京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

言葉は二の次…

2017年07月27日 | 日々の暮らしの中で

上賀茂神社の境内を流れる小川。楽しそうな子供たちの声が響く午後です。
近隣にはこの状況に眉をしかめる方々もおられるようですが、宮司さんは温かな目で見守られています。

「六月三日、羽黒山に登る。」(『奥の細道』)。芭蕉が出羽三山を巡った記述の部分を読み返してみました。羽黒山に登ったのは新暦で7月19日になります。8日には月山。湯殿山と「三山巡礼」。「羽黒を立ちて、鶴が岡の城下、…川舟に乗って酒田の港に下る」。
尾花沢、鶴岡、酒田、さらには象潟など、いつかは行ってみたいと長いこと憧れてきた〈地名〉でした。芭蕉が見たと同じ山の姿を眺めることができるのでしょうか。


久木綾子さんが「大地のエネルギーを吸って生えてきたようだ」と記した羽黒山五重塔の前に立って、何を感じるか。「地の霊、山の霊、大木の霊、もろもろの霊が淀んで渦を巻く」場所に立って、どのような思いが湧くことか。塔の周囲に溝を巡らせた山伏たちの心意気…。やはり、「うけたもう」。大自然の中に身を置いて、感じるままに…。頭で考えたって見えてこない、だから感じるままに…。楽しみです。

29日から出羽三山を巡る機会を得ました。無事クリアーできますように~。
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「きょうはすばらしい日」

2017年07月25日 | 日々の暮らしの中で

赤い布貼りの表に『Photographs』と書かれた私のアルバムは、中学校入学まで、すべて父によって写真が貼られ日付とコメントが添えられ残されています。左ページの巻頭はお宮参りのとき。右下には父の膝の上に1歳3か月の私です。
両親と話がしたいなあ…とアルバムを見ながら誕生日の朝を過ごしました。


続けて弟が二人。
ずいぶんと我が儘を言って、志す道を進ませてもらったでした。今になれば、それは人生のほんの一時期にしか相当しないのですが、そうした時代を過ごせたことが自分の核を作ったかもしれません。

「『もう歳はいらんわ~』なんて言わんのよ。先ずはこの歳を元気で迎えられたことを歓びましょうね」、と友人から。良いこともあればその逆も。人生悲喜こもごも。まずは健康で迎えられた今日という日を感謝して、これからも自分らしい楽しみを持って過ごしていきたいものです。
「きょうは素晴らしい日~」、Tylerの言葉を思い返しています。一日でも多くこんな言葉をつかえるように。
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生きる喜び

2017年07月22日 | 日々の暮らしの中で

        暗く長き夜といへども朝明けて羽化せしものは声に鳴き初む      清原 令子

大人でふた抱えほどもある幹の周りを一回りすると、地上からほぼ同じ高さの間に8つの抜け殻を見つけた。羽化に失敗する蝉もあるのかしら? 見るからに樹液たっぷりの幹で生まれ変わって、十日に満たない生の謳歌はシャーシャーシャーシャーと見事なエネルギーなのだが、ちょっと切実。


今日は新しく帽子を買った。娘が貸してあげると言ってくれたが、ウオーキングに使用している普段使いのものだから、色あせてしまったし新調することにした。でも、夕方には古いのを被って歩いた。新しいのは来週末までとっておこう。 クサギの花が咲きだしていた。
                     

 
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言葉は心の足音

2017年07月18日 | 講座・講演

「言葉は心の脈拍である」、と記したのは亀井勝一郎だったか。
柔軟な、静かなる知性に浸れる〈ひとこと、ふたこと…〉のブログの世界を今日も楽しみに訪問してから、午後からの『徒然草』講座出席のための準備を始めた。

テキストには岩波文庫の『徒然草』を紹介されているが、学生時代からの手垢がついた日本古典文学大系『方丈記徒然草』を持参して使っている。何ら不便もなく、今にして再びページを繰ることができるのが嬉しく、気持ちも入るから不思議。

今日のテーマは「『正気』という埒」。
195段、162段。こうした内容は教科書にも載らないので、『徒然草』の理解が一面でのとらえ方になってしまう。高校生にも読んでほしいもので、文章として美しいものだ、と見解を示された。144段の明恵上人の得難い特異な世界観と、236段の知識で世界を構成する聖海上人の話の対比は面白い。
熱い熱い筆致の134段。…だが、こうして人は何もしないで恥多き人生を終わっていくのだ…と肯定する。

人はいつ死ぬかわからない。それなのにどうして平気で暮らしているのだろう。こうした考えを「狂気」とみると、その反対が「正気」ということに。
人には誰もがこうなっていく可能性があるのだ、と老いを迎える人の心を見つめ、包み込むまなざしで冷静に書き留めている。兼好は人の心の姿への関心が強く、人の心を理解し寄り添おうとする人間だったようだ。

「声高にものを言う人の顔が美しくあろうはずがない。声静かに語るほうが美しいのである」とは、どなたが言われたのだったか…。

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夏の午後

2017年07月16日 | 日々の暮らしの中で

             夏川の美しき村又訪はん  高野素十

たくさんの親子連れや若者が川遊びに興じていました。大きな無料駐車場に車を止めて、ここを起点にした1時間ほどのウォーキングでは、次から次と多様なものに出会えます。先日はヤブカンゾウの花に出会い、かなり遅めの合歓の花を楽しんで。

 

足元の、咲いてすぼんだカラスウリの花の名残にさえ引き付けられて、オニグルミは鈴なりでした。毬栗の青さが新鮮! 北山杉の育林の眺めも美しい。
遠く雷のなる音がし始めて、間もなくに夕立が来ました。

祇園祭も本日、宵山。明日は、前祭山鉾巡行です。
昨日15日の宵々山では、新聞報道によれば〈四条室町周辺は人で埋め尽くされ、狭い室町通や錦小路通に入ると身動きが取れない〉ほど混み合ったとか。
暑くって、昼も夜も見物にいく気力はありません。
急きょ娘宅で数日を過ごして帰宅。体調を整えるような一日でした。
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「うけたもう」

2017年07月11日 | こんな本も読んでみた

昨日も今日もとっても暑かったのですが、6000歩台のウォーキングを続けています。健康のため、では長続きしないのですが、目標ができると暑さも苦にならず、全くもってげんきんなものです。昨日、今年初めてセミの声を聞きました。

今日は車で10分ほど北へ出てみることにして。
空には白い雲が湧き、それぞれに水かさを増した3つの小さな流れが1つになって、脇を歩く足元からはゴーゴーとした川音が響いてきます。と突然、「ホケキョッ」と2度3度。久しぶりの道を歩く力になったのは、連れとのお喋りなどではありません。

   羽黒修験だけにある「うけたもう」という言葉。どんなときにも「うけたもう」。何を言われても、まずは「うけたもう」なのだと羽黒山伏の星野文紘さん。「うけたもう」とはすべてを受け入れること。「うけたもう」「うけたもう」とやっていくと「気づきがちがうし、腑に落ちるんだよ」と。
…頭で考え、決断することが多いことを反省。月末の羽黒山五重塔参拝を含むツアーが近づいてきているのを感じています。

 

母親は「ルーカスの胸にモップをつけておくといいね」と。右足でキックしながら、ほふく前進。上の前歯が4本生えかけているのにびっくりでした。歯ブラシ、クシュクシュも笑顔です。
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美しかった青田

2017年07月06日 | 日々の暮らしの中で

大坂からの帰り、京阪電車の車窓から見た青田の広がりの美しかったこと。
苗の生育にはいくらか差があって、手前の田には張られた水がまだよく見える状態でした。
青田に渡る風のすがすがしさに思いを馳せ・・るのは束の間、きれいだなあ~と思ってみているうちには、もうあーーっという間に通り過ぎてしまったわけですが…。

眼前の風景に目を奪われながら、一方では昨日から幾度となく繰り返し見た荒れ狂う濁流の映像が脳裏に浮かびます。
行きがけに見た出町柳駅近くの高野川も鴨川も、穏やかな流れでした。車窓からの木津川も淀川も、大阪の土佐堀川ももちろんでした。
幸いにもこうして無事な一日を過ごせて、感謝しなくては。
                                  (青田のイメージ、写真はネットからの拝借です)
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〈一生懸命に「ユトリ」を〉、に

2017年07月04日 | 日々の暮らしの中で

「筆を執(と)れば物書かれ、楽器を取れば音をたてんと思ふ。盃を取れば酒を思ひ、骰子(さい)を取れば攤(だ)うたん事を思ふ。心は必(ず)事に触れて来る。…… 」とは兼好さん(『徒然草』157段)

ペンを手に机の前に座りつづけても、どーも思うように筆は進まない。そんな繰り返しを乗り越えて、今日の午前中をもって、もちろんイッショウケンメイに仕上げて手放しました。気持ちは久しぶりの解放感を味わっています。

〈一生懸命に「ユトリ」を〉。
「ユトリを作るために「ムダを省く」ようなことはいただけない」、ですよね~。森毅先生、『一刀斎、最期の戯言』、心強かったです。

「『つまずき』という言葉を使うが、ぼくは嫌いだ。道が決まっているからつまずくと怪我をするのだ。つまずいて倒れ込んだ、そこが心の中の野原だったとしたら、…… 」
本当にそうでした。
つまずいてポロンと言葉が飛び出したり、その拍子に心の蔵の鍵が外れたのか、しまい込んでおいたらしい思いもあふれて出て、いいことありました。。行き詰まって道を変えて、違う風景をみました。
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