京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

心の花の添え木

2023年01月31日 | 日々の暮らしの中で

南に面した屋根は雪解けが進んでいたのに、今朝はまたうっすらと、二度目となる雪の化粧直しがあった。

外壁に沿って雪が残る。どうにかしないといけないかと思うだけでぼんやり立っていたところに、叔子さんがやってきた。
本堂前の梅の古木を見ながら、北野天満宮の梅園の梅が咲きだしていると言う。ただ本人さんは、入園料を払ってまで見に行こうとは言わない人だ。梅見はどこででも、2月も半ばを過ぎると、ここの古木ででも楽しめる。

日差しがあればストーブ不要のわが家の一等地、安楽な部屋に上がってもらう。火鉢のぐるりで手を温め、ぴちゃぴちゃと雪解けの水が滴る音を聴く。湯が沸き、音を立てる。目的のないお喋りのBGM。
このぬくもりが長居を常とさせる。

  たのしみは湯わかしわかし埋火を中に差し置て人とかたる時
  たのしみは心おかぬ友どちと笑ひかたりて腹をよる時

橘曙覧の「独楽吟」に歌われるさまに似る。物質的には貧しい生活の中で、生きる喜びの一瞬を詠ってぃる。

あまり自分をさらさない、あけっぴろげとはいかない性分の私なのに、叔子さんとは親きょうだいよりも長く、親しくつきあう歳月を重ねてきた。
その日常の喜怒哀楽のそばに互いがいたことに気づかされる。



(蛤御門から望む「雪大文字」)

今日は同志社大学内の寒梅館にあるレストランでお昼を共にした。
「よき友は心の花の添え木かな」(高田好胤)

                         
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ささやかな出来事

2023年01月28日 | 日々の暮らしの中で

「ささやかに見える出来事が17音に結晶するとき、その尊さに泣きたくなることがある」

  毛布のなか滝の名前を言い合って       (谷さやん「谷さやん句集」)
  燕ひかるティッシュペーパー繰り出すとき
  雲は秋だけど空っぽのスプーン
  スプーンで割って深夜の桜餅

  子は母のどこかに触れて銀河濃し     (田口菜於 「付箋」)
  嚔(くしゃみ)して笑ふ子どもと二人きり
  ネーブルを剝く指先に小さな傷

神野紗季さんの言葉とともに句を味わっていた。いくつかを、こうして書きならべてみた。。
「なんでこんな大切なことを忘れていたんだろう、と切なくなる」「ささやかでいとしいものたち」「小さな傷は、言葉の中に、じいんと残る」

思い浮かんだのは庄野潤三の作品群だった。
細やかな観察眼で何でもない平穏な日常が描かれる。家族の幸せが大切に愛おしく描かれた。
裏を返せば、そうした倖せの脆さ、はかなさが浮かび上がりもするが。
取り出して読んだ文庫本は『野菜讃歌』だった。


長女を交えた「梅の実とり」。ほうれん草、小松菜、大根、白菜、さつまいも、茄子…、おいしい、おいしいと言っての「野菜讃歌」。
「うさぎの話」「うさぎのミミリ―」というほとんど似たような内容の小作品があった。
長男一家が留守になるので、飼いうさぎを預かる時の話だが、帰ってしまうと寂しさを味わう。うさぎは跳ねる。足元をくるくる回る。発見だったり、「うさぎの気持ちは、よく分からない」と言ってみたり。
「大根おろしの汁について」まで大事、大事に。

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安ものの装飾品

2023年01月26日 | 日々の暮らしの中で
             
                        杉本健吉 「雪散華」
                                     
中学生に聞いてみた。
A 白い
B よりいっそう白い
C もっとも白い
のうち、どれがいちばん白いだろうか。

「飾りの取捨」と題した文章の冒頭部分をそっくりいただいて、話題提供したことがあった
(外山滋比古著『文章を書くこころ』収)。

Cという答えが予想されるが、そうではない。Aの「白い」が100パーセント白い。
どこへ出しても「白い」と通用するのはAである。というわけで答えはA。
(Bの場合は、Cの場合は、の説明を省いてあります) 

白さを強めたつもりでも…。
形容詞や副詞を乱用すると、「安ものの装飾品をつけた人のような感じの文章になる」。
「飾りをすくなくすることは、ことばの生地の美しさを見せることになる」と書いている。

こういうことを学ばせてもらった本なのに、すっかり忘れて(あら、こんな本があった)と手にした。ページを繰って、そうだったな…と学び直しとなった次第。また今度誰かにたずねてみようっと。


新京極の通りを抜けて歩き、和泉式部ゆかりの誠心院にふらっと入ってみると、作務衣を着た方が一人雪かきに精を出していた。
境内の隅に、役の行者が頭に雪を載せておいでだった。水もなかったので脇から右肩をなでなで。
雪かきの筋肉痛が出ませんように、と。


1/27追記
いちばん白いのは、Aのただ「白い」である。とされると、
きまったように「えっ!? なんでなんで?」と返ってきます。氏はどう説明されているかー

Bは「よりいっそう白い」とあって、Aよりさらに白いように見えるが、そうとは限らない。
甲も白い。乙も白い。甲乙を比べて、乙の方が甲よりも白ければ、Bの「よりいっそう白い」が使える。二つのうちでは乙の方が白さが勝っているが、甲がどのくらい白いかによって、乙の白さも変わってくる。

Cの「もっとも白い」はAはもちろんBよりも白いように考えがちだが、これも問題である。
ここに三枚の紙があるとする。どれもうすく汚れている。そのうちの1枚をさして、これが「もっとも白い」と言ったとすると、この「もっとも白い」というのは、“三枚のうちでは”ということで、d
お子へ行っても「白い」とといって通用するものではない。

ということで、
Aの「白い」は100パーセント白い。絶対的だ。これが一番白いことになる。


(ということから)形容詞や副詞を乱用しないことが文章の心得で、飾りたくなるのは幼いのだと思ってよい。

などと落ち着くのでした。
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白く装い、凛厳とした気

2023年01月24日 | 日々の暮らしの中で

午後5時近くになって、さらさらと、雨が降りしきるような勢いで雪が降り出した。あっという間に、一面がまっ白。
なんということはなく、ふと鞍馬寺の貫主さんのことが思い出された。雪のせいかもしれない。

「雪の中に明ける鞍馬の新春、四周の峰々は白く装いをこらし、山は凛厳とした気に満ちています。… 本殿内は香煙がたちこめ、新たな気持ちで至心に祈る人々の熱気に寒さも忘れるほど。(後略)」

清らかな雪の参道。寒気厳しい中にも、のどやかな賑わいのある鞍馬の新春を想像し、それだけで清新の気に包まれるようだ。

一度だけお話を伺える機会があった。
日本の仏教教団では珍しい女性のトップを40年以上も勤め、貫主(す)として古刹とお山を守ってこられていた。深い信仰に奉じられ、いつも人の心にどう響くかと考えながらやってこられたという信楽香仁(しがらきこうにん)さん。みんなと手をつなぎ、関わり合って、生き合っての97年だったのだ。敬服。

   掌を合わすぬくもりの中に身をおけば山の吹雪の音もうれしき  信楽香仁



地に約8センチ。ブロックに積もった雪は・・・13センチ。鞍馬のお山は雪の中。
さむい家はいよいよ寒く。
 
  月のように美しく
  太陽のように温かく
  大地のように力強く

これが鞍馬の教えの中心だった。 あたたまれるかな?    (上のLIVE映像は先斗町)
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「古代歴史の魅力」

2023年01月22日 | 講座・講演
「古代歴史文化賞」記念シンポジウム参加希望がかなって、土曜日は友人と久しぶりの奈良行きだった。


「古代歴史文化賞」は、もう今年度で最後となるそうな。
創設は2013年。奈良県・島根県・三重県・和歌山県・宮崎県が連携し、古代歴史の魅力を多くの人にわかりやすく伝える書籍を選び表彰してきた、というものでした。

『顔の考古学―異形の精神史』(吉川弘文館)で第8回(これで最後)大賞を受賞された設楽博己氏が基調講演。
続いて、長谷寺に伝承されている豊山声明の公演です。長谷寺ご本尊原寸大の大きな画軸が出開帳。ありがたくも美しい仏教声楽、祈りの音楽でした。


奈良県は飛鳥・藤原の地の世界遺産登録を目指していて、この地の普遍的な価値をイコモス(外国人)にどう証明したらよいか、取組中だそうですが、
第3部のパネルディスカッションでは安部龍太郎氏がどのようなことを話されるか期待・・・。
天皇家の根幹に関わる地。海外からの影響を受け入れ、また進んで情報を収集しては常に更新して都づくりをしてきた地。
戦後の日本人のアメリカナイズには、この藤原京の人たちのDNAが流れているのではないかと感じている、と。

『平城京』を読み始めていたので、氏の発言も自分の興味関心で聞き取るばかり? (ああ、書いてあったな)と思い出しながら拝聴。
個人的には文学作品に戻って、当面は読み始めた『平城京』で作品世界を楽しみ、そうする中で古代史への意識も働けばいいかなという気ままな読書人です。

4時半終了。日差しはなくなり、雪でも降りそうな冷気。
西大寺駅を過ぎた車窓から、はるか生駒の山並みなのか? 茜色に染まった空の広がり、日常目にできない視界の広さを楽しんでいた。
収穫は何だったかなあ、ふと考える…。
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障子を透かす冬の日

2023年01月20日 | 日々の暮らしの中で
今日は大寒。さっそく目前に迫る厳しい寒さを耐えなくてはならない。

裏庭にロウバイが咲きだしている。
おくどさんから出る灰は、この木の根元にまいてきた。その根元からは何本も幹が立ち上がり、見上げる高さになっているが、少し花芽の付きが悪くなったかな。


  しらじらと障子を透かす冬の日や室に人なく蝋梅の花     窪田空穂

障子一枚向こうは厳寒の廊下。暖房した部屋から一歩出れば、我が家は最近よくテレビから聞こえる典型的な〈寒い家〉。
でもねえ、昔の人は火鉢一つで暖をとっていたのだから…。などと思ってみても、やっぱり寒い!

中学生、高校生には入学試験を控える時期となって、寺子屋エッセイサロンも欠席者が出る。
蝋梅の花を飾って、それぞれの進路が決まる日を心待ちにしよう。明日は私も欠席する。


昨今、読解力の低下が言われる。
それは、得た知識を基に自分で考え、想像し、表現する力が欠如しているということで、言葉の力がないと、社会のことも理解できないし、他者との関係もうまく結べない。生きていく力を奪い取られているのだ、との指摘があった。

孫娘が日本で暮らした4年間ほどのうち、学年が上がるにつれて教科書の文章や問題文を読みこなせなくて苦労する姿を見てきた。
「日本語の〇〇〇って、英語で言うとなに?」「英語の▢▢▢は、日本語でどう言うの?」
これは読解以前の問題だが、教科書も満足に読めない中学生が案外多くいる現実を見てきた。


「真の読解力は人間への洞察が伴うのではないだろうか」。
これは数年前の社説にあった言葉だが、「多感な時期の子供たちには多くの文学に触れてもらいたい。文字の世界を楽しむ心が育ってほしい」、と結んだ言葉に共感した。

たくさんの良い言葉に出会って、いくつもの人生を知り、枝葉を豊かに茂らせてほしいものだ。
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安っぽい人情噺

2023年01月18日 | こんな本も読んでみた

お地蔵さんの祠を荘厳するかのような花木。椿だと思い込んでいたが、この散り具合からして山茶花だった。


葉室作品は6作目となった『緋の天空』。なにか消化不良の物足りさが残った。
古代史ものはとりわけ好きなジャンルで、以前読んだ『日輪の賦』(澤田瞳子)文庫版の解説で書名を知ったのだった。聖武天皇を支える光明皇后の生涯が描かれる…、とあって手に取ったのだが。なにが物足りないのか、なぜだろう。

諸田玲子さんが解説を担当されている。
「葉室作品ならではの、試練に耐えて前向きに生きてゆく登場人物たちの姿は、本作でも変わらない」
「誰も苦難からは逃れられない。でも、重荷を背負ってこそ進む道は見えてくる」
「苦難を力に変えて真摯に生きることの大切さを教えてくれる」

ごもっともだけれど、なんだかなあ。人生はだれだって一筋縄ではない。それは光明子とて同じこと。時代、立場ならではの苦悩のしんどさも迫ってくるものがないのだなあ。描写は“説明”と感じられてならない。

自らが光となって混沌とした世の闇を照らせ、と願われて名付けられた「光明子」という名。
悲田院や施薬院を設けても、疫病が流行しても、貧窮する民の姿は見られないし。


中古書店で1年以上前に見つけて未読のままの『平城京』(安部龍太郎)。どうして1年経過か。
「歴史的な把握が大雑把、あらましが創作で、古代史の息吹が感じられない。…諸資料の渉猟の痕跡が見られない。…会話も世話に砕けた大阪弁と標準語の混在は安っぽい人情噺のようで、居心地が悪い」
こんな書評を読んだせい。

主人公は元遣唐使船の船長だった28歳の阿倍船人。彼が平城京造営に挑む。おもしろそうよ~。
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欲しいものを探したり、夢見たり

2023年01月16日 | 日々の暮らしの中で

オーストラリアで暮らす孫3人、それぞれに進級し、新しい年度が始まろうとしている。
小学校1年生になるLukas。兄のTylerは小学校6年生に。高校3年生になるのがJessie。
4月なら桜にランドセルかもしれないが、るーちいクンの入学祝に見合うものがない。3人ぶんのメッセージをここに認めようとカードを用意した。
日に日に成長する子供たち。気の利いたひと言、何を書こうか知らん。

【ワガママも、いずれ現実とぶつかり折り合いをつけていくことを覚える。お山の大将から成長していくのだ。だから、非常に早いうちにこのワガママをつぶされると、一生世界は自分の思い通りにならないという気持ちになってしまう。
ワガママとは、希望とか夢とかの源なのです。ワガママとは、欲しいものを探したり、夢見たり、希望を持ったりすることの原点なのです。
やっかいなのは年寄りのワガママで、年をとっても裸の大将やお山の大将では……。】
(続くのですが、ここではカットです)

かつて「ザ・フォーク・クルセダーズ」メンバーとして活躍され、精神科医でもある北山修さんが、10年近くも前になるが、新聞に連載していた「幸せになれない理由」より。

Tylerがネチネチ、いつまでも文句たらたら。聞いていても気分悪くなるしつこさ…。こんな時はしばしばあった。
こういう時、「もう、しつこいなあ!!」と腹を立てるのではなく、「Tyler、根気強いねえ」とでも言い換えるといいんですってね。
当時の彼の担任が学級会で言葉の言い換えを話題にしたことがあったらしく、娘から聞いたことを思いだしている。




今月6日に友人に誘われ、とびつくように同行を申し出た。大きなお年玉をいただいた思いで、申し込みの結果を待っていた。
「年寄りのワガママ」なんかじゃないわ。
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また来たよ、よろしくね

2023年01月14日 | 日々の暮らしの中で

今年も川沿いを歩いていて変わり映えはしないけれど、「また来たよ、よろしくねっ」て感じで、オニグルミの冬芽を見つめていくことになりそうだ。

琵琶湖北部のウォーキングツアーに参加していた折に、ガイド氏から「これはクルミの木」だと教わったのが最初だった。気の遠くなる年月を知らずにいて、ただ、名前を知るとあら不思議、アンテナが張られるのか、出会いが訪れる。

 

このかたい冬芽が、奇妙なとしか言いようがないほどけ方を見せてくれる。その様は、さなぎから蝶への変身にも似たフシギな美しさに思えている。くるくるまかれた葉が少しずつほぐれ、長細い形を成していく。赤い花穂がかわいく伸びて、実を結ぶのだ。クルミが生る。
この裸ん坊が、5月には緑美しく、豊かな葉を茂らせる。歩きに出る楽しみの一つとなって数年たった。

’21年4月
 
 
「人々の心の奥底を動かすものは、却って人が毎日いやといふ程見てゐるもの、おそらくは人々称(よ)んで退屈となす所のものの中にある」
中原中也の言葉を引いて、佐伯一麦さんは『散歩歳時記』の前書きに「『人々称んで退屈となす』日常生活の中で、…拾い集めた季節の風物の記録」と記されているが、この言葉は、
「人は自然のなすものにひょいと出会えればいいのである」という前登志夫氏の言葉が重なる。

心身の凝りをほぐすためにも、なんなりと楽しみごとを見つけて外へ出るとしよう。

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神話と言わず例話

2023年01月12日 | 日々の暮らしの中で
― あそこの家の、どうしようもない息子が、どういう心境の変化だか、寝たきりのオバアチャンの世話を熱心に始めた。

― 病院に置いとけばよさそうなものを、勝手に家に連れもどして、そうかと思えば髪をキンキンに染めて、気まぐれもいい加減にしろと見ていたら、あんがいに続いている。

― 昼間は介護さんにまかせて二階でグウタラしているらしいが、夜にはかならずオバアチャンのベッドのそばの簡易ベッドで寝て、朝まで幾度か、オムツの換えを欠かさないそうで、それは感心だが、心配して見舞いに来るオバアチャンの肉親たちに白い眼を剝いてろくに口もきかない。
変なものを吸っているという噂で、目つきもなにやら、あぶない。いつまでアテになるものやら。
ほんとうだかどうだか、あんな孫に、じつは血もつながっていないのに、オバアチャンもなついているそうだが、なまじのこと、途中で放り出されたら、迷惑するのはまわりの者だ。

少しずつ読み進めている『書く、読む、生きる』の中に芥川龍之介賞選評の章があって、第131回の受賞作『介護入門』(モブ・ノリオ)の古井由吉選評がある。
その書き出し部分だが、作品を読んでいないので引用なのか(だと思うが)は定かではないが、
けれどもっとわかりにくいのは、氏の評であって、…。

「…この窮地の内にこそ、剥離解体しかけた言葉と、さらに現実を回復する足掛かりを見いだしつつあるとすれば、ここに今の世の、ひとつの神話と言わず例話の、始まりがひそむ。(略)
言葉の過不足を量っていられるような境ではない。」 ? ?

こういう作品があったのも初めて知るところで、選評を理解するには読むしかないのだろうが、どうしましょ。


それはさておき、この階段を休み休みながらでも上がってきた。


ふた休み、息を整えて

拝殿まで、石段は133段かしら。汗が流れる陽気。

あるのは鳥の声、木々を渡る鳥の羽ばたき、葉ずれの音、白川のせせらぎ。

今のところは、まあ足元健康体と言えそう。
しかし、やはり予習すべき“介護入門編”なのかしら。気は進まないけど‥。

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乞食行

2023年01月10日 | 日々の暮らしの中で

ブォー ブォ~ン
前方からほら貝の音が近づいてきた。
8日から始まったと聞いていたが、聖護院門跡の寒中托鉢修行の山伏一行4人さん。
ほら貝は3年ぶりの再開となるのではなかったか。
見送ると、足並みは速歩! 速いこと速いこと。ぐんぐん遠ざかる。しばらくは、ほら貝の音が聞こえていた。



京都東福寺での修行体験をもとに書かれた絵日記風の画文『雲水日記』を開いてみた。著者は病を得て、昭和42年に47歳で亡くなっている。
托鉢について…。

【はじめて「東福僧堂」と染め抜いた看板袋をかけさせられ、雨雪を問わず素足に草履がけで、「ホォー」「ホォー」と連呼しつつ、路地から路地を喜捨を求めて歩くことは、まだ生意気盛りの娑婆っ気が抵抗し、恥ずかしさいっぱいで満足な声は出ぬ。

しかし、こうした間にもありがたいもの、古参新米の区別なく一様に喜捨を受けていると、いつか心は大気のようにさわやかになり、卑下の心も増上慢も地に捨てて托鉢専一となる。
施す者も受ける者も一面識なく名もわからぬ。ただ合掌。何のこだわりもなくやがて水の流れる心境になってゆく】

「施すも無心。受くるも無心」
市中の人々に布施離欲の機会を与え、一方、自分の忍辱没我の修行のために行われるところに托鉢の大きな意義を見いだし、まさに「自利利他円満の行」だと言っている。


「仏の教え給う趣は、事にふれて執心なかれとなり。」(『方丈記』)
私たちは、どうしても自分を中心としたものの見方に執われてしまう。些細なことで自分を卑下したり、他人を見下し優越感を抱いたり。
「こうあるべきだ」「こうでなければならない」と決めつけないで…。
うーん、良く味わい、考えてみようかな。
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めでたさのちがい

2023年01月07日 | 日々の暮らしの中で
   すずしろと書けば七草らしきかな  井沢修

そうか、めでたさが違うのか。「大根」と書くより「すずしろ」と書く。


「セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ・・・」
「七草」を学校で習ってきた孫娘。
まだ大阪で暮らす前だったから、帰国したときは聴講生として地元の小学校でお世話になった。3年生だった? 冬休みに入る前、大きな声で真剣に暗唱していたのを思い出した。

いつもは朝食でいただく七草粥の準備をすっかり忘れてしまって、昼間にスーパーで七草のセット物を買い求めた。
毎年七日にはご門徒が集まって新年会を開く町内があって、住職はそれに招かれる。
飲めないお酒を飲んで、帰宅後はつかのまの夕寝と決まっているので、夜は胃にやさしくおかゆさんがちょうどよい。
…ということになったから、めでたし。病息災でと祈りたい。


土を分けて1センチにも満たないオーニソガラム(おおあまな)が芽をだした。
 

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言葉との遊び

2023年01月05日 | 日々の暮らしの中で

孫娘が4歳になったクリスマスに「ことわざかるた」を贈った。
あの頃は、日本の「ことば」を身近に過ごしてほしいと思い、あれこれ絵本選びを工夫した。「かるた」もその一環だった。

五十音もろくにわからない子が、「あたまかくしてしりかくさず」「ねこにこばん」「ぬかにくぎ」などと読みあげると、回を重ねるごとに〈絵札を覚え〉、札を取る速さも増していく。
小さな手が上に重なっているのに、早いのは自分だと手のひらの下から札を抜き取る強引さも見せた。
こういう子が、ことわざと一致させて絵札を覚えていく過程はどう考えればいいのかと思っては見たのだが、面倒になった。 

 

「想像力は言語の発達と関係がある。言葉が潜在していてイメージを絵にすると思うから、絵を描くことよりも言葉が先ではないか」と坪内捻典氏が話されたことがあった。

また、加藤典洋さんが『大きな字で書くこと』の中で、
「『考えること』の前に『言葉とのつきあい』があり、その前に『言葉との遊び』がある」と書かれていた。
これを逆にたどってみるなら、まずは「言葉との遊び」があって、その次に…。
ああ、やっぱり不思議だなっと終わっておこう。

今一つ日常の心持ちが戻せなくて、のらりくらり気ままな時間が過ぎる。
何もしたくないのではなく、何もする気が起きないのだ。
けれど、『緋の天空』(葉室麟)を読んでいる。

まあるく冴えたお月さんを見あげた。
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トシ相応のタカラが

2023年01月01日 | 日々の暮らしの中で
あけましておめでとうございます。

「歳旦のめでたきものは―」
新年の第一日目。新しい年が始まったんだなあという感慨のような中での昼どきに思う。

この日、このとき、この場所で、守り継ぐことのある営みを大切に、
そして求め、学び、教わって、今日のひと日を生きる


繰り返しをよろこびながらも、型にはまった日々にならぬようにとおそれ…。
田辺聖子さんが「人生はトシ相応のタカラがゆく手ゆく手にうめられてある」と書いた言葉は、
励まされる大好きな言葉だけれど、なあんもせんと居ては出会いもなかろう。
やっぱり心は外にむけて開かなくては。窓は小さくても、新鮮な空気は取り込めるはず。


写真は2011年、娘の第2子の安産を祈願した岡崎神社。
干支はひと巡りして、あの年に生まれたTylerは12歳に。
「今年は僕の年」、と。
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