文理両道

専門は電気工学。経営学、経済学、内部監査等にも詳しい。
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書評:絶望しそうになったら道元を読め!

2014-07-08 19:40:32 | 書評:学術・教養(人文・社会他)
絶望しそうになったら道元を読め!~『正法眼蔵』の「現成公案」だけを熟読する~ (光文社新書)
クリエーター情報なし
光文社


 道元は鎌倉時代の人で、禅宗の一派である曹洞宗の開祖である。その主著が「正法眼蔵」であるが、膨大な量があるうえに、時代を経たことによる言葉の壁もあり、いくら良いことが書いてあるといっても、普通の人が気軽に読むと言う訳にはいかない。しかし、この「正法眼蔵」の冒頭に置かれた「現成公案」に、そのエッセンスが凝縮されているという。本書、「絶望しそうになったら道元を読め!」(山田 史生:光文社新書)は、その「現成公案」の部分だけを徹底的に読み解いていこうとするものである。

 「現成公案」は、わずか新書で6ページの分量だ。このタイトルだけでも難しいのだが、「現成」とはわたしの生きるこの世界のことで、とうすれば、そこで存分に生きることができるのかを問いかける案件という意味らしい。本文の方もタイトルに劣らず難解で、解説がなければ何が書いてあるのかまさにちんぷんかんぷんといったところだ。試しに最初の4文を抜粋してみよう。

<諸法の仏法なる時節、すなわち迷誤あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり。
 万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。
 仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに、消滅あり、迷誤あり、生仏あり。
 しかもかくのごときなりといえども、花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。>


 どうだろう。これがすらすらと理解できる人は、そうはいないのではないだろうか。現成考案は、この最初の4文に基本的なビジョンが示されているが、いきなり8合目から登るような書き方になっているという。ここを押さえれば後が楽になるということで、最初の方は特に入念に説明がされている。 全体が200ページちょっとの本であるが、最初の一文の内容の解説するだけで50ページ以上、4文を合わせると80ページ以上が割かれているのだ。

 書かれていることを、私の理解の範囲内で紹介してみよう。この世に存在するあらゆるもの(諸法)は、生まれたり滅んだりする。それを根拠づけているものが永遠不滅な仏法であるというのだ。そして、諸法は、「われ」として存在していると同時に、仏法に「われ」でないかたちで根拠づけられている。すなわち、立ち位置を与えられている。そして、互いに縁起付けられている、すなわち関係しあっているのだ。しかし、その仏法の働きは、見えるものとしては存在しない。著者は、これを「見るものなくして見る」と表現している。このあたりのことは、まるで物質と物理法則の関係を想起させる。

 「私は机の上の花を見ている」ということを考えてみよう。「私」と「机」と「花」は、それぞれ別のものだ。「私」は「花」ではない。「机」でもない。その「私」が「机」の上の「花」を見ている。それぞれが関係づけられ、「私」は、その自他の関係を自覚している。それぞれに、仏法が「立ち位置」を与えているからである。「私」が、「自分が花を見ていること」を見ている訳ではないのに、その事を自覚できるのも「仏法」の働きである。花も机も私もそれぞれが存在する「われ」であるが、それらは、仏法の「われにあらざる」働きがなければあり得ない。「われにあらざる」というのは、仏法の働きそのものは、固有の実体としては存在しないということだ。

 先に難解と書いたが、この難解さは時代を経たことによる言葉の壁だけではなく、禅宗特有のレトリックもあると思う。全体が禅宗らしいレトリックで書かれているので、最初の4文でいくら8合目を越えたからと言って、残りの部分がすらすらと理解できという訳にはいかない。しかし、何度も読み返しているうちに、スルメを噛んでいるように、少しずつその内容が心に染みてくるだろう。

☆☆☆☆

※本記事は、姉妹ブログと同時掲載です。
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