決定版 邪馬台国の全解決 | |
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言視舎 |
・孫栄健
邪馬台国といえば、その存在した場所を巡ってまさに百家争鳴の状態だ。何しろそのころの日本には記録したものがない。その存在を示すのは中国の史書の中だけなのである。俗にいう「魏志倭人伝」だ。しかし、これが一筋縄ではいかないもので、邪馬台国の研究者は、それぞれが言いたいことを言っているようなところがあるし、自分の縁ある地になんとかもってこようと屁理屈を付けているものも多い。本書もそんな一冊かと思っていたのだが、読み始めるとその印象ががらっと変わった。
邪馬台国がどこにあったのかということで有力なのは畿内説と九州説だ。それぞれ京都帝国大学の内藤湖南と東京帝国大学の白鳥庫吉が論者として有名だが、この他にも諸説がある。エジプトやジャワ島説というのもあるくらいだから、まさに言った者勝ち。その原因は、魏志倭人伝の記述が極めてあいまいに見えるということで、そのまま読むととんでもない場所にたどり着いてしまうのである。だから、やれ方向が間違いだの、距離の取り方が間違いだのと原文を自分に都合のいいように修正してしまう。
しかし本書によれば、魏志倭人伝の記述は驚くほど正確で、中国の史書を読むには読み方があるという。中国の正史は、春秋以来の伝統を汲む「筆法」によって書かれているようだ。「筆法」というのは、「文を規則的に矛盾させながら、その奥に真意を語る」(p46)もので、そのままでは書きにくいことをあえて矛盾のある書き方をして、その裏に真意を隠すというようなレトリックである。これは「微言大儀」と呼ばれている。また、中国は文字の国である。一字を使い分けることにより、その裏に評価を隠す。これは「一字褒貶(いちじほうへん)という。中国の史書を読む際には、これらに気をつけて読まなければならないというのである。
他書においては、魏志倭人伝だけが単独で取り上げられていることが多いが、本書では同じ三国志東夷伝にある韓伝や、三国志以降に成立した後漢書、晋書などの歴史書の記述とも比べた俯瞰的な目からの解説が多い。要するに一本の木だけを見ないで、それが生えている森を見ろということなのだが、寡聞にしてこのようなアプローチになっているものを知らない。また本書の推理にはいちいち根拠が示されているので、ただ方角が違うとか距離の考え方が違うとかいうものよりは納得性が高いように思える。
現在は大和にある箸墓古墳あたりが有力な説らしいが、本書の主張は、邪馬台国は北九州にあったということだ。そして九州にある平原古墳こそが卑弥呼の墓であるということを匂わせている。
この平原古墳は、卑弥呼の墓と思えるような根拠がいくつもある。発掘された装飾品は女性のものと考えられているし、殉葬者も推察されるという。魏志倭人伝を信じるなら、卑弥呼には多くの殉葬者がいたようだ。そして発見されている日本の弥生遺跡で殉葬者がいたのは平原遺跡だけだという。
もっとも本書に述べられているのは、いくら納得性が高くてもあくまで仮説だ。私としても全部が全部信じている訳ではない。最後はトロイの発掘のように、考古学的な鍬の一掘りによりけりをつけなければならないのだろう。これは意外に簡単なことで、箸墓古墳を掘ってみて装飾品などを探してみればいい。箸墓古墳には実際には誰が眠っているのかさえ、現時点ではよく分からないのだから。(もっとも明治になるまでの盗掘のために、何も残っていない可能性もあるのだが。)もし万が一骨でも見つかればそれをDNA鑑定して被葬者が男か女かくらいは見分けられるだろう。Y染色体があったら、絶対に卑弥呼ではない。
いずれにしても掘ってみなくては分からないことも多い。ただ、古墳は国民の財産である。全面的な発掘調査に道が開かれる必要があるだろう。おそらく誰も文句が付けられないのは卑弥呼が魏の皇帝からもらったという「親魏倭王」の金印。これさえ出てくればすべてが解決すると思うのだが、もしかしたらすでに誰かが見つけて溶かして延べ板にしているかもしれない。となると、この問題永遠の仮説になってしまいかねないのだ。
ところで、巻末の著者紹介を見ると、他に「Windows 基本の基本」(明日香出版社)だとか、「消費者金融業界」(日本実業出版社)といったものがあったので驚いた。いったいこの人何者?
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※初出は、「風竜胆の書評」です。