京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

むらさきなるもの

2024年04月28日 | 日々の暮らしの中で
清少納言は『枕草子』(88段)で、「めでたきもの」に
「色あひふかく、花房ながく咲きたる藤の花の、松にかかりたる」をあげ、
「花も絲も紙もすべて、なにもなにも、むらさきなるものはめでたくこそあれ」と賞賛する。



淡い青味のある紫色の花房を垂らして、しとやかに優美に咲く藤の花。
淡く澄んだ紫色は、平安人の美意識にかなう〈色の中の色〉であったと。


賀茂川沿いに少しばかり奥へと歩いて行くと、ヤマフジが目に入る。
丹精された藤棚の美しさもよいが、自然が見せてくれる姿に出会う楽しみは大きい。
世はゴールデンウイーク。それぞれ自分たちの人生、世界を大切に、あれこれ心をつくした工夫の中で過ごしているのだろう。
夏日を記録した京。昨年より19日も早いと報じていたが、晩春を彩るヤマフジを訪ねた。


路傍はシャガの花が咲き乱れ、オドリコソウは踊り子が隊列を崩し、離脱者あり。
移りゆく季節はとどめようがない。

わずか小一時間ほどの散策だが、なにやら静かな充実感が…。
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天も花に酔ふべき

2024年04月26日 | こんなところ訪ねて
烏丸駅から阪急電車に乗って、待ち合わせの長岡天満宮駅に向かった。

娘家族が阪急宝塚沿線に住んでいたときはよく利用し行き来もしたが、彼らが2021年にAUSに戻って以降は今日が2度目。’21年11月に、アサヒビール大山崎山荘美術館に行って以来となる。時間に余裕はあったので、烏丸駅に入ってきた準急でのんびり外を眺めながら座っていた。

初めて見る光景が広がっていた長岡天満宮。



【長岡の地は、菅原道真が在原業平らとともに、しばしば管弦の遊びを楽しんだゆかりの深いところで、大宰府へ左遷されたとき立ち寄り「わが魂長くこの地にとどまるべし」と名残を惜しんだ。道真自作の木像を祀ったのが長岡天満宮の創立だ】などと説明されていた。

この八条が池は1638(寛永15)年の築造。



中堤のキリシマツツジは樹齢百数十年とかで、人の背丈をゆうに超えて壁のよう。
北村季吟が、東山のあたりに咲き満ちたツツジを見て「天も花に酔ふべき」と記している(『山乃井』)と読んだので、
もしやもしや… キリシマツツジも色を吹き上げ、天をも酔わす勢いかと今日の誘いに期待は大きかったが、あいにく盛りはとうに過ぎていた。
気温が高いばかりで日差しは今一つだったし。

鯉や亀が泳ぎ、コウボネの黄色い花が咲き、花菖蒲が時季を待っている。ぐるりのツツジはまだまだみごとだったし、ベンチも多く、何度も腰をおろした。

天満宮にもお参りした。目の醒めるるような新緑が爽やかだったなあ。
 



乙訓寺に牡丹の様子を見に行こうかという予定でもあった提案を彼女は言下に却下。
わたしより3つ4つ若かったんだよね…、でも歩くの苦手だよね。遠慮なく笑い合った。




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土から色を吹き上げて

2024年04月24日 | 日々の暮らしの中で

  つつじ燃ゆ土から色を吹き上げて       上野章子

父は、わたしの誕生記念に躑躅を植えてくれていた。
挿し木で丹精していたものを、何代目なのかはわからないが嫁いだのちにもらい受けた。
何の変哲もない、ありふれた花ではあっても、庭に咲くのを見れば父を思い出すことはある。

 椿、木蓮、彼岸桜、海棠、ドウダンツツジと庭木の蕾が大きくなって、開花を心待ちにして
 いること。 ツツジにサツキ、4、5、6月は楽しみです。
 朝には母さんとウグイスの美しい声を楽しんでいます
などとS57年4月4日付の手紙にしたためられている。

変わらず平穏な日々を送ってくれていることに安堵していたのを覚えている。
父は筆まめだったが、母からの手紙は少ない。あまり家を空けない母だったから、友人たちと日帰りで遊びに出かけることが増えた様子を喜ばせてもらっていた。
手紙類を少しずつ処分しているけれど、なかなか思い切れずに出してはしまいを繰り返す。

色ものが少ない庭にあって、ツツジのあざやかな色が目を射る。


  ひとり尼わら家すげなし白つつじ         芭蕉


今日はアニメ映画『歎異抄をひらく」の上映に誘われていたが、ずうっと前に観ていたこともあって、またの機会の同行を約して断ってしまった。
その会場の最寄り駅が、東西線の蹴上(けあげ)。
地下から地上に出るや前方蹴上浄水場の山の斜面一面に白や赤や紫紅色のツツジが咲き満ちる。
まなうらに思い浮かべながら、映画の感想を聞いてみたいなと思っているところ。
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コミュニケーションのタネをください

2024年04月22日 | 日々の暮らしの中で

春めいてきて、気温の上昇が話題になっていたころのある日、キヨピー(谷口キヨコ)さんがDJを務める京都のFMラジオ放送α-STATIONを聞いていた。

視聴者からのメッセージを読み上げていた中で、Aさんの「暑い!」とBさんの「裏起毛のスウェットが暑い!」を取り上げ、「これはいいですね。ただ〈暑い〉と言われても…。
〈裏起毛のスウェットが〉と言われると話が続きますよね」
〈裏起毛のスウェット〉を何度となく繰り返し、笑い、「いいですね、いいねえ」が続いた。
そして、「コミュニケーションのタネをください」と言われたのだ。

「暑い」 - はいそうですか。で、おわってしまう。
この時期に「裏起毛のスウェット」では確かに暑いだろうと聞いていて笑えもした。キヨピーさんのおかしがり方もおかしくて、べらべらとまあよく喋る人だと思うことも多いが面白く、こうして時折心に残るひと言がある。
たったひと言が人の心を暖め、心に宿りもする。


「言葉はどんなに短くたって千里を走る。その言葉を、いつどのように使うかなのだ」といったことを高柳蕗子さんが著書で書いていた、はず…。
「コミュニケーションのタネをください」
電波に乗って、どれだけの人の胸に落ちただろうか。

「暑い!」「 暑いですねー。」
どう続けましょ…。


※写真2枚は、2000年を超える歴史を持つ中国の伝統芸術だと知った「花文字」。
絵柄には意味があり、配置を工夫し文字として美しくデザインする。生徒さんたちの展覧会に行ったのはちょうど7年前のこの時期だった。
(今日はちょっと好い日になったので、花文字をお借りして飾っておこうと思って~)

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最後の花見に御衣黄桜

2024年04月19日 | こんなところ訪ねて
娘が親元を離れることになったのを機に携帯電話を持つようになった。以来ずっと機種変更しながら、スマートホンに変えても同社のもの一筋に使い続けて、20年をゆうに超えた。

電車内を見回しても今ほとんどの人がスマホの画面を見つめている。私には短時間の乗車にそうした必要性も対象もないので、いつもぼーっと周囲を見ている。それほどのスマホ利用者に、(なんかたかくない?)と支払い料金の不満が生じて久しい。請求額には相応の履歴があるんだろうに。

インターネットとも合わせて考え昨日、思い切って他社へ乗り換えることにした。
デジタル難民だ。もともと用語に精通しないし、使う機能は知れてる。とにかく使い勝手よく、あれこれある画面をすっきりさせたい。
(いらいらしない、しない!) ちっとも進まず何が何だかのまま放り出して、


千本釈迦堂に御衣黄桜を訪ねることにした。


寺は鎌倉初期の開創で千本釈迦堂は通称で正式には大報恩寺といい、本尊は釈迦如来坐像(秘仏)。
寺の東側がかつて千本通に面していた(寺の呼び名の由来になった)というから広大だ。その寺域に堂塔伽藍が整っていた。それが応仁の乱や重なる災禍で焼失し、本堂のみが残った。京洛最古の建造物で国宝に指定されている。堂内の柱に刀傷が残っていた。


『徒然草』第228段に「千本の釋迦念佛は、文永の比(ころ)、如輪上人、これをはじめられけり」と記されている千本釋迦念佛は、毎年2月に行われた大念仏で、今に続いて今年も3月22日に勤められている。


平安時代の貴族が着ていた衣服(御衣と言った)が萌黄色に近い色で、花の色が似ていることから名づけられたという御衣黄桜。
3月半ばに近くまで出た際に立ち寄ったこともあって、花の時季を待っていた。
境内で作業していた方が「今が満開です。あそこにもありますからゆっくり見ていってください」と。境内に2本、枝もたわわにみごとだった。
昔々、確かねねの道で見かけた記憶があるだけ。こんなにじっくり楽しんだのは初めてになる。

本堂前にはすでに咲き終わった阿亀桜。左手に、普賢象桜がこれもちょうど満開だった。
鼻をかすめる花の香も楽しんで…。

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いっぱい過ぎる種まき

2024年04月16日 | 日々の暮らしの中で
数日前、ブロックの壁沿いにいっぱい過ぎるほどのハゼランの種を蒔いた。


「ハゼラン」の名前の由来は、小さな花がたくさんはじける、はぜるように咲くことからだとか。確かに、星の形をした花が弾けたように、しかも秋口まで花火のように次々にはぜて咲き続ける。「ハナビグサ」の別名もあるようだ。
午後3時に花が開く習性があることから「サンジグサ」と呼ばれたりもするらしい。


英語では「サンゴの花(CORAL FLOWER)」と言い、「星のしずく」なんて名まで頂戴しているそうな。

夕刻に水遣りをしだすと、アマガエルよりは幾分大きな黒茶っぽい蛙が顔を見せる。ちょっと色がね…、でも見慣れると「おっ、そこにいたのね!」と声をかけたくなるまでの親しみを覚えるからタノシイ。アキアカネ?だってやって来る。
見た目の特徴から名前を付ける。名付け親になって、個人所有の名前を付けてみたいものだ。例えば、ももいろファンタジーとか? (長すぎるな)

 

ところで、足元の雑草に注目し、植物の多様性を知ってもらうことを趣旨に、道端で見つけた雑草の名前をチョークで書いて紹介する取り組みが欧州で広がっていると読んだことがあった。3年ほど前になる。
More Than Weeks(雑草以上)と呼ばれる運動だった。

嫌われ格を代表するスズメノカタビラやヤブガラシでも、夏場の地面の温度上昇を下げるなど有効論もあるというのにはうなづけた。
ハゼランも双葉が出て成長すると、その葉の広がりは地面を覆い、蛙クンの憩いの場所になるようだ。密にしておくと雑草も生えにくい。
ただ花茎が長いので強い雨には打たれ弱くてすぐに横倒れする。

雑草は本来踏まれたら立ち上がらず、横たわったまま花を咲かせ種子を残すことに最大限のエネルギーを使うらしい。
それが「本当の雑草魂」なのだとか。
そうか…、踏みつけられても、それを苦として払いのけ楽になろうとあがくことなく、その身を置く現実、賜った場所で咲きなさいと言われてる気がしてくる。
 できる?  「そこ、動くな!」でしたなあ。


ありったけの種を蒔いたから、きっとたくさん芽を出すはずだ。
雨で倒れたら、せっせと起こしてやるくらいはいいだろう。

                              (画像は昨年一昨年のもの)

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むらさきの花咲きぬ

2024年04月14日 | 日々の暮らしの中で
  春草の中にもわきてむらさきの野辺のすみれのむつましきかな

紫野(京都市北区)の春の野辺を描く名勝図絵に江戸後期の伴蒿蹊の歌が添えられているという。


【順徳院の野辺のむかし物語に云、昔、ある人、道に行きまどひ、広野に日をくらして、草の中にて鳥の子を拾ひぬ。これを袖に入れ、草の枕を引き結び、その野に伏しぬ。夢に、拾ひつる卵は前世の子なり、この野に埋むべきよし見て、夢さめぬ。夢のごとくやがて埋む。そのあしたに見るに、葉ひとつある草に紫の花咲きぬ。いまのすみれ、これなり。】

前世になした子が鳥の卵となり、やがてすみれに化生したと説く物語。

院には『野辺のむかし物語』という作があったが、これは今は失われてしまったのだそうな。
このすみれの話を引用する『滑稽雑談(ぞうだん)』があって、それを藤井乙男が『古書校注』の中で引いている。…と『俳諧歳時記』が記している、と杉本秀太郎氏に教えられた。
孫引きの…、知のつまみ食いで心苦しいが。

豊かな学識、藤原定家とも争った歌の才があり、有職故実の書や日記や歌道の書を書き表した順徳院。
それらは承久の乱によって佐渡に流される25歳までにものにしている。
都に戻れるかもしれないという一縷の希望を持ち続けながら21年。

「濁らぬ心の一途さゆえ」
「はらわたを絞るほどの苦しみに悶えた果てに諦め、食を断ち、自ら尽き」島で没した。
「無念の怨み」     (『最後の世阿弥』より)
佐渡の春の山道を行きながら見つけた愛らしいすみれに、偲んで流す涙は数えきれなかったことだろう。


何の化生かしら。生まれかわれるのかしら…。


11日から3日後 ほどけゆくオニグルミの冬芽

 
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触発されて読み暮れて、手ぶらでも

2024年04月12日 | 日々の暮らしの中で

1本の山桜を目指して山道を歩いた。
シャガの花が咲き、ヤマブキが黄色く点々と道沿いに映える。落下の椿が赤い。ここでもオニグルミの冬芽はほころびかけていた。
雲ケ畑へと通じる道なのだが、昨日は“この桜”を目的に、それは市中の花見の喧騒を避けたい思いにも重なるが、身も心もかいほうだぁと自然を満喫した。





ハルノ宵子さんの『隆明だもの』が、吉本隆明への関心を小さく呼び起こしてくれている。
『最後の親鸞』の編集に携わった春秋社の“名編集人”小関直さんへの追悼や思い出話にも触れた。

 

中島岳志氏の話が記憶にある。
オウムによる地下鉄サリン事件が3月にあって、その年の夏ごろ開催の講演会に参加したときのことが書かれてあった。

当時、吉本氏は麻原彰晃の思想を一部評価した過去の文章を巡って、パッシングを受けていた。
生意気な20歳だった。「『親鸞は悪人正機説を説いたが麻原も往生できると言うでしょうか』と質問用紙に書いた。どうせ答えない、答えられないと思っていた。
けれど質問を読み上げて、少し間を置くと「往生できるでしょう」と答えた。
極めて誤解を受けやすい話にも真正面から全身で問に答える。理屈ではない、「思想家の凄み」にしびれた。態度に圧倒された翌朝、書店が開くと同時に『最後の親鸞』を買い、一気に読んだ。
という箇所をよく覚えている。

『吉本隆明 質疑応答集①宗教』の収録は、〈『最後の親鸞』以後 ■1977年8月5日〉
から始まっている。

吉本氏には一読者として傾倒する何人かの文学者がいたが、どう考えているかを切実に知りたい状況、事件においても見解は公表されず、沈黙したままだった。失望していった。そんな体験がひそかに決心させたという。
「わたしは、わたしを知らない読者のために、自分の考えをはっきり述べながら行こう」
「たとえ状況は困難であり、発言することは、おっくうであり、孤立を誘い、誤るかもしれなくとも、わたしの考えを率直に云いながら行こう」と。
「私の判断や理解の仕方を知ることができるはずである」

四方八方から、あらゆる質問が飛んできて、それに間髪入れずに答えていく。質問の趣旨が分かりにくいときは何度も問い返し、
「そうかだいぶ分かってきました。あなたの質問される核心が分かってきました」
と質問を解きほぐしていかれたと。


どこまで感応できるかは、それこそ読む人の「面々の御はからい」(『歎異抄』)。
こんな言葉も解説文に見いだす。

明日は寺子屋エッセイサロンがある。話して考えてみようかな。
自分の考え方が誤ることはあるだろう。でも誠実な態度で自分の意見、見解を述べる(書く)ことの大切さ、必要性。
相手の思いがどこにあるのか、わかろうとする想像力や聞く耳も求められることとか…。

〈大人だって未完なのだ〉。先日何かの案内文書で目にしたが、読み暮れて、空手で戻ってもそれでいいのだ、だったな。
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散り積もる花びら

2024年04月09日 | 日々の暮らしの中で
朝方の激しい雨の降りようで目が覚めた。
強い北風が惜しげもなく桜の花びらを散らしている。まだ今月いっぱいは楽しめるスポットもあるようだし、桜の種類によってはこれから開花するのもあるので、(今年はもう終わり!?)とするのにはちょっと早いのだろうか。

「咲き初むるひと本(もと)」「初桜」。
待ちに待った花の梢は「咲き満ちて」春爛漫。
その喜びもつかの間、はや「つひに散る花」、川面は「花筏」。
なんとはない寂しさを感じるのは、国民あげての一大イベントの終りを迎える気がするせいかしら。


   桜並木にまじった1本のオニグルミの冬芽が、ようやくほころびかけた。

大学、小中高と入学式を終えて新学期が始まった。
やっぱり桜は新年度によく似合う。

京大の入学式の式辞で総長さんは、人や書物との出会いが成長につながると強調され、
「偶然の出会いで幸運をつかみ取ることを『セレンディピティ』と呼ぶが、幸運は構えのある心にしか訪れない。知性と感性を鍛えながら、できるだけ多くの新しい出会いを経験してほしい」と呼びかけられたことを地元紙が報じていた。
「幸運は構えのある心にしか訪れない」
うん、うん! そうだなと思う。

我が家では娘に続き、翌年には息子も進学のために東京へ出た。
もうここからは本人のカイショ…、と私は思っていた。
義母は孫(息子)に三田明が歌う「美しい十代」の歌詞を筆でしたためて贈ったのだった。
今日、車の中でラジオから流れたこの歌を聞いていて、当時の義母の心の内を思い、しんみりしてしまった。



2歳5カ月ほどのLukas。小学校2年生となって、今週いっぱいまで2週間の休暇中。
明日から所属するサッカーチームのトーナメントがゴールドコーストで開催されるのだそうで、男組3人(兄と父親と)が3日間留守になり、孫娘と母親は居残り。
…をたいそう喜ぶ声が届いた。

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我は咲くなり

2024年04月07日 | こんなところ訪ねて
明日からの天気を考えると花見には外せないお日和だ。賀茂川べりを歩き、上賀茂神社を覗いてみることにした。

一方通行の道で、平素は車で通ることもあるけれど、満開の桜の下をひっきりなしに徐行運転の車が続く。規制してほしいと思うのは、勝手に過ぎるのかな。
(それでも切れ目はあるわけで、がまんせい!と言われそう)





津村節子さんの『絹扇』を読んでいた。お名前や福井県出身であること、作品にちなんでつけられた「風花随筆文学賞」があることなど、存じ上げているけれど作品を読むのは初めてだった。
裏表紙には、機織りに生きる女の半生を福井の産業史に重ねて描いた作品だと記されている。

【4時を少し回ったころ。家中がまだ寝静まっていた。
蒲団の上に重ねて掛けてある筒袖の着物を寝巻の上から着こみ、つぎはぎの袖なしを着て、もう3日もはいていて汚れ冷え切った足袋をはいて、土間に板を張った機場(はたば)に入った。窓の破れ障子からは雪が吹き込んでくる。
母が織る一日分の糸を繰るために糸繰車を廻すのが、明治21年生まれの数えで9歳になったちよの一日の始まりだった】

「…学校行きたや / 遊びたや」
明治5年に学制が発布されたが、子守りや糸繰り、機織りに幼い女の子供は労働力としてあてにされ続けていた。


福井県はもともと絹織物の有数な産地で、奈良時代に越前、若狭に課せられた調(ちょう)の物産の中に、すでに絹織物が加えられていたいう。
江戸時代、明治維新と、福井羽二重が桐生、足利を凌ぎ、生産量日本一となって発展していく変遷が綴られる。

のぞまれて18歳で大手機(はた)業の次男に嫁いだちよ。独立し機業を創業した夫は、事業の拡張に意欲的だった。
「機を織るのは女の仕事。仕事を発展させるのは男の才覚や」
だが、機業界がバッタン機から力機織導入へと転換期を迎えるとき、夫の無鉄砲な事業欲は時勢を読み違えた。そして急死、借金が残った。
工場も住む家も失った。

「自己犠牲」ではないと思うのだ。献身的でありながら、意思を持つ。
苦難の数々を、すべて受け容れていく器の大きさはどこから来るのだろう。他人の身になるというより自分事として引き受ける中で、言動に現れる人となりには魅力もある。彼女をずっと見ている人がいた。


バッタン機一台を小さな小屋に据えて、子どもたちと一からの暮らしが始まった。


   人知るもよし 人知らざるもよし 我は咲くなり        実篤
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静謐な常照皇寺の桜

2024年04月05日 | こんなところ訪ねて
南北朝争乱の時代。
後醍醐天皇の討幕計画は発覚し、その後北条氏によって擁立されたのが光厳(こうごん)天皇だった。しかしそれも束の間、隠岐を脱出した後醍醐天皇の軍が北条氏を滅ぼし政権を回復したために、光厳天皇は皇位を去った。
政争の渦中に翻弄され、吉野の山中をさまよい歩いたりして周山街道に踏み入って、小さな皇室領を頼ったのか、終焉の地と自ら求めて二度と都に戻ることはなかったという。40歳を過ぎて仏門に入られた。

今は京北町と呼ばれる地にあるここ常照皇寺を終の棲家とされた。



方丈の間に掛けられた肖像画は色白で気品のあるお顔立ち。
〈さよふく窓のともしびつくづくと影もしづけし我もしづけし〉と詠まれている。
きれいなお顔を目の前にして、「墓など作るな。ただ埋めよ。そこに自ずと松柏が育とう」と言い遺し世を去った生涯を、わずかでも想像してみるのだった。



季節を問わず何度も訪れている。人の姿はまばらなときばかり。まだ一度も桜が満開の時期に訪れたことがない。
なんとなく行ってみたくなるのだ。
一つには清滝川に沿って開かれたくねくねと続く周山街道の風景が好きなことがある。
峠を越え、トンネルを抜けて、周山から右折、北國という地を桂川に添うように、さらに20分ほど走った先に寺はある。家から1時間半ほどで着く。

想像通りで、辛抱が足りなかった。



天然記念物の「九重桜」と呼ばれる枝垂桜の巨木が7分、8分咲きのところか。
奥には「左近の桜」があり、方丈前の「お車返しの桜」など、まだまだ蕾もつぼみ。


当然のように人は少ない。そこが好きな理由にもなるのだが、それでもやはり満開は見たい。
考え事したり、鳥の鳴き声を耳に、ただただぼうっとしたままでいたり。
遠方へ旅行をしなくても、少し時間をかけて日常との境目を作る。そしてそこで、静かにひとときを過ごせば、それなりの満足が得られる今。

帰路、すでにミツバツツジが山の斜面を染めているのに気づいた。
西明寺のご住職が、きれいだから見においでなさいと勧めてくれたことがあったのを思いだしたが、あっという間に通り過ぎる。
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春の錦の六角堂

2024年04月04日 | こんなところ訪ねて
    見渡せば柳桜をこきまぜて 都ぞ春の錦なりける   素性  (「古今和歌集」)



ここ六角堂境内も春の錦に染められている。



「西国三十三所一八番札所」にあたる頂法寺六角堂。
ということなのだが、

ここに親しみを持って参拝し出したのは、地元紙に連載された五木寛之氏の『親鸞』がきっかけだった。
あの頃、何年前になるのか、同じく連載された新聞を読んでおられた方々と、ブログでお話させていただくことがあった。
読後は新聞を切り抜いて保存して、一年しっかり楽しんだ。けれどあれから読み返すことがなく、記憶はあいまいに。


折も折、六角堂の桜を思い出すきっかけがあって、昨日一日降り続いた雨も上がったのを幸いに、訪れてみた。
かなりのお参り?でにぎわい、街中のせいか桜の開花も進んでいた。
柳の2本の枝をおみくじで結ぶと良縁に恵まれるとか。柳にとっていいのかどうか…。

親鸞聖人は29歳のとき比叡山を下り、ここ六角堂に100日参篭を志した。そして95日?の暁に聖徳太子の夢告を得たと伝わる。
そして法然上人を訪ねる。
 ― ひたすら念仏もうすのみだ。念仏のさまたげになるものはすべて捨てよ。妻を娶って念仏が深まるのなら妻帯も結構だ

人間が人間らしく生きることが救われれること…。
だがその後も思い悩むことは続き、七日七夜の参篭に入った。と、何日目かに六角堂の本尊、救世観音が現れる。
のだったかな。


〈御本尊の宝冠には 阿弥陀如来が配され極楽へと導く来迎印を結ばれている観音様と阿弥陀様の法力が合わされたお姿である
建仁元年(1201)には浄土真宗の宗祖親鸞聖人の夢枕に観音様が立たれ
「いつも傍に寄り添い助け極楽へと導く」と告げられた〉

と記されている。



下は、2009年4月3日に訪れたとき。 15年を経て…。

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今、ここに、時分の花が

2024年04月01日 | 日々の暮らしの中で

どこそこの花が、とご近所さんから耳に入ってくるが、そのわりにはあまり訪ね歩くことをしない。それでも今日はこの陽気に誘い出された。
目深にかぶった帽子を吹き上げるほどの風があったけれど、グランドにも春休み独特の明るさがあった。


世阿弥は『風姿花伝』のなかで、
時分の花、第一の花、当座の花、誠の花、身の花、外見の花、老骨に残りし花、時の花、
声の花、幽玄の花、わざよりいでくる花、年々去来の花、秘する花、因果の花、無上の花、
一旦の心の珍しき花など、
能楽の舞台で演じる様々な芸の花を論じている。

〈岩に花を咲かせる〉
花の文化、花以上の花を創造した。日本民族の心の花。

― といった一節が「大和路花の文化史」(西山松之助)にあった。

このところ書店の棚から『風姿花伝』を抜き出してはみるが、また元に戻す。
知らない。教えてほしいのだけどなあ。
解説書は、解説者の認識であって、ということは、やはり原文に戻らなければならない。
けどねー、無理ムリ、メンド―…って何かがささやく。


「花って、あはれ、とか、きよら、とか、はなやか、言うことやろ? 佐渡の海のあおさとか、夕日のすごいあかねいろ、とか、つづみの音とか、世阿爺の舞とか、六左の笛とか…」(『世阿弥最後の花』)
たつ丸の言葉が、また胸を温かくする。
ー 生きとし生けるもの、すべてに宿る美の心

「花と面白きと珍しき これ3つは同じ心なり」
想像する楽しみ。京はファジーな文化だから、おぼろにぼかし、言いかすめながら暗示する方が向いているのだそうな。

言葉は残る。春を告げる花を一つ咲かせたいものだ。
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