興趣つきぬ日々

僅椒亭余白 (きんしょうてい よはく) の美酒・美味探訪 & 世相観察

見知らぬ人への声のかけ方

2006-03-04 | チラッと世相観察
 日本人は概して、見知らぬ他人への声のかけ方が下手である。
 それじゃあ、外国人は上手いのか、と聞かれると困るのだが……。

 何年か前まで、わたしは家の近くの公民館での社会人向けの英会話クラスに、毎週土曜日通っていた。ある日、授業が終わってから、クラスの仲間2,3人と同じ電車に乗る機会があった。
 その日は休日だったが、わたしは都心で仕事関係の会合があり、そこに向かうところだったのだ。同方向へ行く人たちと、クラスの講師である英国人のロン先生もいた。

 電車の中で、クラスの、若いとはいえない生徒同士、たまたま老眼鏡のことが話題になり、老眼鏡とは英語で何と言うの、という話になった。
 乏しいボキャブラリーを出しあっていたが、埒があかないので、ロン先生に聞いてみることにした。
 すると、とつぜん、となりにすわっていた見知らぬ男性が、「オキュラー、オキュラー」と、話しかけてきたのである。

 40前後の、インテリっぽい紳士であった。聞いてみると、老眼鏡のことをオキュラーというのだそうである。
 われわれはネイティヴのロン先生に聞くタイミングを逸し、「ありがとうございます」とその紳士に礼を言って、電車を下りたのであった。

 後日、ロン先生からそのときの話が出た。
 「日本の人たちは、他人への話しかけ方を知らない。先日もそうだったね(英語で)」
 ロン先生は、そのときの状況をちゃんと見ていたのだ。

 外国人に日本人一般のことをあれこれ言われるのも不本意だが、米英では、Excuse me という言葉を頻繁に使うようである。
 件の紳士について言えば、こう切り出してほしかった、と思う。
 「お話中失礼いたします。お話を聞くともなしに聞いてしまったものですから、大変不仕付けかとも思いましたが、ちょっと声をかけてしまいました。老眼鏡というのは、わたしの知る限り、英語でオキュラーと言ったかと思いますよ」

 まあ、そこまで丁寧でなくても、「失礼します」くらい言っても良かった。どんな知識人か知らないが、いきなりオキュラー、はなかった。
 (ところで、後で辞書を調べてみると、紳士の言うオキュラーとは、‘ocular’という単語のことだったようだ。接眼鏡という意味をもつ医学用語である。しかしながら、それだけで老眼鏡という意味はなさそうだ)

 昨年夏、JR市ケ谷駅の、ホームへ下りる階段で、とつぜん一人の少年に声をかけられた。
 最初わたしは話しかけられているのかどうかさえわからなかった。よく聞くと、
 「四谷はどこですか」
と言っている。
 大きなスポーツバッグを持ったトレーナー姿の少年は、何かのスポーツの試合のために他県からきた中学生と思われた。
 ちょうど中野行きの電車が入ってくるところだったので、「この電車に乗って、一つ目だよ」と、わたしは教えた。
 少年は、「ありがとうございます」と言って電車に乗り、大変感じがよかったのだが、ほんとうは、わたしに話しかけるときに、「すみません」か、「失礼します」の一言がほしかった。
 そうすれば、よりていねいであっただけでなく、尋ねる相手(わたし)の意識をしっかりと自分に向けさせることができたのだ。

 彼は、知らない人への声のかけ方を、それまでだれからも学ぶことがなかったのであろう。
 今の日本では、子供たちに、他人への声のかけ方や社会的マナーの基礎を、小さいうちからしっかり教えることが必要なのではないだろうか。「学力」だけがついても仕方がない。

 先日、あるデパートの売り場を歩いていると、前から、3歳くらいのかわいい男の子が走ってきて、わたしにぶつかりそうになった。あとから追いかけてきたおかあさんが、男の子の手をとっているわたしを見ようともせず、
 「ほら、だから危ないっていったでしょ」
と、その子を叱りつけ、抱き寄せると、そのまま行ってしまった。

 わたしとしては、そのおかあさんに「あっ、すみません」とでもいって一言声をかけてほしかった。それは、わたしに謝意を表してほしかったというより、彼女にとって、わが子に‘他人に対する気遣い’の必要性を、言わず語らずのうちに教えることのできるまたとない機会だったのだと思うからである。
2003.3.30

御用聞きはどこにいった?

2006-03-04 | チラッと世相観察
 今、御用聞きがやってくる家はどれだけあるだろう。
「こんちわーっ、魚政でーす」
などと、近所の魚屋のおにいさんがやってくると、
「今日は、何があるの?」
と割烹着で手をふきながら奥さんが出てくる・・・、あの御用聞きである。

 おにいさんは、例えば平目一尾の刺身を受注し、世間話をして帰っていく。
 そして、夕方、
「いちばん大きいのを造ってきました」
とかなんとか、お愛想を言いながら配達にくるのである。

 魚屋ばかりでない。肉屋、八百屋、米屋、クリーニング屋など、昔は町場では、近所のいろいろな商店が、注文を取りに各家庭をまわり、品物を届けてくれていたように思う。
 わたしの小さい頃には、本屋さんも購読雑誌を月々自転車で届けてくれていた。
 そういった、いわゆる御用聞きを、わたしは近頃とんと見ない。

 ♪こんちは、おさかな いかがですゥ♪
と、童謡「かわいい魚屋さん」(加藤省吾・作詞)に歌われた‘♪ままごと遊びの魚屋さん’も、今や見ることはできないだろう。こどもたちが現物を知らないからだ。
(ままごと自体、今のこどもたちはやっているのでしょうか)

 御用聞きで思い出すのは、十数年前、東京、三軒茶屋のTさんのお宅に伺ったときのことである。
 おじゃましたのは、午前中だったと思う。Tさんと話をしていると、表で声がして、だれかが訪ねてきた。Tさんは、「ちょっと、失礼」といって立ち上がり、縁側から、「庭にまわってョ」と、玄関の方へ声をかけた。

 客間に面した庭に、前つばの帽子をかぶったおじさんが、「まいど」といって、笑顔で現われた。馴染みの魚屋の御用聞きのようである。
「今日は何があんの?」
とTさんはおじさんに聞き、
「じゃあねえ、これ頂戴」
と言って、その日の晩の酒の当てを決めたのであった。
 奥さんに気兼ねするわけでもなく、日常のこととしてTさんは処した。それは、なかなか「カッコイイ」ものであった。

 大量冷蔵冷凍保存輸送技術の進歩などによる流通販売形態の変革、または大店舗の出現による一般小売店の減少は、多様な商品の新鮮低廉安定供給をもたらしたが、一方で、御用聞きのもつ近所のよしみのぬくもりを奪ったかもしれない。

 わたしの家には、やはり魚屋の御用聞きが来ないので、しかたなく、ときどき馴染みでもない居酒屋のカウンターにすわり、
「今日は何があんの?」
と、聞いている。
2001.10.20

鍋卓にうまくのぞむ法

2006-03-04 | チラッと世相観察
 わたしは鍋の席が苦手である。
 寄せ鍋、スキヤキ、焼肉、チゲ鍋…、どんな鍋でも、気のおけない仲間が和気靄々つつきあうのは楽しいし、‘気のおける’者同士でも、親しみを増し、一体感を深めるのに役立つ。

 しかし一方で、鍋は、囲む人それぞれに、
(自分の取り分が確保できるかな…)
といういくばくかの不安を与えてはいないだろうか。
「いいえ、わたしはいただかなくても、まわりの人たちが十分食べて満足してくだされば、それで幸せ(^.^#)」
という奇特な人もいるかもしれないが、まれであろう。

 若い頃、家内の実家に行って、ジンギスカン鍋をふるまわれたことがある。まだ結婚まもないわたしは、会うのが2~3回目の義兄家族といっしょのテーブルに、遠慮がちについた。
 わたしの隣にすわったのは、食べ盛りの姪(家内の)であった。当時小学校の低学年だったと思う。わたしが目の前のラム(小羊肉)の一切れを大事に焼き育て、焼き上がり具合を見て食べようとすると、まだ前の肉をモグモグ、口のなかに入れている姪の箸がさっとそれを持ち去った。
 次の肉も、またその次の肉も、この容赦ない箸に拉致されていったのである。
 気の弱い新婿は2~3切れのラム肉にしかありつけず、欲求不満のうちにその昼食を終えたのであった。

 家(うち)では、もちろん、わたしに遠慮はない。
 子供たちが食べ盛りの頃、よく焼肉をしたものだが、もう、取り合いであった。和やかな会話など、ない。
「張り合って食べることないでしょ」
と家内にあきれられたが、ビールでも飲んでゆっくり構えていた日には(ほんとはそうしたい)、肉はまたたくまに消え失せる。張り合うのは、不本意ながら、であった。

 会社の宴会での鍋のときは、わたしはおとなしい。
 恰好をつけているのである。
 以前、わが社にMさんという人がいた。遠慮のない人であった。
“Mさんと同じ鍋テーブルになることの悲劇”
が、社内でことあるごとに語られたものである。そうはなりたくないではないか。

 かといって、恰好をつけ、遠慮をしているだけではやはり不満が残る。
 それでは、鍋卓にうまくのぞむには、どうすればよいのだろうか。
 それには、二つの道があるように思う。
(1)自分が鍋奉行になる
 ゴミ奉行とならんで、まわりに好かれないが、いわば必要悪のようなもの。
(2)鍋巧者になる
 座持ちがよく、相手を立て、十分食べてもらいながら、いやみなく自分もしっかり食べる。(こういう人には、あまり出会わないなァ……)
 この二者になるには、どちらも資質と修練が要る。わたしにはとてもできそうもない。鍋の席が苦手な所以である。

2001.9.23

ドアを閉めさせていただきます

2006-03-04 | チラッと世相観察
 先日の朝日・天声人語にこんな記述があった。
《…▼日本社会は親切すぎる社会ではないかと思うときがある。おせっかい社会と言ってもいいかもしれない。たとえば電車で。乗ってドアが閉まってから「危ないですから、駆け込み乗車はおやめ下さい」と、構内放送がある。(もう乗っています)▼…》(2001.8.23)

 たしかに、この「…駆け込み乗車はおやめ下さい」というアナウンスは、駅のホームでよく聞く。しかし、わたしはこれを聞いて、「親切」や「おせっかい」を感じたことはない。「責任回避」、「予防線をはる」というような言葉が浮かんでくる。
 つまり、(駆け込み乗車で、滑って転んでケガをしても、こちらは責任をもてません。われわれはこうしていつも注意を喚起しているのですから)と言っているように聞こえてしまう。

 でも、よく考えてみれば、ケガ人が出て電車が遅れるようなことにでもなったら、駅員だけでなく、たくさんの乗客にも迷惑がかかる。ほんとうは、責任回避ではなく‘乗客のため’と解すべきなのであろう。「親切」ではなく「管理」である。

 先日乗った新幹線で、東京駅発車直後に、やはり「駆け込み乗車はおやめ下さい」というアナウンスがあった(これは車内に)。だれかが、ぎりぎりに飛び乗ったのにちがいない。このアナウンスには、親切どころか「怒り」がにじんでいた。

 構内放送といえば、最近よく聞くアナウンスに、
「ドアを閉めさせていただきます」
というのもある。
 これは、少していねいすぎるのではないだろうか。「ドアを閉めます」または、「ドアが閉まります」で十分と思う。
 「させていただきます」と表現する裏には、乗“客”に高飛車な印象を与えまいとする「配慮」が窺える。

 鉄道の人たちも、「管理」し、「配慮」し、さらに「サービス向上」もはからねばならず、たいへんだと思う。
 わたしとしては、「管理」も「配慮」もいらないので、その分、確かな「安全」と、ラッシュ時過密の緩和という「サービス向上」をお願いしたい。
2001.9.6

自転車の悲しい運命(さだめ)

2006-03-04 | チラッと世相観察
 歩道を歩いていて、後ろから自転車にチリンチリンと鳴らされるのは、嫌いである。
「ここは、歩道なんだぞ。少しは遠慮しながら行けよ」
と思い、腹が立つ。
 一方、車に乗っても、自転車がじゃまである。後ろからくる車に気遣いもせず、ふらふらと道路の中央方向へふくらんでくる自転車もある。
「危ないだろ、歩道を通れよ」
と思ってしまう。
 コウモリは、鳥にも動物にもなれなかったが、自転車は人にも車にもなれない。考えてみれば、悲しい運命を背負った存在ではないか。

 道路交通法では、自転車は車の仲間である。基本的には歩道でなく車道を、その一番隅を遠慮しながら進まなくてはならない。

 理想をいえば、自転車専用の道が要るのであろう。車道と歩道のあいだに、「輪道」が整備されれば、しかも全国的に整備されれば、例えば、
「地球温暖化防止のためにみんな自転車に乗ろう」
とキャンペーンがうたれることになり、自転車は一躍環境保護のエースになれる。しかし、日本の諸道路にそれだけのスペースはあきらかにない。

 先日、日曜、早朝ウォーキングのため家の近くの歩道を歩いていると、後ろから野球のユニフォーム姿の少年が自転車で追い越していった。わきに退いたわたしに、
「ありがとうございまーす。」
と、さわやかな声をかけてくれた。
 まわり(歩行者)に気をつかい、頭を下げながらゆっくり歩道を行く。これが自転車の一つの生き方なのかもしれない。
2001.7.20

街角でタバコを吸う女性がふえた

2006-03-04 | チラッと世相観察
 人前でタバコを吸う若い女性を、最近よく見かける。
 街を歩きながら、駅のホームで、昼飯処で、喫茶店で、そして酒場で……。

 数年前、バージニアスリムという外国タバコのTVコマーシャルに、颯爽と街を歩くキャリアウーマン風の女性たちが登場していた(外国人の美しい女性)。時代は女性の時代、社会の第一線で活躍する女性は、タバコだって堂々と吸うのよ、というメッセージが伝わってきた。

 この広告の影響というわけでもなかろうが、女性の社会進出の拡大、権利主張の場の広がりとともに、「女は人前ではタバコを吸わないのがたしなみ」という昔からの無言の社会規範が、このところかなり薄れてきた、とはいえそうである。
 女性のタバコが社会的に認知されてきたともいえよう。

 私は、女性の人前での喫煙に眉をひそめるものではないが、タバコを吸いながら街路を歩くのをカッコイイとは思わないし、酒場のカウンター席にすわるやいなや、隣席への気遣いなしにタバコに火をつけるのも気に入らない(これは、もちろん男性にもいえること)。

 ところで、最近、人前で抱き合ったり、チュウをしたりする若いカップルもよく見かける(学生が多いかもしれない)。
 日本の若者もヨーロッパの若者なみになってきたと思うむきもあろうが、私はそうは思わない。キスなどは人目をはばかってするものであろう(多分)。
 私は、今の若者たちの中に周囲の目をまったく意識しない、意識しようとしない人たちがふえてきているのを感ずる。人前で抱き合う男女もそうだが、電車の中で大声で話をする女子高生たち、先日は二人分の席を使い横ずわりし眠りこけている高校生を見た。
 彼らには、マナー違反をしているなどどいうなまやさしいものでない一種異様なものを感ずる。傍若無人というか、周囲の人たちをまったく意識の中に入れていないメンタリティの存在である。
 これからこんな若者たちがどんどんふえていくのではないかと思うと、空恐ろしい思いがする。

 タバコを人前で吸う女性がふえてきたことと関係なければいいのだが……。
2001.5.3

刺身とご飯の出会い

2006-03-04 | チラッと世相観察
 香川県から来たMさんを、新宿の料理屋さんに招待した。鯛、しゃこなど、瀬戸内海の新鮮な魚を出してくれる店である。

 話が進み、酒が進んでも、Mさんは刺身にあまり手をつけない。生ま物は嫌いなのかな、せっかくこの人に喜んでもらおうと思って店を選んだのに、と思っていた……。
 その席も終わりかけたとき、Mさんは遠慮がちに、ご飯をいただけますかね、といった。
 やがて、茶碗に盛られたほかほかのご飯がくると、Mさんはご飯に集中した。鯛の刺身を一切れ、山葵(わさび)をといたたっぷりの醤油にひたし、ご飯にのせると、大きな口をあけ、ハフハフとかっこんだ。
 そう、Mさんは、ご飯のために、刺身を残していたのだ。


 だいたい、塩辛にしてもタラコにしても、酒のつまみになるものは、ご飯のおかずにもあう。刺身もまた、極上の「ご飯の友」なのであった。
2001.3.30