文理両道

専門は電気工学。経営学、経済学、内部監査等にも詳しい。
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書評:京都ぎらい

2016-09-22 15:02:43 | 書評:その他
京都ぎらい (朝日新書)
クリエーター情報なし
朝日新聞出版

・井上章一

 京都には中華思想が根付いているような話はよく聞く。なににつけても、「洛中サイコー!」と見なして、同じ京都市内でも、洛中でない場所を低く見るというものだ。本当にそんな考え方が今でも根深いのだろうか。

 私は、大学、大学院修士と京都大学で学んだが、実はあまり京都人を知らない。なにしろ、私が入学した当時は、京都の高校からは、京都大学にはなかなか入学できず、友人はほとんど大阪人や名古屋人だったからだ。

 だから、あまり京都人の京都中華主義を見聞きしたことはないし、たとえ見聞きしたとしても、鼻で笑ってやっただろう。我々長州人には、近代日本の礎を作ったという自負がある。明治維新前後の動乱期、京都人はいったい何をやったのかと考えれば、いくら京都人が中華思想を披露したとしても、遠吠えにしか聞こえない。

 ところが、嵯峨育ちだという著者の場合は少し違うようだ。もちろん嵯峨は、京都市の一部である。嵯峨野には何度も行ったし、我々他県出身の者から見れば、嵯峨は立派な京都だろう。だから京都観光の人々も、大勢嵯峨を訪れるのだ。しかし、洛中以外の周辺部は、田舎扱いされて洛中の人々からは京都扱いされてこなかったそうだ。

 例えば、下京にある古民家に調査の挨拶に訪れた際に、著者が嵯峨育ちだというと、その家の主人は、嵯峨からは、農家がよく肥くみにきていたのでなつかしいと言いながらも、そこには揶揄の含みがあったという。中京の老舗の令嬢は、山科の男性との見合い話があった際に、東山が西の方に見えるからと言って、嫌がったそうだ。著者が現在住んでいる宇治なども、京都扱いはされないらしい。

 本書に書かれているのは、そんな「京都」に対する怨み節といったところか。しかしその一方では、「七」は京都では「しち」ではなくて「ひち」なのだから、上七軒の読みは「かみひちけん」だと言ったり、最近では「五山の送り火」が正しいと言われているが、自分たちは「大文字焼き」と言っていた主張したりと、京都の人間としてのアンビバレントな面も伺え、なかなか面白い。

 なお、「七」の読み方については、朝日新聞社とちょっとしたバトルがあったようで、あとがきにそのことが書かれていたが、結局本書では「上七軒」のルビを「かみひちけん(ママ)」(p69)と振ってあった。いやはや・・・。

☆☆☆

※本記事は「風竜胆の書評」に掲載したものです。
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