伝説の天才柔道家 西郷四郎の生涯 (平凡社新書) | |
クリエーター情報なし | |
平凡社 |
・星亮一
尾道で寺巡りをしていると、浄土寺からそう遠くないところに西郷四郎の像があるのに気付く。西郷四郎は講道館創成期の四天王の一人で、小説姿三四郎のモデルになった人物でもある。「西郷の前に山嵐なく、西郷の後に山嵐なし」と言われた必殺技「山嵐」の使い手として、数々の伝説を作り上げてきた。
西郷四郎は、会津の出身だ。元々の名前は志田四郎だが、元会津藩筆頭家老の西郷頼母の養子になったことから西郷姓を名乗るようになる(もっとも四郎は頼母の実子であるという説もあるようだが)。西郷家は、会津で藩主に継ぐ名門だったが、四郎の生まれた時代が悪かった。
時は明治。会津は戊辰戦争の敗者であり、朝敵という扱いで、会津出身の西郷には色々な苦労があったようだ。本書はそんな西郷の生涯を、当時の時代背景、関連する人物の話なども織り込んで描いたものだ。あれだけ有名な人物でありながらも、彼に関する書はそれほど多いとは言えない。そんな四郎の生涯を表した本書は、それだけで価値があると言えよう。
ただ、残念なことに、あまり文章がうまいとはいえない気がする。もし私に校閲させてくれれば、かなり指摘したいところがあるのだが。
ところで、西郷得意の「山嵐」だが、片方の袖と襟を掴んで背負い投げのように投げると同時に、相手の足を刈るという技のようだ。四郎の身長は、わずかに5尺すなわち154㎝(身長は本書による。153㎝説もあるが、人間は朝晩で身長が変わるので、あまりこの辺りは気にしても仕方がないと思う。要するに小柄な人物だったということだ。)しかなかったが、必殺の山嵐で大男をポンポンと投げ飛ばす。正に「柔よく剛を制す」だ。今の服を着た相撲とあまり変わりばえしない柔道とは大きな違いだろう。また今の柔道のルールでは、片襟状態を6秒以上続けると反則になるらしいから、山嵐が実戦で見られることもほぼないだろうと思う。
西郷四郎の人生は、正に波瀾万丈と言っても良いが、晩年は持病の悪性リウマチに苦しめられたようだ。尾道に像があるのも、彼が病気療養をしていた地で、終焉の場所でもあるからだ。
彼のような豪傑も、病には勝てなかった。彼の墓は、晩年を過ごした長崎市にある。また師であった加納治五郎は、四郎に講道館六段の段位を追贈したという。
☆☆☆☆
※初出は、「風竜胆の書評」です。