「人生は幸せを求めての旅です。何を幸せとするかによって人の人生は大きく変わります。たった一度の人生。今ここに、この一瞬をどう生きるか。今日一日をどう生きるか。――そして、この命、何に賭けるか…」。
話しだされた青山俊董尼僧。1933年愛知県一宮市に生まれ、5歳で仏門に。15歳で得度され、結婚との両立ができないものかと考えた時があったが、仏の道だけを選んで歩んでこられた。母親のお腹にいるとき曽祖父から「やがて出家するだろう」という言葉があったそうで、僧籍に幾人も入っている家であり、仏縁だと思われた、と。
昨日15日、しんらん交流会館(下京区)で開催された中外日報社主催の「宗教文化講座」に参加した。
人生は「選び」。「選び」には、限りなく選ばねばならない面と、性差、病もそうだが、授かりとしていただかねばならない面との両面がある。天地いっぱいに満ちあふれる仏の働きに気づかせてもらい、仏のモノサシに照らし、教えの光に照らしていただいて生きたい。
刑務所にいる死刑囚からの手紙に「せめて家族には許してもらいたいなどとは甘えだ」と返事を書いて遣ったことがあったと逸話を披露。置かれている場所はどこでもいい。そこでどう生きるかが問われることで、生かされている命の条件は全く同じなのだ。今はよくないと気づき、より「よく生きること」が人生の目的である。よく生きた、などとは驕り。たった一度の人生どう生きるか?何を賭けるか? 繰り返し問われる。
さまざまな個性をもつ雲水たちを選り好みせずに、なんとか彼岸までと思ったものの。実は我が身こそ渡されていたのであり、支えられ教えられ育てられていた気付きを歌に詠まれている。ある寺の宝物の幽霊画を見た時の、「嫁の目だな」と他人の欠点を見た凡夫がいれば、「自分はあんな目で嫁を見てたのかな」と懺悔(サンゲ)の老女もいた話に、私たちは周囲の誰でもが我が師として存在し、自分のお粗末さ加減に気づかされ、我が非に気づかせていただけることを説かれる。
人間(ジンカン)の是非をばこえてひたぶるに君がみあとを慕いゆかばや
驢をわたし馬をわたす橋にならばやと願えどもわたさるゝのみの吾にて
たった一度の人生。幸せを求め、よく生きたいと願いつつ、どう生きるか。「この命、何に賭けるか」と、美しい笑顔から厳しい問いかけをいただく。また、私には著書や映像を通してのみだったお方だけに、この日、これぞ「面綬」の嬉しさをいただく。