京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

 十歳の自分史作り

2015年09月30日 | HALL家の話
長袖2枚を重ねていても、ぞくぞくっと寒さを感じるが、夜が過ごしやすくなって歓迎の夜長。明日からは10月、一年で一番良い季節かもしれない。秋の深まりを感じながら夜は静かに過ごしたい。


10月2日、孫娘Jessieは10歳の誕生日を迎える。それに先立ち、ささやかだが、いっぱいの思いを込めて一冊のノートを贈った。実はこれ、5月末に読んだ新聞の記事をヒントにひそかに思い続けていたことだった。
「マイ手帳」とした大きな見出しの記事は、京都の立命館小学校が昨年4月から自由に日々の記録をするプロジェクトを始めたということを紹介するものだった。小学生に手帳!? 手帳ではあっても、決して予定ばかりを書き込む「手帳」ではないところがミソ。
見たこと、感じたこと、考えたことを自由に記録する。書いて、描いて、貼って…、使い方にルールはなし。一年間の思い出を残す。「一年分の宝ものになるはず」

最近は、「ニ分の一成人式」ということばを耳にする。自分の子供たちにも、10歳を迎える4年生の時には親から子供にメッセージを書いた記憶がある。生まれて10年という区切りの良い節目として、以前から教育上も配慮されていたのだ。そんな意味で、私もこだわってみた。
手帳ではなく、後々振り返ったときのためにも、手製本の美しいノートを作るリエノで、上質の洒落たものを買い求めてみた。上下の2か所にリングがついて、見開きにしたとき左は罫線無し、右は罫線ありで使い方も工夫できようか。
毎日でなくていい。日本語でなんてこだわらない。母国語である英語でだっていいのだ。10歳の一年間の自分史を自由に残してみるのは「宝物」となるだろう。…誕生日のプレゼントにどうかと温めてきた。



マスキングテープ、付箋、かわいいメモパッド、シールなどレイアウトにも楽しめるように数種類づつ選び、消せるカラーペンのようなものも一緒に添えた。ノートが足りなくなったからまた送ってほしい、そんなリクエストがあれば嬉しいこと。今日あたり届いているはずだが…。
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 吉祥院六斎念仏踊り

2015年09月27日 | 催しごと

京都市南区にある吉祥院天満宮に伝わる郷土芸能で、国の重要無形民俗文化財に指定されている「吉祥院六斎念仏踊り」。



【六斎念仏は平安時代に空也上人が一般民衆に信仰を広めるため、鉦や太鼓をたたいて踊りはねながら念仏を唱えたのが起こりと言われます。これがのちに仏典に説く六斎日に行われるようになり、六斎念仏と呼ばれるようになったと伝えられています。六斎とは月のうち八、十四、十五、二三、ニ九、晦日の六日をいい、昔は悪鬼が現れて人命をおびやかす不吉な日とされ、仏教徒が飲食や行いをつつしんで身を清め、社会に奉仕したと言われています。六斎念仏は盆行事として定着したのち、室町時代中頃からは次第に芸能化し、能、狂言、歌舞伎などを取り入れ、豊かな芸態を持つようになりました。… 毎年四月と八月の二十五日の夜に地元の吉祥院天満宮に奉納しています。】(展示による)

都市化が進み農村共同体も変容、後継者の育成には苦労も多く大きな課題だが、地域の小学校に足を運んだりして文化財の継承に力を尽くしているという。太鼓芸と踊り芸で構成されているが、1大太鼓「よせ」、2四つ太鼓、六つ太、 3安達が原、 4祇園囃、 5獅子と土蜘蛛 が演じられた。現在、獅子はこの一体。30代の二人だけで、彼らに師匠はおらず古い写真やビデオを見て学んでいるのだそうだ。
保存会の方による歴史と保存に関する講演と、実演を楽しんできた。夜の奉納ではなかなか足も運べないし、良い機会ではあった…。
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 「さんまのまんま」

2015年09月25日 | 日々の暮らしの中で

夜9時から、テレビ番組「さんまのまんま 30周年秋SP」をずっと見て過ごした。関西弁でまくしたてるお笑い芸人のおしゃべりがあまり好きではないが、この番組は好きで以前からよく見ていた。いつ頃から見始めたのだったか、おそらく子どもたちとも一緒に見ていたはずだと思う。
「人間は耳が二つに口一つ 多くを聞いて少し言うため」 「十聞いて一話すを賢と言い、一聞いて十話すを愚という」最近こんな表現を目にした。さて、さんまさんのおしゃべりは?? ゲストを迎えて「数打ちゃ当たる話法」(自ら言っていたが)での、さんまのおしゃべりがとにかく楽しい。

30年で1995人を迎えたそうだ。画面の3人の年齢を合わせると200歳を超える。「帰ったら一人だから、もう少しいたい」と徹子さん。午後10時から午前2時ごろまで寝て、起き出してお勉強。その後またまた寝る、二度寝の日々らしい。

         
テレビを見ながら笑ってモヤモヤ解消をはかろうだなんて、なんかさびしい感じ…。でも面白くて、終わりまで見てしまった。


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 一日一日…

2015年09月23日 | こんなところ訪ねて
「とにかく奈良は美しい所だ。自然が美しく、残っている建築も美しい。そして二つが互いに溶け合っている点は他に比を見ないと言って差し支えない。今の奈良は昔の都の一部分に過ぎないが、名画の残欠が美しいように美しい」(志賀直哉『奈良』)


連休前半、奈良の白毫寺に萩を見に訪ねた。参道の萩の見ごろにはまだ少し早かったが、西に奈良市街を遠望し、二上山の姿を目にできたのは嬉しい収穫。白毫寺から新薬師寺、春日大社の神官たちが住んでいたという社家の崩れ落ちた土塀の脇を通って志賀直哉旧居へと向かう。

  
大正14年、志賀直哉は京都の山科から奈良の借家に転居。昭和3年、自らの設計で邸宅を完成させ、翌4年にこの地に移り住んだ。2階の南向きの6畳間で『暗夜行路』を完結させている。
数寄屋造りを基調にしたサンルームには当時の文化人が集った。武者小路実篤、尾崎紅葉、小林秀雄、網野菊、谷川徹三、平野謙、藤枝静男、三上音吉、小林多喜ニ…、よく知られた多くの訪問者たちの名が連なる。当時を想像し、ちょっと匂いでもかいでみたい気分になって大きく息を吸い込んでみた。白樺派のハイカラなサロンここにあり、だったのだから。西本願寺の滴水園に発想を得ていると思われる部屋らしい。写真に見えている二階の客間には、多喜ニが泊まったのではないかと…。北方向には春日の杜、その向こうに飛火野と広がる。何度かこの道を通っているが、旧居へ立ち寄るのは初めてのことだった。

【Hall家の話し】ですが・・・
             

4歳になったTyler。来月初めに10歳の誕生日を迎えるJessieは、ただ今ながーい休暇中で、乳癌撲滅の募金を兼ねたロードレースに参加。走ったり歩いたりで楽しんだと聞いた。そんなあれこれの報告や依頼ごとも含めて娘家族からの電話が2、3度。交互におしゃべりする受話器を通して、父親とはしゃぐ子どもたちの楽しげな声が聞こえてくるのが、嬉しい瞬間だった。





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 秋の野

2015年09月20日 | 日々の暮らしの中で

野路の秋。枯れ色となっていく前に、エノコログサが夕日をまとって光っていた。はたまたエノコログサ自らの輝きなのか…。
春からこちら、何度かこの道を歩いた。さまざまな時間があったが、確実な季節の推移、抗うことのできない時間の推移がある。

彼岸の入り。
今日は「阿頼耶識」ということばに触れる機会があった。


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 秋うらら

2015年09月14日 | 日々の暮らしの中で

秋うらら、朝から家にいるのはもったいないほどの好天気。この秋晴れの一日を逃す手はないと、昼を過ぎて散歩に出た。


お茶と念のための小銭とカメラだけを持って、今日は散歩だ。大体の向かう方向は考えたが途中は気ままにコースをとって歩いた。
ウォーキングでは時間、歩数、距離などで目安にしているものがあるので水も持たないし、小銭も然り。できれば何も持ちたくはないのだが、カメラだけは持ち歩いている。今日はゆっくり楽しもうと水分補給も考えた。

賀茂川畔の遊歩道でベンチに腰を下ろして、友人にメールの返信をした。司馬遼太郎記念館に行きませんかとせっかく声をかけてもらったが、予定が組めそうにない。少し先のことになってしまうので、ひとまずまたの機会にと。誘われて断ることはまずないのだが、仕方がない。それに今はちょっと気も乗らない。

小休止していると風が冷たく心地よい。季節の風に乗って、ついいい気になって足を延ばし過ぎた。
何事もまずは意欲! 意欲がなければ思いを実行することもできないし、才能だって発揮することはできない。意欲さえあれば、良い結果を残せる。となるはずだったのだが。
よく歩いたなあ。よく家まで帰ったこと。万歩計を見て驚いた。ついこの間の3倍に近い。三日分を一度で歩いたことになった。15077歩、3時間半かけてツカレター。座りこんだら、本当に足腰が立たなくなった。

この秋初めて見た曼殊沙華。これまであまり好きではなかったが、最近は少し気持ちも変わってきた。彼岸も近いからかしら。


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 「雨の脚」

2015年09月11日 | 日々の暮らしの中で

  どうして、はやい、雨の脚  空から地へひと息に  ポーンと降り立つ雨の脚。
  どうして長い雨の脚、  空から地へまっすぐに  つづいて切れぬ雨の脚。
  お屋根を、お窓を、樹の上を、  ぴょん、ぴょん、歩く雨の脚、 外套に、お傘に、お帽子に……
  かまわずつける足の痕(あと)、  それでもお日さまでるときは  すぐさま引っ込む雨の脚。       (「雨の脚」 川路柳紅)

今日はようやく一日陽射しが戻った。喜びたいところだが、今回の記録的な大雨による甚大な被害状況を見聞きするにつけ気持ちは重い。


毎年この場所に姿を見せるミズヒキソウ。
午後遅くに、少しだけ歩きに出た。冷たく感じる風が心地よい。気持ちが外に開くというのを実感。

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 「BOOK   2」

2015年09月09日 | HALL家の話
まもなく誕生日を迎えるTyler。何かプレゼントを贈ろうか。
8月にはJayと娘の誕生日があって、段ボールで家族みんなにひっくるめてあれこれと入れたし…。なんといっても度々となると送料がばかにならない。
それに、4歳になる子がどんなものだったら興味を持って喜んでくれるのか、これがなかなか難しい。何もないよりは気持ちだけでもと、日数もかけて、ぶらぶら見歩いた結果この2冊の絵本を選んだ。

 

少し幼いような気もするが、少しでも日本語のリズムに親しんでほしいと思うところが決め手になった。
EMSと普通郵便とでは送料は500円ほどの違いなのがわかり、4、5日あれば確実に届くようにした。絵も楽しい。メロディに乗って、読み、歌い、平面に工夫があって太鼓をたたけるといった楽しさも含まれている。母親や姉とも一緒におしゃべりしながら楽しんでくれると期待はしてみるが、「本2冊」、これががちょっとさびしかったかな。

                
 来月はJessieの誕生日が控えているから、Tylerにも埋め合わせをしようか。
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 遠来の

2015年09月07日 | 日々の暮らしの中で
朝は秋らしい澄んだ陽がさしていたのに次第に暗い雲が垂れて来た。雨が降らなければいいがと思いながら、「お茶しよう?」と連絡があった奈良からの友を京都駅に出迎えた。
先週の木曜日(3日)に大阪で会って、その翌日の電話だった。京都まで行くと言うし、はて何かな?と少し気にもなったが特別深い話はなくて、ほっとしたところがある。



京都駅に近いので、東本願寺にだけはとご案内。7月以来になるが、素屋根も外された阿弥陀堂の屋根瓦の波が美しい。内部の金箔や漆塗りの作業が続き、御本尊が戻るのは来年の三月末だと言うからフェンスがなくなるのはもう少し先になる。

吹き替えのために約10万8千枚の瓦が下ろされた。そして屋根の軽量化を図るために瓦と板との間に敷き詰められた土も取り除いたところ、屋根全体が約3センチ上昇したそうだ。6年ぶりに御影堂と阿弥陀堂とが姿を見せて並び立つ。御影堂は世界最大級の木造建築物、なんだって~
…など、お参りには何度も訪れているが、慣れないガイドを務めてみた。

また明日からがんばろう、ってさっき。









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 難しいことをわかりやすく

2015年09月05日 | 講座・講演

「平成27年度 中外日報宗教文化講座 禅の風にきく」第4回目は、玄侑宗久氏の「頓悟漸修(とんごぜんしゅう)という生き方」と題した講演だった。初回とこの最終回にだけ申し込んでいる。5月の講座終了時あたりでは、9月とはなんとも先の話だなと待ち遠しさも感じていたが、それもいつしか忘れ…。今日まで氏の著作物も随分拝読している。直接お話が聞ける日をどれだけ待ったことか。

禅は「頓悟」「漸悟」という二つの大きな潮流に分けられる。
●ありのままで、そのままでいいんだ 平常、恒常、無事―といった考え方「頓悟」は、現状の自己肯定につながるので明るく生きられるし、自信も生まれる。
●(頓悟の姿勢を認めはするが)目標を立て計画的に精進、努力することを大切にする―考え方「漸悟」では、競走を生み、目標が達成されればまた新たに目標を上方修正し、常に途中状態が続く。暗くなるし光もない。自己を肯定できなければ明るく生きられない。

 ―10日前に立てた計画。今、状況は変わってしまったのに、そのままでいいの?
道は、考えてわかるものではない。わかる、というのは妄想だ。しかし、わからないと言ってしまえば無自覚のまま。二つの考え方の葛藤が生じるが、分別がなくなると道がわかる。両方が組み合わさって一つの生き方の指針になる。

方向は自覚する必要がある。そして精進、努力が要る。ただ、それを意識し続けているのはまずい。忘れてしまってもまたまずい。しかし、忘れて過ごしていると、あるときふと発見・気づきがある。忘れて過ごしているときも必要な時間、旅なのだ。ありのままは大事だが、学ぶことをしないといけない。大きな変化はあるときふっと訪れるものだから、多いなる気づきを得て、日常を塗り替えていくことが必要になる。

「日常を塗り替えていく」。ここのところ少しばかり考えていたことと重なる言葉を得た思いがした。「わかった」ということは、わかった瞬間に「かわる」、成長していることだと、金子みすゞ記念館の館長さんが以前お話だったが、わかったつもりの「妄想」で終わらせたくはないものだ。難しいことをわかりやすくお話し下さり、よい時間を過ごしたと余韻を楽しんでいる。
氏は言われました。「人の耳は聞きたいと思う言葉を聞けるように和音を発生させ、からめとって聴いている」のだそうです。
 






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