ

2024年06月13日 | 日々の暮らしの中で

        紫陽花の藍きはまると見る日かな     中村汀女

このところ連日30度を超える暑さが続いて、葉っぱは雨が欲しいとしおれて見える。近所から聞こえる幼稚園児の声にも、うつむき加減。
ただ、花はまさに手鞠のような花。

〈まるまるとまるめまるめよわが心 まん丸丸く丸くまんまる〉木喰上人。


2013年でした。滋賀県立美術館で開催された「柳宗悦展」で木喰仏の「地蔵菩薩像」を拝見した折、あの笑みが何とも言えず心に残ったのだった。
その流れで「まるまると」の歌を知り、
「なにごとも笑ふて暮らせふふふふふふふ」の心の持ち方に通じはしないかと知ることになった。・・のだったと思っている。
どちらも、呪文を唱えるかのように何度も口にしてみて。気持ちが動くでしょう。自ずと心もまあるくまあるく、に。

人のちょっと重たい話などを聞かされた日。
どんと胸に落ちた重苦しさを、私はどこに捨てましょう。誰かにに話すわけにもいきません。
人さんの話はよそへはもらさない。もらせない。
そんなときこそ、思いついた方を、「笑ふて暮らそふふふふふ」などと唱えてみるのです。
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空色は

2024年06月11日 | 日々の暮らしの中で
弟の忌明け法要の日、彼の家の庭に残っていたアサガオの種をもらい受け、そのまま1年3ヵ月ほど引き出しの奥で眠らせてしまった。
命を繋いで10代目となった種を蒔いた年、待てど暮らせど一粒の発芽もなく終わってしまった。

その後は2歳4カ月になる孫のLukasと公園で遊んでいて見つけたタネを、毎年取り敢えずの感じで蒔いてきたが、やわらかに青い花びらを広げるアサガオとはまるっきり違って、かっちりとしたラッパのような小さな花を開く。
ただ、わずか4センチほどとはいえ、清楚な青みがかった空色に、白い筋が入って、花芯はまっ白。物足りなさはあるが、咲けば咲いたで愛おしい。
そうは言ってもやっぱり優雅さとは程遠くって…、今年は蒔くのをやめていたのに一人ばえが育った。

  

7日の夕べ、きれいに巻かれてほんのり色を染めた初めての蕾がついた。翌朝、例年とは異なる大きさ、柔らかさで開いた。そして一日はさんで10日に新たな1輪が咲いた。
葉っぱが丸いし、花は小さいし、マルバアサガオってところなのかしら…と思っている。

空色は大いなる自然から授かった穏やかな色。五月晴れの空のような明るい青を、空色と名づけたのであろう。平安の人々は緑味の淡青色に、水色の名と清涼さを同時に与えた。水色は、古来、夏の衣装に欠かせない色である ―と。

眠りが浅く、ちょっと気力が今一つというところでグズグズする日が挟まる。
今年の田植えはどうなったのかしらと訪ねてみたら、小さな苗が育っていた。何やらとても嬉しくて爽快だった。空が青いと水面も輝きを増す。


30度を超える日になった。小さな女の子二人の学校帰りの姿があるだけの路傍に、昼顔が咲いていた。


朝刊で俳人の鷹羽狩行さんの訃報を知った。5月27日老衰のため亡くなられたとある。93歳。

    風光りすなはちものみな光る
                    好きな一句です。
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すべてこれわが師

2024年06月09日 | 日々の暮らしの中で
梅雨入りを前に、大門をくぐった左手にあるタイサンボクが枝葉を整えられてまことにスッキリサッパリと変貌しました。


この高さ。視力もこの世の明るさも回復したとはいえ、見あげた先に白い花弁をみるのがせいぜいのところ。それでなくても〈泰山木樹頭の花を日に捧ぐ〉の感で、甘い匂いとされる香りを風が運んでくれることもない。
阿弥陀さまへの供花です。

5日水曜日に眼科を受診。白内障手術の経過はおかげさまで問題なく順調で、次は3週間後にとなりました。
視力の検査を済ませたあとは廊下でぼーっと座り続け、いつになるのかもわからぬまま長時間の順番待ちでした。真向かいに座った方が文庫本を取り出した。目ぇがよくなって、それが『車輪の下』であることがわかった。
眼科の順番待ちに読書。べつにー、おかしなことではないけれど、なぜかちょっとしたおかしみを感じ、自分は手持無沙汰で困っていました。

昨日、寺子屋エッセイサロンで仲間が集ったとき話してみますと、高校生が話を引き取ってくれました。彼の言うように、私も感想文を書かされた記憶がある。周囲の重圧に負けた主人公ハンスの悲劇的な終末、といった程度の記憶だけれど、絶望の中から新たな人生を見いだせたなら、絶望にも意味がある ーそんな言葉に、とわ(『とわの庭』)の日々が重なった。

2001年9月から1年間、2004年9月から5年間、2回にわたって英国のオックスフォード大学マートン・コレッジで留学生活を送られた彬子女王の『赤と青のガウン オックスフォード留学記』を読んでいる。


コレッジでの、朝起きてからの平均的な一日の様子(「日常坐臥」)、人と人との結びつき(「合縁奇縁」)。中途半端だった英語力、苦労を重ね学問した日々(苦学力行)。どういうきっかけ、経過があって研究テーマを日本美術に鞍替えしたかなどもありのままに綴っておられる。皇族ならではのエピソードもうかがえる。

面白いですよ、とちょっとお披露目。書評で、大きな反響を呼んでいると知って手に取ってみた。
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「とわの庭」

2024年06月06日 | こんな本も読んでみた
とわは目の見えない女の子、そんな前知識だけで読み始めた『とわの庭』でした。
全てが過去形で語られることに、不穏な展開を予感しつつ…。


目が見えないとわのために、母が作ってくれた“とわの庭”。予想がつきます。香り、匂いです。
ジンチョウゲが春の到来を告げ、モクレン、カラタネオガタマ、タイサンボクと夏に移行していく。数えきれない四季の移り変わりを経て、とわは自らの意思で外への扉を開けた。
髪は膝の後ろまで伸びていた。


目が見えないぶん、鋭敏なもろもろの感覚。
とわは美術館のカフェの雰囲気が好き。
【天井が高く、開放的。人々が話す声のざわめきも、オーケストラの演奏のように心地よく響く】
人にもあるそれぞれの匂い。それを【人の存在は花束のようなもの】と表現する。
一人の人の匂いにも、いくつもの匂いが紛れていて、それが一つに合わさって、その人独自の花束を作っている、と。


変えられない過去の足あと。わが身の不幸を嘆いてまわっていては、せっかく扉を開けた人生がつまらないもので終わる。
今の足あとは拙劣であっても、出会いや体験を繋ぎ合わせることで世界を広げるとわ。

これは、互いに響き合い、通い合って生きることに深い喜びを感じる身に、とわさんもお育てていただいてゆくのですな。如来は限りない大悲をもって迷えるものを哀れみたもう。
などとは、ちょっと飛躍し過ぎ?


ほんの少し心をひらけばいいのに、いつの間にか心に育った偏見や思考停止が、さまざまに境界線を引いてしまうことって誰しもあるのではないだろうか。
隣は何をする人ぞ。ご近所さんへの無関心。それでいいのだろうか。
人の痛みや苦しみに無関心ではいられない、慈愛の心。
忘れちゃいませんかと胸に問い直したい。



※読後私感(追記 6/9)
 帯にある「生きているってすごいことなんだねぇ」ということばに、確かに、と思う。
 ただ、不満に思うのは、とわと言う人間像の厚みのなさ。
 もっともまだ30歳になったあたりのとわ。人なかに出てわずか10年余だけれど、その10年の「切り拓く新たな人生」にしても事は都合よく進み、物語に深みが感じられない。
 ここまで順調に来た、逆境を乗り越えてよかったね、の物語なのだろうか。
 
著者が描くとわの感覚の豊かさ、白杖と盲導犬と歩く場合の違いなど、読んで知ることから「よかったね」を一歩進んで、他者への思いやりを育むこともできる。知ることが始まりの一歩なのだと、かつて嫌と言うほど耳にした言葉が思い出された。 
                ・・・ことなど、やっぱり書き残しておきたい  


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あれから3年

2024年06月05日 | 日々の暮らしの中で
娘家族がすっかり大阪の地を離れたのがちょうど3年前、2021年の6月5日でした。
この前年の3月に長女が、ひと足早く戻っていた父親の元に帰国しました。そこに下の男組2人と母親が合流して、家族がそろいました。
人気のない関西空港で見送ったときは、もう今生の別れかと思ったほどです。

日本に住まいを移したのが2016年5月。
このときLulasはまだ母親のおなかの中でした。


4年、5年と暮らすうちに、良い人間関係も築けて名残を惜しみましたが、やっぱり家族一緒が一番。


父親がラグビーをしていたこともあり、子供たちはみなラグビー好き。長女は名入りのユニホームを作り、むろん母親も一緒に観戦です。

  

彼らが大阪にいたときワールドカップが開催されました。
ボールは前にすすめればいいのに、どうして後ろへパスを出すのか。不思議でなりませんでしたし、すぐに団子状態…。どうも面白みがわからない。それを変えてくれたのが、Tylerのルール解説でした。老いては孫に教えられです。

今日はクイーンズランドとニューサウスウェ―ルズの試合が3試合あるのだとかで、家族テレビの前に揃い、キックオフを待っていると知らせてきました。ダディはビールとチップスを抱えて姿勢を正し…。ダディさんにはクリスマス以上のビッグイベントらしいです。
喉に詰まってせき込む父親の背を、Lukasがトントン。

たのしみは家内五人五たりがラグビーゲームに声上げるとき

3年!? 3年か…。3年ね…。3年って…。
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右手のポーズは

2024年06月03日 | 日々の暮らしの中で

クチナシの花が咲きました。まだ木は小さく、たった一輪。鼻を近づけると甘い?濃い香りがします。雨が降ったりやんだりのような天気の日にはいっそう匂うのかもしれない。

最近、奈良時代の僧行基に関心が行くことがあって、井上満郎氏が地元紙で毎日連載されたコラム「渡りくるひとびと」(2021.4~2022.3)のスクラップを取り出してみた。
行基は和泉(大阪府南部)に居住した古志氏という渡来人の出身であること。
仏教の救済から取り残されていた民衆の救済にほとんど一生をささげ、架橋や救済施設の建設などに取り組んだ。行基のこうした事業の背景には、渡来人に特徴的な技術伝統があったのかもしれない ―ことを記している。

飛鳥寺の学僧だった行基は寺を飛び出し、数々の社会事業を始めた。
澤田瞳子さんの『与楽の飯』では、大仏造立にあたる庶民とともに汗する行基が描かれ、彼の蒔く仏法の種が一役を担って人物に影を落としている。81歳になった行基の呆けた姿も描写される。これはあくまでも物語。

では西山厚さんは何か書いてなかっただろうかと『語りだす奈良』のページを繰っていたら、東大寺の大仏さまの写真が現れた。


東大寺にはさまざまな障害を持つ子供たちのための施設・整肢園がある。彼らのために話をしてほしいと頼まれた西山さん。
両足をあげた状態で車椅子に固定された男の子が、大仏さまの右手の形の意味をたずねた。
右手の形は施無畏印(せむいいん)といい、畏れを取り除くポーズである。

「あれはね、だいじょうぶ、心配しなくていい、だいじょうぶ、っていっているんだよ」

西山さんはそう語りかけながら形を真似た右手を男の子の胸にそっと当ててみた。
彼はとても嬉しそうにしていたという。

何度か読み返している本なのに、どうしてこの言葉が心にとどまらなかったのだろう。
西山さんの優しさとともに、あらためて今、とてもしみじみと良い話だと心に留めおく。忘れないように、なくさないように。
行基のことは後回しになったけれど。

「だいじょうぶ、だいじょうぶ、心配いらないよ だいじょうぶ」
手当ですね、まさに。
何か不安に駆られる人がいたら、そっと胸に手を当てて、こうささやいてあげたいね…。

         (大仏さまの写真は2019年、娘家族と奈良を訪れたときのもの)
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