京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

閑でしてね、そして忙しい

2024年05月31日 | 日々の暮らしの中で
昨日と今日と術後の診察を受け、おかげさまで経過は順調だという診断を得ました。
ただ、左目の目尻にわずかな異物感(ゴミが入ったかのような)があるのですが、「キズもなくきれいですよ。問題になるようなことは認められません」と。無事に終えられたことを有難く受け止めています。

娘が「もうあとしばらくは無理せんと引きこもっててや」としきりに言ってきます。
家でじっとしていろと言われてもねぇ。本を読もうとページを開いては、立ち上がる。腰をおろした端から、またすぐ用事を思い出す。すこしばかり夢中になって本を読めば、目がかゆくなって、うっかりまぶたの上をこすって大慌てなんてことも。手術したことを失念する始末。
そんな繰り返しでたちまち夕飯の支度どきを迎え、一日が終わっていく。案外、毎日同じことを繰り返しているに過ぎない気がします。
落ち着くまでは娘の言葉も心に留めおいて、「気ぜわしさ」こそしばし放念したいもの。

古井由吉氏が書いておられた。「この年齢に至って、忙しいですかなどと人にたずねられるのも、よっぽどゆとりのない顔をしているようで、年の取り甲斐のない気がする」と。
ひとつクスリとした覚えがある。


    あぢさゐやひるも蚯蚓のくもり声  暁台

江戸後期と少し時代は古いが、紫陽花の句としてこれを見逃すわけにはいかない。
梅雨どきの物の色、物の匂い、物の音を、神経質な十七文字が、みごとにとらえている、
とは杉本秀太郎。
読みは読み手に委ねられる。
今後せっかくよく見えるようになった目で何を見ましょう・・・。
もっともっと心を凝らした、見る目の深さが求められるということなのですかねぇ。

ほんの5mmの小さな花をつけていた道端の植物。


種も生っていたので何本か手折って帰り、水に挿した。素朴で、ちっちゃなちっちゃな眼前の自然に、心が和む。

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この世を喜ぶ術

2024年05月28日 | こんな本も読んでみた
画鬼とも呼ばれ、茶会を催す髑髏、妖しいほどに美しい地獄太夫、美女の前にやに下がる閻魔さま、麒麟、白澤(はくたく)、土蜘蛛、狐火などと奇矯かつ独創的な画風で人の目を喜ばせた絵師・川鍋暁斎。
錦絵を得意とする歌川国芳を最初の師とし、その後写生を重んじる狩野家で修業を積んだ。
その娘として生まれ、明治大正を生き抜いたとよ(曉翆)の葛藤の生涯が年代記ふうに描かれていた。

並の人間は、暁斎の絵の一端を真似るのが精いっぱい。父に少しでも近づこうと足掻き続けた異母兄の周三郎(画号・曉雲)とて越えることはできぬまま死んでいった。とよ(曉翆)も遠く及ばない引け目を抱え込む。師であり父親への、さらには兄妹間の、反目、「憎悪と愛着」。

有名無名を問わず〈いくつものの星が、あるいは志半ばに、あるいは自らの生涯を生き尽くして落ちていった。それぞれの星は消えたとて、彼らの生きた事実は空の高みに輝き続けている。〉けれど、眩しかった輝きを指し示す案内人がいなければ、やがてすべては忘れ去られる。
その役を務めたとよさん。父について語ること、それは亡き星々への敬愛であり鎮魂でもあるだろう。


読みかけだった『星落ちて、なお』を読み終えた。評伝のような小説だった。少々説明的だったかな。地味だなって感じたけれど、おかげで私はここに知ることを楽しめ、足元を照らしてもらえた。

作中に登場した横山大観、菱田春草、下村観山の名。これら聞き知った名前が26日付の朝刊に「菱田春草と画壇の挑戦者たち」となって反映された。
春草生誕150年展は美術館「えき」KYOTOで7/7まで開催とある。
無事に右目の手術を終えられたら機を見て足を運んでみよう。
また、美人画に関しても「君があまりにも綺麗すぎて」展が開催中(~7/1)。
もひとつ付け加えれば、「墨にも五彩あり」、堂本印象の墨の世界の展覧会にも魅力を感じている(堂本印象美術館 6/5~9/8)。

自分のため、人のため、「この世をよろこぶ術をたった一つでも知っていれば、どんな苦しみも哀しみも帳消しにできる。生きるってのはきっと、そんなものなんじゃないでしょうか」

わずかに道を照らす灯があれば、これからの日々にもためらわずにいられる気がしたとよさんだったけど、灯りはいっぱいあった方が周囲はよく見えるし、けつまずかなくていいわね。
と、欲深いことを気にしいしい思う。


カタバミの葉っぱを少しちぎって古い10円玉をこするとピッカピカになるという。葉から出る液のなかのシュウ酸という成分の働きで錆が落ちるからなのだそうな。
何ごとも真新しくすればいいものでもないけれど、無事に明るさを取り戻せることを思って清兵衛さんの言葉を反芻している。
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目に青葉は

2024年05月25日 | 日々の暮らしの中で
目に映る青葉はほんの数日前よりより鮮明に、柔らかくかがいています。

おかげさまで術中術後とも痛みはなく、ただ緊張疲れで当夜はよく眠ったようです。
眩しい光、色つきの不規則な模様、「蛙さんみたいの」(医師)を見ながら、父、母のことがほんの一瞬頭をよぎりました。
健康体を授けてもらって、しかし経年劣化はいかんともしがたいと、思いを告げるが如き一瞬がありました。

手術翌日の受診で左目の眼帯ははずれ、何度か点眼を受けながら廊下で診察の順番待ち。
その間、左右の目を交互に手で覆って見え方の違いを確かめてみると、格段の差があることに気づきました。手元の用紙から目を上げ、今度は周囲に目を向けて交互に…。
世界が明るくなるとはこういうことかと実感。

帰宅後、文庫本を開いて見ました。
大袈裟に言えば、紙質の悪いわら半紙の上で文字を追い、読書を楽しんでいたのです。
それが紙も白く、文字はよりくっきり鮮明に見えます。
夜、電気をつければ蛍光灯を取り換えたのかと思うほどの明るさ。

いったいいつから、何年、わたしはうす暗い世界で生きていたんでっしゃろなあ。
次は右目を・・・。



孫のLukasと公園で遊んでいたとき、周囲のフェンスに絡みついた枯れたツルに残されていたのを頂戴して帰った“アサガオの種”。


しかし1.5センチあるかないかの蕾が開いた花は、いわゆる“アサガオ”ではなかった。今年は種をまかずにおいたら、こぼれ種から一人ばえ。
双葉がそろい本葉も出ていたのを鉢に拾い上げた。
「ちっちゃいなあ。かぁーいい(かわいい)、かぁーいい」。
やっぱりまいておけばよかったかな、るーちいクンとの思い出の花。




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いよいよそのときが

2024年05月20日 | 日々の暮らしの中で
みずみずしい、爽やかな緑色をした葉を茂らせたクスノキの大木は花ざかりでした。



初夏の日差しをうけて、緑濃く万物の英気が満ちあふれるような風情で、青葉は目の薬。

しかし薬や眼鏡でこれ以上の視力回復は望めず、決断を迫られる時がやってきました。
白内障の手術を二日後に控えています。

前回、車の運転免許更新時に眼鏡を作って、0.7の視力でぎりぎりパス。
それが特にこの1年、症状が進んでるという実感があり、検査を受け、手術を“決意”したわけです。
もし、免許更新がなければ…。(とは言っても、平素運転している以上は視力低下があっては大問題なのですが)
読書(新聞)に眼鏡は不要ですので、視力の衰えを実感しながら先延ばしをしたかもしれません。

一抹の不安。
歯科の定期的な検診を受けることをのぞけば、風邪で発熱して受診することが一年に1回あるかないかで、「お薬手帖お持ちですか」と聞かれては、自慢げに?「持っていません」と答えるほど病院に縁なく過ごしています。
意を決して受診したのが3月。手術予定日が5月下旬となって、ちょっと肩透かし気味でした。


なるべく人込みは避けるように努め、体調維持を図ろうとすれば逆に緊張。
いつも通りを心がけ…。
いよいよとなりました。

遠い昔、義母が2週間の入院で手術を受け、車で連れ帰ってきたとき、本堂の屋根を見あげて「瓦がきれいに見える」と感動気味でした。
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色なしの内側に朱(あか)色が

2024年05月17日 | 日々の暮らしの中で
楓に花が咲いて

やがて種をつけた赤い2枚の羽は、くるくる回転しながら地に落ちる。
“プロペラもみじ”というのだと庭師さんから教わったことがあった。


かつて、と言ってももうひと昔も前になるが、金剛能楽堂で金剛家の能面と能装束が虫干し兼ねて展示されたことがあり、その折、展示品にまつわる宗家のお話を伺う機会があった。

ー 能装束の刺繡や織りには色糸が使われている。その色が鮮やかなうちは、それぞれが「立ちすぎる」。その個色が年月とともに退色し、自然の色合いで一つに馴染んだものを、よい装束と呼んでいます。
あざやかさを競い合い、主張し合ううちは調和が生まれにくい。長い年月が色を落とすことで、深い味わいが醸し出されていくということ、人の一生に似ているだろうか。

とりわけ印象に残ったのは、これに続く言葉だった。
「表面は朱味(あかみ)が抜けて色なしとなっても、少し糸をほぐすと内側には朱色が残っているのです」
人もかくありたいとイメージしている。


いろいろな縁に導かれて、〈私〉はできている。
人や読書から多くの影響を受け、種がまかれ、育ててきたし、学んできた。幾色にも塗り重ねられて形成された〈私〉。
父や母から受け継いで、変わらない性分はある。
また、ずいぶん齢を重ねたなあと思いつつも、ここまでの間に少しづつ対象を広げ、耕してきた私のあらゆる興味関心。それをずっと下支えする源泉が、華美さもなく、淀みそうな流れであっても、いまだ枯渇はしていないことに自分自身で気づいている。

石垣りんさんの『焔に手をかざして』を読んだとき、こんな一文があった。
「自分にとって大切なもの、心に残ることが、ほかのひとにはなんの感動も呼ばないということは珍しくない」
いいのだ、それで!と思っている。自分の感受性に気づいて大切にしたらいいのだと、ずっと思ってきた。

この種が欲しいか否か、ふと思ったのだ。
こんな新鮮な種はもういらないとも思う。その代わり内なるもの、自分にとって大切なものに心ゆくまで関わっていたい。
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楽しんで100円儲けたら

2024年05月14日 | 日々の暮らしの中で

柿若葉に目を細めていたのは束の間、緑の色は深まって、そよぐ風にざわざわと葉音を立てる。この緑の重なりの下にはびっしりと、うつむき加減で柿の花が咲き出した。

オニグルミの木にも爽やかな緑色の葉が茂り、赤い花穂が出て、こうして形を成してきた。



「若葉の梢涼しげに茂りゆくほどこそ、世のあはれも、人の恋しさもまされ」
ほんとですねえ、兼好さん。
こんな季節に母の日がやってきて、子供たちから「お母さん」と呼びかけられるが、わたしも「おかあさん」って呼んでみたくなる。

連休中、20冊ほどの文庫本を中心にブックオフ行きとして取り出し、紙袋に入れておいた。
しばらく置いておくと手放すのが惜しくなり、元に戻す。そして別候補が袋に入る。そんなこんなを繰り返していると、
「読んでいない本を残して、読んだ本を売るのは間違いで、読んだ本こそ残すべきだ」と言われる出久根達郎氏の言葉を目にした。

〈ブ〉では「書名は基本的に見ていません」そうだ。まず見た目がきれいであること。新しいものであること。そして店の在庫の状態で、買い取り価格が決まる。店舗での販売価格が買い取りの基準になるというから、この網から洩れてしまえば、売っても10円、5円なんて結構あることだ。


【売る方には買った時の思い入れがあるんですよ。でも、買う側とは必ずしも一致しない。客に買い取り価格が安いと言われたら、「でも、この本読んで楽しんだでしょう? それで100円儲けたらいいじゃない」】

と言うことにしていると出久根氏の談話が引用されていた。(岡崎武志『読書の腕前』)。この本も河原町通りに面した〈ブ〉で買ったもの。

おっしゃる通りですな。
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精神安定剤

2024年05月11日 | 日々の暮らしの中で
抹茶の中にいるみたい・・・ ?


ホトトギスの声を耳にしながら、いっせいに芽吹いた美しい新緑の中を歩いた。
葵祭が近いことが思いだされた。


そして東本願寺にお参りした。数珠を手にのお参りは精神安定剤、こころの休めどころとなる。
このところまた夜の眠りが浅い。12時頃まで横になって本を読んでいて、いつしか眠ったと思うと目が覚める。時計を見れば夜中の1時半、2時半。ついさっき寝たところじゃないの。
眠れなくて、また本を開く。いつのまにかに眠って、目覚ましに起こされる。睡眠が極めて小刻みになっている。
まあ、ちょっと気になることを抱えているせいかなと思うが、ときおりこういう日々がやって来る。眠れる日はあるのだからと、余り気にしないようにしている、が…。

本願寺を後にして書店へ向かった。『月ぞ流るる』(澤田瞳子)の購入を予定していたが、乙川勇三郎氏の『クニオ・ヴァンブルーセン』を見つけ、変更した。
言葉に導かれる、端正で無駄のない文章が好きで、迷わず決めた。文庫化を待っていた『星落ちて、なお』と一緒に手に入れて、気持ちうっきうっき、家路を急いだわ。…昨日のこと。




今日は昼から文章仲間が集った。気温が上がり外の日差しは強いが、堂内は快適。

『この地上において私たちを満足させるもの』の中に、乙川氏は〈読書の意義は共感することよりも自分とは違う人間を見つめることにあると思う〉という一文を残してくれた。
仲間の作品を読み味わう時にも、この視点は意識したい。
〈わかりやすいことは薄っぺらでもある。何も考えさせない小説に良質な読後感は生まれない〉ともある。
読むに値するものであること…、こりゃキビシイ。
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三様の絵巻

2024年05月08日 | こんな本も読んでみた

狩野永徳と長谷川等伯二人の絵師にまつわる作品『等伯』『花鳥の夢』に次いで『闇の絵巻』(澤田ふじ子)を読むようになって、作品が世に出た年月にふと思いがいった。
『闇の絵巻』が1936年、『花鳥の夢』と『等伯』の連載が始まった時期は前後するが、連載終了は2012年の8月と5月でそれほどの違いはない。
ただ澤田作品から実に26年余を経ての2作品の登場になる。


同じ時代を生きた二人の絵師の半生が、三者視点は異なるが三様のロマン、物語で構築された。

画風も違えば地位も名誉も異なる。
【絵師は求道者や。この世の名利に目がくらんだらあかん】(『等伯』-近衛前久のことば)
【「心だにまことの前にかなひなばいのらずとても神やまもらむ」】(『闇の絵巻』-さきの内大臣九条稙道)
我が道を行くのが肝要と励まされるが、今を時めく永徳と肩を並べたいと苛烈な競争心に燃える。そして焦り、嫉妬。


【画技がいくらすぐれていても、それを十分発揮するには実力者の引きが要った。権力者に寵愛されれば実力が十全に発揮できる。権門冨家へのつけとどけ、ご機嫌うかがい。】
一門の繫栄のための狩野派の政治力、処世の巧みさが描きだされた。
等伯殺害を企て、長男久蔵の命を奪う。これも組織の中で、一門のため…。

いつの世も、新しい力が興ろうとするときには必ず古いものの力がこぞってそれを誹謗する。新しい力を感じて不安に駆られるのだ。


一族の繁栄のために、権力者の意向にそうような大画ばかりを描かねばならなかった永徳。
5年余の歳月をかけて永徳とその一門が安土城で描き上げた数千枚にも及ぶ障屏絵(へだてえ)は、灰燼に帰してしまう。
この安土城での日々にはさまざまに筆が費やされ、興味深かった。
あらかた失われた永徳の絵に比べ、等伯の絵は多く残っており、美術史は永徳より等伯の作品に重きを置いている、と書き添えてあった。


人はそれぞれに重荷を背負い、心に闇を抱えながら、その先に光を求めて必死に生きている。
その人の生きる姿、何をなしたかが問われるのだろう。どんな地位や名誉を手に入れたかではなく。
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日本版・マザーテレサ

2024年05月05日 | 日々の暮らしの中で
昨日の大阪行きは案外な緊張をもたらしていたのだなあと、朝からの心身のけだるさに思わずにはいられなかった。
街の風景も人の流れも、京都が観光客であふれているとはいえどこか違う。娘に話すと「ほほー!」驚かれるやら感心されるやら。
若い頃は〈さびしくなったらたくさんの人にまぎれこむ〉ことで気を晴らしていたものだったのに、今や人混みは極力避けたい。

なんとなく過ごす中で、四天王寺の石鳥居を建立したという忍性ってどんな僧なのかが気になっていた。

 

鎌倉時代に、さびれていた奈良の西大寺の復興に取りかかった叡尊の弟子になる。
戒の思想が脱落した日本の仏教にあって、釈迦の定めた戒律を厳しく守る、戒こそ仏教の魂だと叫んで布教を志したようだ。

行基にその姿を見ることができるが、橋や港湾の整備、寺社の修造などをし、非人やハンセン病患者救済活動に努めたという。
忍性は叡尊よりもっと下層の民の生まれであることからすれば、貧窮、孤独、苦悩は我が事だったのだ。87歳という天寿を全うし、本拠とした鎌倉の極楽寺で人生を終えた。  
  (こんなに簡単にまとめていいものだろうか)

西山厚氏が『語りだす奈良』の中で「忍性菩薩」と題して書いておられた。
 ―文殊菩薩は知恵のほとけであるばかりではなく、貧窮・苦悩・孤独の衆生となって現れるという信仰があった。

太子信仰の寺に足を踏み入れて、忍性を知り、人のために働くことは決してたいそうなことではなく、身近に努められることがあるのを思う昼下がりだった。疲れたけれど行ってみてよかった、と思いたい。




 

今日は「子どもの日」
…趣旨は異なるけれど、子供(息子)から土産の品が送られてきた。無事に3週間、スイスでの仕事を終えて帰国した。気持ちのどこかで待っていた大好きなこのチョコレート。数粒、嬉しく収めた。
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二兎を追うもの?

2024年05月04日 | こんなところ訪ねて
【飛鳥から現代へ-時代を超えて技を伝えた匠たちの千四百年を描く技能時代小説】 
『金剛の塔』(木下昌輝)を読んだのは一昨年の秋だった。


聖徳太子の命で百済から3人の工匠が招かれ、日本仏法最初の官寺である四天王寺の建立(593)に携わった。そのうちの一人が金剛組の初代の金剛重光で、金剛一族は「魂剛」と名を変え、1400年余にわたって匠の技を今に受け継いでいるという。

心柱は倒れないように塔とつながってはいるが、塔の何かを支えているわけではない。1本目2本目3本目と「貝の口の継ぎ手」の工法で心柱を継いでいく。5層目から突き出た心柱の上に相輪を…。
最後まで馴染めない語り口と物語の構成だったが、〈五重塔の「心柱構造」の誕生と継承の物語〉は気になりながら読み進んだ。

現在の塔は鉄筋コンクリ―ト造り( 昭和34年8度目の再建)だと知って、内心では(なあんだ…)と思いながら、以来頭のどこかでは一度拝観したいとも思ってはきた。
四天王寺の境内で古本祭が開催中だとテレビが報じていた。これで気持ちが動いたみたいだ。
阪急梅田駅に出て、御堂筋線で天王寺下車。歩いて10分。このルートで行こうと予習して、きのう四天王寺に向かった。

谷町筋に沿って真っ直ぐ進むと、右手になんと石の鳥居が目に入った。ここか!?って思いだった。



もともと木造だったのを1294年に忍性上人が勅を奉じて石造に改めたのだそうで、扁額には「釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心」とあり、裏に「嘉暦元年(1326)」の銘があるという。

京都のように会場にマイクでさまざまな案内が繰り返されることがなく、古本まつりは静かで落ち着いていた。古書の蒐集癖はないし、乱読でありながら結構間口が狭い本読みなのだな。ま、いいか。買い求めたものはなかった。





屋根は本瓦葺で、飛鳥時代創建当時の姿を再現しているという。
塔内部は壁画が描かれているが、目が薄暗がりにいつまでも慣れなくて、よくわからずじまい。
上に行くほど狭くなる螺旋階段で5層まで上がってみた。当の高さは39.2m、相輪の長さは12.3mだそうな。十分高く、境内を眼下にし、右も左もわからない市内が広がっていた。
中心の伽藍には回廊が巡らされ、地図を見ると境内地はさらに周辺広範囲に及ぶ。こんなに広いとは思ってもおらず、ただ一つ五重塔拝観ばかりが念頭にあった。

二兎を追うもの…、だったかな。それでも再読してみようという思いになっている。




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古書市

2024年05月01日 | こんなところ訪ねて

今日から5/5まで、みやこめっせで「春の古書大即売会」が始まった。

行ってみようか? 思ったら、この勢いに乗ることが肝要なのだ。ちょっとのためらいが、(まあいいか)と機会を失わせがちなのを知っている。この頃とみに…。だから、ささっと支度をして出かけた。


意気込んだわりには収穫なし。
くたびれて、腹も減るころ藤の花。
通りがかった店先に6、70センチほどになる藤の鉢植えが置かれていて、うすむらさきの一房が垂れていた。
なぜかふと子規の藤を見る目線が思い浮かんだ。

   瓶に挿す藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり

母が活けてくれた藤の花を、横になったまま鑑賞している。
わずか6尺と3尺の病床の世界に縛り付けられ、痛みには声の限りを上げて叫び、日々衰弱していった子規。そして、

  くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる

あざやかにも清らかに澄んだこの一首。
敷蒲団の長さ6尺、幅3尺。体はこの病床にあって動けないけれど、寝たままガラス窓越しに庭の草花を見、夜空を眺めていた。
この広さの中に自分を見いだした。決して縛られてなどいなかっただろう…。

さあ今日から5月。好きなことを楽しんで生きていきたいものだ。

  五月はバラの月、出逢いと別れの月、
  女が生まれかわる月。
  新緑の月。
         と聖子さん。


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