本書
「ツチヤ教授の哲学講義―哲学で何がわかるか?」(土屋賢二:文春文庫)は、著者が大学の2年生を対象に行ってきた講義が元になっているという。
本書を読んでまず感動したのは、ツチヤセンセイが哲学の研究者ということをちゃんと証明していること。なにしろツチヤ本を何冊も読んできた私の頭には、ツチヤセンセイ=ユーモア自虐エッセイストという等式がすっかり出来上がってからである。
それはさておき、氏によれば哲学には2つの立場があるという。哲学者は、ふつうではうかがい知れないような領域にある心理を発見するという立場と、哲学の問題はことばの使い方みたいなものを解明しないと解決できないという立場だ。氏は後者の立場のほうが説得力が高いと考えている。
哲学で使われる言葉は難解で訳が分からない。それは哲学者たちが深遠な思想を扱っているからだろうと一般の人は考えてしまいがちであるが、どうもそうではないようだ。
例えば、本書で紹介されているベルクソンという哲学者だ。彼は、我々が時計で測っているものは時間ではないと主張していた。あれは空間化された時間であり本当の時間とは到底測ることができないと考えていたらしい。そして本当の時間とは「持続」だとか「純粋持続」だとか訳のわからないことを言う。
しかし土屋氏が言っているように、我々が時間と呼んでいるのは、明らかに時計を使って測れるもので、「純粋持続」などというようなものではない。革命的に時空の概念を変えてしまったアインシュタインでさえ、その思考実験の中に出てくる時間は時計を使って測るものであり、決して「純粋持続」などという意味不明のものなど想定されてはいなかったのだ。
本書にはまたウィトゲンシュタインの思想も紹介されている。「言語ゲーム」という考えを提唱したウィトゲンシュタインは、哲学的な問題はすべて言葉に対する誤解が基で生じているという。だから哲学の問題は解決もできないし、そもそも問題とはいえないという。
なぜ哲学者の言うことは訳がわからないものが多いのか。それは哲学者が、常識的な言葉の使い方にイチャモンをつけて、勝手に言葉の規則を変えていることがままあるからなのである。だから哲学者の言っていることがさっぱり分からなくても心配することはない。まず彼らが言葉の規則を自分勝手に変更していないかをチェックしてみることだ。考えてみれば、こういった言葉の定義をはっきりさせないまま、不毛な議論を行っているということはよく見られることだ。哲学だって例外ではないということだろう。
センセイのいつものツチヤ節もあちらこちらで出てきて、読んでいると思わず吹き出してしまいそうになってしまう。例えばウィトゲンシュタインが僅か2年半ですごい哲学者になったことに関して、「みなさんも250年くらいしたら一人前になるかもしれないですよ」(p224)と言ってみたり、言葉が何を表しているのかをまず調べないといけないということを説明するのに「カバゴリラは何本足なのか」(p77)という例を挙げてみたりしているのだ。
本書には、一般の哲学関係の本のように、難解でどう解釈したらいいか頭を捻るようなことは書かれてはいない。それどころか、かなり砕けた調子で哲学に関して目から鱗が落ちるようなことを教えてくれる。哲学者たちに煙に巻かれたくなければ、哲学書を読む前に一読しておくとよいだろう。
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※本記事は、書評専門の拙ブログ
「風竜胆の書評」に掲載したものです。