京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

 ゆらゆらとそよ風を……

2009年07月31日 | 日々の暮らしの中で
一カ月にわたる祇園祭は三十一日、八坂神社境内の摂社疫神社の夏越祭で幕を閉じた。山鉾巡行を終えるとやがて「夏」本番、という例年の流れに乗れないままでいる。夏らしい雲が湧きあがることもない。雨続きで蒸し暑く、こもりがちだった湿気を飛ばそうと窓を開け風を入れることにした。

家の造りは夏を基本とするのがよいと。夏の部屋着も、もっぱら涼しさが旨となる。‘涼しげ’ではなく実質‘涼しいこと’を追い求める。当然肌の露出面は広くなる。誰も見ていやしないという気楽さ。ただ、油断しきっているわけでもない。なぜなら、‘着て出るもの’をちゃんと椅子の背もたれなどにかけておくのだから。

来客!誰!? 着るべきか、否か?……瞬時の判断を下す。「は~い」と声だけ届けて、しばしお待ちいただく。
裏返しで身を飾らないよう気を配り、何度でも速攻での利用可能状態で待機させておく服。あまりざっくばらんな格好でも、…口封じの手を持ち合わせないこの身。世間体だけは気にするようだ。これだって私流のエコライフだと開き直るとしようかな。

  『…… / まろやかに 満月のよう /  ゆらゆらとそよ風を送り / 
  君が衿もとにしのび入る  / 気がかりでならぬは 秋が来て  /
  涼風が熱気を消し去るとき / ……』

夏には愛用されても秋には不用となる扇。帝の寵愛を失ったわが身にたとえ、漢の帝の愛妃班婕(はんしょうじょ)が詠っている。
                            
冷夏だと言っているのが聞こえてくる。団扇で微風を起こせば済むだろうか……。

                  (鈴木春信「団扇売り」)
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 叫びは言葉の源泉らしいから

2009年07月29日 | JESSICAの日本滞在記
       

「夏空恋し」、太陽の花の前で傘をさしての写真は似合わない。どちらもしょぼくれて見える。

天気予報で明日を確かめ、雨さえ降っていなければ万々歳の朝となる三歳児。そして、「咲いているかな~?」と、ここのところすっかり朝の日課にもなった朝顔の観察。七輪咲いているはずだが、「1・2・3・4」「マーミちゃ~ん4つ咲いたあ」って!? 声が大きい!

水着を着込み、お弁当を持って幼稚園へ。水の中、大きい子も小さな子も関係ない。水しぶきを浴びて笑いあって仲良くなって…。パワー全開、疲れ知らずのフル活動ぶりに、彼女の心が満たされていることを感じさせてくれる。
関心事は増え続ける。歌い・唱え……、一日の終わりは母親とのリーディングタイム。

言葉の源泉に叫びがあるらしい。叫びは自然のいろいろな現象に触発されて、思わず全身的に声を出す。その強い音声が、リズムや旋律を伴って音楽になり、やがて言葉になって…。感情の進化は理性の進化よりずっと先にあった、と。
「オオーッ」は感動・祈りの叫びだそうな。(ゴリラの研究家・山際寿一さんと山折哲雄さんの対談で)

オオーッ!
「おーみのみー ゆーなみちどりーながなけばーーーっ!」雄叫びのごとし。
「そこのけそこのけおうまがとーるーっ」の第二弾。どちらも‘おおむね順調’。
やがてはリズムに乗った和歌の・俳句の一つも聞けるものと祈りたい。


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selective hearing ・選り好み・・

2009年07月28日 | 日々の暮らしの中で
物は増える一方、身も心も重く着飾って―。これでは目指すエコライフに程遠い。
「身ひとつ」「人間だけがいろんなものを身にまとう」『・・草も、木も、けものも、鳥も、魚も、みな「身ひとつ」で生きている』(五木寛之著『親鸞』)…と。

様々な雑念・つまらぬ価値観・虚栄心、ありとあらゆる執着がこの身をまとう。危うい‘メタボ’の世界、無駄はそぎ落とさなくては。

そこで思うのが、「選択」。叫ばれるライフスタイルの大転換にはもってこいの一手かもしれない。
呼んでも返事をしない、なにを言っても知らんぷりの三歳児。ところがだ、「○○○食べよーか~」の小声には食らいつく身勝手さ。上は九十を超えるばあ様まで、自分の心の都合で聞こえたり聞こえなかったり。人間所詮こんなものなのか。

このスタイル、娘の夫Jayの教授によれば「selective hearing」。そう言って笑っていた。自分の好みに合ったものだけを選びとる。それだけでは淋しい気がするけれど、上手に使いこなしてわが身の虚飾も極力量から質へ。
ちなみにJay、娘の日本語に日本語で対応していた。話せて話せぬふりか、話せることだけ日本語なのか。いずれにしてもこれってselective speaking。そう言うと笑っていた。余計なことは口を慎む慎重さ。

みずみずしさには及ばずとも、物事素直に感じ取る感性は潤っていたいものだ。
『こころは「心」ではなく「情」なのだ』とか。理屈ではないのだ。
3歳児の教え、あらたか……か。

  (青いいがぐり、こんなものに目が行くのも年の功?)
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 ほめほめシャワーの効能は…

2009年07月27日 | JESSICAの日本滞在記
        
お花を見てくると言い残し‘赤いルーペ’を持って小雨降る外へと向かった3歳児。

本の付録で手に入れたこの赤いルーペ、本来は‘隠れているものを探す発見ルーペ’なのだが、彼女の使い方はと見ていると、どこで覚えたのか、まさに「拡大鏡」的扱い。
花を覗きこんだとて何も拡大されることはなく、むしろ赤いセロファンが邪魔をしてしまうのだが。ルーペを持った手を伸ばし、小さな紫色の蝶を追いかけていく姿があった…。

雨で幼稚園のプール開放は中止。かたつむりを探しに行こう~。
日差しをよけたり、小雨にあわてて傘を広げたりの忙しい空模様の中、赤いルーペを持って植物園に向かうことにした。
   
シャーシャーシャーシャーとセミの鳴き声が降り注ぐ木の下、道路にしゃがみこんでルーペを当てている。一つ見つけたらあっちにもこっちにものセミの抜け殻、恐る恐る手にし、裂けた背中を覗きこむ。百日紅の赤い花に赤いセロファンをかざし……、いったい何を‘見て’いるのだろうか。なにを想像しているのだろう。

むき出しの好奇心、とまではいかないが、如何にもなJessieの格好の楽しさにお付き合い。直視する姿をそのまま描写しながら、オーバーな感情表現で一緒に驚き、感動を示して。

たくさんのほめほめシャワーを浴びて、向かうところ敵なし。「疲れたー」「抱っこしてー」の泣き言はなし。意気揚々と歩く傘をさしての帰り道。何かが芽生えただろうか?

本物の拡大鏡の楽しさを、明日には……。
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 耳のつけどころ

2009年07月25日 | 日々の暮らしの中で
  「空に真赤な」
   空に真赤な雲のいろ。
  玻璃(はり)に真赤な酒のいろ。
  なんでこの身が悲しかろ。
  空に真赤な雲のいろ。

明治41年ごろ、隅田川をセーヌ川に見立てて芸術談議が盛り上がる、そんな文学青年たちの粋な酒があったのか…と思いきや!!この詩はラッパ節。ただの酔っ払い節だった。
北原白秋23歳のころ、高村光太郎・木下杢太郎・吉井勇らと起こした「パンの会」の愛唱歌だったのだそうだ。なんだ~。
当時の文壇を支配していた自然主義に対抗するように、耽美派文学の一つの先駆となった会である。

今日は隅田川の花火大会だった…。

本日、北原白秋の人と作品というテーマでの『文学の課外授業』に参加した。

『桐の花』に収められている隣家の人妻との事件(起訴された)にまつわる歌。
    監獄(ひとや)いでぬ走れ人力車よ走れ街に
        まんまろなお月さまがあがる

    監獄(ひとや)いでてじっと顫(ふる)へて噛(か)む林檎
        林檎さくさく身に染みわたる

今日、強烈な印象を残してくれたもの。
   「曼珠沙華」
GONSHAN(ゴンシャン). GONSHAN. 何処へゆく
赤い、御墓の曼珠沙華(ひがんばな)、
曼珠沙華(ひがんばな)、
けふも手折(たお)りに来たわいな。
……(後略)

GONSHANとは「おじょうさん」の意。こんな言葉で始まる詩。不思議な世界に誘い込む曲調に驚かされたが、賽の河原の石積みのイメージかといわれるから…。
独唱での実演付き講座、この歌が聞けたことで本日大満足。
感じられる罪の意識はなぜかということでちらりと私見? でも、なんかよくわからない。

あれほど童謡の名作を発表した北原白秋の人生と作品。
私に残ったことは、ああ、こんなこと~。

    (原田泰治氏描く♪からたちの花。 カラタチの生け垣)
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 言葉を真似る

2009年07月24日 | JESSICAの日本滞在記
早い時期での英語習得の利点は確かにあるのだろう。
だが三歳児Jessieは、英語圏で育ちながら八か月の日本滞在という環境の変化で、日常身に付けていた英語はすっからかんに忘れ去ってしまった。父親との電話もオール日本語、彼もわかりかねるほどに上達した日本語。

What’s your name? How old are you ?
ニターッとしている。「なに言ってるかわからへんよーな顔」と母親に言わせてしまう。男の子と言えずboy・ボーイだったのも消えた。
先日、雨上がりに光るクモの巣発見時、「スパイダー」と口にし「クモ」と言い換えた。大人の言葉のオウム返し・一部復唱、時には伝達役で日本語に磨きをかけている。  
       
完全に英語攻勢がかけられる先のことを気にかけているよりも、日本の‘文化’を伝授しようと決めた。残り少ない日数で一首。

   「近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ」

「おーみのみゆーなみちどりながなけばこころもしのにいにしえおもほゆ」
声高らかに響きだす日がくるはずだ。
言葉を真似る。真似ることは学ぶこと。過去から伝わるひびきを身につけ、智恵をつけ、未来につなごう~。

          (遠くに近江富士が。琵琶湖畔、浜大津港で遊ぶ)
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 畏れは予知に…

2009年07月24日 | 日々の暮らしの中で
やっと雨もあがり、オレンジ色の優しい空が広がった夕べ、窓を開けて三歳の孫と眺めていたのは昨日のこと。今朝からは、時間を追うごとにじりじりと照りつける日差しが眩しいほどになってきた。うっとうしい雨から解放されてほっとする。

皆既日食の光景に魅了され、興奮に包まれた一日があった。私にも普段と変わらない時間は流れた。その一方に、今回の報道で知る、山口県の土石流による災害がある。TVニュースで映像を見、耳に残った「土石流」「老人ホーム」の言葉。なぜかそういうところに老人ホームってあるなあ…。
大きな災害をよそに、繰り返される様々な日常もあることをぼんやりと感じていたり。暑さボケか。

ぽっこりの「ホテイ腹」が愛らしいホテイアオイの一株を、Jessieがいきなり水中から引き揚げた。「あ~~~っ!!なにするのー!」二番手のつぼみが姿を見せたというのに。

七福神の布袋さん。親しみやすさは何と言ってもその姿だろう。福々しい笑顔と太鼓腹。いつも大きな袋を持っている。中には知識や智恵がいっぱいしまい込まれ、弥勒菩薩の化身だそうな。

咲き終わり、萎れた花をつけた状態のまま茎は倒れ、やがて先から徐々に水中に潜り込んでいくさまには、意志を感じる。その不思議さに感動。

京都では、布袋さんは火伏の神として信仰されている。暴れる水は困りもの。
「日、蝕(は)え尽きたる」という日本書紀の記録を残し、世界でも不吉な暗黒として描かれ、忌まわしいとさえ嘆かれた日食だという。
畏れの気持ちが、予知を促し、人をとりこにしてきた。というのに、災害の予知予防は遅れがちとは。

     (写真左下が、咲き終わって、形よく水中に潜った茎)
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 Jessieの修(終)了式・・・

2009年07月21日 | JESSICAの日本滞在記
三ヶ月間、ご縁をいただいたJessieの幼稚園生活は今日で終了。

あらゆる意味で大きくなりました。
この一カ月ほどは特に顕著で、言葉による感情表現には数段の豊かさを増した気がしています。とっても喜び上手な三歳児。友達を思いやる気持ちが言葉にもにじみます。生活のルールも覚えました。
「しんらんさま」「みほとけさま」「おねんじゅ」、こんな言葉を突然耳にして驚かされる日もありました。

‘いつも元気で、いつも笑顔で、にこにこと、人なつっこく’・・
友達の名前が日に日に増え、楽しい毎日だったこと想像できます。

貴重な時間を過ごせたこと、彼女の財産となるに違いありません。
ご指導いただいた関係者、温かく見守って下さった皆さん、ありがとうございました。

『うさぎぐみのみんなより ―‘みんなずーっとともだちだよ’』
やがて自分の心で振り返る日が来るでしょう。今日は一枚一枚記された名前を確かめながら、先生からの言葉を何度も母親に読んでもらっていました。

「はい、どーぞってお当番のMちゃんとY君が渡してくれたので、Jessie、ありがとーってもらったの」

そして、「うれしいなあ~」と。仲良くしていただいてありがとう。

      (写真:スイカの黒い線は、包丁の線…だって)
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 朝顔・最高の初咲き一輪

2009年07月19日 | 日々の暮らしの中で
「朝顔の夢を見た。」 
伊集院静氏の『少年譜』収、「朝顔」の冒頭の一文だ。
少年時代の主人公が血のつながらない弟と次々と朝顔の花を摘んでいる。祖母の顔が思い浮かび、いい気味だと感じる奇妙な夢を……。

花を通して人を偲ぶのか、花がひとの思いを抱え込んでくれるのか…。
 
今朝初咲きの、一輪。
十七ヶ月の夢から覚めた亡き弟がそこにいるかのような、不思議な感慨が胸に満ちて来る。

やわらかく広がった花弁。白くなった中心部のまっ白な花芯に向かって見入ってみれば、その根元の先にはどこかに続く通路があるような気がしてくる。と、「ご案内しましょうか」と花の精の声がするような。
「永久に目をつむった時、案内を乞うしかないでしょう」と返すのが、石垣りんさんの「ねむの花」の世界だ。

今にもクタッとしそうな茎に半信半疑だったとき、「必ず咲くからあきらめないで」と支えられ、覗き込んでは一日一日確実に育っていることに小さな安堵の繰り返し。咲いてほしい、その一念が咲かせた一輪。
何よりも、「愛情の絆」「愛着」「固い約束」・・こんな花言葉がつながった思い入れの深い最高の一輪である。

今朝は寝坊しました。何時に起きたかって、そんなことは言えません。Jessieが不在につき、静かに、ぐっすりと眠りほうけてしまいました。
必ず早起きする意思はあったのですが。朝顔さん、ごめんなさいね~。

                (写真右は、前日夕刻のつぼみ)
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  この顔の中に

2009年07月18日 | 日々の暮らしの中で
祇園祭、山鉾巡行は終わった。町衆が財を投じ、年月をかけて作り上げてきた豪華な各山鉾の装い。中国・インド、ヨーロッパからもたらされたものばかりの懸装品。この、まさに「超」豪華絢爛の世界の一方で、雪舟の水墨画、利休の茶の湯、世阿弥の能の「わび・さび」の美意識。富を見せつけることを慎むとか言う京都にあっての、この派手さ。面白い関係、重なり具合。

「コンチキチン」は、山鉾行事の、ユネスコ世界無形文化遺産への登録が今秋には決定される予定だと聞いている。世界の宝物として認められるわけだ。

歴史や文化を身近に感じ、川の流れ、山の緑に心癒される。京都の外から、京都の魅力にひき寄せられた時を経験している者からすれば、水族館などなくたって、川あり御苑もあり植物園もある。ハコ物の文化ではない、未来に手渡せる京都の文化、遺産は何だろうとつい思ってしまう。

照りつける日差しをものともせず走り回る子供たち。その中にJessieの顔が混じっていてもいいなあ。オーストラリアよりも千変万化、いいに決まっている。友だちもたくさんできた。勉強する気があればいくらでもできる。もうここで暮らしてみたら??
帰りたい?そーか、オーストラリアもいいな。環境の違いは思考法や人間性にも影響が大だろうなあ……

避けられない現実は、思いをあきらめさせることになる。豊かな心で成長するには、どこで生きるかが問題ではないってことだ。

ひっそりした夜。3歳児外泊にて不在。
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 三歳の子に教えられ…

2009年07月17日 | JESSICAの日本滞在記

お地蔵さんに手を合わせている。「何もお願いしてへんわー」。昨日、Jessieを連れて祇園祭で賑わう四条烏丸周辺へ出かける途中のこと。

傍らに誰がいようともJessieにとって、この世で最も尊いのはマミィちゃんのようだ。たとえ私と二人きりの時間を過ごしていてもだ。姿を見たとたんに私の存在など無きに等しい。
親子(わが娘)でも生き方・信条、性格、感性……には相違がある。似ていたとしても、生きてきた社会的・人的環境も違うのだから、個人的なことで当然だろう。とやかくいう必要もないはずだが、いさかいは生じる。

毎日Jessieを引っ張って行っては覗き込んでいた朝顔の葉っぱ・ほてい草、ねじり花。
お祭りから帰宅して二人で見つけた蕾。ほてい草の伸びた茎の先に、少し黒ずんだ紫色がかった蕾がわずかに膨らみをおびている。「やったね~、明日の朝は、きっとお花が咲いているね」「うんうんうん・・・」

♪咲いた~ 咲いた~
今朝、それとなくJessieに聞かせるように口ずさむ。
一瞬の間を置いて、「咲いた?」
「お花が咲いた~~~」と言葉を添えると、
即、反応した。通じた!うれしいよ~~
「きれいに咲いたー」 あかるい声が返ってきた。

「マミィちゃん、ほらっ・ほらっ!」と誘いだす。
まったく!な~んにも見てないんだから…。わが娘、3歳児によって教えられ開花してゆく世界なのか。もっとも、子に教えられることが多いのも事実だが。

自分とは異なる感性に触れてわくわくし、感動の持てる存在を発見したりしては喜んで暮らせることも、素敵な日常だと感じている。人、他人への思いを深めるに違いないだろう。
私の世界なんて狭いし、体験も知れている。だからこそ、他人の経験や考え方を知ることで、人生もろもろ…の見方を豊かにもし、深めてもいけるのだろう。

今後、違った環境で生きるJessie。私に聞く耳さえあれば、彼女を通しいくつもの発見をし、多くのことを教わることになるのでしょう。
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 祇園祭をひと目

2009年07月15日 | JESSICAの日本滞在記
         (眠ってる顔だそうで・・)

1000年以上に渡って祭礼を保存し実行してきている八坂神社の氏子さんたち。32基の山鉾巡行、祇園囃子も彼らによって実行され、演奏される。
裏方さんに徹する女性たちのかいがいしい動き。祭りの支度にいそしむ男性の姿。見物気分いっぱいの私などには、どことなく誇らしげに映るものだ。
コンチキチンと笛や鉦や太鼓でお囃子がひびけば、いっそう気分も盛り上がるというもの。

この時期、祇園祭の話なしではやり過ごせないわけでして……。
なにが何でも、浴衣でも着せてJessieに見せてやりたいところだ。豪華絢爛、動く美術館とも言われる山鉾の印象、お囃子の音ぐらいは心に残してやれないものか。

昨日14日は宵々々山。人の出は14万人、だそうな。おまけに京の初猛暑日となったようで、市内35.3度を記録。この人手と、明日は、少し天気も心配……。

Jessieの帰宅を待って散歩に行こうかと思いつつ、家にいた。朝から風が強く、じっとしていれば風の通りもよく過ごしやすい。せっかくの涼しさ、汗かいて動き回るのはもったいない、大切にしようと決め込んだ。『女ひと』室生犀星著(岩波文庫)を読みながら、時々居眠り。
女ひとの腕や足に寄せる思いなど、エロチックにもなりすぎず、そうなまめかしくもなく、不思議な魅力がある。文章表現の楽しさを感じながら、時間を過ごしていた。

3歳児帰宅。行き当たりばったりで散歩に出た。ジージーと蝉が鳴いている。トウモロコシ、黒光りのなす、キュウリ、トマトの畑をのぞき、こっそりさわって。稲の緑が鮮やかだ。田んぼの浅い泥の中にJessieが見つけたグロテスクなこの生き物。いったい何!!
  
  (手にバッタ!)
今日は平穏な幸せ日。

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 カメの挑戦

2009年07月13日 | JESSICAの日本滞在記
池のふちを棒きれで叩きながら歩く。するとコイもカメもあとをついてくる。
カメが水中を泳いでやってくる。甲羅からはみ出して見える4本の短い手足。左右を交互にスピーディーに動かして、水をかいてぐんぐんと向かってくる。速い。
「もしもしー、カメさーん!こっちや~」
3歳児の呼ぶ声に数匹のカメ、数知れぬコイが集まってくる。

どうしてそんなにのろいのかと亀はいつも侮られてきたが、もし水の中で競争していたら、ウサギに勝っていたかもしれない。汚名返上のチャンスあり。陸の上で対等に戦おうとしたことがそもそもの誤り、己の本分知るべしだったのだ。

水中の杭に到達、前足を乗せて、体半分はい上がり、首を伸ばして見上げる目線と合う。エサを欲しがるかのようにじっとこちらを見つめて待っている。見ている、聞こえている。なぜか感動の域。やけにカメがいとおしく感じる。

食パンの耳の切れ端を投げ入れてやる。気づくと岸壁に垂直にへばりついて、首を伸ばして欲しがっている亀がいた。めがけて投げてやるが、彼の口には入らない。今少しの所も、群がるコイの大きな口でパクリと持っていかれてしまう。
お~い、カメさん、どうしてそんなにとろいのよ。やっぱりカメはのろいか…。

しかし、コイを相手に、本分を越えたところで無謀ともいえる挑戦を繰り返す姿には、おかしみと共に敬服の念すら湧いてきそうだ。
首を伸ばしこちらを見上げる姿との出会い。知らなかった新しい発見に感動できたおかげで、一つ新しい見方を得た気になる愉快さ。挑戦していかない限りは未知の世界にも入っていけないし、感動も得られないってことなのだろう。

(写真は猿沢の池・亀の話は京都宝ガ池でのこと…)




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 遊びの中に休養あり

2009年07月12日 | JESSICAの日本滞在記
【平城遷都1300年祭 開催まで、あと174日】

地下鉄一本で直通、近鉄奈良駅に着ける便利さ。たまには時間のかかる移動も、地上に出てからの風景を楽しんで、苦になることはない。ただただJessieのご機嫌麗しくあれと願うばかりの1時間弱。

平城京遷都1300年祭、いずれまた様々な催し物がある。私には地元感覚で、大好きな奈良、楽しみにしている。
    

興福寺の阿修羅像。少年の面持ちと評されるが、写真家故入江泰吉さんの表現によると―「どこかで視る者を拒んでいる」と。左の顔は唇をかみ、こらえているよう。右の顔には内面を見つめる厳粛さが漂い、正面の顔はひそめた眉が決意を感じさせる、……とか。自分の心が動くときのお顔は、見るたびに違うかもしれない。
東京から、北九州市へと「国宝 阿修羅展」は移る。いつお戻りに??

怒りの形相で、ミニカーを投げつける日などあってほしくないものだ。
  
一度は鹿を見に行こうと計画。Jessieにとっては今回が4度目の奈良となるが、これまではいっさい記憶にないらしい。頭をコンコンとこ突かれたたことも忘れているようだ。な~~んだ、今日こそ!
全行程、完歩。良く歩いた!

今日は、昨日とはうって変わって、「魚釣り」(のつもり)。池を一周(2キロほどか)3時間かけて楽しんだ。
  

このへっぴり腰、棒きれで魚を釣っているそうな。釣れた―。泥にまみれた草!!
母娘の会話・・変な親子はいったい今度は何を相談してるのやら。

「のどが渇いた~」3歳児よりも早い母親の一言が出た。アヒルに鴨に、亀さんに声かけて、棒きれ片手に、歌を歌って。♪もしもし、かめさ~~ん
猿沢の池にもたくさんの亀さん、亀は千年、となると平城の都を知っているんだろうか~。

完全休養の2日間。さっ、また月曜日だわ~~
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 ねこじゃらし

2009年07月09日 | JESSICAの日本滞在記
穂先を軽く握って、気を持たせながら 「Jessie、毛虫~~~!」
茎を持って、下から穂先をゆっくり、ゆっく~り・・・押し出し出す。
やった、大成功!

幼稚園へと気持ちが集中していた3歳児、キャーっと、ひと声!両手でわきを固めて後ずさり、ぶるぶるっとすると「やめてー! やめてよ~」と続いた。「やめてよ!」「やめてよ!」って。驚くだろうとは思っていたが、ギャハハ~~、愉快。

穂先が小犬の尾に似ているところから「えのころぐさ (狗尾草)」の名がつくというが、私などには、ねこじゃらし。子供の頃からずっとねこじゃらし。これが秋の季語であることを知って、ちゃんと季節の中に存在する命かと改めて感心した次第。

父の背に睡りて垂らすねこじゃらし     加藤楸邨

おんぶされて眠る手にねこじゃらしが… 絵になる光景が浮かぶ。
長い茎の下を持ってからかっても、穂先はJessieの首に届かない。逃げ回る。待て~っ。
「先生を驚かしてごらん」とそそのかされた3歳児は、やっと茎を持ってのお出かけとなった。

しろつめぐさを編み込みながら首飾りを作る、そのための花摘みがこの子にはお似合いだろう。大きな蓮の葉の上に、それをのせて置いてきた先日。そのうち、大きなカエルさんの首飾りになるのかもしれない。

幼い子供に戻って穂先の感触を楽しみ、しげしげと見つめたねこじゃらし。喜んでいるのは私。


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