本はどう読むか (講談社現代新書) | |
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講談社 |
・清水幾太郎
著者の清水幾太郎さんは、学習院大学の教授も務められた社会学者だ。ジャーナリズムでの活躍もされた方だが、1988年に既に鬼籍に入っておられる。この本が出版されたのが1972年なので、既に半世紀近く経っている。亡くなられてからも、30年近く経つが、読んでみるとその内容には今でも共感できる部分が多い。
清水さんは、昔の子供たちがそうであったように、「立川文庫」から読書の道に入ったようだ。しかし、8歳か9歳でそのワンパターン性に飽きたというから驚く。大体子どもというのはワンパターンが好きなものだ。だから子供向けのテレビ番組など、ワンパターンのオンパレードといってもいいようなものばかりなのだが、清水さんはかなり早熟な子供だったのだろう。
清水さんは、読書会という形式は嫌いだったようだ。
<何人かのメンバーが、同じ本を同じ速度で読んで、互いに感想を述べあった末、同じ解釈に到達するという方法は、学校の授業だけで沢山である。>(p25)
まさに同感である。本に書かれたものは、作者の手を離れてからは、その解釈は読者に任される。そこにはこれが正解などというものはないのだ。それぞれが、自分の立場から解釈すればよい。その本から何を読み取るのか。それは極めて個人的なものであり、私も何のために読書会などというものがあるのか、その理由が分からない。
本書には、清水さんの読書体験が赤裸々に綴られる。中学校に上がると、他人が読んで分かりそうにない本を虚栄心から好んで読むようになったようだ。例えば大西祝(はじめ)の「西洋哲学史」。さらには、無政府主義者の大杉栄にも傾倒したというから、いくら現在とは制度が違うとはいえ、今の中高生とはかなり違っている。
ところで、清水さんは、本を「実用書」、「娯楽書」、「教養書」の3種類に区分している。「実用書」とは仕事などのために読まなけらばならない本、「娯楽書」とは楽しみのために読む本であり、これらには本の読み方などというものはないという。「実用書」は必要なら読まなくてはならないし、「娯楽書」は読みたくなったら読めばいいからだ。
しかし、「教養書」は違う。必ずしも読む必要はないが、読めば自らを高めてくれる本だ。「立派に生き」、「立派に死ぬ」ために読むべき本なのである。もちろん、「教養書」を一切読まなくても生きていく上での支障はないが、教養書を読むことで、「生き方」の質が高められるのだ。
清水さんは、大学の講義について、以下のように述べている。
<大学が提供する講義は、どれも安いランチのようなもので、それだけを食べていたら、必ず栄養不良に陥る。>(p56)
最近の大学生は、授業に出ていればそれだけで勉強していると勘違いして、自分から能動的に勉強しないとよく聞く。最近の出版不況も、この辺りが原因なんだろう。もっと積極的に自分を高めるようにしないと、大学にわざわざ通う必要はないように思うのだが。
この他、読んだ内容を忘れないための工夫や、本との付き合い方、外国書の読み方など、多少は時代的な古さを感じる部分もあるが、全体的には本好きの人間にとっては得られるものも多いのではないかと思う。
最後に一つだけ、諸手を挙げて賛成したい一文を紹介しよう。
<読み始めてから、なかなか面白くならないような本は最後まで面白くならないようである。無理に我慢する必要はない。面白くない、と思ったら、キッパリやめた方がよい。>(p107)
実は私は、漱石や太宰のような文学といわれる作品もそうだが、現代モノでは村上春樹さえもまったく面白いとは思わないのである。だから、キッパリとこれらは読まないことにしているのだ。そうでなくとも、積読山の高さに、一生の間に読み切れるのかと慄いている毎日なのだから、本当に自分が興味あるもの以外を読んで、時間の浪費はしないぞと、改めて固く決心した。
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※初出は、「風竜胆の書評」です。